フランスの偉大な政治家であり、 女性の地位向上に偉大な貢献をなした シモーヌ・ヴェイユ。 この自伝の中で波乱に富んだ人生を 感動的に語っています。 貴重な写真も多く、大切にしている本です。 |
その様子はテレビで実況中継され、私も画面の前に釘付けになっていました。
理知的な美貌の持ち主で、 後年に、そのために命拾いしたと語っています。 アウシュヴィッツ強制収容所にとらわれている間に、 そこで監視員をつとめていたポーランド女性が、 シモーヌの美しさに打たれ、 あなたのような美人は死んではいけないと言います。 そして彼女のお陰で、 アウシュヴィッツよりはるかに居心地がいい収容所に、 母と姉と一緒にシモーヌは移ることができたのです。 |
父と兄は捕まった後、消息不明。母と二人の姉と強制収容所で厳しい日々を生きている間に、母は亡くなります。
戦後、開放された彼女はバカロレアに合格したことを知り、法律を専攻し、政治学院でアントワーヌ・ヴェイユと知り合い、結婚。3人の息子に恵まれます。
不幸はヴェイユ女史を追いかけることをやめず、同じ強制収容所で励ましあいながら生き延び、無事にフランスに戻った姉マドレーヌが交通事故で突然世を去ったのです。その後、ヴェイユの末の息子も病で若い生涯を閉じます。
度重なる不幸に打ち勝ちながら、シモーヌ・ヴェイユは女性政治家として目覚ましい活躍をし、長年保健相を務め、勇気を持って妊娠中絶を合法化。
あらゆる機会に女性への差別を取り除く努力をパワフルに、けれども、常に女性であることを意識しエレガントな装いを保ちながら続けていました。
後年には欧州議会の初代議長に就任し、さらにフランス憲法評議会評議員を務め、政治と女性の地位向上に全勢力を傾けた人。
過酷な経験をしたヴェイユ女史は、平和がいかに重要であるか、機会があるたびに訴え、過去の敵ドイツにも積極的に接近し、ヨーロッパ諸国の融合を強く望んでいました。
2013年に政治家であり高級官僚だった夫を亡くして以来、人前に出ることがなかったヴェイユ女史は、科学の発展にもつくしました。
フランスのパストゥール研究所とイスラエルのワイズマン研究所による、ガン合同研究委員会が女史の発案で1974年に生まれたのです。
その基金募集のガラ・ディナーを、オペラ座とヴェルサイユ宮殿で交互に開催。バレーやオペラ、クラシック演奏に続くディナーが終わるのは、いつも夜中の1時、2時。
政治家、歌手、俳優女優など多彩な顔ぶれのゲストを迎え、メディアが大きく取り上げるので話題になっていました。
いつからかこのガラ・ディナーのご連絡をいただくようになり、ほとんど出席させていただいていました。
ヴェイユ女史は毎回のガラ・ディナーの初めにあいさつし、何度か遠くから知性に富む凛とした姿を拝見していました。私が会員になっているファム・フォロムの特別ゲストにお迎えして、同じレストランで会食したこともあります。
11月に受け取ったガラ・ディナーのご案内状。 |
女史へのオマージュのガラ・ディナーは、12月20日、プレイエル・コンサートホールで開催されました。
早めにプレイエル・ホールに着くと、機関銃を手にした数人の兵士が入り口で待機し、機動隊の車も見える。重要人物が出席する場合にはかなり厳重な荷物検査があり、招待状や身分証明書のチェックも厳しい。
もしかしたら、政府関係の方がいらっしゃるのかも、と思っていたら、やはりそうでした。
司会をつとめたテレビの人気トップのニュースキャスターが、挨拶で語ったのです。保健相、経済相、駐仏イスラエル大使がお出になっているのです。
フランス共和国親衛隊の華やかな演奏が、ソワレ開始を告げます。 |
ヴェイユ女史の愛息、ジャン・ヴェイユ弁護士が、 母へのオマージュの始まりを感慨深く見つめていました。 すぐお隣でその光景を拝見できたのはこの上ない光栄です。 |
演奏後、写真を撮らせていただきました。 女史に驚くほどそっくりで、 感動しないではいられませんでした。 |
ピアノの演奏がそれに続き、デイナーが始まったのは夜10時過ぎ。
プレイエル・ホールの中に特別に設置されたディナー会場。 シックで気品があり、女史へのオマージュのエスプリが感じられます。 |
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