2016年4月28日

春を迎える準備

4月ももうじき終わりだというのに、ダウンコートが必要なほど寒いパリ。
でも、キレイなお花があちらこちらで咲き始め、
気持ちがいい季節が遠くないことを知らせています。
公園や街中の池も、それに合わせて大掃除。
春よ来い、早く来い・・・・♪ ♪  懐かしい童謡を歌いたくなります。



2016年4月25日

マリー・アントワネット 絵で辿る生涯 80 最終回

革命の嵐の中を彷徨ったルイ16世とマリー・アントワネットは、
今、サン・ドニ教会で静かな眠りについています。
彼らを妨げる人は、もう、誰もいません。
世界に先駆けて革命を起こしたフランス。
その犠牲になった国王ルイ16世と王妃マリー・アントワネットは、年月が経っても、多くの人々の心から消えることはありません。
特に マリー・アントワネットは、勇気と実行力を備えた現代的な女性のように思え、私にとってとても魅力的な女性です。

調べるに連れて彼女への関心は高まる一方で、そうしている間に、貴重な資料を目にする機会に恵まれ、ブログでマリー・アントワネットの生涯を辿ってみたいと思ったのです。


長い間ご愛読ありがとうございました。
たくさんの絵を皆様に紹介することが出来て、充実した気持ちです。このブログが王妃の生涯を知る上でお役に立てたら嬉しいです。
ヴェルサイユ宮殿で幸せな日々を送っていた国王と王妃。

2016年4月24日

マリー・アントワネット 絵で辿る生涯 79

サン・ドニ教会に向うルイ16世とマリー・アントワネット。
ルイ16世とマリー・アントワネットが処刑された22年後の1815年1月18日朝8時。王政復古で王座に就いたルイ18世が派遣した代表団が、以前、マドレーヌ墓地だったデクロゾーの庭に向います。代表団には、アンリ・ダンブレイ大法官、ブラカ国務大臣のほか、医者、司祭などがいました。

その日、まず、王妃の遺骨発掘を行ないました。
緊張した視線を走らせる代表団が見守る中で、発掘が始まり、30センチほどの厚い生石灰の床に、木の破片が散らかっているのが見つかりました。続いて女性の骨の断片が見えてきました。頭はほぼ完璧な状態で見つかり、首が切られた跡も確認できました。

服の断片と2つの靴下止めも見つかりました。その靴下止めは王妃が捕われの身だったときに自ら作ったものでした。そこで見つかったすべてを、用意しておいた仮の棺に丁寧に保管します。

壮麗な葬儀行進
翌日朝、国王の遺骨を発掘します。
根気よく深く土を 彫り続けていると、男性の遺骨が見えてきました。両脚の間に頭をはさんでいたことから、ルイ16世の遺骨だと直ちに確認されました。このように埋葬されたのは、国王だけだったのです。
遺骨はすぐに確認できましたが、服は一切見つかりませんでした。遺体に大量の生石灰をまいたために、溶けてしまったと解釈されています。

王妃と同じように国王も仮の棺に保管され、お二人の棺はデクロゾーの館のサロンに安置されます。その後、複数の神父による長い祈りが始まりました。

1月20日、ルイ16世とマリー・アントワネットは、ルイ18世の依頼で運ばれてきた鉛の棺に移されます。棺はそれぞれ黒一色の布で包まれました。
フランス王家の墓、サン・ドニ教会。


1月21日、くしくも22年前の国王処刑の日、ルイ16世とマリー・アントワネットがサン・ドニ教会に向う葬儀行進が行なわれました。朝、デクロゾー家を離れたおふたりの棺は葬儀馬車に乗せられ、近衛兵、衛兵、憲兵、騎兵隊などに見守られながらサン・ドニ教会へと向かいました。その沿道には、おびただしい数の群集が詰め掛けていました。娘のアングレーム公爵夫人は姿を見せませんでしたが、オルレアン公爵夫妻、ベリー公、コンデ公、ブルボン公爵など、高位の貴族が多数参列しました。

 黒い布で包まれ、無数の蝋燭が灯されたサン・ドニ教会に到着すると、近衛兵がふたつの棺をおろし、内陣に用意された台の上に置き、ミサが始まりました。それは偉大なブルボン王朝の人にふさわしい、厳粛で格式高い立派なミサでした。

2016年4月21日

マリー・アントワネット 絵で辿る生涯 78

マドレーヌ墓地の国王、王妃が葬られていた地を、
王党派のデクロゾーが見守り続けていました。
気高さを保ったまま処刑された王妃は、近くにあったマドレーヌ墓地に葬られました。そこでは、同じ年の1月21日に処刑されたルイ16世が待っていました。

このマドレーヌ共同墓地には、処刑された貴族や国王の元愛妾、さらに、多数の王侯貴族を処刑に追いやった革命家さえも葬られていました。当時は身分の差などなかったのです。

デクロゾーによって
2本の柳と、そのほかの木々が植えられました。
1796年、パリ市内の全ての墓地を閉鎖することになります。それに伴いマドレーヌ墓地は売りに出され、それを知り買い手としていち早く名乗り出たのは、元大法官デクロゾーでした。

彼は熱烈な王党派で、国王、王妃が葬られた墓地の世話を自らしたかったのです。
その近くの屋敷に暮していたデクロゾーは、二人の埋葬を秘かに見ていて、どこに葬られたか知っていました。

旧マドレーヌ墓地を買い取った彼は、自分の庭になるとすぐに、国王と王妃が葬られていた場所に2本の柳と数本の木を植え、懇切丁寧に手入れをしていました。

そこに葬られていた他の人々の遺骨の多くは、後年にカタコンブへと移されました。

革命の混乱の中からナポレオンが日の出の勢いで昇進し、皇帝になりますが、1814年、失脚しエルバ島に流刑されます。

その間にルイ16世の弟プロヴァンス伯が、王政復古で王座に就きルイ18世を名乗ります。彼は亡き兄とその妃マリー・アントワネットが葬られていた地に、ふたりに捧げる贖罪礼拝堂の建築を命じます。礼拝堂の祭壇は、ルイ16世の遺体が発見された場所に設けられ、現在もそのまま残っています。
左右対称のクラシックな贖罪礼拝堂

2016年4月20日

芝生は友達

今日は快晴。
青い空の下、芝生に入ってサッカーを楽しんだり、
お昼寝をしたり、自転車と一緒にひっくり返ったり・・・
パリでは、芝生と人が仲良しなのです。
自由を満喫するパリっ子たち。幸せそう!!


マリー・アントワネット 絵で辿る生涯 77

ルイ・シャルル王子の愛犬、ココ。
マリー・テレーズ王女と共に
タンプル塔から自由の世界へと向います。
ココをかわいがっていた王子。
マリー・テレーズがタンプル塔を去った日、
人懐っこそうな犬も自由の身になったのでした。
ココと呼ばれるそのエスパニエル犬は、
ルイ・シャルル王子が特別にかわいがっていた犬でした。

白と褐色に黒い点が所々についているココは、格別にかわいらしい顔ではなかったけれど、温厚で、純情で、ルイ・シャルルはまるで弟のように大切にしていたのです。

マリー・テレーズが釈放されるときに、ぜひココを連れて行きたいと彼女は頼みます。
「弟がとてもかわいがっていましたから」

その弟も、母も、叔母も、皆、世を去ってしまったことを王女が知ったのは、タンプル塔から出て行けることが分かったときでした。
父とフランスのために
祈りを捧げる王子。
それまで彼女は、皆、バラバラになったとはいえ、生きていると信じていたのでした。

マリー・テレーズが家族のように思っていたココは、彼女の行く先々に同行します。
ナポレオンが戦いに敗れ、皇帝の座を失い流刑された1814年、ルイ16世の弟プロヴァンス伯が、フランスに戻り王政復古が行なわれ、ルイ18世を名乗ります。マリー・テレーズも夫とココと共に戻ります。けれども、すでに老犬になっていたココは、その年に世を去ります。22歳でした。

革命を生きたココの生涯もまた、波乱に富んだものだったのです。
そのココは今、パリのセーヌ川近くに建築された、由緒ある貴族の邸宅の庭園で永遠の眠りについています。そこには、ココのための立派な記念碑もあります。

2016年4月19日

パリの犬たち 76

がっかり・・・
パパとお散歩していたら、カフェにいたお友だちが
「まあ、カワイイ」って呼び止めたの。
大好きなシュガーをくれるのかと思ったら、なでなでだけ。
すご~くがっかりしたボク。分かってくれる?









春の気配、カモさんたちがお昼寝。

春の花が咲き始めた広々した公園で、
仲良しのカモが3羽集まって、そろって顔を隠しながらお昼寝。
心休まる光景です。



2016年4月17日

マリー・アントワネット 絵で辿る生涯 76

オーストリア風の装いの17歳の王女。
国王夫妻の愛を
独占していた王女。




1795年12月19日、マリー・テレーズ王女が釈放されました。
その日は彼女の17歳のお誕生日でした。

王女は母の死も叔母の死も知らされていなかったために、どこか別の監獄に移され、そこに暮らしていると思っていたようです。

タンプル塔の階下に弟が暮らしていたことは知っていて、幼いルイ・シャルルの健康を気にかけていました。 けれども、その悲惨な死を知らずに、話し相手もいないまま、たったひとりで約2年間、タンプル塔の厚い壁の中で日々を送っていたのです。

タンプル塔から出る王女。
 王女の釈放は、従兄フランツ2世とフランス共和国の間でなされた交渉の結果決まったのです。 フランス側の条件は、オーストリアの捕虜になっていた 共和党員4人の釈放でした。その中に、何と、あのドルーエがいたのです。

マリー・テレーズが結婚した
アングレーム公。
 
チュイルリー宮殿から無事に抜け出て、国外脱出が後一歩で成功すると思われた、そのちょっと手前のヴァレンヌで捕まった国王一家。そのきっかけを作った熱烈な共和派のドルーエ。恨みが深いそのドルーエが、自分の釈放と引き換えに自由になったのを知ったのは、後のことでした。

約3年半捕われていた タンプル塔を離れる際、王女はわずかな持ち物を鞄につめました。その中には、母マリー・アントワネットが彼女と一緒に暮らしていたときに、壁布からた糸を紡いで作った靴下止めもありました。それは王女にとって、掛け替えのない遺品でした。

当初はウィーンの 宮殿に住んでいましたが、ナポレオンが攻め入ったためにそれ以降亡命の旅を続けます。ロシア、ハンガリー、ポーランド、イギリスと。

 
アングレーム公爵夫人になった
マリー・テレーズ。
亡き父の末弟アルトワ伯の息子アングレーム公と結婚しますが、子供には恵まれませんでした。
 アルトワ伯が後にシャルル10世としてフランス国王の座につき、再び宮廷生活を味わいます。

いまわしい思い出が詰まった陰惨な タンプル塔は、1808年、ナポレオン皇帝の命令で取り壊されました。その際、マリー・テレーズが壁に書いた文字が見つかり、多くの人の涙を誘いました。

  マリー・テレーズは世界で一番不幸な人。    
 母の様子をしることができないし
 近くにいくこともできない。
 それを何度もお願いしたというのに。
  大好きな善良な母、 バンザイ!        

そのほか、彼女のベッドが置かれていた近くには次の文字がありました。

         おお神よ、処刑に追いやった彼らを許し給え。

義父にも夫にも先立たれたマリー・テレーズは、慈善事業に携わり、晩年を過ごしていたウィーン郊外のフロースドルフ城で、波乱に富んだ72歳の生涯を静かに閉じました。

2016年4月16日

熊本県の地震、フランスでも大きく報道


4月14日から続いている熊本県の大地震は、フランステレビ局も大きく取り上げ、映像で被害がいかに大きいか伝えています。

昨夜放映された映像は、それを撮影した人がきちんと立っていられなかったようで、激しく動く場面が多く、そのために地震の怖さが身近に感じられたほどです。

商店の棚からたくさんの品が落ちたり、事務所の書類棚が崩れたり、崩れた家、大きな亀裂が入った道路、あちらこちらから上がる悲鳴など、画面で見ているだけで恐怖にかられました。

今後も大きな地震が起きる可能性があるとの報道に、心が乱れます。
熊本県の皆様、ご無事をお祈りしています。

パリの犬たち 75

春らしいお天気、だからワタシもピンクでお洒落。
やっとお天気になってきたパリ。
お花が咲いてピンクが似合う季節。
さっきからワタシを追っている人がいる。
ピンクが似合うワタシが、きっと魅惑的なんだわ。
無理ないワン。

2016年4月15日

お見舞い申し上げます。

4月14日、熊本県で起きた地震の被災者の皆さまに、心からお見舞い申し上げます。

ナポレオン セントヘレナ島遺品展

ヨーロッパにフランスを中心とした大帝国を築く夢を描いていたナポレオンが、連合軍との戦いで大敗し、大西洋の孤島セントヘレナに流刑されたのは1815年。

当初はそこから脱出し、アメリカに亡命する意志もあったようですが、それも実現することなく、セントヘレナ島で病で51歳の波乱に富んだ生涯を終えたナポレオン。自分の力で最高峰の地位を獲得したナポレオンは、数々の偉業をなし、崇拝者は今でも世界中にいて、ナポレオンに関する展覧会があるたびに多くの人が足を運びます。

ナポレオンが眠るアンヴァリッドに隣接する軍事博物館で、今、重要な展覧会を開催しています。彼が生涯を閉じたセントヘレナ島で使用していた遺品が、パリに運ばれたのです。

ナポレオンがセントヘレナ島で
愛用していたベッドと家具。

母の肖像画つきネックレス、
息子の肖像画と
ジョゼフィーヌの肖像画。
シンプルな部屋着と
室内履き。
何しろセントヘレナ島から、2世紀もの間離れることがなかった品々。それらを目の前にすると、まるで、その島の空気まで身近に感じられるような錯覚に陥ります。ナポレオンの最期まで共にいたひとつひとつの遺品が、無言で、でも、貴重な事柄を語りかけているのかもしれません。

特に、彼の日常生活で使用されていた品々が私には興味深かった。シンプルなベッド、シンプルな部屋着、室内履き、退屈な島での数少ない娯楽のビリヤード台。大きな地球儀もふたつあり、それをぐるぐる回しながら、実際には行くことが出来ない国々に想いを馳せていたのかもしれない。

セーヴル焼きの豪華なお皿。
ビリヤード台と地球儀。
あれほどの人物は、人類の歴史上それほど多くいない。確かに彼はヨーロッパを戦場にしたけれど、後世に残したものも多い。ナポレオンが触れたという地球儀を見ながら、もっと長生きしたら世界地図が変わっていたかもしれない、とふと思ったりしました。

立派な家具の上にはひとり息子、ローマ王の彫刻が置いてあり、きっとナポレオンはその彫刻に向って話しかけていたに違いない、などど思うと胸が締め付けられます。

食器は豪華でセーヴル焼き。
戦地やパリのモニュメントが描かれているのが、ナポレオンにふさわしい。皇帝時代の華やぎがその一枚一枚からほとばしっています。実際にはナポレオンは食事は短時間ですまし、時には食事したことさえ忘れたほどだったという。

家族を大切にしていたナポレオンの心が伝わってくるのは、母の肖像画飾りがあるジュエリーや、最初の妃ジョゼフィーヌと息子のポートレート。彼はそれを常に身近に置き、毎日見ていたという。
でも、2番目に迎えた妃マリー・ルイーズの記念品は何もなかった。戦いも地位も失った自分を見捨てたマリー・ルイーズに、ナポレオンは未練がなかったのでしょう。
愛用していた麦わら帽子と杖にも、心打たれるものがありました。
かつて無敵だった皇帝の、年老いた姿が目に浮かぶようだったからです。

久しぶりの軍事博物館。
現在は船でしか行かれないセントヘレナ島。でも、2017年には飛行場が完成するそう。それに合わせて、ナポレオンが暮していたロングウッドの館の修復も進んでいます。いつかぜひ訪問したい島です。

ナポレオン展 軍事博物館
7月24日まで

2016年4月13日

パリの犬たち 74

見られてばかりで、はずかしい。
みんな、ボクのこと小さい小さいって言いながら、
ジロジロ見てばかり。
パパの靴と同じ位の大きさだから、
たしかに小さいけれど、見られるのはずかしい。
でも、顔を隠せばいいんだね。
これで安心。小さいと便利なこともあるんだワン。

マリー・アントワネット 絵で辿る生涯 75

早熟でおしゃべりが好きな王子ルイ・シャルル。
タンプル塔では王女と王子が、母の死をしることもなく暮していました。
1785年3月27日、
王子は生まれたその日に
ヴェルサイユ宮殿の礼拝堂で
洗礼を受けました。
時が流れ、王子の面倒をみていたシモン夫婦が1794年1月5日に去ります。
それ以降、王子は散歩に出ることがなくなったばかりでなく、王子の部屋に入る人さえいなくなりました。つまり、彼はたったひとりで、太陽も入らない陰惨な部屋に閉じ込められていたのでした。

王子の部屋と、その隣りの監視員の部屋の間には暖炉があり、その上に細長い隙間を開け、そこから食べ物を入れていました。
まるで、檻の中の凶暴な動物のような扱いだったのです。
王子を診察した医師ペルタン。

窓が開けられることもなく、彼に言葉をかける人も、姿を見せる人もいないまま、時は更に経っていきました。

約半年後の7月28日、国内軍最高司令官バラスが、
突然、タンプル塔の王子を訪ねます。
バラスは血で血を洗う恐怖政治に終止部を打とうと、同士たちと立ち上がり、過激派を捕らえコンシエルジュリーに送った人物です。
1794年7月28日、もっとも冷酷でもっとも過激な革命家ロベスピエールと彼の仲間が処刑され、長年続いた恐怖時代が一段落します。

貴族出身のバラスは、真っ先に、捕われていたルイ・シャルルの身を案じます。カビの匂いがはびこる部屋で、生気のかけらもない王子を見たバラスは、
ルイ・シャルル・カペーの
死亡証明書。
部屋の改善を早急にし、王子の健康状態が悪いようなので、医者の手配もし、去っていきます。

ルイ・シャルルを診察した医師ペルタンは、王子が悪性の結核にかかっていると判断。薬を用意し、窓を開け新鮮な空気を入れるようにと指示も出します。

けれども衰弱しきっていたルイ・シャルルの命を救うことは出来ませんでした。1795年6月8日午後3時。彼は10歳の短い生涯を閉じます。

10歳の生涯をタンプル塔で閉じた
ルイ・シャルル。
ペルタンにより直ちに解剖がなされ、その際、彼はこっそりと王子の心臓を取り出し、ポケットに秘かにしまいます。それが、後年、タンプル塔で死亡した少年が、確かに王子だったとの証拠になるのです。(マリー・アントワネット 絵で辿る生涯 33章を参考にしてください)

王子は救出されたとか、自分こそ、その王子であるとか、その子孫は今でも健在であるとか、2世紀もの間様々な説が飛び交っていましたが、2004年のDNA鑑定で、王子は確かにタンプルで死亡したことが判明したのです。

国王になることもなく、たったひとりで世を去って行ったルイ・シャルルでした。

2016年4月12日

リニューアルしたレ・アール

新しいレ・アールはガラス張りで
ラ・カノペと呼ばれています。
6年に及ぶ長い大工事の末、
レ・アールがほぼ完成し再オープンしました。
森の木々の梢という意味の「ラ・カノペ」と呼ばれるこの巨大な文化・商業施設は総ガラスで、波のような動きがあるのが大きな特徴です。コンテンポラリーで、清々しく、躍動感もあります。

店舗はまだ全部揃っていませんが、
総数150店というのは半端な数字ではない。ここには何でもあるといった感じ。シアター、スーパーマーケット、様々な専門店の他、子供のアトリエ、ヒップホップのスペースもある。カフェやレストランもたくさん。特に、アラン・デュカスのカジュアルなレストランもあるのが、大きな話題。
空が見えてとても爽やか。

オープンして間もない日に行ったところ、やはり斬新な建築様式に圧倒され、見とれている人があちらこちらに。
携帯で写真を撮っている人も多いけれど、プロのカメラマンが望遠レンズで撮っている姿もたくさん見かけました。

気になっていたセキュリティも完備していて、ひとりひとり厳重な荷物検査を受けないと、「ラ・カノペ」の中に入れない。警備の人も多く安心です。この点はしっかりチェック。

隣接する公園はまだ完成していないし、お店も揃っていないけれど、新しいパリを体感出来る魅力あふれる空間です。

2016年4月9日

マリー・アントワネット 絵で辿る生涯 74

マリー・アントワネットが
処刑場で落としたとされている靴。
革命広場に設置された処刑台にのぼる王妃は、粗末な牢屋に閉じ込められていたときと同じように、品格を失っていませんでした。
背をのばし、正面を見つめる引き締まった顔には、王族として生まれた人が持つ輝きさえありました。

階段を一歩一歩ひとりでのぼっていた王妃は、つまづいて片方の靴を落とし、ある人物が秘かに拾い、隠し持っていました。
それをロジェ・フランソワ・バルナベ・ド・ゲルノン=ランヴィル伯爵が買い取り、彼の子孫が代々保管していました。ゲルノン=ランヴィル家はノルマンディー地方の有力な貴族で、シャトーをいくつも持つ大富豪で、王党派でした。彼の子孫が1946年に王妃の靴をカン市のミュージアムに寄贈し、現在、そこに保管されています。

1989年に展示されたときの映像によると、低いヒールのその靴は、ボルドー色の革靴で靴の先にはベージュの布のプリーツ飾りがあります。マリー・アントワネットはリボンやプリーツ飾りのあるフェミニンな靴を好んでいました。
サイズは王妃の他の靴と同じ36.5のようです。
この靴こそ、マリー・アントワネットに最期まで伴っていた貴重な形見。

靴を残したまま運ばれた王妃の遺体は、革命広場にもっとも近くにあったマドレーヌ墓地に埋葬されました。そこでは1月21日に処刑されたルイ16世が永遠の眠りについていました。

2016年4月8日

マリー・アントワネット 絵で辿る生涯 73

コンシエルジュリーを出る王妃が乗る荷車。

王妃がのった荷車の隣りに座ったジラール神父は、国民公会から送られてきた神父だったので、告解さえ拒否したマリー・アントワネットでした。彼女は義理の妹にあてた遺書の中でも、神父を無視する積りだと綴っています。

その言葉通りに、まるで神父が隣りにいないかのように、無言のまま凍ったような表情を崩すことなく、荷車の揺れに身をゆだねていました。

左岸にあるコンシエルジュリーを後にし、セーヌ川を横切り、右岸のサノトノレ通りへと荷車は向かいます。
その通りに差し掛かかったとき、そこに押しかけていた群集は、王妃の姿が見えると一斉に叫び声をあげました。
「オーストリア女!」
「革命バンザイ!」
「裏切り者に死を!」

そうした群集の中に画家ダヴィッドがいました。彼がそのとき素早く描いたデッサンは、歴史の貴重な証人となります。

3万人の兵が沿道に立つ長い行程をじっと耐えながら、王妃が処刑場の革命広場に着いたのは12時を数分過ぎたころでした。

沿道を埋める群集の姿も
罵倒の声も聞こえないかのように、
凜とした態度を保っていました。
手を背中で縛られていたにもかかわらず、広場に設置された処刑台の手前で、王妃は誰の手助けも受けずにひとりで荷車をおります。
目の前に設置された処刑台を目にすると、再びマリー・アントワネットは、しっかりした足取りでひとりで木の階段をのぼります。

階段をのぼりながら、ひとりの役人の足を踏んだマリー・アントワネットは、「ごめんあそばせ。わざとしたのではないのです」と、丁寧にあやまる余裕さえ持っていた王妃でした。
これが、彼女の最後の言葉だったのです。

12時15分、重いギロチンの刃が王妃の白い首に落ちます。
それと同時に共和国バンザイの声が四方から舞い上がり、秋の空高くのぼっていきました。
ダヴィッドのデッサン。

2016年4月7日

マリー・アントワネット 絵で辿る生涯 72

牢屋から中庭に出た王妃。
王妃の処刑が決まったことを知った民衆は、朝早くから革命広場(現在のコンコルド広場)に集まります。コンシエルジュリーからその広場までの行程のひとつサントノレ通りも、群集が幾重にもなって待ち構えていました。

11時。狭い牢屋を出た王妃はコンシエルジュリーの中庭に出ます。そこには荷車が待っていました。それを目にしたマリー・アントワネットは、一瞬、驚いた様子を見せます。国王が革命広場に向うときには馬車だった、それなのに荷車とは。あまりの扱いに怒りをを感じたからかもしれません。

その表情も一瞬の内に消え、口を引き閉めた彼女は無言のまま粗末な荷車に乗ります。その隣りにジラール神父が座ります。ふたりの後には死刑執行人のサンソンと助手が立ちました。

11時15分。コンシエルジュリーの鉄門が開かれ、多数の兵に取り囲まれた王妃の荷車が外に出ます。そこには多くの人々がつめかけていましたが、誰も声を発することもなく、死に向うかつてのフランス王妃、マリー・アントワネットに見入ります。
じっと正面を向き、王妃ならではの態度を保っていたマリー・アントワネットは、驚くほど立派だった。群集はその姿に心を打たれ、言葉を失ったのでしょう。
処刑場へ向うマリー・アントワネットは、かつてのフランス王妃の威厳を
最後まで保っていました。

2016年4月6日

マリー・アントワネット 絵で辿る生涯 71


王妃は一日として祈りを欠かしたことはありませんでした。
マリー・アントワネットが遺書を書き終えたのは、10月16日朝4時をすこしまわった頃でした。
判決文

その後しばらくして、ロザリーが牢屋に入ってきます。この日で最後かと思うと彼女は心が痛むばかり。声を発することすらできませんでした。
やっとの思いで口を開き、王妃にブイヨンを勧めます。当初は断っていたマリー・アントワネットでしたが、ロザリーの優しさに打たれたのか、それでは少しだけと、スプーンを手にします。

血の気のない青白い顔の王妃は、ロザリーの手を借りながら、それまで着ていた黒い服を脱ぎ、白い服に着替え、その中に黒いスカートをはき、白いボンネットを被ります。それが彼女のこの地上での最後の装いでした。
支度が整ったその時、牢屋のドアが開き、革命裁判長エルマンを先頭に、数人が入ってきました。
エルマンが手にしていた判決書を読み上げようとすると、王妃はその内容をすでに知っているから、読む必要はないときっぱりと言います。

国王死刑執行人
シャルル・アンリ・サンソン。
王妃の死刑執行人は
その息子のアンリ・サンソン。

後は革命広場に向う支度ををするのみとなりました。
死刑執行人アンリ・サンソンが、大きなはさみを手に王妃に近寄り、荒々しくボンネットを取ります。王妃の髪の毛を無造作に切り、先ほどと同じように無造作にボンネットを頭に戻します。

その後、手を縄で縛られたマリー・アントワネットは、極悪犯罪人のような屈辱的な姿でした。それにもかかわらず、姿勢を正し、威厳を保ったまま監獄の外へと連行されていきました。

あれほど憧れていたコンシエルジュリーの外の光景。それを再び目にしたのが、この世とのお別れの直前だった王妃。
37歳の美しい盛りの高貴な人生が、快晴の空の下で終わろうとしていました。