2017年3月29日

オリエント急行とヴェルサイユ宮殿の関係

「オリエント急行にご招待。3月28日18時30分、北駅15番ホーム集合。2017年の企画発表」

オリエント急行のエンブレム。
という招待状がヴェルサイユ宮殿のプレスから届いて、一体、何事?と気になるので早めに駅に到着。ヴェルサイユ宮殿の企画発表は分かるけれど、それとオリエント急行がどうしても結びつかない。

憧れのオリエント急行。
ピカピカに磨き上げてあり、外観にさえも高級感があふれています。
もやもやした気分でホームに向かう。入り口で名簿を手にした係員から名前を聞かれる。それに合格して中ほどに進んで行くと、ナンとテーブルがいくつも並んでいる。白服のサヴィース係りも何人もいる。ますますわけが分からない。
「お飲み物は」
などとにこやかに話しかけられ、フルーツジュースを飲む。

ドリンクを手に目の前のオリエント急行の外観にうっとりしていると、銃を手にしたポリスがホームを行き来しているので緊張。そればかりではなく、列車の中に入って椅子の下まで丁寧に調べている。

オリエント急行の前で、
3人のプレジデントのご挨拶。右が国鉄総裁。
セキュリティーが気をつかうわけです。
数分するとヴェルサイユ宮殿総監の姿が見えてきた。
彼女がいらしたということは、重要なことに違いないと、一瞬、ドキッとして我が服装を見る。
ジーンズ、セーター、コート、マフラー・・・・とってもカジュアル。
続いて国鉄総裁の姿も見えた。服装がますます気になる。

そうしている間にマイクを手に国鉄総裁、ヴェルサイユ宮殿総監、オリエント急行社長が次々に挨拶し、やっと謎が解けました。

ラリック作のガラス・パネル。
優美で幻想的な裸婦が壁に趣をかもし出しています。
ロシアのピョートル1世大帝がヴェルサイユ宮殿に滞在して、今年は300年記念の年。
多くを学び、サンクトペテルブルクの近代化につとめ、ヴェルサイユを模倣した宮殿まで建築させたロシア皇帝が、遠方から長旅をしてヴェルサイユ宮殿においでになった。それで宮殿と豪勢な旅で名を成したオリエント急行が結ばれたのです。そのほかにも宮殿で旅をテーマとした企画があるそう。

ラリックの花束も壁を美しく飾っています。
もちろん当時は列車はなく、ヨーロッパとオリエントを結ぶ国際寝台列車「オリエント急行」が誕生したのは1883年。

重厚な椅子とカーテン、金箔をのせたグラス、
銀のカトラリー、鮮やかなブーケ。
食文化を尊ぶフランスならではのおもてなしの食堂車。
この日のために北駅に登場したオリエント急行は1920年のもので、装飾はアールデコ。
お好きなように自由にご覧くださいと言われ、角度が結構きつい列車の階段をのぼり中に入ると、ラリック作のガラス・パネルが視線を捕らえます。柔らかな光を放つパネルが驚くほど豊富。裸婦を描いたのもあるし花束のもある。

品格ある個室。
高尚な光沢を放つマホガニーのドアや壁、レザーや布張りの椅子、ソファ。個室、サロン、食堂車などため息をつきながら訪問している間にも、シャンパーニュやおつまみのサーヴィスが続く。
ブーケもいたるところに飾られていて、このままイスタンブールまで行きたい気分。

「座り心地を試してみて」と言われ、ついその気になって。
素晴らしいオーガナイズに大感謝。
今年5月からグラン・トリアノンで、ピョートル1世大帝展が開催されるとのこと。
100を超える貴重な品がロシアから運ばれ展示されるそうで、今からとても楽しみ。
これに関しては、またの機会にと思っています。

2017年3月28日

メトロの駅名は語る 33

Château d'Eau
シャトー・ド(4号線)

この駅の近くにある道路名シャトー・ド通りが、そのまま1908年に開通したメトロの駅名になりました。

1864年のシャトー・ド通り。
以前は同じ名前の広場もあり、 中央にはナポレオン3世の時代の1867年に、ガブリエル・ダヴィウ創作のブロンズの力強いライオン像の噴水がありました。

ガブリエル・ダヴィウ。
ところがそのシャトー・ド広場に、現在見られる共和国を象徴する記念碑が建てられ、広場の名もレピュブリック広場に変更されることになり、1880年に噴水はフェリックス・エブエ広場に移されました。

フェリックス・エブエ広場に移動した噴水。
シャトー・ド駅の入り口は、アール・ヌヴォーを代表する建築家エクトール・ギマール作。他のに比べるとほっそりしていますが、1978年に歴史的記念物とされた重要なものです。

19世紀末に建築されたパリ労働取引所。
 シャトー・ド通りには19世紀に建築された、労働組合の拠点になっているパリ労働取引場があり、コリント様式の美しい柱とルネッサンス様式の時計は一見の価値があります。

2017年3月27日

パリの犬たち 121

ワン友がほしい。
ホ~ラ、思ったとおり立ち話。

キャーッ、パパ友が増えた!!!
これでは長話になる、シクシク。
      
ボクのワン友はいずこ?



2017年3月26日

今日から夏時間 ミモザがきれい

夏時間です。
朝、目を開けるとすでに明るい。
それだけで心が躍ります。

パリのレストランの入り口に飾ってあるミモザ。
春到来を愛らしく告げます。
この時期になると南仏の太陽のような花ミモザを、パリのレストランの入り口に飾ってあるのを見かけることもあり、春が来た実感がわきます。

南仏ではミモザが2月にあたり一面に咲き、ミモザ祭りで賑わいます。特にボルム・デ・ミモザで行われるお祭りが格別だというので、その時期に泊りがけで行ったことがありますが、町をあげての大イヴェントでびっくり。

体の奥深くまで、あたたかい太陽光線が届きそう。
ミモザで作った花馬車やオブジェが行進をしたり、花合戦もあり、鮮やかな黄色い花と紺碧の地中海がメルヘンのような世界を生み出していて、今でもいい思い出として残っています。

フランスではミモザは春を告げる花なのです。

2017年3月25日

パリの駅名は語る 32

Gare de l'Est
ガール・ドゥ・レスト(4、57号線)

1849年にパリとストラスブルクを結ぶ鉄道の駅として誕生したガール・ドゥ・レスト(東駅)は、フランス東部、ドイツ、ルクセンブルクに行く際に欠かせません。
そのためにメトロも3路線あります。
1860年、ストラスブルク駅と呼ばれてい時代の光景。
当初、ストラスブルク行きの列車の発着場だったので、ストラスブルク駅と呼ばれていました。

1883年10月4日、最初のオリエント急行が
パリからトルコのコンスタンチノープルに向かいました。
この駅が脚光を浴びるようになったのは1883年。
コンタンチノープル(現在のイスタンブール)行きの初めてのオリエント急行が出発したのです。

その後、第二次世界大戦初期に、感動的な出来事がありました。
1940年12月15日、真冬の寒さが厳しい雪が降る真夜中のこと。
ウィーンで21歳の若さで亡くなり、ハプスブルク家のカプチーナ納骨堂に眠っていたナポレオンの息子ローマ王が、オーストリアから列車で故郷パリに帰還し、この東駅に到着したのです。
 
死の床のローマ王。
ランス皇帝ナポレオンとオーストリア大皇女マリー・ルイーズの間に生まれた
唯一の子供。本来ならば幸せな人生を送るはずでしたが、
彼が3歳のときに父ナポレオンは戦いに敗れ流刑され、
ローマ王は母に連れられてオーストリアに行き、
そのまま半ば監禁状態で成長し、21歳の若さで肺結核で世を去り、
オーストリア王子としてウィーンに葬られたのでした

その後、無言のロ-マ王は東駅から、彼の父ナポレオンが眠るアンヴァリッドに向かい、無数の松明の炎を手にするフランス共和国衛兵に守られながら、敬愛していた父が待つアンヴァリッドのドームの下に安置されました。

このような歴史を刻んでいるのかと思うと、実用的な駅とはいえ、何となく貴重に思えてきます。

2017年3月21日

メトロの駅名は語る 31

Gare du Nord
ガール・デュ・ノール (4,5号線)

パリの北にあるから「北駅」と名づけられたこの駅は、今は国際線ユーロスターとタリスそしてTGVの発着で大賑わい。そのために、メトロの利用者も多い駅です。。

ご高齢にもかかわらず、
年間300以上の公務をこなされるエリザベス2世。
エリザベス女王がパリにおいでになられたときにも、ユーロスターをご利用なさったので、この北駅にご到着。気さくに駅の構内を歩かれている姿をテレビで拝見して、びっくりしたものです。

フランス・オペラ発展に貢献し、
パリで没したドイツの著名なオペラ作曲家、ジャコモ・マイアベーア。
没4年後の1868年5月20日、オーマジュの儀式が北駅で行われました。

北駅の歴史も古く、1846年、パリとリールをつなぐ鉄道の駅としてオープン。
1900年のパリ万博で大規模に拡大されます。

1900年の北駅。
その後、第二次世界大戦初期にフランスはドイツに占領され、1940から1944年までの間、ドイツとフランスの間をつなぐ列車の発着所となっていました。
1944年4月21日、連合軍とドイツ軍の激戦が繰り広げられ、北駅が大きな破損を受けます。
 
戦後の目覚しい復興に伴い北駅も再建され、現在見られるような立派な建造物になったのです。

2017年3月20日

パリの犬たち 120

ピンクのバギーでご機嫌。
お気に入りのピンクのバギーでお散歩。
たのしいな~、たのしいな~♪♪♪
 
ねぇ、後ろにいる人たちも、前にきてしっかり見て。

ボク、ご覧のとおり、大大大ご機嫌だワン。
そう、ピンクのバギーだけれど、男の子なんだよ。

2017年3月18日

ウィリアム王子とケイトのパリ訪問

ダイアナ元皇太子妃がパリで亡くなって、今年で早くも20年。
この記念すべき年に、イギリスのウィリアム王子とキャサリン妃がパリを初めて公式訪問。3月17日、18日の二日間の予定だそうですが、王家になみなみならない興味を抱いているフランスでは大騒ぎ。

一番の関心はケイト。若く チャーミングで、気品があり、服装センスも抜群。
ケイトが着用する服はくまなく報道し、プレタ・ポルテの場合にはどこのメゾンだとか、ご丁寧に値段まで書くこともある。

今回は、両国の友好を深めるのが目的だそう。
何しろイギリスはEUから抜け出るので、それ以降も良好な関係を保つために、絶対的人気のお二人がその任務を果たすことになったようです。


パリに到着して直ちにフランス大統領官邸のエリゼ宮で、オランド大統領と約1時間会談。大変なお役目です。
そして夜はイギリス大使公邸で、ブラックドレスでレセプション、全身にスパンコールを散りばめたパステルブルーのロングドレスで晩餐会に出席。この日だけでも3回も装いを変えたケイト。

二日目はアンヴァリッドに行き、その後オルセイ美術館、トロカデロを訪問し最後はウェールズとフランスのラグビー試合観戦。 ウィリアムもいずれは父チャールズ皇太子を継いでプリンス・オブ・ ウェールズになるのですから、試合観戦は大切。

タイトなスケジュールにもかかわらず、温かみある笑顔とハツラツした若さを保つウィリアム王子とケイト。世界中にファンが多いわけです。

おふたりは今後も他の国にも友好を深めるために行かれるそうです。
今回の訪問をフランスでは「チャーム作戦」などと表現しています。
チャールズ皇太子ご夫妻も同じ目的でEUの主要国を訪問するとのこと。

王家の人々の威力は、何世紀も前からかわらず健在のようです。
来週の週刊誌はこの話題でにぎわうことでしょう。
私ももちろん買います。

孔雀のモチーフのジュエリー

孔雀をテーマにしたジュエリーを展示するサロンで、
優美な孔雀がお出迎え。
ゴージャスで気品ある姿が美しい孔雀は、古い時代からジュエリーのモチーフになっていました。
1610年創立の最古の歴史を誇るジュエラー、メレリオ・ディ・メレーは、以前から数多くの孔雀のジュエリーを創作していました。

ウジェニー皇后がオーダーしたブローチ。
何度か見せていただきましたが、そのたびに感激。
メゾンの重要な顧客だったナポレオン三世のお妃ウジェニーも、
目も覚めるばかりの鮮やかな孔雀のブローチをオーダーしました。

1900年代初期のネックレス。
今回、新たにそれをテーマとした作品を発表。リング、イヤリング、ペンダントなどフェミニンで存在感あるジュエリーが多く、見ているだけでセロトニンが増えます。

ニュー・コレクションの中で一番気に入ったリングを
付けさせていただき、夢のよう。
「ぜひ、手にとって感触をじっくり味わって」
と言われて、一番気に入ったリングをつけると、ナンだか自分が高尚な人になったような錯覚を起こし、とてもいい気分。

ロシアやオランダ、スペインの王家を顧客としていたこのメゾンは、今でもヨーロッパの爵位を持つ人々に愛用されています。

2017年3月17日

メトロの駅名は語る 30

Château rouge
シャトー・ルージュ (4号線)

モンマルトルの丘に行く人がよく利用するこの駅の界隈はとても庶民的で、それが魅力だと好んで住んでいる人も多いようです。
フラン人よりアフリカの住民が多く、まるでパリにいながら異国にいる感じ。 

19世紀に建築された石灰石とレンガの瀟洒な館。
この地に「シャトー・ルージュ」と呼ばれる館があり、そこからこの駅名が生まれました。19世紀に建築された石灰石とレンガのその館は、ルイ16世様式のネオ・クラシックの優雅な建造物で、広い庭園もありました。 

1814年、イギリス、ロシア、プロセイン、オーストリア、スウェデーンなどが同盟を結び、ヨーロッパの平和を乱すナポレオン皇帝を失脚さようと、フランスに戦いを挑みます。
ナポレオン率いるフランス軍は追い詰められ、連合軍のパリ占拠が時間の問題となったそのとき、ナポレオンの兄ジョゼフが、パリが見下ろせるモンマルトルの丘の「シャトー・ルージュ」でパリ防御の指揮を取っていました。

けれども多勢を前にフランスは戦いを失い、ナポレオンは地中海のコルシカ島に流刑されるのです。
華やぎあふれる舞踏会が頻繁に開催されていました。

こうした歴史も刻んだ館のオーナーは何度か変り、最終的にボボウフと名乗る人が買い取り、1847年ころから派手な舞踏会を催し話題を呼びます。

1871年のパリ・コミューンで、兵士や民衆によって荒れ果てた屋敷。
1871年、パリ・コミューン(パリ市の自治市会)と政府軍が激戦を交わしたとき、民衆がモンマルトルに大砲を設置し「シャトー・ルージュ」も大きな破損を受け、衰退の道を辿ります。
1889年、ついに館は解体され、今はかつての面影も残っていません。

2017年3月15日

パリの犬たち 119

ママン、花のパリまで来てナニしてるの?
パリのモニュメントを見にきたのに、
ママンはお荷物の整理ばかり。つまんないワン。

ネェ、まだ終わらないの?
せっかくパリに来たんだから、はやく見物したいワン。

2017年3月12日

独創的な作品展

非現実的な世界に魅了されます。
個性的なコンテンポラリーアート作品展覧会を、カルチェラタンで開催中。
絵画も彫刻もオリジナリティに富み、驚きが増すばかり。

ヴェルニサージュの夜に、節子さんを囲んで。
歴史を刻んだ旧建築のギャラリーは薄暗く、作品に集中的に照明があてられているので、インパクトたっぷり。

左下が節子さんの作品の猫。
毛は一本一本手描きだそうです。
一階の奥まった箇所は洞窟のようでそこにも作品があるし、数段の階段をのぼった中二階にはソファが置いてあり、壁や床に独創性に富む作品がある。

中二階の独創性あふれる作品。
どれもこれも一点もので、それだけに価値があり貴重です。素材は種々様々だし、テーマも様々。作者が自由な発想で、自由に創作しているのが伝わってきます。
 まるで、不思議な世界を彷徨っているようで現実を忘れます。

Galerie Da-End
17 rue Guénégaud
75006 Paris
5月6日まで

2017年3月10日

メトロの駅名は語る 29

Porte de Clignancourt
ポルト・ドゥ・クリニャンクール

「クリニャンクールの門」という意味のこの駅名は、かつて、その地にあった村クリニャンクールが語源です。
サン・ドニ修道院の敷地入り口にあった門。
1779年に取り壊されました。
クリニャンクールはサン・ドニ修道院、後のサン・ドニ大教会堂に所属していました。250年頃の聖人サン・ドニの墓があった場に、教会が建築され、それが数世紀にわたって拡大され、現在見られるゴチック様式の美しい建造物になったのは、12世紀半ば。歴代のフランス王家の人々の埋葬地になっているために、多くの人が訪れます。

のどかな村だった時代のクリニャンクール。
村だった時代のクリニャンクールでは穀物やブドウを栽培していましたが、その後土地が分割され複数の人が領主になり、1860年にパリ18区となります。

旧城壁の外は土地が安かったので、
貧しい人々が住むようになり、
生活のために持っていた品を売るようになります。
19世紀半ばにパリを取り囲む城壁が造られ、数箇所にパリの出入りの際に使用する門が誕生し、「クリニャンクールの門」もその時代に建築されました。

けれども1919年に城壁が解体され、その外側にあったクリニャンクールがパリ入りし、土地が手ごろだったために、経済的に苦しい人が住み、生活のために不必要と思われる品を並べて売るようになり「蚤の市が始まったのです。

不必要な品を路上で売るようになり、注目されます。1923年。
今日はパリ最大の規模を誇る「蚤の市として、世界的に名を成しています。
信じられないほど種々様々な品を売っていて、見ているだけで楽しい。
私もテーブルや花瓶を買ったこともあるし、シャンデリアのクリスタルが落ちて壊れたときに、買い足したこともあります。

最近はちょっと足が遠のいています。 
なぜなら、パリの街中に小規模ながら「蚤の市」が移動してくるから便利なのです。 何でも時代と共に変るものですね。

2017年3月9日

パリの犬たち 118

誰かが見つめていて気になる。
ナンだかさっきからワタシを見つめている人がいる。
すごく気になるワン。

ママン、ママーン!!
ワタシのことずっと見ている人がいるの。
大丈夫かしら?
アッ、そう、そうなのネ。
ワタシの毛並みも顔もノーブルでステキだからなのネ。
そういうことなら、大歓迎だワン・

2017年3月8日

ディオール本社でコレクション観賞。

フェミニンで気品あるロングドレス。
一度は身につけてみたい。
3月7日、プレタポルテのコレクション発表の最終日、ディオール本社でショーで紹介された作品の観賞。メゾン創立者クリスチャン・ディオールが最初にショーを行ったのもこの本社でした。階段にまで招待客が並んでいた当時の写真を、雑誌などで何度も見ているだけに、 当時の面影を残しているその階段をのぼるたびに感動します。

ショーで発表された作品を、
手に触れて見れるのが素晴らしい。

女性デザイナー、マリア・ グラツィア・キウリがメゾンの主任デザイナーになって、2回目のプレタ。今回のコレクションはすべてブルー、ブルー、ブルー。ショーの会場もブルーで、70点近くの作品もすべてブルー。
ブルーはクリスチャン・ディオールのお気に入りの色だったのです。

ファイン・ジュエリーのニュー・コレクションも合わせて拝見。
可愛らしい絵のディスプレイが限りなく楽しい。


画家ピカソも初期には「青の時代」と呼ばれるブルーの色彩の絵を多く手がけているし、セザンヌもこの色を好み静物画にも、肖像画、風景画にも頻繁に使用しています。

久しぶりにお会いしたファッション・エディター、
横井さんとお話が弾みました。

力強さを表す色でもあるブルーは、20世紀のアーティストたちに格別に愛されていたのです。
ブルーは、9月生まれの私の誕生石サファイアの色なので、一番好きな色です。
ということで、様々な青が作る世界に浸って幸せいっぱいでした。

2017年3月7日

メトロの駅名は語る 28

Gambetta
ガンベッタ (3号線)

 19世紀の共和主義者の政治家、レオン・ガンベッタの名を冠したガンベッタ駅がオープンしたのは1905年。
当時は3号線の終着駅でしたが、その後メトロが延長されました。

共和国に欠かせない政治家、レオン・ガンベッタ。
弁護士だったガンベッタは後年に議員になり、1870年、普仏戦争で皇帝ナポレオン3世が敗れ捕虜になり第二帝政が終わったとき、共和体制樹立を宣告します。

1870年10月7日、プロセイン軍のパリ進入を知り、
熱気球で脱出を図りました。
その後、敵国プロセイン軍がパリに進入すると、熱気球でパリから脱出し、トゥールに向かいます。
1879年、第三共和政が生まれた際に、首相に任命されますが、病をわずらい44歳の若い人生を閉じます。結婚はしませんでしたが、美しい愛人レオニー・レオンが最期まで彼の看病にあたっていました。

ガンベッタの長年の愛人レオニー・レオン。
1920年、彼の心臓はフランスの偉人たちに捧げるパンテオンに葬られました。それほど共和国発展に必要な政治家だったのです。