2015年10月30日

東京都知事の特別講演

左から、在仏日本商工会議所会頭の瀧川功さん、
「なでしこ」で活躍した元プロのサッカー選手大滝麻未さん、
パリの「とらや」をはじめとし大活躍の建築家田根剛さん、私。
舛添都知事のフランス語による講演が、パリ=イルドフランス地方商工会議所であり、時折ユーモアを加えた流暢なフランス語による充実した内容に、出席者はこぞって魅了されました。東京がいかに暮しやすく、輝かしい未来の訪れを感じさせる素晴らしい街であるかもアピールし、パリとのコラボレーションに大きな意義があることも強調。
質疑応答では、2020年のオリンピックに対するフランス人の関心度がいかに高いかが伝わってきました。その後のカクテルでは様々な分野の方々にお会い出来、忘れがたいひとときをたっぷりと味わいました。

2015年10月29日

「仁」でお食事

高田賢三さんと料理長の渡邉卓也さん。
パリの高級和食レストラン「仁」は、予約が難しいほどの人気。繊細な味が高く評価されていて、オープン後すぐにひとつ星を獲得したのも当然。

本物の和食と極上の日本酒を堪能するために、東南アジアの旅から帰ったばかりの賢三さんと行きました。

カウンター席で次々に目の前に出てくるお料理は、歓声をあげないわけにはいかない美味ばかり。器も素晴らしく、見とれてしまいます。
久々に味わったトップレベルの和食でした。

パリの犬たち 44

パリらしい光景
セーヌ河畔のお散歩が気持ちいい季節だワン。
道路に世界地図が描いてあって、ちょっと緊張。
その上を歩いていいのかどうか気になる。
ママンは平気みたいだけど、
ボクはデリケートだから迷ってしまう。

2015年10月28日

マリー・アントワネット 絵で辿る生涯 16

王太子妃になった日から、「マダム・エティケット」とマリー・アントワネットが名付けた女官長、ノアイユ伯爵夫人のやかましい躾が始まります。

ヴェルサイユ宮殿での生活は、朝起きてから夜寝るまで儀式に続く儀式。食事でさえも公開で、着飾った貴族や諸外国大使が見つめる中だったのです。

この、儀式に埋もれる、まるで舞台の上で演じるような、見せるための宮廷生活を考えたのはルイ14世。国王の威厳と華やかさを、国民と外国に見せるのが目的だったのです。

シェーンブルン宮殿でのびのびと育ったマリー・アントワネットには、規則だらけの生活は苦痛でしかなかった。まだ遊びたい年齢の王太子妃は、ノアイユ伯爵夫人によって、がんじがらめにされていたのです。

駐仏オーストリア大使
メルシー伯爵
それだけでなく母マリア・テレジアは、彼女に忠実な外交官メルシーにマリー・アントワネットの監視役を頼み、ヴェルサイユ宮殿での一部始終を報告させていました。王太子妃の心得を無視した行動を行なうたびに、お小言の手紙がウィーンからヴェルサイユに届けられていたその陰に、メルシーがいたのでした。

マリー・アントワネットの父の故郷である、ロレーヌの名門貴族出身のメルシー伯爵は、トリノ、サンクトペテルブルクのオーストリア宮廷代表として活躍。その後マリア・テレジアの信頼を受け、1766年にフランス駐在大使に抜擢されました。フランス王太子とマリー・アントワネットの結婚実現に大きな役割も果したのも彼です。
革命が起きた1789年にフランスからベルギーに逃れ、その後ロンドンに移り、その地で67歳の生涯を閉じます。

このようにマリー・アントワネットの日々は、ガラスケースの中にいるようなものだったのです。

2015年10月27日

パリの紅葉もキレイでしょ

自分が住んでいる街は、ついつい自慢したくなる。
日本の紅葉にはとてもかなわないけれど、パリの秋も悪くないでしょ?
ほら、ご覧の通り。



2015年10月26日

マリー・アントワネット 絵で辿る生涯 15

ルイ15世広場での祝賀花火。
結婚祝いの最後を飾ったのはパリ市主催の花火。5月30日のことでした。
その日、国王も王太子も連日の祭典で疲れはて、パリまで行く元気がなく早めに休み、マリー・アントワネットは国王の王女アデラィッドと馬車に乗り、夜8時頃にパリへと向かいます。

当時のルイ15世広場。
中央に国王の騎馬像、
その先の左側の建物にクリヨン伯爵が住み、
現在はクリヨン・ホテル。
花火はルイ15世広場(現在のコンコルド広場)で行なわれることになっており、早朝から群集が集まっていました。セーヌ川には飾り立てた船が何隻も浮かび、広場の噴水にはワインが並々とそそがれ、周囲には無数のたいまつが灯され、祭典気分は最高潮。

マリー・アントワネットたちが乗った馬車が、サンクルーとパリをつなぐセーヴル橋に差し掛かったころ、花火の音が聞こえました。胸をときめかせながら、もうじき広場に到着すると喜びに顔をほころばせたその瞬間、馬車が止められたのでした。

見ると人々が叫び声をあげながら逃げ回っている。大きな火事が発生したのだという。群集は右往左往し、転倒する人が続出。そうした人の上を飛び跳ねながら、誰もが安全な場所へと急ぐ。
急遽、ヴェルサイユに戻ったマリー・アントワネットは、この惨事で132人もの犠牲者が出たことを知り愕然とします。

結婚証明書のシミといい、この惨事といい、不吉な予告があった結婚式と祭典でした。

2015年10月25日

もうじきハロウィン

ユーゴー・エ・ヴィクトール

ハロウィンのスイーツのお店を2店。

まず、私が大好きなお店「ユーゴ・エ・ヴィクトール」。
ここのお味は甘すぎず、色もフォルムもとってもお洒落。第一名前がいい。本が好きなパティシエだから、この名前。それとパケージングが、蓋がついた本の形。
空になったら、いろいろ小物を入れられるので便利。
私はアクセサリ-入れにしています。


もうひとつは、
パトリック・ロジェ
ダイナミックなチョコレートのデコレーションで話題の「パトリック・ロジェ」
ライオンやゴリラ、ロダンの考える人などの彫刻をチョコレートで実現。誰もがそれを見て歓声をあげます。当然のこと。
ハロウィンもオリジナリティがあって、楽しいこと極まりない。クロネコまで作ってくれてありがとう。食べないでいつまでも飾っておいてほしい。

2015年10月24日

マリー・アントワネット 絵で辿る生涯 14

建築家シャルグランによる壮麗な舞踏会の間
結婚式が終わった夜は、宮殿内のオペラ劇場で晩餐会。そのオペラ劇場は、ルイ15世から王太子とマリー・アントワネットの結婚祝いのプレゼントとして建築されたもの。
マリー・アントワネットにとって苦痛だったのは、親族と共に舞台の上で食事をし、それを観客席にいる貴族たちが興味深く見ていること。これはルイ14世の時代から続いていた公開食事だったのです。緊張していた彼女は、ほとんど食事に手をつけなかった、と記録は語っています。
ラシーヌ作「アタリー」を宮殿内のオペラ劇場で上演。
後日、5月23日には、オペラ劇場で「アタリー」を上演。その名作は、ルイ14世の愛妾で後に極秘に結婚したマントノン夫人の依頼でラシーヌが書いた作品。王太子が特に好きな宗教悲劇でしたが、マリー・アントワネットは暗い内容で退屈で仕方なかったようです。
当時のヴェルサイユ宮殿
それ以後も舞踏会、観劇などの祭典が毎晩続き、ブルボン王朝の華やぎがオーストリアをはじめとし、ヨーロッパ各国に轟いたのでした。

2015年10月23日

FIAC 、初日に行きました。

国際コンテンポラリー・アートフェア、FIACに行きたくて、数日前からうずうず。
22日の初日に張り切って行ってきました。
平日の、しかも初日に行けばきっとすいている、と思ったら、とんでもない。
すごい人。35ユーロという高い入場料もナンてことないとばかりに、現代アート愛好者が大集合。
私もたっぷり楽しみました。気に入った数点の作品を紹介しますね。人それぞれお好みがあるから、いいと思わない人が当然いると思うけれど、まあ、パリの現代アート展の雰囲気をどうぞ・・・




2015年10月22日

マリー・アントワネット 絵で辿る生涯 13

王太子とマリー・アントワネットの結婚を記念して作られた、神話が描かれた扇。
イダ山で、ジュピターとジュノーが永遠の愛を誓う場面が描かれています。

ロココの巨匠のひとり、アントワーヌ・コワペルの作品を扇に用いたもの。
扇を手にする王妃と、国王
彼は神話や宗教画、歴史上の出来事を得意とする画家で、ヴェルサイユ宮殿の王室礼拝堂の天井画も手がけています。

ルイ14世の時代から、結婚式や子供の誕生のお祝いに、特別な扇を作る習慣があったのです。ブルボン王朝が威勢を誇っていた時代は、フランスはどの国よりも上質の扇を製作し名を博していました。

煌びやかな宮廷生活に扇はよく似合う。
マリー・アントワネットも好んでいたアクセサリーです。

2015年10月21日

国際コンテンポラリー・アートフェア

10月22-25日まで、グランパレで開催される現代アート展FIAC。
パリ最大規模で、毎年、大きな関心を呼びます。
会場に入るのに長蛇の列。それほど重視されているわけです。

それに先駆けて、チュイルリー公園などで屋外展示もあり、それがまた楽しい。
さっそく見てきましたよ。
現代アートはわかりにくいのも多いけれど、見る人が好きなように解釈すれがいいのだと思う。
解説などがないほうが、素直に理解できていい。

ということで、作品のいくつかをご紹介。いろいろと想像をふくらませてくださいネ。


2015年10月20日

マリー・アントワネット 絵で辿る生涯 12

1775年5月16日朝、
マリー・アントワネットが華やかにヴェルサイユ宮殿に到着。
1775年5月16日、宮殿内の王室礼拝堂で王太子の結婚式が執り行われました。

快晴のその日、朝から着飾った貴族たちが続々と宮殿に集まり、礼拝堂へ、あるいは鏡の回廊へと華やぎを散りばめながら向かいます。礼拝堂で式に参列できる人は親族と高位の貴族など限られた人のみ。その他の人は長さ73メートルの鏡の回廊でひしめき合っていました。

午後1時、式部官に導かれた王太子とマリー・アントワネットが、手を取りながら礼拝堂へと向います。
王太子はゴールドの聖霊騎士団のユニフォーム姿。マリー・アントワネットは無数のダイヤモンドが煌くシルバーのドレス。

礼拝堂でスイス兵が太鼓を華々しく打ち鳴らし、国王ルイ15世到着を知らせ、パイプオルガンが鳴り響き、15歳の王太子と14歳のマリー・アントワネットが祭壇へと進みます。その手前に置かれた、ゴールドの房飾りがついた深紅のビロードのクッションにふたりがひざまずき、ランスの大司教、ド・ラ・ロッシュ=エモンが祝福の言葉を述べます。

マリー・アントワネットのサインに
インクのシミが残っている結婚証書



結婚指輪と13枚の金貨を大司教が清め、王太子がマリー・アントワネットの細い指に指輪を通し、パイプオルガンが高らかに演奏され、ふたりの頭上にシルバーの天蓋がかざされます。

その後結婚証書にサインをし、式が完了。その際に、マリー・アントワネットが書いた名前「マリー・アントワネット・ジョゼファ・ジャンヌ」に、インクのシミをつけてしまったのです。まるで後の不幸の前兆のような大きなシミでした。
ヴェルサイユ宮殿内の王室礼拝堂で
結婚式が執り行われました

2015年10月19日

バラはいつもキレイ


枯葉の季節になって、木が寂しい今日この頃。
でも、お散歩の途中で、こんなにキレイなバラの
バラを花の女王と歌った
ギリシャの詩人サッフォー
コンポジションに出会い、うれしくてうれしくて携帯でパチリ。

何と気品があるブーケでしょう。
パリならではのセンス。

古代ギリシャの女流詩人サッフォーが、「花の女王」と歌ったバラは、確かに女王的存在。
色も形も鮮やかで、例え一輪でも心に幸せが生まれます。

この香りが皆さんに届くといいのだけれど。
きっとその内、コンピューターで香りも送れるようになるかも。
長生きしなくては。

2015年10月18日

マリー・アントワネット 絵で辿る生涯 11

1770年5月7日、ストラスブールに到着したマリー・アントワネット        
フランスに引き渡される儀式は、ストラスブール近くの、ドイツとフランスの間を流れるライン川の中州に設けた、特別式場で行なわれました。そこに入る前はオーストリア人であり、出たときにはフランス人となっていたマリー・アントワネットでした。

式場では、ウィーンからの旅の間に着ていたオーストリア製の衣類をひとつ残らず脱ぎ、フランス製に着替え、その瞬間に彼女は故国に別れを告げ、見知らぬ国フランスに生涯を捧げる運命を受け入れたのです。

ルイ15世は皇女の長旅のために、豪華な馬車を2台作らせウィーンに送っていました。1台は四季の刺繡をほどこした深紅のビロード張りで、もう1台はブルーのビロード張り。両方とも座席の周りにガラスを張り巡らし、中のマリー・アントワネットがよく見えるようになっていました。
「マダム・エティケット」
ノアイユ伯爵夫人
1770年4月21日、オーストリアを後にし、彼女が乗る馬車の後に、117人の随行人のための46台
もの馬車が続く大行進でした。その道中、各地で熱狂的歓迎を受け、それに立派に応えていたマリー・アントワネットは14歳。

ストラスブールでフランス側に入ったマリー・アントワネットは、そこでひとりの気位高い女性を紹介されます。ヴェルサイユ宮殿で彼女に礼儀作法など、こまかい教育をほどこす女官長、ノアイユ伯爵夫人です。

あまりにも口やかましく躾をする27歳年上の女官を、マリー・アントワネットは「マダム・エティケット」とあだ名をつけ、王妃になったときに、待ってましたとばかりに即刻解雇します。

2015年10月17日

パリの犬たち 43


早く独立した~い。
また立ち止まっている。いつまで続くかわからない長話。
「ねぇ、二人で先にいこうか「ウン、そうしよう」
きゃーッ、ヒモがじゃまで進めない!
ヒモつきじゃないワタシはスイスイ進む。
ああ、快適、快適。

2015年10月16日

マリー・アントワネット 絵で辿る生涯 10

結婚を数ヶ月後に控えた1769年。
大好きなシェーンブルン宮殿で
クラヴサンを奏でるマリー・アントワネット。

お妃教育が本格的に行なわれ、特にフランス語の集中教育に力を入れ、フランスからマチュー=ジャック・ド・ヴェルモン神父がフランス語教授としてウィーンに向います。

ソルボンヌで博士号を取得し、マザラン図書館館長でもあった真面目一方の博学な彼は、落ち着きのないマリー・アントワネットに手を焼きながらも、時間をかけて丁寧な教育を行い、王女の信頼を受けるほどになります。

ヴェルモン神父によるとマリー・アントワネットは、「多少怠けるところがあり、軽率でもあり、そのために皇女の教育は困難であった」

そうしたマリー・アントワネットには、遊びを加えた教育方法がよろしいと判断し、それが成果をあげるようなったのでした。
彼女がヴェルサイユ宮殿に暮すようになってからも、彼は常に身近でにいて、相談役を勤めたほどマリー・アントワネットは信頼を寄せていました。

革命が起きた1789年にフランスを逃れ、ドイツのコブレンツ、更にウィーンに避難し、そこで71歳の生涯を閉じます。

2015年10月15日

アートに生きた二人のクチュリエ展


「アートに生きる展」の
ご案内状
20世紀初頭のデザイナー、ジャック・ドゥーセと、20世紀半ばから後半のデザイナー、イヴ・サンローランは、共にアートを愛し、アート作品をコレクションし、アートに包まれて暮していました。

破格の才能で一世を風靡したお二人が、長年かけてコレクションしたアート作品の一部を、「ピエール・ベルジェ=イヴ・サンローラン財団」で展示中。本物のアートのある暮らしが、いかなるものであるか、感嘆続きの充実した内容。何度も足を運んでじっくり観賞したい、素晴らしい作品と展示方法です。

日本の17,18世紀の漆加工の作品があるし、中国の仏像もある。そうした歴史的作品があるかと思うと、ピカソ、ブラック、ブルトン、ゴヤ、マチス、モジリアニ、モンドリアンなどの秀作、ラランヌの大きな鏡やグレイの家具もある。

長年の友人ドミニックは
財団に欠かせない貴重な女性

時代も国籍も異なるそうした美術品が相まって生む空間は、まるでプルーストの「失われた時を求めて」の上質な世界。このような美に囲まれた中で日々を送っていた人がいたとは、実感がわかないほど高尚。夢の中を彷徨っているような想いを何度も抱いた、格別で幸せなひととき。

この日のプレ・ヴェルニサージュには、ラランヌ夫人もおいでになったし、ラランヌ作の一点もののブローチをつけているご婦人もいらしゃいました。皆、品のあるお洒落がお上手。私も敬意を表するために、イヴ・サンローランの時代の懐かしいジャケットを着て行きました。ベルジェと一緒に展示してある日本の古美術を観賞でき、精神の豊かさを感じられた夜でした。

2016年2月14日まで開催

2015年10月14日

マリー・アントワネット 絵で辿る生涯 9

1770 年4月、ウィーンから届いた未来の王太子妃、
マリー・アントワネットの肖像画を親族に披露する、
フランス国王ルイ15世。

中央で椅子に腰掛けているのがルイ15世、その左で立っているのが王太子。
彼の弟のプロヴァンス伯、アルトワ伯、国王の3人の王女のアデライド、ヴィクトワール、ソフィの姿が見られます。

王太子とマリー・アントワネットの挙式を一ヶ月後に控えた、ある日のヴェルサイユ宮殿での出来事でした。

カルティエ・ウーマンズ・イニシアティブ・アワード

スター的シェフ、ヤニック・アレノ
経営のレストランSTAYで、
ランチとファイナリスト紹介。

カルティエが、国際規模のビジネスプランを持つ女性を対象とする賞を設けたのは
2006年のこと。

今年、そのアワード挑戦を試みたのは1700人。その中から審査を受けてファイナルに到達したのは、わずか18人。
彼女たちの紹介と懇談の会が、パリ市内のファッショナブルなレストランで、ランチをはさんで開催されました。

さすが、ファイナリストは活発で、自分のビジネスプランを上手にアピールする説得力を持っていて、未来を担う女性ならではの知性とチャームがある。

ひちきわ若くチャーミングな
台湾のファイナリスト
ハナ(左)とモモ(中央)
国籍豊かで、18ヵ国にも及ぶ女性が今年のファイナリスト。
地球のどの地域でも活躍していることを知って、とても心強く思えた日。それに比例してアラブ料理、中華、フレンチ、手巻きすしと、お料理も国際豊か。
活気にあふれたレストラン内は、椅子にじっとしていられない人ばかり。

この後ドーヴィルで女性のフォーラムに参加し、そこで詳しいプランをプレゼンテーションし、2015年のアワード受賞者が発表される。

賞金2万ドルと様々なアドヴァイスやコーチを一年間受けられる素晴らしい内容。
みなさん頑張ってくださいネ。