2010年12月29日

シャトレのつぶやき 29 雪が多いパリ

雪のオペラ座

このとこころパリは雪がつづいていたのよ。
ワタシはお外に出ないからいいんだけれど、たいへんみたい。
「もう、メチャメチャ寒いのよ。これじゃ、そのうちヨーロッパが
氷になってしまう」
すごく大げさね。こんなこと言う人が誰だか、もう分かっているわよね。そう、あの人。
北極のクマ


ワタシの同居人、というか、つまりママンよ。

もっとすごいことを言ったこともあるのよ。
「しってる? 北極はだんだん暖かくなっていて、氷がとけているの。だから白熊さんたちは、くらすところが少なくなっているの。それなのに、ヨーロッパは雪ばかり。そのうち、人間が北極に住むようになって、白熊さんたちがヨーロッパにくらすようになると思う」
ネ、信じられないでしょ。しかも、まじめに言うからこわ~い。ブルブル・・・

変なことばかりいわれて
ワタシの頭は混乱するばかり
こういうことを言う人を誇大妄想狂っていうのよね。
ワタシの毎日がいかにたいへんかわかってね。やれやれです、ほんとうに。
しかもベルリンに行くのに苦労したから、
年末はずっとパリにいるんだって。
おつきあいがたいへんよ。

2010年12月27日

エルメス対LVMH

エルメス本店
先日のブログで書いたようにLVMHがエルメスの株を買い、経済界がにぎわったと思ったら、またまたLVMHが株を増やして話題になっています。
これで20パーセントになったのですから、エルメスも複雑。

前回17パーセント買った時には、エルメス社長が「フィガロ誌」で
LVMH会長アルノーによびかけ、株を返して欲しいと訴え、それに対してアルノーは正規に買ったのであるからそんな必要はないと突っぱねました。

その後エルメス創立者の子孫が集まり、誰も株を売らないようにしようと結束。
でも、個人でもっている人もいるわけで、
そうした人は誰に売ろうと自由。
今後どのような展開をするか、注目の的。

ロレアルの「華麗なる母娘の闘い」は、その後話し合いで仲直りし、円満解決したのはいいニュース。
卒倒しそうなほどステキな
ウインドー
でも、エルメスとLVMHはそうはいかない。

消費者は誰が持ち主であっても、製品が魅力的であればそれでいいですよね。

クリスマスのエルメス本店の装飾は、例年にない華やかで、幻想的で、さすがエルメスと溜息が出るばかり。エルメス健在を華々しく表現していたのが印象的。
 それにしても、本当に素晴らしいウインドーです、ね。
心が奪われないではいないすごいオーラがある。
これを見るために
パリに来てもいいほど!

2010年12月22日

シャトレのつぶやき 28 シャンゼリゼのクリスマス・マーケット

クリスマス・マーケット
シャンゼリゼにクリスマス・マーケットが出るようになって今年で三年目なんだって。

三角屋根のお店がたくさん並んでいて、ママンはそれをひとつ残らず見るのよ。よくあきないわね。

今年はサンタクロースが空を飛ぶというイヴェントもあるとかで、ママンは大はしゃぎ。ほんとうにいつまでたっても成長しない人。
あ、サンタさんだ



きれいなイルミネーションがあるソリに乗って、
サンタさんが空をかけるんだって。ちょっと見たいけれど、なにしろワタシって寒さに弱いの。だから冬はお外に出ないようにしているの。ワタシって心も体もとてもデリケートなのね。

ママンがクリスマス・マーケットにひんぱんに行く理由は、他にもあるのよ。焼きたてのゴーフルを買うの。
「ふかふかしていて、すっごくおいしいの。
君は食べられないで残念ね」

イスとワタシの区別はつくわよね

そういいながら、行くたびにゴーフルを食べては、家に帰って体重をはかっているのよ。
それでもやめられないみたい。ほんとうにあの人意志が弱いのね。
人生の修業がたりない。

その間ワタシはお家で、お気に入りのイスでスヤスヤ。いい夢にふわふわとよっているの。
そうするとね、とつぜんドアがあいて、ママンの声がひびいて、現実にもどされるの。そのつらさといったら・・・シクシク、シークシク。「どこにいるの、どこ?姿くらい見せなさい!」そういいながら、せまい家をグルグルまわって、ワタシをさがすの。それでも見えないと、ベッドやテーブル の下をのぞいたり、カーテンの後ろを見たり。

ショックなこというから
ボーと考えているの

ワタシはちゃんと最初から花柄のイスにいるのに、あの人、ワタシとイスの区別がつかないんだって。「君たち同じような色なんだもん」
どう思う?ワタシってこのイスと同じ色?わけがわからないことを言われてくたびれる。

でも、もうじきノエルね。だからナンでも許してあげる。
世界中の人に、楽しいクリスマスを! ♪~♪♪

2010年12月19日

在仏日本公使宅のディナー・パーティー

正木政務公使宅での個性的な
ディナー・パーティー
パリ7区は落ち着いた品格のある住宅街。住民はおしゃれで知的な人が多い。その一角にお住みになっているのが、在仏日本大使館政務公使、正木靖ご夫妻。
ディナー・パーティーのお誘いを受けて、ウキウキしながらご自宅にうかがうと、エントランスでチャーミングな夫人とそろって心地よい笑顔でお出迎え。

案内されてサロンに入ると、それがまた驚くほどの夢の世界。まるで、おとぎの国なのです。一瞬、不思議な国のアリスになったように思えるインテリア。
様々な国に赴任なさっていただけあって、東洋、西洋、アフリカ、中近東などいろいろな国のオブジェが相まって、部屋全体に独自の雰囲気をかもし出しているのです。色も豊富ならフォルムも豊富。それでいて違和感がない。これはおしゃれな夫人のセンスの賜物。

オブジェのような
アーティスティックなカナッペ
次々と招待客がいらして20人ほど集まり、豊かな話題を交わしながら立食。
その内容もまた個性的。通常の和食パーティーとは、一味どころか三味くらい違う。色とりどりのカナッペの後、いなり寿司とかカレーライスなのです。これがどれもおいしく、ついつい食べ過ぎてしまう。今パリで大人気のカップラーメンもある。
飲みものもワインの他に、日本酒、日本のビール、カルピスもあり、フランス人は「カルピス?」と可愛らしい質問。確かにフランスにはない飲み物。

デザートも終わりがないように続くのです。
なんと子供時代を思い出させる鯛焼きがあり、おせんべい、アイスクリーム、チョコレート、リーチ、チーズ。そしてソバ茶。

こうした独自のアイディアはフランス人にすごく受ける。勿論、日本人にもです。話題は果てしなく続き、真夜中になっても誰も帰りたくない。パリは本当に社交が楽しい街。雪の降る12月の、思い出に残るひとときでした。

2010年12月17日

見つかったアンリ4世の頭部

アンリ4世
ルイ14世、ルイ15世、ルイ16世で日本人にもおなじみのブルボン王朝。このフランス最後の王朝の創立者は
アンリ4世。1610年5月14日に暗殺され、6月29日に王家の墓サン・ドニ教会に埋葬されました。

ところが、革命のときに墓はあばかれ、ほとんどの王家の人々の遺骸は棺から引き出され、
共同墓地に投げ込まれたのです。

王家の人の遺体は内臓を取り出し、防腐処置をほどこしていたために保存状態がよく、革命家が棺を開けたときにも、誰であるか区別をつけることが出来たほど。
ただ、ひとりだけ防腐処置をほどこさなかった国王がいました。それはルイ15世で、彼は天然痘で逝去したために、触ることを恐れたようです。

もっとも保存状態がよかったのが、アンリ4世。国民に非常に人気があった国王で、そのために精魂込めて防腐処置をしたことも考えられます。
ところが革命家の手は、墓の中にまで及び、
アンリ4世も共同墓地に捨てられる運命。

サン・ドニ教会
ナポレオン失脚で王政復古が起き、ルイ16世の弟がルイ18世として即位。
彼は直ちに先祖たちの遺骸探しを命じ、手厚くサン・ドニ教会に葬ります。アンリ4世の遺骸も発見されましたが、その時点ですでに頭部は紛失していたのです。
つまり、何物かによって盗まれたのです。その行方が不明のまま時は流れました。

ところが1919年10月31日、パリの由緒あるドルオー競売所で、頭部が競売にかけられたのです。それを購入したのはモンマルトルに住む骨董商ジョゼフ・エミル・ブルデ。彼は信じていたのです。競売にかけられた頭部がアンリ4世のものであることを。

アンリ4世の暗殺
1610年5月14日
けれども誰一人としてそれを信じない。ブルデは驚くほど安い値で買い、それ以後アンリ4世の頭部であることを、各方面に力説します。耳にピアスの跡があるとか、鼻の横にほくろがあるとか、最初の暗殺未遂の跡もあるとか、ミイラ化されたその頭部に生前のアンリ4世の特徴を見出したのです。けれどもその努力は実を結ばず、彼は失意の中に1946年に世を去ります。

その後彼の妹がそれを保管。価値を知らない彼女は他の不要な品と一緒に閉まっていました。その妹から買い取ったのは役所に勤めるジャック・ベランジェ。彼は何らかの情報でそれを知り、1955年に手に入れたとのこと。彼はいわばそうした品の収集家のようです。他にもいくつか持っていそうで、歴史家の関心をひいています。

科学の進歩のおかげで、頭部は確かにアンリ4世のものであることが判明。
その内サン・ドニ教会に葬られることになるでしょう。

それにしても、1919年に競売にかけたということは、持ち主がいたということになる。
それは一体誰なのか。そのあたりを知りたいと思っていたら、
どうやらこういうことらしい。

革命時の世襲財産管理人にアレクサンドル・ルノワールという人がいて、サン・ドニ教会の王家の人々の遺骸を盗み、売っていたのです。自分のコレクションにしていたのもあったとのこと。アンリ4世の頭部はそのひとつで、それが彼の孫の時代に、エンマ・ナレ・プサーンという女性の手に入ります。孫とプサーンは知り合いで、そのために彼女がもらったのか、そのあたりははっきりしていません。

いずれにしてもアンリ4世の頭部はルノワール家を離れ、プサーン所有となったのです。彼女には子孫がいず、亡き後遺品が競売にかけられ、その中にアンリ4世の頭部もあったということなのです。

革命の時には信じられないようなことが多くあったので、今後も何がどこから出てくるかわかりません。
ここにフランスの歴史の面白さがあり、私は夢中になりっぱなし。

2010年12月14日

假屋崎省吾さんの個展

假屋崎省吾さんによる
着物と花の共演
「美をつむぎだす手を持つ人」と美輪明宏さんに絶賛された華道家、假屋崎省吾さんの個展がプティ・パレで開催中。その前夜祭は12月20日。
彼がデザインした着物も数多く展示され、その華やかさは圧倒的。
それまでの着物に関する観念を変えてしまいそう。やはり華のある人ならではの感覚、そして何という大胆さ。

その足元に飾られた花たちも、晴れの日を喜んでいるかのように精気が満ちあふれている。和服姿の假屋崎さんは、こぼれるような笑顔で招待客に挨拶。非常に純真な人。そして輝くばかりのオーラがある。
正木靖公使と假屋崎さん

パーティーはプティ・パレ館長ジル・シャザルの言葉に始まり、假屋崎さんの日本語の挨拶。続いて、用紙に書かれたフランス語の挨拶を声高らかに読み上げる姿は、優等生の答辞のようで可愛らしい。正木靖駐仏日本大使館公使が、その後日仏語で假屋崎さんの才能を称えるご挨拶。そして乾杯。そのグラスが真紅というのが、いかにも假屋崎さんらしい。

假屋崎さんと公使夫人は
旧知の仲です
日本からお弟子さんも多数おいでになり、訪問着の女性も多く、プティ・パレはいつもと異なる東洋情緒のある空間美を見せていました。

2010年12月6日

ピカソ、271の作品のミステリー

ピカソの自画像
世の中にはほんとうにいろいろなことがあるものです。
近代絵画の巨匠ピカソの作品271点が、突然、あらわれたのです。そのほとんどはデッサン。
この驚くほど貴重で高価な作品の持ち主が、ピカソの家で仕事をしていた電気工事技師とあって、問題になっているのです。

南仏に住むピエール・ル・ゲネック、71歳は、ピカソが南仏に持っていた何件かの家の電気工事を長年にわたっておこなっていた人。
271の作品はダンボールに入っていて、1971年にピカソの妻ジャクリーヌからその状態で譲り受けたのだ、と彼は主張。
ということは、ピカソ存命中のことなのです。

自分の作品の価値をよく知っていたピカソほどの人が、その多くを電気工事人にあげることを、同意するわけはない。となると、ジャクリーヌはピカソに無断であげたのだろうか。しかし一体何のために、とこれも疑問。
もしかしたら、ダンボールの中に何が入っているか知らないで、ジャクリーヌがル・ゲネックにあげたのかもしれない。

第一、作品にはサインもなければ、あげる相手の名もない。
これはとても大きな疑問。

パリ・マッチ誌も特集で報道
ル・ゲネックのガレージに40年間
眠っていたピカソの作品の一部
いずれにしても、もらったダンボール入りの作品を、ル・ゲネックは、何と、40年間も自分のガレージに無造作に置いていたのです。
そして今年の秋、作品が確かにピカソ本人のものであることを証明してほしいために、ピカソの子孫にコンタクトをとったというのが、彼の言い分。
何しろ自分は年をとってきたし、体の調子も悪い。息子たちが困らないように、今の内にきちんとしておきたかったという。

何度か手紙でやり取りした後、彼はガレージに閉まっておいた作品をトランクにつめ、
9月9日にパリに向かい子孫に面会。
ひとめ見ただけで、本物であることを見抜いたピカソの息子であり、ピカソ遺産管理責任者のクロード・ピカソは、その場では何も具体的なことはいわず、ル・ゲネックは作品と共に南仏へと戻りました。

それから約一ヵ月後の10月5日、ピカソの子孫たちの訴えにより、271の作品が突然押収され、ル・ゲネックは尋問されます。
自分は決して盗んだのではない、これらはすべてもらったものだと、ル・ゲネックは繰り返し主張を続けていますが、
その証拠は何もない。

今のところはそれ以上発展していませんが、
真実をしりたいのはやまやま。
何しろ、271の作品の多くは1920年代のもの。ピカソの子孫によるとたいへん貴重なものだそう。
世界中の美術館が欲しがるような作品が多く、売った場合には少なくとも6000万ユーロ、もしかしたら1億ユーロ。

ル・ゲネックがいうように、彼が贈与されたのであれば、それは彼の権利となるのでしょうか。でも、その証拠がないとなると・・・・
調査が進んでいつ真実が発表されるか、新聞も雑誌もテレビも取材に忙しい日々。

それを追う私もとても忙しい。

2010年12月5日

シベリアのように寒い寒いパリ

車ものろのろ運転の雪のパリ
今年のパリは異常な寒さ。外を歩いている人が皆、
「まるでシベリアにいるみたいね」
と言っているほど。
厚手のコートは勿論のこと、帽子、マフラー、手袋、ブーツ。
それでも寒い。

ではどうするかというと、靴下は二枚はき、首に巻くマフラーは長いのにして、それで口と鼻を隠すのです。こうなると顔がほとんど見えない。目にも冷たい風があたるから、サングラスをかける人もいる。ますます顔が見えず、挨拶されても相手が誰だかさっぱり分からない、という冬のパリ。
このこところ毎朝マイナスの気温なのです。

でも雪のパリもいいもの。
モニュメントもアパルトマンも、街灯も何もかも、薄いヴェールに包まれているようで、とてもロマンティック。パリがますます詩情豊かな街になり、アーティストたちがさらなる傑作を生む条件が揃います。

雪にはしゃぐパリジャンたち
こうしている間に、明日の天気予報をテレビで報道していますが、パリは明日の朝もマイナス2度。そう語るお天気お兄さんの声も震えている。テレビ局の暖房がきちんと作動していないのかしら。

だから、こうなる前にユニクロに走り、ちゃんとヒートテックを買ってきました。もちろん上下買いました。
こういうときは皆同じ考えを持つようで、レジに長い行列ができるほどの混み合い。それにしてもユニクロの人気の長さには驚き。
この後は、日本のテクニックをいかして、暑さを飛ばす製品も作ってほしいで~す。

2010年12月3日

クリスマス装飾 

ノエルのパリは本当にきれい。
ギャラリー・ラファイエット・デパート
オペラ座の後ろにあるデパート、ギャラリーラファイエットはここ数年カテドラルのようなイルミネーション。
建物全体がステンドグラスで飾られているようで、その美しさに、皆、感嘆の声をあげるばかり。これこそノエルならではの装飾。パリジャンの美的感覚を再認識するのが、この時期の装飾。

高級宝飾店が並ぶヴァンドーム広場
パリの主だった場所のクリスマス飾りは、ほとんどが単色、あるいは同系統の2色くらい。だからとてもシック。ごちゃごちゃといろいろな色を使わないのがいい。
そのかわり、デザインとか装飾の配置にしかたに凝る。 こうした光景を見ながら育つと、
いい感覚が育つのは当然。

すぐれた感覚は服装にもはっきり現れています。
パリジェンヌの服装は、シンプル。
それに比べて、パリに来る日本人ツーリストの服装を見ていると、
なぜあれほど混雑した格好をしているのかと、不思議でしかたない。

フリルやリボン飾りがポケットや襟元にあるコート。その上に縞模様のマフラー。ポンポンつきの帽子。手袋も色鮮やか。それに加えて模様入りのブーツ。バッグや携帯はどうかというと、ちゃらちゃらといろんなものが付いている。
小柄な人がその全てを背負い、キャーキャーいいながら写真をとりまくっている様子は、
いかにも奇妙。

どうやらマンガの影響のようですね。

クリスマス装飾を見て、パリならではの感覚も吸収していったらいいのにと、この時期になると思うばかり。

2010年12月1日

シャトレのつぶやき 27 ノエルの準備

ツリーを買ってもらったけれど、
どうやって飾ればいいの?
もう12月なのね。
ママンが急に思い立ってブログを始めて早くも一年。
そのためにワタシもすごく忙しかった一年だったわ。
それにしても、たくさんの人が読んでくれているのね。
大感激!
メルシー!

12月といえばノエル、英語ではクリスマス。
どこの国でもツリーを飾るでしょ。
「ツリーが欲しい~ッ」
ってママンにいったら、早速買ってきてくれたの。
なにしろあの人、お買いものが大好きだから。

でも、ママンが買ってきた包みを開けてみてびっくり。
ごちゃごちゃといろんな物が入っているんだもん。
「君が欲しいっていったから買ってきたのよ。
後は自分で飾りなさいネ」
そういわれたって、何がなんだかさっぱりわからない。

まず、木を立てるのね。
この飾りを全部つけるのね。
たいへんたいへん。
その後いろいろな飾りをひっかける。そこまでは頭がいいワタシはすぐに理解。
問題は、どうやって飾りを
木にひっかけるかということ。

こういうときって、やっぱりネコは損。だって手が思うように動かないんだもの。
くやしいけれどママンにお手伝いしてもらって完成。
「やっぱり君は、ひとりでは何もできない存在なのだ」
といつもの嫌味。

上手に出来たと思わない?
なかなかきれいね。
どう、なかなかすてきなツリーでしょ?後は、お友だちに来てほしいな、プレゼントをいっぱい持ってネ。ああ、楽しみ楽しみ。
ノエルがくるのが楽しみィ~ッ♪♪~♪~♪♪

2010年11月29日

マリー・アントワネットのデザイナー10

マリー・アントワネットと
二人の子供たち
ルイ15世の愛妾だったデュ・バリー夫人は、ベルタンの顧客でもあったのです。ロンドンで再会した二人でしたが、ベルタンがそこにすっかり落ち着いたのに比べて、デュ・バリー夫人はフランスとの間を何度か行き来しています。

そもそもデュ・バリー夫人がロンドンに行ったのは、盗まれた彼女の宝飾がロンドンで見つかったらしいという情報があり、その確認のため。彼女がロンドンにいる間に革命は激化し、国王が処刑され、フランスは王侯貴族には危険な国になった。それなのにデュ・バリー夫人は、わざわざ戻って行ったのです。ベルタンの忠告も聞き入れずに。

それというのも、残してあるたくさんの宝飾品や、国王からプレゼントされた館が気になってしかたがなかったから。
彼女の命取りとなってしまったのは、この浅はかな考えのため。
以前の使用人の通告によりデュ・バリー夫人は捕らえられ、コンシエルジュリーに送られたのです。
彼女が閉じ込められたのは、マリー・アントワネットの元独房。
王妃が処刑され、空っぽになっていたその独房に捕らえられていたいたデュ・バリー夫人は、王妃と同じコンコルド広場で処刑され、王妃と同じ共同墓地マドレーヌに葬られました。


過去の華やかな王妃のドレス
ベルタンがフランスに戻ったのは、革命が終わり平和を取り戻したことを確認してから。世が変わり、ナポレオンが皇帝になり、ジョゼフィーヌが優雅な妃としてフランスのエレガンスを外国に示していました。が、それはベルタン作ではなく、ルロワ制作。ベルタンの名があまりにも旧体制、特にマリー・アントワネットと結び付いていたために、故意に避けていたと考えられています。
いかにもナポレオンらしい。

年老いたベルタンが、パリ郊外のサン・クルー城の庭園を歩いていたときのこと。そろそろ帰ろうとしたその時、彼女は気品ある美しい女性を目にとめます。その人は何と、ナポレオンの二番目の妃、マリー・テレーズ。
マリー・アントワネットが
こよなく愛したバラ
その姿を見たベルタンは大きな衝撃を受け、心臓が早鐘のように激しく打ち、やっとの思いで家にたどり着きました。
マリー・テレーズはマリー・アントワネットの姪の娘なのです。

マリー・アントワネットとの絆が強かったベルタンにとって、王妃は多くの思い出のある忘れられない人。そうした人の血をひく女性を目の前に見たベルタンの衝撃は、あまりにも大きかった。その翌日、1813年9月22日、ベルタンは心臓麻痺で66歳の生涯を閉じました。
マリー・アントワネットに気に入られていたデザイナーらしい最期です。
おわり

2010年11月28日

マリー・アントワネットのデザイナー 9

国王処刑後の
喪服姿の王妃
タンプル塔で厳しい監視の元に暮らしていたマリー・アントアネットのために、ベルタンが作ったのは4つのボンネットと数枚の肩掛け、そして何足かの靴下。

やがて革命裁判がおこなわれ、その結果死刑の判決を受けた国王ルイ16世は、
1793年1月21日にコンコルド広場で処刑。未亡人になったマリー・アントワネットは、それ以後、喪服だけを着るようになります。革命家からその制作を依頼されたベルタンが作ったのは二枚の喪服。それがベルタンがマリー・アントワネットのために作った最後の服となったのです。

その後マリー・アントワネットはコンシエルジュリーに移されます。それも急に決まったことで、着の身着のままの王妃のために、後日、彼女がタンプル塔で使用していた服を、コンシエルジュリーに運んでいます。

ベルタンが作った喪服で
毅然とした態度を崩さない王妃
同じ年に王妃も革命裁判にかけられ、ヴェルサイユ宮殿でいかに彼女が贅沢していたかの証明のために、服の注文書の提示を命じられたベルタンでした。が、彼女はそのいくつかを処分。このようにしてベルタンは、少しでも気の毒なマリー・アントワネットのために役立ちたいと願ったのです。

その後ベルタンはフランスを離れます。行き先はロンドン。多くの貴族の亡命先だからです。そこで彼女はマリー・アントワネットの処刑を知ります。

運命は不思議なもので、同じ亡命先に、かつてマリー・アントワネットの宿敵といわれていた、
ルイ15世の愛妾デュ・バリー夫人もいました。
死の控え室と呼ばれていた
コンシエルジュリー
ベルタンは彼女にフランスに戻るのは危険だと忠告。
けれども残してきた宝飾などが気になってしかたがないデュ・バリー夫人は、ベルタンの忠告を無視。
それが彼女の運命を決定したのです。

続く・・・

2010年11月26日

マリー・アントワネットのデザイナー8

ヴェルサイユ宮殿からパリに連れてこられた国王一家は、パリ中心にあったチュイルリー宮殿に幽閉されます。長年放置されていたその宮殿は、蜘蛛の巣がはびこる不吉な建物。当然家具もなく、急遽、最低限必要な家具が置かれました。

あまりにも突然のことで、王妃は着替えもない。ベルタンは何枚かの服を大急ぎで仕立てます。が、以前のような華やかさがすっかり失われたドレスばかり。
当時の王妃の服の記録は、残念なことにありません。

チュイルリー宮殿
国王一家がチュイルリー宮殿に暮らすようになった1789年の暮れに、ベルタンはフランスを離れました。危険をいち早く察知した貴族たちが、外国に亡命したことを知ったからです。たくさんの布地やリボン、そして二人のお針子を連れたベルタンは、彼らの亡命先に行き、そこで服を制作。こうした機敏な反応がベルタンの強み。

しばらくした後に、ベルタンはお針子を現地に残してパリに戻ります。彼女の店は顧客が少なくなったとはいえ、まだ服を頼んでいた人がいたためです。
本来ならば、王妃お抱えのデザイナーということで、ベルタンにも危険が迫っていたはずなのに、彼女が店を続けていられたのは、ちょっと不思議。

逃亡に失敗し、
パリに連れ戻された国王一家

ベルタンが多くの職人を抱え、その人たちの生活を支えていたために、革命家は大目にみていたからなのです。しかも、王妃は捕らわれの身といえども、着る物が必要。ベルタンは欠かせない人だったのです。チュイルリー宮殿に何度かマリー・アントワネットを訪れていたベルタンは、王妃の数少ない話し相手として貴重な存在でもありました。


タンプル塔
けれども、それにも終止部が打たれます。国外逃亡を図った国王一家でしたが、それに失敗。陰惨なタンプル塔に閉じ込められたのです。そこでもベルタンはマリー・アントワネットの服を作っていました。簡素とはいえ、王妃はベルタンの服に身を包むたびに、過去の栄華に時代を思いをはせていたかもしれない。が、ベルタンはもっとも悲惨な服をマリー・アントワネットのために作る日がきます。ルイ16世が処刑されたからです。

続く・・・

2010年11月25日

マリー・アントワネットのデザイナー 7


ヴェルサイユの庭園の一角に
作られた村落
ヴェルサイユ宮殿における、
息が詰まるほどの公式行事や儀式に、うんざりしていたマリー・アントワネットが、気がねしないで過ごせる場を持ちたいと思うのは、当然のこと。

王妃になった日に、ルイ16世からプレゼントしてもらったプティ・トリアノンは、たしかに彼女の息抜きの場でした。
その館を自分の好みで装飾したとはいえ、
それは、やはり金と大理石の館。

ちょうどそのころ、ジャン・ジャック・ルソーの自然復帰の思想が宮廷でも語られていました。それに共鳴したマリー・アントワネットは、庭園の一角に、いくつかの田舎小屋からなる村落を作ることを思いつきます。

1783 年の王妃
わらぶき屋根のいくつもの家、水車小屋、さまざまな動物がいる牧場、白鳥がゆったりと泳ぐ池。
野菜を作ったり、牛の牛乳をしぼったり、マリー・アントワネットはそうしたひとときを、こよなく愛していました。

そのためには、シンプルな服が必要。
ベルタンは直ちに簡素な、けれども王妃としての品格を損なわない服を制作。
それにはむぎわら帽が似合う。
いままでと異なるスタイルに王妃もすっかりご満足。

プティ・トリアノンの庭園で
1785年
けれども、そうした楽しみに終わりを告げる日は刻々とせまってきました。農作物の不作が続き、国民の生活はどん底。日々の糧を求める声は次第に高く、激しくなっていきました。

そして、ついに1789年10月5日から6日にかけて、暴徒たちが宮殿に入り、国王一家はパリへと連れて行かれたのです。
誰も想像もつかなかった革命が、今始まったのです。

続く・・・

2010年11月22日

マリー・アントワネットのデザイナー 6

マリー・アントワネットと
第一王女、王太子 1785年

マリー・アントワネットの服装にかける費用は、
子供が生まれてから5年後には4倍にもなっていました。

これでは、王妃への手当てをいくら増やしても、追いつかない。
ベルタンが請求する金額は、国王の援助金なしでは支払えない状態が続いていたのです。

その他、ドレスに合わせて帽子も作る。
ベルタンは請求書の明細を作ったことがなかったために、苦情を言う人も宮廷にはいましたが、
何しろ王妃のお気に入り。そのために、強いことは要求出来ず、結局、いいなりに支払う他ない。

ドレスには最高級のシルクやタフタ、ビロード、レースが使用され、ボタンはダイヤモンドが多いし、
その上豪華さを増すために羽をつけたり、
パールも縫い付ける。
胸元や、袖口、足元ではレースがひらひらと舞う。

そうしたごってりした服と釣り合いを取るために、ヘアーもボリュームたっぷり。
宝飾や羽をつけたり、ヘアーを油で固めて庭園を作ったり、本物のお花をいけたり、船をのせたり・・・
王妃を模倣したがる貴族夫人の注文も増すばかり。それに比例してベルタンの不動産も増えていきました。パリに住まいを何件も購入し、近郊の別荘ともなると、イギリス庭園まで作らせ、まるで小トリアノン。
それでも彼女は仕事が何よりも好きな働き者で、結婚もしなければ 、子供もなし。そのかわり家族思いで、故郷から家族を呼び寄せ、裕福な生活を味わわせていたのです。
マリー・アントワネットがジャン・ジャック・ルソーの影響を受けて、自然と親しむようになると、利発なベルタンもそれに素早く順応。彼女は王妃に今までと異なる装いをすすめます。
続く・・・

2010年11月21日

マリー・アントワネットのデザイナー 5

乗馬の腕前も
たしかな王妃
才知あるベルタンは、マリー・アントワネットのお気に入りのデザイナーであることを、最大限にいかします。

パリの店に大きく「王妃のデザイナー」と書いて、人々の関心をひいていただけでなく、サロンの壁にマリー・アントワネットの肖像画と、その隣に、何と自分の肖像画も飾っていたのです。

マリー・アントワネットがそれほど頻繁にベルタンに服を注文していたからには、
彼女はそれだけの才能があったのにちがいない。ベルタンのように認められたいと願っていたデザイナーは、他にもいましたが、誰ひとりとして、ベルタンほどの特権を得ることは出来ませんでした。

ベルタンはフランスモードの素晴らしさを、王妃を通して世界に発信していたのですから、業績は称えられるのにふさわしい。

1781年に待望の王太子が誕生
クリエーターであるだけでなく、実業家としての手腕もあったベルタン。彼女が店や住まい、別荘まで購入したのは、何よりの証拠。利益を不動産に投資することの重要性を、ベルタンは知っていたのです。

1779年にはベルタンの従業員は、約30人。忙しいときには外部の人にも依頼。それに加えて、布地やレース、リボン産業を盛んにしたわけですから、彼女の実績は賞賛にあたいすること。
ヴェルサイユ宮殿の
王妃の寝室
ベルタンの才能に魅せられたマリー・アントワネットの出費はかさばる一方。
彼女が支払いに困っている様子を示すと、王妃を盲目的に愛するルイ16世は、いそいそと助けていたのです。
もしかしたら、自分を頼りにしてくれると、内心うれしかったのかも知れません。
本当に愛すべき国王。

マリー・アントワネットの装いは、長年待っていた子供誕生から、
さらにゴージャスになっていきました。

続く・・・

2010年11月20日

マリー・アントワネットのデザイナー 4

1778 年の
マリー・アントワネット
王妃がローズ・ベルタンを迎えていたのは、 寝室の裏手にある内殿の一室で、そこには家族やごく親しい人しか入れませんでした。
貴族夫人でさえも、いつそこに入る許可が出るかと、その光栄ある日をじっと待っていたほど。ベルタンがいかに優遇されていたかという証拠です。

内殿は王妃の好みでフェミニンな装飾がなされ、そこで彼女はハープを奏でたり、時にはひとりで食事をしたり、子供たちと遊んだり。

王妃はその部屋で、ベルタンの新しいドレスに関するアイディアに
全神経を集中させ、自分の意見を伝え、
完成するのを楽しみにしながら待つという日々を送っていました。

王妃の要望にいつでもこたえられるようにと、ベルタンはヴェルサイユ宮殿近くに家を借ります。
着飾った衛兵が居並ぶ中を、胸を張って通るベルタンは、その後、王妃の内殿に入り、親しげに長い間語り合う。
もともとヘアーも得意だったベルタンは、マリー・アントワネットの髪型も手がけていました。その役は後に、レオナールという男性に変わります。

マリー・アントワネットの服装は日に日に豪華になり、
ヘアースタイルもそれに比例して派手になり、
オーストリア女帝である母マリア・テレジアの
お小言が、ウィーンからヴェルサイユに届きます。
けれどもそれも何の役にもたたず、
マリー・アントワネットの華やかさは増す一方。

小さい頃から
ハープが好きでした
王妃を模倣したい貴族夫人は、ベルタンのパリの店に通い、
夫たちはその支払いに悩むということが、日常になっていました。
ベルタンの名はフランスを飛び出し、ロシアやポルトガル、
イギリス王室にも届き、それによって彼女は莫大な財をなしました。
今や「モード大臣」ベルタの栄光も財産も、破格なものとなったのです。

続く・・・

2010年11月19日

マリー・アントワネットのデザイナー 3

1778年の
マリー・アントワネット
1774年に前国王ルイ15世が逝去し、王太子がルイ16世として即位し、
その妃マリー・アントワネットは、ついにフランス王妃になりました。

シャルトル公爵夫人のお気に入りのベルタンを、彼女がマリー・アントワネットに紹介したのは、その年の6月か7月頃と推定されています。
シャルトル公爵夫人を筆頭に、貴族夫人が、皆、今までと違うあかぬけた服装をしているのを、マリー・アントワネットも目にとめていたはず。
そして内心、一体誰が作ったのだろうと
思っていたはず。

それまで彼女は、長年働いていた宮廷デザイナーの服を、
他の王妃と同じようにそのまま着ていたのです。
ベルタンの服との差が大きいことは、ひと目で分かる。自分ももっと自由におしゃれをしたい、と思っても無理ないこと。
しかも彼女は若く、しかも王妃。それに加えて誰よりも予算もある。

王妃ともあろう人は誰よりも美しくあるべきだ、輝く存在であるべきだ、とマリー・アントワネットが思ったと容易に想像できます。

もともと舞踏会が大好きなマリー・アントワネットは、
王妃になると自ら率先して頻繁に開催。
そのたびに、王妃はベルタンにアイディアを求め、
斬新なデザインのドレスで身を包み、
ますます美しさに拍車がかかりました。

ヴェルサイユ宮殿の
鏡の回廊
そうした王妃を見て、ルイ16世は微笑みを深くし、
貴族夫人たちは感嘆し、賞賛の眼差しで見つめる。
フランス駐在の外国大使は、王妃の美しさを称える報告を
矢継ぎ早に本国に送る。

今やマリー・アントワネットは、
どの国のどの王妃よりも美麗になりました。
それは彼女が望んでいたことに違いありません。

王妃お抱えのデザイナーとなったベルタンは、
「モード大使」と呼ばれ、
王妃の内殿には入れる数少ない人となったのです。

続く・・・