2017年4月29日

フランス大統領選 3 ますます激化する選挙活動。

日本は今日から大型GW。
多くの人がヴァカンスに出かけるようで、平和で豊かな国なんだと思わずにはいられません。祖国がこのように安定しているのはとても嬉しいことです。

フランスは5月7日の大統領決戦投票日が刻々と迫っているので、連日、その話題でもちきり。
二人の候補者の動きを報道しているのをテレビでみていると、大統領になるのにいかに丈夫でないといけないかよく分かります。

日が迫ってきているので両者ともに一日に複数の箇所を訪問。ルペンは早朝に漁師を励ますために船に乗り、マクロンは移民が多い地区に行ったと、それぞれ必死。

ルペンの勝利を阻止しようと、カズヌーブ首相もオランド大統領もマクロンに投票するよう呼びかけたり、大使が極右の国の代表になどなりたくないから、万が一ルペンが大統領になったら辞任すると公に発表。フランス人は自分の意見をこれほと明確に表現するのです。

ルペン側もそれに負けずにフランスを守るために労働者階級に精力的に近づき、フランスから移民を追い出し祖国を自国民で守ろうと、フランス版トランプのごとくに呼びかけ続けています。

第3位に終わったフィヨン候補も第 5位のアモン候補もマクロンに投票すると発表。一番気をもんでいた4位のメランション候補は誰に投票かは明らかにせず、彼を支持した7百万の有権者がどちらを選ぶか注目されています。

5月3日にルペンとマクロンのテレビ討論があり、もう今からドキドキ。次期大統領によってフランスが大きく変るので気がかりです。

2017年4月28日

メトロの駅名は語る 39

Odéon
オデオン(4,10号線)

学生街にあるオデオン広場とそこに建つオデオン劇場から、この駅名が生まれました。オデオンはギリシャ語で劇場という意味。

18世紀末に建築された劇場。
当初は「フランス劇場」と呼ばれ、革命の時には「国民劇場」。
現在は「オデオン劇場」あるいは「オデオン座」と呼ばれています。
オデオン劇場の歴史は古く、革命前に「フランス劇場」として建築。
その開場は1782年4月9日で、ボーマルシェ作の「フィガロの結婚」 が上演されマリー・アントワネットを筆頭に宮廷の人々が観劇。

劇場の客席。
貴族を風刺する「フィガロの結婚」はルイ16世が上演禁止をした作品。それを「フランス劇場」で披露できたのはマリー・アントワネットの強い希望があったため。「フィガロの結婚」は大ヒットし後にモーツアルトによってオペラになります。

革命が起きた1789年に「フランス劇場」は「国民劇場」と名が変更され、革命後に「オデオン劇場」と改名され、それが現在も続いています。客席は1280。

1872年、ヴィクトル・ユゴー作の「リュイ・ブラース」で、
スペイン王妃を演じたサラ・ベルナール。
オデオン劇場で見せた名演技で彼女は名を轟かせます。

この劇場と切っても切れない縁にあるのが、偉大な舞台女優サラ・ベルナール。彼女はオデオン劇場と契約を結び数々の名演技を披露。1872年にヴクトル・ユゴー作の「リュイ・ブラ-ス」で、スペイン王妃の役を見事にこなし、不動の名声を得ます。サラ・ベルナールはベル・エポックを象徴する女優として今でも語られています。

ネオクラシックの均整が取れた神殿のようなオデオン劇場は、1947年に歴史的建造物となり、多くの名作が上演されています。パリは劇が盛んなので、この界隈も夜はかなりの賑わいを見せます。

2017年4月27日

パリの犬たち 127

ほんものの犬がいい。
「ネェ、君たちはほんものの犬なの?」
「ウンそうだけど、なにか・・・」
「ボクの犬はひとりでは動かないからつまらない。いっしょにあそびたいんだよ」
「なでなでしてあげるから、いっしょにあそぼうよ」
「いいよ、君はやさしそうだから合格」
「ワタシもいいこしてね。おとなしく順番をまっているから」
「もうオモチャの犬はどうでもいい。ほんもの方がずっとかわいい」

2017年4月26日

フランス大統領選 2 エマニュエル・マクロンとブリジット


新しい政治、異なる政治を目指して昨年「前進」という政治運動を起こしたエマニュエル・マクロン。最高点で決戦に臨むことになった彼は、興奮状態でお祭り騒ぎの支持者たちが待つ会場に向かい、壇上にのぼって感謝の言葉を述べました。

そのときマクロンはひとりではなかった。彼は妻ブリジットの手をしっかり握りながら、一緒に壇上に駆け上ったのです。その若々しい姿に、多くの人が新たな歴史が始まると感じたはず。ふたりはそこでハグしたり手を振って喜びに応えたり。
その後ブリジットはマクロンの背に手をあて中央に進むような動作を見せ、自分は壇上からおり席に向かいました。

落ち着いて勝利の演説を始めたマクロンは、支持者への感謝の言葉をもちろん述べましたが、短いけれど印象に残った言葉は、
「ブリジット、あなたなしでは今日私はこの壇上にはいかなった」

演説初期のその言葉に誰もが納得。
なぜなら、マクロンの陰でブリジットがいかに積極的に動いたか知っているから。
17歳の高校生のときから教師だったブリジット一筋に生き、両親の反対も克服して29歳で結婚したマクロンにとって、ブリジットは妻であり主導者であり、保護者であり相談役であり、全面的信頼をよせられる女性なのだから、彼女の存在は大きい。

24歳も年上で、しかも3人の子供がいる女性に愛を捧げるのは、いかにもフランスらしい。今回の選挙に関して、外国ではこのことが特に話題になっているようですが、フランスでは政治とプライバシーは分けているので問題にならない。


ディアンヌ・ドゥ・ポワチエ
歴史をひも解けば16世紀からすでに、男性がかなり年上の女性に心を奪われた事実がいくつもありました。
王子だったアンリが恋に陥ったディアンヌ・ドゥ・ポワチエは19歳年上。国王アンリ2世になっても変らぬ愛を捧げ続け、妃カトリーヌ・ ドゥ・メディシスの嫉妬と怒りを掻き立てていました。

ジョゼフィーヌ
ナポレオンの最初の妃ジョゼフィーヌも6歳年上で、しかも2人の子供連れ。それでもナポレオンは結婚。もっともジョゼフィーヌは結婚証明書には実際より若い年齢を記入したので、ナポレオンは妻の実際の年は知らなかったのですが・・・

ジョルジュ・サンド
「ピアノの詩人」ショパンの愛人だった、作家ジョルジュ・サンドも6歳年長だったし、エディット・ピアフの最後の夫テオも21歳年下。

エディット・ピアフ
外見的には確かにシワが増えたりで、若い女性にかなわないけれど、それ以上に重要なのは内面的魅力。フランスの殿方は女性を外見だけで判断しない。そういう意味では立派。見習ってほしいことのひとつです。

いろいろな意味でエマニュエル・マクロンは、新時代を象徴する大統領になるでしょう。ブリジットも今の時代にふさしいファーストレディになること間違いなし。

今のところマクロンに投票する人が圧倒的に多いけれど、ルペンに共鳴する人が今後増える可能性もある。どうなるか、毎日心配。

それはそうと3人も子供を生んだのに、ブリジットの引き締まったスリムな体は普通ではない。その秘訣も知りたい。1953年4月13日生まれのブリジットは、つい先日バースデーを迎え64歳になりました。

2017年4月24日

フランス大統領選1 第一回投票の結果

荒れに荒れているフランス大統領選の第一回目の投票が、4月23日日曜日に行われました。投票率は78,2%。

第一回投票の結果は、中道・無所属のエマニュエル・マクロン(39歳)の支持率が23、75%、極右・国民戦線のマリーヌ・ルペン(48歳)の支持率が21、53%。上位に選ばれたこの二人が5月7日の決戦投票にむかいます。

今までにないほど注目を集めていた第一回目の投票。18時30分から大統領選特別番組がテレビがあるので、この日避けられない外出があったけれど早めに終えて、いざ我が家に。

帰ってすぐにテレビをつける。テレビスタジオも各候補者の陣営も、異常なほどの熱気に満ちている。特派員があちらこちらで待機し、その状況を絶え間なく報道。

開票結果が続々報告され、それをめぐってテレビスタジオでジャーナリストや候補者支援者の意見が飛び交う。

フランス人は自分の意見をはっきり言う国民だから、他の人が 話していても自分の考えと合わないと遠慮なく割り込む。
言葉が重なって聞きづらいので、司会のジャーナリストが
「ちょっと待ってください。まず彼の意見を聞いてから」
と言っても無視して語り続ける。

聞くほうは3重唱に悩まされながら、それぞれの人の意見を聞き取ろうと努力をしなければならない。だからとっても疲れる。それでなくても理解に苦しむフランス語なのに・・・・

万が一、極右翼のルペンと急進左派のメランションの決戦となったら大変でした。何しろふたり揃ってEU離脱派だからです。
極右と極左のふたりの戦いを
「ぺスト対コレラ」
「エイズ対エボラ」
などと表現するフランス。つまり最悪の選択を強いられる「悪夢」なのです。

幸いなことに、EU残留のマクロンが決戦に進むことになりました。
こうなると、EU残留、離脱をめぐって二手に分かれるので、世界中の注目をさらに集めないではいない。なにしろフランスは、ドイツと手を組んでEUのイニシアティヴを取っているのだからEUの運命もかかっている。

5月7日の決戦でどうなるか。
この日までの選挙活動を毎日追うメディで追うので、 私もまた忙しい。

前回のブログで書いた初期から応援している「あの人」 は、実はエマニュエル・マクロンなのです。
マクロンこそ新しいフランスを築くために必要な人。
ぜひ彼に大統領になってほしい。

2017年4月23日

コレットのショーウィンドウ

毎週ディスプレイを変えるサントノレ通りのセレクトショップ、コレット。
今回は今のシーズンにふさわさい花園。
遠くからも目立つ華やかさ。文句なしに鮮やか。

春の華やぎがいっぱいのコレット。
これを見たら中に入りたくなりますよネ。
時間とお金をかけているのが一目瞭然。

2017年4月22日

メトロの駅名は語る 38

St.Michel
サン・ミッシェル(4号線)

道路名と広場の名と同じにサン・ミッシェル駅と名づけられたこの駅は、学生街カルチェ・ラタンへの入り口です。

 
15世紀の画家、
ピエトロ・ペルジーノ作の
ミカエル大天使。
サン・ミッシェルという名はいたるところに使用されています。それというのもサン・ミッシェルは、ミカエル大天使のことでフランスの守護聖人なのです。
有名なモン・サン・ミッシェル修道院も、ミカエル大天使のお告げを受けて島の頂上に礼拝堂を建築したのが始まりだし、ジャンヌ・ダルクに出現してイギリス相手に苦戦している王太子を助け、無事に国王の座に就けるようにとお告げをしたのもミカエル大天使でした。

 
1900年のサン・ミッシェル広場。
サン・ミッシェル広場が生まれたのは1855年で、ナポレオン3世の時世のパリ大改造に伴い創られました。両手を広げてサタンを退治する
ミカエル大天使と、口から勢いよく水を吐くドラゴンの像に迫力がみなぎり、いかにも学生街にふさわしい。

サン・ミッシェル広場から見るシテ島。
シテ島のサント・シャペルの尖塔が見えます。
サン・ミッシェル大通りも広場と同時代のもの。現在は舗装されていますが、1968年5月の学生や労働者を中心とした「五月革命」の際に、彼らは石畳の石をはがして武器とし警官隊と激しく衝突。それ以降、学生街の石畳はアルファルトに変ったのです。

19世紀末のサン・ミッシェル大通り。
この敷石が1968年の5月革命ではがされ、武器として使用され、
それ以後、学生街はアスファルトの道路のみになります。

カルチェ・ラタンにふさわしく、この界隈には文具店や書店が多いし、安くて量が多いブラスリーやカジュアルな洋服店も多い。少し先には私にとってなつかしいソルボンヌがあるし、本を書くときに何度もお世話になったサント・ジュヌヴィエーヴ図書館もある。 お世話になりました。

 サン・ミッシェル広場は待ち合わせに最適だし、一年中若者が多く独特な活気がある街。裏通りのクネクネした細い道がけっこう面白い。

2017年4月21日

フランス大統領選 すごい熱気

フランス大統領官邸。
このエリゼ宮入りするのはいったい誰でしょう。
フランス大統領選に、いまだかつてこれほど気を取られたことはありません。
何しろ11人もいる立候補者の支持率がコロコロ変るので、予想がつかないのです。
というのも、立候補者が矛盾することを言ったり、前言を取り消して異なるプロジェクトを発表したり。それを聞くたびに有権者の心は乱れ、昨日はこの人と思っていたのに、今日は別の人と変ることが多いのです。

さすが世界に先駆けて革命を起こした自由、平等の国。
自分たちの国の大統領は自分たちで決めるのです。18歳以上の有権者が直接投票して決めるからとても民主的。


有力な上位5人とされている立候補者。
4月23日に第一回目の投票があり、それで過半数を占める人がいない場合には、上位二人による二回目の投票が5月7日にあり、これで大統領が決定。


今回の選挙は連続ドラマのようなスリルがあって面白い。
だから、個々の候補者のテレビでのインタヴューも、全員揃っての討論会も、質疑応答も欠かさずみる。2時間を越えることもあるけれど、ワクワクしながら最後までずっと見ています。

街頭演説もあれば、巨大な会場を借りて演説する候補者もいるけれど、2万人以上も集まることもあり人気歌手のコンサートみたいな熱気。

艶やかなフランス三色旗。
 4月23日の第一回目投票が楽しみ。その夜のうちに結果がわかるから、実況放送で最後までみるつもり。私が初期から応援している「あの人」がどうなるかドキドキ。

2017年4月20日

ヴェルサイユ宮殿、もうひとつの楽しみ

東京での「マリー・アントワネット展」が大成功に終わり、ますます憧れを掻き立てているヴェルサイユ宮殿。

ヴェルサイユ宮殿内のカフェ・レストラン「オール」
新時代にふさわしい改良が次々となされ、訪問者にとって便利になりました。
現在も工事中の箇所がいくつかあり、その部分は閉鎖されていますが、そのかわりに今まで見られなかった部屋も訪問できるのが素晴らしい。

メインのチキン料理。味も量も文句なし。
私にとっての新しい楽しみは、宮殿正面向かって左側の翼にアラン・デュカスのカフェ・レストランがあること。
通常こうした観光地ではあまり美味は期待できないのですが、アラン・デュカスの「オール」は別。あまりにもおいしいので、すでに3回も行きました。

デザートのスフレが
口の中でとろけるようなデリケートな感触。
季節ごとにメニューを変えているので、何度足を運んでも新しいお料理があってそれが魅力。
窓からは宮殿の内庭や外壁が見えるし、味もサーヴィスもいい。

二人そろって
満面の笑みを受かばせないではいられない。
コンテンポラリーなインテリアなのに、歴史を刻んだ宮殿との間に違和感を感じないのは不思議。
「オール」でランチをいただいていると、ヴェルサイユ宮殿が若返ったように思えます。宮殿を建築させたルイ14世も、「どれどれ余も久しぶりに下界に下りて、現代人と一緒に食事を楽しもうか」などと姿を見せそう。

2017年4月19日

パリの犬たち 126 

二階建てバギーだよ。
ボク、トニーっていうお名前。
何だか複雑な環境の中にいるようだけど、ここはバギーの一階。
ボクが居心地いいように、枕もスカーフもあるんだよ。
お二階はべべちゃん用。
べべちゃんのお手てとお帽子がちょっとみえるでしょ。
いつかボクとべべちゃんの場所をかえてほしいワン。

2017年4月18日

メトロの駅名は語る 37

Cité
シテ(4号線)

シテ島の唯一の駅で、入り口も一箇所のみという変った駅です。
紀元前250年ころからケルト人のパリジイ族がこの島に住んでいて、このパリジイから後年にパリという都市名が生まれすが、当時はリュテシアと呼ばれていました。

シーザー(右の赤い服)率いるローマ軍に破れ
剣を手放すケルト人ヴェルサンジェトリクス(馬上の人)
素朴でのどかな生活を送っていたパリジイ人でしたが、ローマのシーザーが大軍と共にフランスに侵略し、シテ島だけでなく各地で猛威をふるい、紀元前52年からローマ支配に入ります。
シーザーによる侵略に率先して戦ったのがケルト人部長ヴェルサンジェトリクス。彼は捕らえられローマで処刑されますが、フランス最初の英雄として歴史に名を残しています。

フランク王国初代国王クロヴィス1世とクロチルド王妃。
しばらくの間ローマ支配が続きますが、ゲルマン民族が大移動しローマ人は追い払われます。ゲルマン民族の一族であるサリー・フランクの王の息子として生まれたクロヴィス1世が、フランク王国を築き、その首府としてシテ島を選んだのが508年。 このときからシテ島は脚光を浴び、発展を続けるようになります。フランク王国は現在のフランス、イタリア北部、ドイツ西部、さらにスイスやオーストリアなどに及ぶ破格の大きさの国でした。その首府としてシテ島が選ばれたのですから、大変名誉なことです。

15世紀のシテ島の様子。
仕事をする女性たちの後方に、
王宮と右側にサント・シャペルが見えます。
現在、司法宮(パレ・ドゥ・ジュスティス)となっている場にはローマ時代から本拠が置かれ、クロヴィス1世からはじまったメロヴィング朝の王宮もありました。それに続くカロリング朝とカペー朝の時代に王宮が拡大され、ステンドグラスが美しいサント・シャペルも建築されます。

17世紀のシテ島とノートル・ダム大聖堂。
セーヌ川の船での交易が盛んだったことがわかります。
ところが14世紀の国王シャルル5世はシテ島の王宮を離れ、マレ地区の館やルーヴルに暮らすようになり、シテ島の王宮には高等法院がおかれます。

1770年のノートル・ダム大聖堂内部。
ローマ人が支配していた時代に神殿があり、その後クロヴィス1世が祈りの場を造らせたといわれる跡に、ゴシック建築の壮麗なノートル・ダム大聖堂が建築され、さらにずっと後年にはパリ警視庁、病院などが生まれ、パリ発祥地にふさわしい中核をなしていきます。

1827年のシテ島。現在の姿に近くなってきました。
この絵のように、尖塔が一時期なかったこともあります。
船の形をしたシテ島がセーヌ川に浮かんでいるように見えるのも、偶然とはいえ不思議です。ここから町が左岸や右岸に拡大されていったのですから、シテ島はパリの起点なのです。

2017年4月16日

パリの犬たち 125

イースターの日に教会に行ったのに・・・・
キリストの復活をお祝いする特別ミサがあるというから、
心弾ませて教会に行ったのに、ワタシは入れなかった。

なので、とってもとっても悲しいの。
でも、入り口の階段にいると、
教会から賛美歌が聞こえてくるから、
それだけでもいいわ。

2017年4月15日

チューリップがいっぱい

満開のチューリップ。気取りがなくかわいいお花。
かわいいチューリップの花を、あちらこちらで見かける季節。
我が家のベランダでも咲いていたのに、なぜか今年は姿を見せない。
去年までは花が咲き終わってそのままにしておいても、翌年にはにょきにょき育ちきれいな顔を見せてくれたのに、今年はどうしたのかと、ちょっと寂しい。

これもチューリップ。
オランダ黄金時代の17世紀に、チューリップの球根が異常に値上がりし、チューリップ・バブルさえ起きたというのだから、お花といえども重要な投資。

パリのたくさんの街角で見られるチューリップ。
気負いなさがいい。
だから誰からも好かれるのでしょう。

フランスの作家アレクサンドル・デュマは、それをめぐる陰謀を小説にした「黒いチューリップ」を発表。大評判を得て映画化されたのだから、話題豊富なお花です。
短期間しか咲いていないのが残念だけれど、だからこそ愛着を抱くのかも。

チューリップ発祥地のトルコでは、国花になっています。トルコからオランダに渡り、またたく間に世界中を魅了したお花です。

2017年4月14日

メトロの駅名は語る 36

Les Halles
レ・アル(4号線)

レ・アルは中央市場という意味で、その名の通り、ここにはパリ市民の日常生活に欠かせない市場がありました。

1770年代の中央市場広場。
この近くに屋根つきの卸売り中央市場がありました。
小規模ながらマルシェが生まれたのは12世紀のことで、肉や野菜、パン、ワインなどを売っていました。その後、パリの人口が増えるに従って拡大され、16世紀には卸売りの中央市場として屋根つきの建物が誕生します。

小麦専用の中央市場。
右がカトリーヌ・ドゥ・メディシスが造らせた円柱(天文台)で、現在も残っています。
中央市場は取り扱う品によって建物が異なっていましたが、1760年にはクーポルつきの立派な小麦売り場も作られます。その地にはカトリーヌ・ドゥ・メディシスが建築させた館がありましたが、1740年に取り壊されます。カトリーヌが館の一部に作らせた円柱(彼女専用の天文台だったといわれています)は今でも残っていて、パリのモニュメントとして注目を集めています。

小麦を扱っていた建物はその後、商品取引所となり現在も残っていますが、実業家フランソワ・ピノーにより美術館として新たな姿を近々見せるそうです。

バルタールの案に従って、
近代的設備を整えたガラスと鉄骨の中央市場、レ・アルが誕生。
パリ市民の食料品を扱うからには、衛生にも気を配らねばならない。ということで、1848年に安心できる本格的な中央市場を建築することになり、コンクールの結果ヴィクトール・バルタールの案が採用されます。

バルタールによって建築された中央市場。1919年ころ。
1852年から1866年にかけて建築された中央市場は、1969年にその界隈の再開発のためにパリ南郊外のランジスに移動し、バルタールによる中央市場は解体される運命を辿ります。

けれどもそれを悔やむ人や反対者が結束した結果、1棟がパリの東、ノジャン・シュール・マルヌに移され、現在はパヴィリオン・バルタールと呼ばれ、コンサートなどのイヴェント会場として親しまれています。

若者たちで賑わうショッピングセンター、カノペ・デ・アル。
その後レ・アルには巨大なショッピングセンター、フォーラム・デ・アルが登場。若者たちに愛されていましたが、それも老朽化し再び再開発がなされ、現在は深い森を意味するカノペ・デ・アルと呼ばれるガラスを主体としたコンテンポラリーなショッピングセンターになっています。

フランスの文豪エミール・ゾラが、中央市場を舞台にした小説「パリの胃袋」を書き、それにちなんでパリの胃袋と呼ばれていた時代から、レ・アルは何と変ったことでしょう。

2017年4月13日

パリの犬たち 124

あっちに行きたいのに・・・
アツ!! ボクの好みの女の子があっちにいる。
ネェ、向こうに行こうよ。

ボクの気持ちをちっとも理解しないママンは、強引にこっちを行く。
早く体力つけて
ボクが行きたいところにママンを引っ張っていきたいワン。

2017年4月12日

イースター合戦たけなわ

イースターまで後わずか。
この日をお祝いするために、チョコレートを求めて歩き回るパリの人たち。

無限にある創造性にただただ関心。
本来はニワトリやウサギの形のチョコレートが多いのに、今年はバラエティに富んでいる。あまりにもたくさんのアイディアがあるので、まるで、イースターのお祝いというよりチョコレートコンテストみたい。どれがいいかな~とぐるぐる回って見ているけれど、食べるより観賞していたい感じ。
大人気の「ちょうちんチョコ」
マンガのキャラクターかな?
メチャかわいい!!


みんな揃って高い高~い。
ナンてにぎやかなこと。仲間入りしたい。
こちらはラヴリーワールド。ここにも行きたい。
我はフクローじゃ。わかるかな?
とってもやさしいんだよ。
カメも登場。これを食べたら長生きするのかしら。 
ならば、たくさん食べよう。