2019年4月27日

メトロの駅名は語る 121

Mirabeau
ミラボー(10号線)

フランス革命時代の政治家の名前です。

ミラボー伯爵(1749-1791)


名門貴族の家に生まれたオノレ=ガブリエル・リケティ・ド・ミラボーは法律を学んだ後、革命が起きた1789年の三部会で立候補し議員に選出されます。本来ならば貴族なので第二身分の貴族議員となる資格があるのに、あえて平民の第三身分議員となります。

三部会に不満を抱いた第三身分議員たちが結成した国民議会で、雄弁な彼は重要な役割を果たし、国民の圧倒的人気を得ます。けれども立憲君主制を理想とするミラボーは、極秘に国王に一時期国外逃亡することをすすめていたのです。

革命家と王家の間を巧みに行ったり来たりしていたミラボーは貪欲で、多額の報酬を王家に要求していましたが、ルイ16世もマリー・アントワネットも唯一の仲介人なので、いいなりになっていたのです。

ミラボーが生涯を閉じた館。外壁に表示があります。
パリのショセダンタン通り42 番地。

そのミラボーが1791年4月2日に急死し、国王たちの運命に暗い影がおちます。一方、国民たちはミラボーの死をいたみ、すべての劇場を閉め悲しみにふけります。4月4日、国民議会はミラボーのために、サント・ジュヌヴィエーヴ教会をフランスに貢献を成した人に捧げるパンテオンにすることを決定。4月5日、サント・ウスタッシュ教会で盛大なミサをあげた後、パンテオンにに葬られます。このようにしてミラボーは、最初にパンテオンに葬られた栄誉を勝ち取ったのです。

教会でミサを受けた後、パンテオンに向かうミラボー。

ところが1794年9月21日、ミラボーはパンテオンから引き出されます。彼が王家と通じていたことが発覚したためです。パンテオンに最初に入ったミラボーは、最初に追い出された人でもあったのです。遺骸は当時5区にあった共同墓地に家族によって葬られたようですが、その後発掘したときには何も見つからず、今でも行方が不明なミラボーです。

アポリネールの詩で有名になったミラボー橋。

幸いなことに19世紀に彼の名を冠した橋がかけられ、アポリネールの美しい詩「ミラボー橋の下をセーヌ河が流れ われらの恋が流れる 」によって、パリ市民の心に深く刻まれるようになったのです。

2019年4月24日

ナポレオンの戴冠式

世界中に衝撃を与えたノートル・ダム大聖堂火災。パリ市は市庁舎前広場で、消防士たちとノートル・ダムへのオマージュのセレモニーを行い、アンヴァリッドでは同じ目的のコンサートを開催。テレビでは繰り返し燃える大聖堂の映像を映し、そのたびにノートル・ダムがいかにフランスの歴史上重要であるかと解説。王家の結婚式や洗礼式、元大統領の葬儀も語られましたが、もっとも強調されたのはナポレオンの戴冠式で、ルーヴル美術館に展示してある華麗な絵も、何度もテレビ画面に登場しました。

「ナポレオンの戴冠式」ルーヴル美術館所蔵。

この機会にノートル・ダムでの戴冠式の様子を詳しくお伝えしたいと思い、いろいろ探して見つけた数枚の絵をご紹介します。今でも多くの崇拝者がいる皇帝ナポレオンの人生最良の日です。

ナポレオン到着前の様子。
ノートル・ダムの正面は革命で破損していたので、
それを隠すために、
木造のゴシック様式の入り口を特別に建築させました。

当時暮らしていたチュイルリー宮殿から、
豪華な馬車で華々しく到着したナポレオンとジョゼフィーヌ。

奥に見えるのはホテル・デュー病院で、
今も優秀な医者が揃っていることで有名。

12世紀からの歴史を刻む石造りの冷たさが、
晴れやかなセレモニーにふさわしくないと思ったナポレオンは、
すべての壁をゴールドの縁取りがある深紅の布で包ませます。
武器の刺繍も豊富に施され、軍人ナポレオン色を華麗に表現。

24のシャンデリアの輝きがノートル・ダムの中で交差し、
祭壇近くには儀式が始まる前にナポレオン夫妻が待機する
小玉座も設けられました。

正面の大きな十字架は奇跡的に今回の火災を逃れました。

ローマ教皇から塗油を受けるナポレオンとジョゼフィーヌ。


自分の力で得た皇帝の座であるからと、自分の手で冠を被り、
その後ジョゼフィーヌに冠を被せました。

晴れてフランス皇帝、皇后になったふたりは、
24段の階段をのぼり大玉座に向かいます。

大玉座には8本のギリシャ風柱の凱旋門が設けられ、
紋章の鷲がその上に君臨。
フランス王家と区別をつけたかった、
軍人ナポレオン色が随所に見られます。



この日招待されたのは約2万人。
5時間にも及ぶセレモニーが終わり「皇帝バンザイ」の声が一斉に舞い上がり、
この日からノートル・ダムはフランス国民と共に新たな時代を歩むのです。

1804 年12月2日、ノートル・ダム大聖堂で戴冠式を行ったナポレオンは若干35歳。そこに至るまでも、それ以降も、フランスの歴史に強烈な痕跡を残したナポレオンは唯一無二の人物。自身が語っていたように、彼の人生は小説のようでした。それだから今でも多くの人の人々の心を捉えないではいないのでしょう。

2019年4月19日

ヴァン・クリーフ&アーペルのニュ―ショップ

ヴァンドーム広場に大きなショップを持っているヴァン・クリーフ&アーペルが、そのすぐ近くのラ・ぺ通りにカジュアルなショップを4月半ばにオープン。

以前にもこの通りにショップがあったのですが、それを閉めて今回オープンしたのはラ・ぺ通りの角。ショーウインドウがたくさんあってそれを見るだけでも楽しい。どのジュエリーも限りなく愛らしくフェミニンで、誰にも似合いそうです。

春の訪れを告げる爽やかなネックレス。

この色合い。私が大好きなカラーばかり。
抵抗しがたいほどラヴリーなアニマル・モチーフ。
一緒に暮らしたい。


外観はパリにふさわしくシック。
時間がないので店内には入りませんでしたが、遠くない日にぜひゆっくりと拝見したいと思っています。

2019年4月18日

ノートル・ダム、奇跡の風見鶏

歴史に残る衝撃的な火災後、奇跡的に見つかった雄鶏の像が話題を呼んでいます。火災で崩れ落ちた尖塔の先に飾ってあったブロンズの風見鶏で、尖塔が落ちたときには誰もが風見鶏も高熱でとけてしまったに違いないと思っていたのです。

ツイッターで世界中に無事が伝えられた風見鶏。
これは奇跡だとフランスでは大騒ぎ。

ジャック・シャニュー氏が発表したこの写真は、
世界中をかけめぐりました。

ところが火災翌日の16日、ノートル・ダム内の瓦礫の中にいるのが見つかったのです。それをフランス建設業協会会長ジャック・シャニュー氏がツイッターで写真を発表すると、これはまさに奇跡と大変な喜びが沸き上がりました。

風見鶏は衝撃で形が崩れたとはいえ、原形をとどめています。雄鶏はフランスのシンボルのような存在。昔フランスがゴールだった時代に、そこに暮らしていた人々はゴール人と呼ばれていました。ゴール人はラテン語で雄鶏という意味もあり、フランス人と雄鶏は切っても切れない関係になったのです。

19世紀に修復が行われ、尖塔と風見鶏が設置されました。
これが今回の火災で崩れたのです。
第二次世界大戦直後のノートル・ダム。
尖塔も無事に戦いを生き抜きました。

ノートル・ダムの修復が行われた19世紀に今回崩れた尖塔が建てられ、その先にブロンズの風見鶏が君臨していたのですが、それは単なる風見鶏ではなく、3つの聖遺物がおさめられていたのです。キリストが処刑された時に被っていた茨の冠のトゲが一本(冠自体は前のブログに書いたようにノートル・ダムの宝物庫で保管)、聖人サン・ドニと聖女サント・ジュヌヴィエーヴの聖遺物。このようにフランスにとって最も重要な3つの聖遺物なのです。

イエス・キリストの聖遺物を受け取る聖ルイ王。

茨の冠は信仰心が格別にあついルイ9世が1239年、コンスタンチノープル皇帝ボードゥアンから大金と引き換えに譲ってもらい、引き続き入手した十字架の破片、釘と共に聖遺物としてサント・シャペルに保管していました。サント・シャペルをその目的で建築させましたが、革命後聖遺物はノートル・ダムに移されます。後世にルイ9世はカトリック教会から列聖され、聖ルイ王(フランス語でサン・ルイ)と呼ばれるようになりました。。

切られた自分の頭を持つサン・ドニ。

聖人サン・ドニはキリスト教が禁止されていた3世紀に、モンマルトルの丘で斬首され、自分の頭を手で抱えながらパリの北に向かって歩き、6キロほど行ったときに息絶えたとされている守護聖人です。サン・ドニが息絶えたのが現在その名を持つ街で、歴代のフランス王家の人々のお墓となっているサン・ドニ大聖堂があります。

羊飼いの少女だった
サント・ジュヌヴィエーヴ。

パリの守護聖女とされている聖女サント・ジュヌヴィエーヴは、パリ近郊のナンテールに生まれた羊飼いの少女でした。両親を失った後パリに行き信仰を深めます。451年にフン族の王アッティラが大軍を引き連れてゴールに攻め入ったとき、断食をしながら祈り続け、パリ市民たちを励ましアッティラを退却させ、恐ろしい襲撃から救いました。ジュヌヴィエーヴは28歳でした。

こうした聖遺物が無事かどうかは、発見された風見鶏を開けて中を確認しないと分かりません。その結果を早く知りたいと興奮に包まれているパリです。

2019年4月17日

ノートル・ダム大聖堂 歴史に残る火災の翌日

4月16日、15時間に及ぶ消火活動によって鎮火された後ノートル・ダム大聖堂に向かいました。この歴史に残る出来事を自分の目で確かめたかったからです。

遠方に見えるノートル・ダム大聖堂。
一見いつもと同じ姿に思えます。

バスに乗りシテ島で降りるとすごい人の波に圧倒されました。ノートル・ダムが遠くに見える橋の上は隙間がないほどの人。皆、スマホやカメラを向けて今までと異なる姿をおさめるのに夢中。

大聖堂があるシテ島と学生街をつなぐサン・ミッシェル橋。
遠くに見えるノートル・ダムをカメラに収める人でごった返しています。

遠方から見た限りでは90メートルの尖塔がないだけで、ノートル・ダムはいつもの通り均整が取れた二つのの塔を見せていました。昨夜の燃え上がる炎の形跡はほとんど感じられないほど、静謐な姿。

ノートル・ダムに近づくに従って機動隊の車の数が増えます。

たくさんの人に足も体も取られながら、左岸をセーヌ川沿いに一歩一歩大聖堂に向かって行くと、警察の車が居並ぶ橋が見えてきました。その向こうはノートル・ダム手前の広場。もちろん通行禁止で近づけない。それで、左岸沿いに少しでも大聖堂を近くで見たいと、相変わらず人の波に何度も飲み込まれながら進みました。

ノートル・ダムを守るように警察の車が何台も待機しています。

見えてきました、見えてきました、ノートル・ダムの側面が。誇らしげに空高くのびる尖塔はすっかり姿を消していて、見慣れていた姿ではなかった。そのとき急に衝撃を受けました。体の一部をもぎとられたようなノートル・ダムは寂しそうでした。悲しそうでした。それでも凛とした姿を保っていることに、心は更に痛みました。いかに自分が傷つこうとも、人々のために残された力で立ち続けようとしているように感じられたからです。

美しいステンドグラスで人々の心を打つ大きなバラ窓と、
その上の黒ずんだ小さな窓を目にして、
昨日テレビ画面を通して見た、
あの激しい火災がほんとうの事だったのかと分かり,戦慄が走りました。
ステンドグラスの一部は破損したそうですが、
大部分が残っていると知って安堵しました。

行けるところまで行こうと意を決してさらに進むと、セーヌ河畔に出る階段が見えてきました。そこからだとノートル・ダムの側面全体が見えるのです。まさに絶好の場。その階段に座り込んでじっと大聖堂を見続ける若者がたくさんいて、河畔に着くまでも大変。やっと到着しさっそく記念撮影ではなく、記録撮影。

2019年4月15日の出来事を、翌日しっかりと心に留めました。

今回の消防隊の活躍は誰からも賞賛されています。消防隊員をフランス人は「火の兵士」と呼びます。何てステキな言葉。彼らは兵士のごとくに危険極まりない中に、勇気を糧としながら立ち向かう。この日も火の兵士たちの姿を見かけると、拍手で感謝の気持ちを伝える人がたくさんいました。

消防自動車はノートル・ダム周辺から離れず、
火の兵士たちは休むことなく忙し気に動いています。

大聖堂内に壁を飾っていた数枚の絵は燃えてしまったとはいえ、「茨の冠」そのほかの聖遺品、祭壇の十字架、18世紀の貴重なパイプオルガン、バラ窓、大理石の彫刻も彼らの活躍により難を逃れ、フランスの文化を守ったのですから、賞賛の意を表さないではいられないのです。空から放水すると一度に落ちる大量の水が大きなダメージを与えるので、それを故意に避けセーヌ川の水をホースで放ち続け、15時間後に火を消したのです。しかも負傷者さえも出さずに。伝統を、文化を大切にする国民ならではの知的な作業です。


夜、マクロン大統領はテレビで演説しノートル・ダム大聖堂の再建を、国民が一致団結して皆で実現するのだと語りました。5年以内にとさえ名言したのは、いかに早くフランス人の心の、魂のより所を取り戻したいかの現れです。


2019年4月15日は永遠に記憶に残る強烈な出来事があった日。ノートル・ダム大聖堂の激しく燃え上がる火は、フランス国民に愛国心の火を蘇らせたと思えてなりません。大企業からの高額な寄付金は後を絶つことなく続いているし、国民も金額にかかわらず寄付を続けるでしょうし、私もそれに参加します。


パリの歴史が始まったシテ島。そこに建築されたノートル・ダムはパリに暮らす人々の心のふるさとなのです。忘れえぬ大切な故郷です。

2019年4月16日

ノートル・ダム大聖堂 火災で尖塔と屋根を失う


4月15日夜8時。ニュースを見るためにテレビをつけると、ジャーナリストの後ろの画面に、真っ赤な炎を空に向けて勢いよく放っているノートル・ダム大聖堂の映像が映っていました。あまりの衝撃にそのときから3時間、テレビの前から動くことなく実況中継に釘づけ。

この日は、昨年11月から続いているジレ・ジョンヌの要求と、全国各地を回りながら一般国民との大討論会を終え、マクロン大統領が新たな政策をテレビで発表することになっていたのです。どのような改革をするのか興味津々だったので、早めにテレビを付けたら火に包まれるノートル・ダム大聖堂火災の特番に変更されていたのです。マクロン大統領は予定のテレビ演説をせず、一大事とばかりに急遽、首相らを伴って燃え盛る大聖堂へと向かい、腕組みしながら厳しい表情で消火の様子を見ていました。

火災が発生したのは夕方6時50分ころで、正確な原因はまだ判明していませんが、修復工事中だったのでそのあたりの可能性が強いそうです。

大聖堂の界隈は当然のことながら黒山の人だかり。中にはニュースで火災を知り急いで来た人も多くいたようです。尖塔が炎に包まれながら二つに折れ、屋根の上に崩れたときには悲鳴があがり、泣き出す人もいたし、ロザリオを握りしめる女性もいました。あまりの出来事に誰もが声を失い、ただ茫然と見つめるばかり。その内、讃美歌が聞こえてきました。その清らかな歌声は徐々に広がり合唱となり、心を慰めている感動的な場面もテレビで放送していました。

1163年に建築が開始され、革命で破損した部分があるとはいえ、第二次世界大戦を生き抜いたノートル・ダム大聖堂は、パリ市民の、というよりフランス国民の心の支えなのです。尖塔と屋根は燃えてしまいましたが、二つの塔、きめ細やかな彫刻をほどこした正面、ゴシック建築の象徴の美しい飛び控は無事のようで心からよかったと思っています。

そして何よりも、大聖堂の宝物庫に保管している「茨の冠」が最初に運び出されたと知って安堵しました。キリストがゴルゴダの丘で命を終えたときに被せられていた「茨の冠」です。この聖遺物が宝物庫から出され身廊で拝観できると知った時、長い行列を作って間近に見たことがあります。思ったより小さかったことを覚えています。

マクロン大統領は再建を約束し、すでにフランスの大手企業が多額の寄付を発表しています。今後は個人寄付もあると思うし、聖母マリアさまに捧げる壮麗なノートル・ダム大聖堂再建に、フランス国民が一致団結して取り組むと信じています。非常事態には驚異的速さで団結する国民なのです。

2019年4月15日

パリの犬たち 196

ちっとも通じない

あっちに行きたいの。
ねえ、あっちに行きたいの~、あっちにィ。
精一杯の力であっちに引っ張って行こうとしても、
ぜんぜん効果がないの。

こういう場合、主導権は誰にあるの?
パパ、それともワタシ?
ふかく、ふかく、ふか~く考え込んでいるの。

2019年4月14日

パリもお花見のシーズン

日本では桜が満開でどこも大変な賑わいのようですが、パリもきれいなお花があちらこちらで咲き誇っています。やはりピンク系に惹かれます。

カラスも空を舞いながらお花見。
この木が多いのですが、悲しいかな日本名は分かりません。
フランス語ではジュデの木。
池のほとりで左右対称に並ぶカモ。とってもかわいい。
ピンクのお花は春のシンボルのように思えます。
まだ肌寒いパリですが、お花がきれいだから寒さも気にならない。

2019年4月13日

節子 クロソフスカ・ド・ローラさんの個展

多才な節子さんの個展がパリで開催されています。
以前は絵が多かったのですが、数年前から陶器を手がけ、特有の感性を織り込んだ作品は高く評価されています。

節子さんを囲んで、
陶器の老舗オーナーのブノワ・アスティエ・ド・ヴィラットさんと。

ブロンズも手掛けたいとおっしゃていたので、今回そうした新分野の作品も拝見出来るかと楽しみにしていました。今後はブロンズを増やしていくそうで期待が膨らみます。

ヴェルニサージュの間、多くの人から質問を受け和服姿で丁寧に説明し続け、お疲れかと思ったらとんでもない。その後レストランでディナーパーティーがあり、そこでもほとんど立ったまま。真夜中まで楽しくご一緒させていただきました。

最新作の陶器とほのぼのとした温かさあふれる絵。

自然をテーマとした品格あるオブジェ。
和室にも洋室にも合いそう。
スイスのお住まい。ウイークエンドを過ごさせていただいた、
懐かしい思い出がよみがえります。
多くの方がヴェルニサージュに出席。
節子さんと談笑し時が経つのも忘れます。

2019年4月11日

ギュスターヴ・モロー美術館

4月から11月まで日本の3都市でギュスターヴ・モロー展が開催されます。私が好きな画家のひとりで、パリのギュスターヴ・モロー美術館に何度か行きましたが、この機会に再度ゆっくりと訪問。

二つの階にモローの作品が多数展示されていて、
幻想的な雰囲気が漂っています。

代表作の一つ「レダ」

「刺青のサロメ」のディテール。

「人類の生」

モローが使用していたパレットや筆も展示されています。

美術館はモローのアトリエ兼住まいだった館で、子供がいなかった彼は、自分亡き後館と全ての作品を国に寄付するかわりに美術館にしてほしいと頼みます。膨大な数の作品の展示方法を自ら細かく指示し、それに従って二つの階にびっしり展示されているその空間は、神話や聖書を題材とした幻想的な作品が生む独特な雰囲気があふれていて、幻夢の世界へと誘います。モローの作品は大きいので、それらに囲まれていると不思議な世界へ入りこんだような印象を受けます。

モローが生涯を閉じた寝室。
以前は彼の母の寝室だったのですが、
母に格別な愛着を抱いていたモローは彼女亡き後、
部屋の装飾を一切変えることなく暮らしていました。
母親生存中はこの部屋がモローの寝室で、
母亡き後彼女の寝室を自分用にし、
ここを話し相手でミューズだったアレクサンドリヌの部屋にしました。
彼女がコレクションしていた様々なオブジェはそのまま残っています。

ギュスターヴ・モロー美術館では画家が暮らしていたアパルトマンも訪れることができるのが貴重です。一つ一つの家具やオブジェがモローと生活を共にしていたかと思うと、彼の吐息が感じられるようで、絵を鑑賞するのと異なる感動を覚えます。