2018年3月23日

メトロの駅名は語る 77

Le Peletier
ル・ペルティエ(7号線)

18世紀の政治家ルイ・ル・ペルティエ(1730-1799)が駅名になっています。侯爵の称号を持つル・ペルティエは、1784年からパリ市長を務めていました。

彼がその地位をおりたのは、革命が起きた1789年で、群衆がバスティーユ牢獄を襲撃する前でした。

その後、市長になったのは、貴族のジャック・ド・フレッセルで、同年4月21日でした。

その年の7月14日、バスティーユ牢獄が群衆の手におち、バスティーユの司令官が殺され、勢いに乗った群衆たちはパリ市長舎に向かい、フレッセル市長も同じ運命を辿ります。
彼がパリ市長だったのは、3カ月たらずでした。

このようにル・ペルティエは、危ういところで命拾いしたのです。


右の建物が、
ル・ペルティエが市長を務めていた時代のパリ市庁舎。
その手前の広場で花火があげられ、市民たちが喜びにひたっているデッサン。

この広場でも、革命で捕らえられた多くの貴族が処刑されました。


ル・ペルティエは9区の道路にもその名を残しています。
ル・ペルティエ通りには、後年、オペラ座が建築され、現在見られるパリのオペラ・ガルニエが誕生するまで、華やかな存在でした。


1821年に建築された、ル・ペルティエ通りのオペラ座。

豪華なオペラ座内部。1854年。


ドガはオペラ座に足蹴しく通い、踊り子たちの絵を多数描きました。


ル・ペルティエ通りのオペラ座での
バレリーナたちの練習風景を描いたドガの作品。1872年。

その後、ドガは新たに建築されたオペラ・ガルニエで
踊り子たちの絵を描き続けます。
このオペラ座は、1873年10月29日に火災で姿を消し、1875年に現存するオペラ・ガルニエがオープンします。

余談ですが、オペラ座というと、マリー・アントワネットとフェルセンの出会いの場となっていますが、それはル・ペルティエでもガルニエでもありません。

当時のオペラ座はパレ・ロワイヤルにあったのです。残念ながら1781年に火災にあって何も残っていません。

ル・ペルティエは引退後マレ地区の邸宅に暮らし、そこで生涯を閉じます。

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