2015年12月29日

パリの犬たち 56

パーフェクトなハーモニー
パリに暮していると、調和が気になるワン。
枯葉と全身の色合いを同じにして、
ワタシもコケティッシュなパリジェンヌらしく・・・・
どう、こんな感じで?

2015年12月26日

マリー・アントワネット 絵で辿る生涯 42

チュイルリー宮殿での王妃
チュイルリー宮殿。
国王一家のために一部だけ修理。
パリに連れてこられた国王一家の住まいとなったのは、チュイルリー宮殿でした。
ルイ14世がヴェルサイユに居城を移し、その後放置されていたチュイルリー宮殿は、荒れ放題。そこに、ヴェルサイユ宮殿から運んできた家具を入れ、修理も多少し、新たな生活が始まります。

王と子供たちの部屋は2階に、そして王妃の部屋のみ1階。それに不満だったマリー・アントワネットでしたが、口に出すことはありませんでした。ヴェルサイユでのあの生活は、この宮殿ではもはや不可能なのだと悟ったのです。
チュイルリー宮殿で、
パン屋の夫を亡くした未亡人をを迎える国王と王妃。
1789年秋。
質素な装いの王妃
家族揃って暮せるシンプルな生活を、国王は結構楽しんでいました。けれども、宝石をつけての舞踏会もなく、大好きな劇を演じることもない退屈な日々を、気位の高いマリー・アントワネットは我慢できませんでした。

革命が始まってから、お気に入りの女流画家ヴィジェ=ルブランは外国に亡命し、その代わりに王室画家になったポーランド人のクシャルスキーが肖像画を手がけますが、すでに老いが始まってしまったのがわかる絵ばかり。

彼はタンプル塔でも、コンシエルジュリーでも、マリー・アントワネットの肖像画を描きます。
画家クシャロスキー


王妃にとって何よりの楽しみは、信頼と愛を寄せていたフェルセンの訪問でした。
マリー・アントワネットの運命を心のそこから案じていた彼は、いつでもはせ参じられるように、チュイルリー宮殿近くに住むようにしたほどでした。

日に日に束縛が強くなる生活に、耐えられないほどの嫌気がさしてきた王妃は、フェルセンに逃亡したい意向を伝えます。

国王の煮え切らない態度から、今こそ自分が主権を握らなければならないと、マリー・アントワネットは真剣に思うようになり、フェルセンはそうした王妃の役に立つ誓いを立てます。
チュイルリー宮殿の庭園を散歩する王妃、子供たち、王妹。

2015年12月25日

クリスマス

幸せに満ちた、楽しくステキなクリスマスを!!!

2015年12月24日

パリの犬たち 55

ノエルだから・・・
たのしい祭典の日だから
ワタシもたくさんのヘア飾りで、ぐ~んとステキに。

マリー・アントワネット 絵で辿る生涯 41

バルコニーで王妃にうやうやしく挨拶する
ラファイエット国民軍司令官。
1789年10月6日朝。
王妃は女官に突然起こされます。
パリ市民を目の前にした
王妃と子供たち。

前日、雨が降りしきる中を、23キロも歩き続けて宮殿に到着した群集は、怒りと空腹、寒さ、疲れで暴徒と化し、斧や槍を振りかざしながら宮殿に入り込み、衛兵を殺し王妃の寝室へと向ったのです。

衛兵の断末魔の叫び声を耳にした女官が、迫った危険を感じ、王妃を起こし着替えを手伝い、ベッドの左後にある隠しドアを開けます。

細い通路を転がるようにして通り国王の寝室に逃げ込みます。幸いなことに王子も王女も無事に父の部屋に逃れてきます。

家族揃って無事だったことを喜んでいる時間はありませんでした。差し迫った危険から身を守るために意見が交換されます。そうしている間にも、暴徒たちの叫び声は続いていました。

パリに到着した国王一家。

その内彼らは国王がバルコニーに姿を出すことを要求します。
王がそれに従って寝室のバルコニーに立つと「国王バンザイ」の合唱が響きました。
ホッとしたのもつかの間。今度は王妃に同じことを要求。

マリー・アントワネットは恐怖で引きつった顔になります。彼女はしっていたのです。自分が国民から嫌われていることを。しばらくためらっていた王妃でしたが、意を決して王子と王女の手を引きながらバルコニーに出ます。
その瞬間、群集の騒ぎが静まりました。そのとき、両者の間の沈黙に危険を感じたラファイエット国民軍司令官が進み出て、王妃にうやうやしく挨拶します。
それを見た群集は「王妃バンザイ」を唱えたのです。

その後群集の希望でパリに行くことを約束し、国王一家は馬車に乗ります。
それが、ヴェルサイユ宮殿との永遠の別れになるのです。
チュイルリー宮殿に入る一家。

2015年12月23日

TOYOでディナーを満喫

左からブリューノ、私、中山シェフ、エルヴェ。
テロの影響が今でも残っているパリ。
友人とモンパルナス近くにあるレストランTOYOに行く途中、何軒ものカフェやレストランの前を通ったけれど、ほとんどがら空き。この時期にクライアントがいないというのは、かない厳しいはず。倒産したお店もあるそう。これが来年も続いたら本当に大事。

でもTOYOはすこぶる元気でよかった。さずが根強い人気があるレストランは違うのですね。
カウンターは満席だし、奥のサロンも貸し切り。

ディナー中の話題はもっぱら今のパリの状況。
いろいろあるけれど、ポジティブに生きていこうと何度も乾杯。 シャンパン、ワイン、日本酒、TOYOのオリジナルティーと、飲み物もバラエティーに富
どのお料理も気品ある味。
器も凝っています。
んで、とっても豪華。

それ以上にすごいのが、中山シェフの底をしらないアイディアと技量。
一品出るたびに歓声をあげ、写真を撮り、口に運んだときの幸せ度は最高。

10品ほどいただいても、翌日の朝はすべて消化している。これも大人気の理由のひとつ。いつもは賢三さんとご一緒するTOYOだけど、彼は今旅行中。この日はふたりのグルメのフランス人アーティストと一緒。全員大満足の会食でした。

マリー・アントワネット 絵で辿る生涯 40


7月14日に革命が起きると、国王一家の居城、ヴェルサイユ宮殿の護衛に力を入れるようになります。

フランス衛兵隊だけでは不十分と見られ、現在のベルギー北部のフランドル地方から、優秀な兵士たちが多数送られてきます。

フランドルの兵士たちを迎える祝賀が
華々しく行なわれました。
彼らを迎えるために、宮殿で贅沢きわまりない祝宴が行なわれ、マリー・アントワネットは愛想よく挨拶をします。国民がろくな食べ物もなく、飢えに苦しんでいたのに、ヴェルサイユ宮殿の華麗な生活が変わることはなかったのです。

10月5日、もうこれ以上耐えられないと、パリの女性たちを中心として、約7000人がヴェルサイユ宮殿へと行進を始めます。国王に自分たちの惨めな生活を直接話そう、と結束したのです。
それが歴史上最大の悲劇を引き起こすことになるとは、そのとき、誰も思ってもいませんでした。女性たちは自分たちの生活の苦しさを、国王に知ってもらおうと思っていただけだったのです。
ヴェルサイユ宮殿へと向う、女性たちを中心とした行進

2015年12月22日

やはりお花はいい。元気をもらえる。

エリック・ショヴァンと。
いろいろあってちょっと元気が足りないパリ。
でも、お花屋さんは忙しそう。
リースもたくさんあるし、第一、自然の香りが満ちていて、そこにいるだけで元気になる。やはり自然のパワーはすごい。

15年前に知り合ったエリック・ショヴァンは、パリでもっとも人気があるフローリスト。
彼は「花の貴公子」と雑誌に書かれますが、その名付け親は、ナンとこの私。
抜群のセンスが評価され、すごい勢いで発展しているエリック。
自分のことのようにうれしいです。

平和を願うマドレーヌ教会

マドレーヌ教会のブルーのイルミネーションが心打つほど素晴らしい。
入り口では、一羽の白いハトが羽ばたいている。
世界の平和を願う思いが、冬のパリの空高く響いています。

2015年12月21日

マリー・アントワネット 絵で辿る生涯 39

バスティーユ監獄襲撃

1789年7月14日。
政治犯を投獄していたバスティーユ監獄が、襲撃されました。バスティーユ監獄は旧体制の象徴だと考えられていて、新時代を築こうとする革命家たちが中心になり襲ったのです。国政に不満を抱く群集も加わり、バスティーユへ向う人数は膨れ上がっていました。

群集はまず廃兵院に向かいます。そこに武器が多数あることを知っていたからです。その武器を手にしながらバスティーユへと急ぎ、監獄守備隊との激しい衝撃後、中に入り込むことに成功し、捕らえられていた7人の囚人を解放。
監獄所長は殺され、パリ市長も同じ運命を辿り、革命が起きたことがヴェルサイユ宮殿の国王に告げられました。

1789年5月5日に
ヴェルサイユで開催された三部会
その2ヶ月前、国王は175年ぶりに三部会を開き、国が抱えている諸問題の解決に取り組みます。
けれども不公平な議決方法は、第三身分と屈辱的に呼ばれる平民代表の議員たちの反感をかい、混乱を招く一方でした。

そうしている間に、国王に反感を抱いているオルレアン公の援助を得て、革命家を中心とした群集による、バスティーユ襲撃が起こったのです。

パリの東を守る砦として14世紀に
建築されたバスティーユ要塞。
ルイ16世は急遽、国民議会へと向かい譲歩を示します。
マリー・アントワネットとその取り巻きが、倹約を進言するネッケル財務長官辞任を迫り、国王の命令で罷免し、それが民衆の怒りをかっていたことを知っていたために、彼の復職を約束します。
国王はパリに行って、人民の味方であることも明らかにします。

それを知った国王の末弟アルトワ伯は、王政の危機をいち早く察し、直ちに国外逃亡を計ったのでした。
この日から革命は、刻々と危険性を増していきます。

2015年12月20日

パリの犬たち 54

オリジナリティー満点
どうもボクは犬に見えないみたい。
この独創的な顔が不思議らしい。
でもちゃんと「ワンって言えるんだよ。
ネ、これって犬である証拠だよね。

2015年12月19日

ノエル 12

エルメスのショーウィンドー。

久しぶりにエルメスに行きました。
ここのショーウィンドーはパリ一という定評があります。
だから毎年センス磨きのために見ることにしています。今年のノエル装飾は赤、赤、そしてまた赤。そうした艶やかな品々と、シルバーの気品ある輝きを放つツリーが相まって、ドラマティックな世界を描いています。

店内に入るのにもちろん荷物検査。
それだけでなく、コートも開かなくてはならないのです。行くときにはコートの中に着るものにもご注意を。

びっくりしたのは、クライアントがほとんどいないこと。エルメスではいまだかつてそんな事はなかった。品物もほとんどない。通常はガラス張りのケースの中に、バッグが並んでいるのに、空っぽのケースばかり???

スカーフはたくさんありました。ということは、バッグは売り切れて生産が間に合わないということかしら。2階のプレタポルテやベビー用品売り場、テーブル製品、時計、ジュエリーコーナーも、クライアントより販売員のほうがはるかに多い。

不思議なエルメスでした。

2015年12月18日

マリー・アントワネット 絵で辿る生涯 38

ヴィジェ=ルブランのためにポーズした
最後の肖像画。
日に日に人々の反感が王妃に向い、彼女もそれをひしひしと感じるようになります。
反感は宮廷内にもありました。

その筆頭は、王ルイ15世の3人の老王女。
愛妾デュ・バリー夫人に自ら声をかけ、自分たちを裏切ったマリー・アントワネットに、
それ以後悪意を抱くようになっていたのです。
枢機卿を迎えるルイ16世と
マリー・アントワネット。
後方に子供たちと一緒の
王妃の絵が見えます。
3人の老王女は、同じ館に暮らし、団結してマリー・アントワネットの悪口をいいふらしていたのです。
そこに王妃から免職された貴族や、取り巻きに入れてもらえない嫉妬に燃える貴族夫人たちが加わり、王妃に関する悪評を語り合い、広く世間に知れ渡るようにさえしたのです。

王妃を特に毛嫌いしていたのは、ブルボン家の分家にあたるオルレアン公ルイ・フィリップ。野心家の彼は、王妃の権力と誇りに満ちた態度にガマンできず、「首飾り事件」をきっかけに、あからさまに攻撃を強くします。
7月14日のバスティーユ監獄襲撃隊は、パレ・ロワイヤルの彼の豪華な館から出発したのです。

王妃の評判が下降線を辿る一方だったのは、内部の人の反感が強く、それが輪をかけて世に吹聴されたことも影響していたのです。

2015年12月17日

パリの犬たち 53

このところ、いろいろあるパリ。
だから、
顔も心を引き閉めることが大事だワン。
キリッ!!!

2015年12月16日

マリー・アントワネット 絵で辿る生涯 37


第二王子ルイ・シャルルが誕生した翌年、王妃は二番目の王女に恵まれます。

 1786年7月9日、マリー・ソフィー・ベアトリスと命名された王女は両親の愛を受けて育ちます。

ゆりかごで眠る王女
「首飾り事件」で国民の不評と怒りをかっていただけに、マリー・アントワネットの喜びは大きかったようです。

けれども、王女は生まれたときから体が弱く、結核におかされ、1787年6月19日、一歳のバースデーを迎えることなく、小さな命を終えてしまいます。

王妃として国に4人の子供を授けたことを、国民にアピールするために、子供たちと一緒の姿を画家ヴィジェ=ルブランに依頼したマリー・アントワネットでした。
ジュエリーもつけず、ひたすら良き母の姿を描いてもらっていたその最中に、ソフィー王女を失ったマリー・アントワネットの嘆きは大きかった。

本来は、ゆりかごの中に眠っている王女を、右端の王太子が起こさないようにと、指を口に当てて音を立てないようにと示しているはずの絵。けれども王女の死によって、誰もいない空っぽのゆりかごにしたのです。
右はゆりかごを指さしている王太子、
王妃の膝に抱かれているのが第二王子ルイ・シャルル、
左が第一王女マリー・テレーズ。1787年。

2015年12月15日

まだすごい警備です。


デパートのノエルの飾りが見たくて、ギャラリー・ラファイエットに行ってみたら、やはりすごい警備。

通常は入り口がいくつもあって、どこからでも自由に入れるのが、今は2箇所のみ。
そのひとつに向って行くと、4人の頑丈そうな男性が立っている。そのどの人も手に金属探知機を持っていて、ひとりひとり徹底的に調べる。そこを通過しないと絶対に中に進めない。単に、手荷物を調べるなんておとなしいものではないのです。

それを無事に過ぎて中に入ると、黒服の男性があちらにもこちらにもいる。あの人たちも警備員かな、などと思いながらエスカレーターに乗って、上階に着くと、ボンジュールと若い男性や女性がにこやかに挨拶してくれる。
クライアントが激減しているから、販売員がすごく愛想がいい。

でもやはり落ち着かない。ノエルのきれいな飾りの写真を素早く撮って、さっと外に出たという日でした。もちろん、何も買いませんでした。
12月は日曜日も開けているけれど、デパートはかなり大変そう・・・

2015年12月14日

マリー・アントワネット 絵で辿る生涯 36

王妃はジュエリーがとても好きな人でした。彼女がもっとも気に入っていたのはパール。現在のように養殖真珠がなかった時代だったので、自然に育つパールは驚くほど高価でした。

事件を引き起こした
ネックレス。
真珠の気品ある光沢は、透明感があるマリー・アントワネットの肌にぴったりで、彼女の多くの肖像画で身につけていることからも、いかにこの宝石に魅せられていたか分かります。もちろんダイヤモンドやルビー、サファイアなどの華やかなジュエリーも持っていた王妃です。

子供の頃からジュエリーをつけ、それに魅せられていた王妃は、ある日、大変な事件に巻き込まれます。

1784年12月28日、王妃の親しい友人と自称するジャンヌ・ド・ラ・モット伯爵夫人に、宝石商ベーマーとバッサンジュが会います。

・・・亡き前王ルイ15世が、愛妾デュ・バリー夫人のために540個のダイヤモンドを使用した、2840カラットのネックレスをオーダーなさり、作成したのですが、国王逝去で引き取り手がいなくて資金的困難におちいっているのです・・・
二人の宝石商
右ベーマー、左バッサンジュ
ふたりの宝石商はいかにも困惑した顔で
語ります。

・・・王妃におすすめしたところ、大変興味をお持ちになったようなのですが、あまりにも高額でお断りになったのです。貴方様は王妃とお親しいと伺っております。何とかお力をお借りできないものでしょうか・・・

悪知恵が働くジャンヌはそれを聞いて一案を思いつく。
・・・いいアイディアがあります。ロアン枢機卿に間に入っていただくことです:・・・
ロアン枢機卿
このチャンスをいかして大もうけをしようと企んだ彼女は、
矢継ぎ早に計画を練り、実行します。

《これほど高価なジュエリーを公に買うことは出来かねます。私の代理としてロアン枢機卿にお受け取りいただき、4回払いでお支払いしたいと思います》
という内容の王妃の偽の手紙を準備したジャンヌは、それをかねがね王妃に気に入られたいと願っていたロアン枢機卿に渡す。

庭園の薄暗い中で、ジャンヌが雇った偽の王妃に声までかけられたロアンは、すっかり信用し、王妃のお役に立てると大喜び。王妃の代理という名誉ある役割を果し、1785年2月1日、宝石商からネックレスを受け取ります。
ネックレスはジャンヌが直接王妃に渡すという筋書きになっていたので、枢機卿は安心して彼女に委ねます。

ジャンヌ・ド・ラ・モット
ネックレスを手にしたジャンヌは、直ちにバラバラにし、夫に身につけさせロンドンに運ばせます。見事なクオリティーのダイヤモンドは瞬く間に高値で売れたのでした。

7月に入ったとき、王妃から最初の支払いがないために、ベーマーは催促の手紙を王妃に送ります、が、彼女はそれを読まずに処分。

8月、一向に返事が来ないので、王妃の女官カンパン夫人にネックレスのことを打ち明ける。
驚いた女官はマリー・アントワネットに告げ、ジャンヌ・ド・ラ・モットの巧妙な詐欺にかかったことを知ったのでした。
国王夫妻はこの事件の関係者を
              裁判にかけることにします。

捕らえられていた監獄から脱出し、
セーヌ川の船に乗るジャンヌ。
そのために事が公になり。国民の憎悪は、本来は被害者である王妃に集中したのです。彼女の日頃の軽い行動が、こうした事件を引き起こしたというのです。

裁判の結果ロアンは無罪で、ジャンヌは有罪の判決を受け、フランス語の泥棒の頭文字Vの焼印を押され投獄されます。けれども、なぜか民衆の同情を得た彼女は脱獄に成功し、ロンドンに渡り、その地で35歳の人生を閉じます。

通常「首飾り事件」と呼ばれるこの出来事が、革命の引き金のひとつになるのです。
王妃は「赤字夫人」と呼ばれ、国民の反感をかい、厳しい非難の視線を浴びるようになります。

2015年12月13日

パリの犬たち 52

ステキな出会い
「アッ、あそこにかわい子チャン。ボクの好み。
ネ、こっちにおいでよ」
「ワタシのこと?」
「そうだよ、近くで見るとますますかわいい。ジュテーム!」
「君も悪くないわよ、だからワタシもジュテーム」!

マリー・アントワネット 絵で辿る生涯 35

シンプルなシュミーズドレスと麦わら帽子。
田園にふさわしい服装を、
貴族夫人たちも競って模倣しました。
リシャール・ミック
自分の思い通りの楽しみをもっと味わいたい、と思ったマリー・アントワネットは、プティ・トリアノンの庭園の一番奥まった地に大規模な村落を造らせます。

ノルマンディー地方にいるような田園を、というのが彼女の希望で、それを実現したのはリシャール・ミック。庭園内の「愛の神殿」や「王妃の劇場」も手がけた、マリー・アントワネットお気に入りの建築家です。

彼は革命が起きた際に、王妃を脱出させようとしたと嫌疑がかけられ、裁判で死刑の判決を受け、王妃処刑から10ヶ月後、65歳で世を去ります。

マルバラ塔
王妃の希望を入れて、村落に人口の大きな湖を作り、その周囲に「王妃の家」「水車小屋」「マルバラ塔」「鳩小屋」「守衛の家」「ビリヤードの家」「小居室」「乳製品加工場」などを建築します。

その他、牧場も作り、そこで牛や山羊、
にわとりも飼っていました。野菜畑もあり、そこで育つ野菜や果物を食べていたし、牛乳も村落で作る自家製を好んでいました。

王妃の家
人口の湖に面している「マルバラ塔」から小舟に乗ったり、長い時間をかけて釣りをし、とれた魚を料理することもありました。

ここに植えられた木は48000本。
このようにして、緑豊かなノルマンディー地方の田園が、ヴェルサイユの敷地内に実現したのです。

宮殿では王妃だったマリー・アントワネットでしたが、この村落では「ひとりの自由な女性なの」と語っていた彼女は、煌びやかなドレスでなく、シンプルな服のみ着用。
農婦の服装も楽しんでいた王妃。
時には農家の女性のような服装もしたマリー・アントワネット。

そうした彼女は生き生きしていました。王妃のお供を許されていたのは、限られた貴族夫人のみ。その誰もがシンプルな服で、田園風景に溶け込んでいました。王妃の子供たちも自由に飛び回り、にわとりが生む卵を驚喜しながら集めていました。

国王はほとんど顔を出すことはなく、マリー・アントワネットはクラヴサンを奏でたり、歌ったり、ダンスをすることもありました。フェルセンが訪れたこともあります。
この村落はマリー・アントワネットにとって、ユートピアだったのです。
時にはこの村落で祭典も行いました。

2015年12月12日

パリの犬たち 51

最近ロンドンに暮すフランス人が増えている。
ボクの家族もいつ刺激を受けて行くかも知れない。
だから英語を話さなくちゃ。
右 OK
左 OK 
Let's go!!