ルドリュ=ロラン(8号線)
19世紀の政治家ルドリュ=ロランに捧げられている駅名。
アレクサンドル・ルドリュ=ロラン。 (1807-1874) |
パリ4 区のブルジョアの家庭生まれのアレクサンドル・ルドリュ=ロランが、弁護士になったのは22歳の時で、徹底した共和主義者でした。
議員になった34歳の時、最左翼の急進共和派を形成。それまで選挙権を持っていなかった労働者や農民にも、選挙権を与える普通選挙を実現すべきだと説きます。
本物の共和国設立に情熱を注ぐルドリュ=ロランは2年後、急進共和制を広めるために、新聞「改革」を発行し、多くの賛同者を得ます。
1848年2月24日。民衆がチュイルリー宮殿を占拠。 |
1848年2月24日に二月革命が起きた日、ルイ・フィリップ国王一家は チュイルリー宮殿から衛兵に守られながら無事に脱出し、イギリスに亡命。 ルイ・フィリップはその地で生涯を閉じます。 |
1848年2月24日、二月革命が起きルイ・フィリップ国王の王政が廃止され、第二共和制が生まれ、ルドリュ=ロランは臨時政府の内務大臣になります。
その後大統領選に立候補し、皇帝ナポレオン一世の甥ルイ・ナポレオンと競い合います。ルイ・ナポレオンは叔父の人気を利用し圧倒的支持を得て大統領に選出されます。その勢いに乗ってクーデターを起こし皇帝になり、ナポレオン三世を名乗り第二帝政が始まりました。
ナポレオン3世皇帝と妃ウジェニー。1865年。 |
けれども、1870年、ナポレオン三世は普仏戦争で破れ失脚しロンドンに亡命し、生涯を閉じます。
普仏戦争で第二帝政が崩壊し第三共和制が生まれ、その時代にルドリュ=ロランはフランスに戻ります。再度議員に選出されましたが、目立った活躍をすることなく67歳の生涯を閉じました。
晩年のルドリュ=ロラン。 |
このように二月革命と第二共和制の立役者だったルドリュ=ロランの名は、パリのメトロの駅名になっているだけでなく、パリ、マルセイユ、ランスなど多くの主要都市の道路名にもなっています。
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