ポルト・ド・ラ・シャペル(12号線)
パリの北にあったラ・シャペル村から生まれた駅名で、この村は後年にパリ市の仲間入りをしました。
パリ市に合併される前のラ・シャペル村。 |
歴代の王家の埋葬地になっているサン・ドニ大聖堂とパリの間にあったラ・シャペル村は、かつて巡礼の旅で栄え、その後14世紀から革命が始まる18世紀末までは、裕福な人が別荘を持っていた牧歌的情緒あふれる村でした。
パリ、ノートル・ダム大聖堂の サン・ドニ像。 |
パリの守護神とされている サント・ジュヌヴィエーヴ。 |
ラ・シャペルが素朴な村だった5世紀のこと。パリを外敵の侵略から救ったサント・ジュヌヴィエーヴが、475年に礼拝堂を建築させました。250年にここで殉死したパリ最初の司教サン・ドニを葬るためです。キリスト教を布教していたサン・ドニは、モンマルトルの丘で斬首されましたが、切り落とされた自分の頭を手にしながらパリの北に向かって歩き、ラ・シャペル村で息たえたとされています。約200年もの間、粗末に扱われていたサン・ドニは、サント・ジュヌヴィエーヴによって、やっとその業績にふさわしい礼拝堂に手厚く葬られたのです。巡礼の旅はその時から始まり、サン・ドニの遺骸がこのシャペルに葬られていた636年まで続きます。
7世紀の国王ダゴベルト1世が、そこからさらに北に行った地にサン・ドニ修道院を建築させ、サン・ドニの遺骸を移し、自分亡き後そこに葬るよう指示します。それ以降、歴代の王家の埋葬地となったのです。それが現在のサン・ドニ大聖堂です。ラ・シャペル村への巡礼は終わりを告げ、パリ郊外の静かな村となります。ラ・シャペル村は1229年にサン・ドニに所属する村となり、1860年パリ市に合併されました。
ジャンヌ・ダルクを描いた唯一のデッサンといわれています。 |
1429年9月8日、 パリのサン・トノレ門で戦うジャンヌ・ダルク。 |
その後、イギリスに支配されていたパリを解放するために、9月3日ジャンヌ・ダルクは数人の貴族及び軍隊と共にラ・シャペル村の宿に宿泊。8日、パリのサン・トノレ門を目指して進軍しましたが、敵の矢を脚に受けラ・シャペル村の宿に引き返します。国王シャルル7世は戦いを続けたいと主張するジャンヌ・ダルクに、サン・ドニ修道院(後のサン・ドニ大聖堂)で手当てを受ける命令を出し、数時間後に軍を退却させたのでした。
ジャンヌ・ダルクがパリに進軍する前に 近郊のラ・シャペル村に宿泊。 その間に村のサン・ドニ・ド・ラ・シャペル教会で、 ジャンヌは神に祈りを捧げました。 |
入り口の左のジャンヌ・ダルクの像と、記念のプレート。 |
このように歴史的に重要な出来事を刻んでいるラ・シャペルは、今はパリ18区となり、多くの難民が暮らしていて社会問題になっています。
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