2019年11月14日

メトロの駅名は語る 139

Porte de la Chapelle
ポルト・ド・ラ・シャペル(12号線)

パリの北にあったラ・シャペル村から生まれた駅名で、この村は後年にパリ市の仲間入りをしました。

パリ市に合併される前のラ・シャペル村。

歴代の王家の埋葬地になっているサン・ドニ大聖堂とパリの間にあったラ・シャペル村は、かつて巡礼の旅で栄え、その後14世紀から革命が始まる18世紀末までは、裕福な人が別荘を持っていた牧歌的情緒あふれる村でした。

パリ、ノートル・ダム大聖堂の
サン・ドニ像。

パリの守護神とされている
サント・ジュヌヴィエーヴ。

ラ・シャペルが素朴な村だった5世紀のこと。パリを外敵の侵略から救ったサント・ジュヌヴィエーヴが、475年に礼拝堂を建築させました。250年にここで殉死したパリ最初の司教サン・ドニを葬るためです。キリスト教を布教していたサン・ドニは、モンマルトルの丘で斬首されましたが、切り落とされた自分の頭を手にしながらパリの北に向かって歩き、ラ・シャペル村で息たえたとされています。約200年もの間、粗末に扱われていたサン・ドニは、サント・ジュヌヴィエーヴによって、やっとその業績にふさわしい礼拝堂に手厚く葬られたのです。巡礼の旅はその時から始まり、サン・ドニの遺骸がこのシャペルに葬られていた636年まで続きます。

7世紀の国王ダゴベルト1世が、そこからさらに北に行った地にサン・ドニ修道院を建築させ、サン・ドニの遺骸を移し、自分亡き後そこに葬るよう指示します。それ以降、歴代の王家の埋葬地となったのです。それが現在のサン・ドニ大聖堂です。ラ・シャペル村への巡礼は終わりを告げ、パリ郊外の静かな村となります。ラ・シャペル村は1229年にサン・ドニに所属する村となり、1860年パリ市に合併されました。


ジャンヌ・ダルクを描いた唯一のデッサンといわれています。
歴史的に特に興味があるのは、ラ・シャペル村の宿にジャンヌ・ダルクが泊まったことです。イギリスとの100年戦争で窮地に陥っていた当時の王太子シャルルから軍をまかされたジャンヌ・ダルクは、奇跡的に戦いを勝ち取り、1429年、ランスのカテドラルでシャルル7世が正式に国王になる戴冠式を見届けます。

1429年9月8日、
パリのサン・トノレ門で戦うジャンヌ・ダルク。

その後、イギリスに支配されていたパリを解放するために、9月3日ジャンヌ・ダルクは数人の貴族及び軍隊と共にラ・シャペル村の宿に宿泊。8日、パリのサン・トノレ門を目指して進軍しましたが、敵の矢を脚に受けラ・シャペル村の宿に引き返します。国王シャルル7世は戦いを続けたいと主張するジャンヌ・ダルクに、サン・ドニ修道院(後のサン・ドニ大聖堂)で手当てを受ける命令を出し、数時間後に軍を退却させたのでした。


ジャンヌ・ダルクがパリに進軍する前に
近郊のラ・シャペル村に宿泊。
その間に村のサン・ドニ・ド・ラ・シャペル教会で、
ジャンヌは神に祈りを捧げました。
入り口の左のジャンヌ・ダルクの像と、記念のプレート。
ジャンヌ・ダルクが宿泊したラ・シャペル村の宿は消え去りましたが、パリに進軍する前に祈りを捧げたサン・ドニ・ド・ラ・シャペル教会が、その後何度か手が加えられたとはいえ、今でも当時の一部が残っているのは幸いなことです。この教会は12世紀に建築され15、19、20世紀に改築されたと記録が語っています。信仰深いジャンヌ・ダルクは1429年9月6日、7日、8日にこのシャペルで祈りを捧げたそうです。

このように歴史的に重要な出来事を刻んでいるラ・シャペルは、今はパリ18区となり、多くの難民が暮らしていて社会問題になっています。

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