ついに来るべきことが来ました。
マクロン大統領の声明が発表された日のランチタイムに、 その内容が予測できたのでレストランも閑散。 |
いい雰囲気を出すために、 いろいろ工夫を凝らしているのに こうしたテラス席もNG. |
マクロン大統領の声明が発表された日のランチタイムに、 その内容が予測できたのでレストランも閑散。 |
いい雰囲気を出すために、 いろいろ工夫を凝らしているのに こうしたテラス席もNG. |
国道14号線とルート・ド・ラ・レヴォルトが交差するプレイエル交差点近くの駅で、カルフールは交差点という意味。
イニャス・プレイエル (1757-1831) |
プレイエルはオーストリアの著名な作曲家で、フランスではイニャス・プレイエルと呼ばれ、ドイツ語ではイグナツ・プライエルとなります。後年にフランス国籍を取得しています。プレイエルのピアノを製作していたのが、この交差点近辺だったのです。
プレイエルは教師の息子として生まれ、ハイドンに弟子入りし音楽の才能を認められ、その後日の出の勢いで出世し、1783年、ストラスブール大聖堂の楽長になります。フランス革命で職を失ったプレイエルはロンドンに亡命し、パリに暮らすようになったのは革命後でした。
1797年に音楽出版社を設立したプレイエルは39年間に4000もの作品を出版。その中にはハイドンやベートーベンの作品もありました。1807年になると今度はピアノ製造会社を設立し、成功をおさめます。
ブリュッセルの楽器博物館に展示している 1831年製作のプレイエル・ピアノ。 |
4人の子供に恵まれ、長男も音楽家で引退した父のあと継いでピアノ製造会社を発展させただけでなく、1830年、コンサートホールをオープンしています。9区の150席の小さなホールでしたが、ショパンもリストもそこで演奏しています。ピアノの詩人ショパンはプレイエル・ピアノを愛用し、現在、ワルシャワのフレデリック・ショパン博物館にも展示されています。
その後サル・プレイエルはロシュシュアール通りに移転し、550席ある大きなコンサートホールになり、ショパンは1848年2月16日、最後のコンサートをそこで開催し、その翌年10月18日、パリで39歳の若い生涯を閉じます。
ロシュシュアール通りにあったサル・プレイエル。 ここでショパンは最後のコンサートを開催。 |
サル・プレイエルの経営と場所はその後変わり、現在は8区のフォブール・サントノレにあり2000席近い立派なコンサートホールです。このようにプレイエルの名は常に音楽と共にあり、不朽です。
お花が大好きだった賢三さんに捧げる、 たくさんの鮮やかなブーケ。 |
10月9日午後、パリ市内にあるペール・ラシェーズ墓地で、賢三さんに最後のお別れを告げる追悼式がおこなわれました。
コロナの問題があるので、出席者は少人数で全員マスク着用。当然、黒い装いが多く、私も黒いダウンコートを着ましたが、賢三さんからいただいた、彼がデザインした鮮やかな花柄のスカーフを、控えめに内側に巻きました。
追悼式が行われる建物の外階段には、カラフルなお花が飾られていました。友人やモード界関係者から届けられたそうしたブーケは、楽しいことやキレイなものが好きだった賢三さんにふさわしく、華やぎを感じるほどでした。
祭壇には賢三さんのお写真が飾られていました。若いころの姿で、長髪をなびかせ、あふれるほどの笑顔。パリを愛しパリから愛された賢三さんが、いかにも幸せそうで救われる思いでした。
振り返ってみると、2月27日の81歳のバースデーに招待されたのと同じメンバーが、この追悼式に出席したようです。そのバースデーに色紙が用意されていて、全員がお祝いの言葉を綴ったのが思い出されます。今までそのようなことがなかったので、不思議でした。忙しい友人たちが、ほぼ全員集まったのも不思議です。
賢三さんが亡くなったのはメゾンを創立した50年記念の年で、しかもパリコレの最中でした。モードを身近な楽しみにし、装う喜びを一般大衆に味わわせてくれ、色彩豊かな人生を送ったケンゾーさん。その名はモードが語られるたびに口にのぼり、生き続けるでしょう。
賢三さん、たくさんの楽しい思い出をありがとう。50年以上パリに暮らしていたデザイナー、高田賢三さんが10月4日、パリ近郊の病院アメリカン・ホスピタルで永遠の眠りにつきました。
賢三さんとの思い出は数限りなくあり、そのひとつひとつが今では大切な宝物のように思えます。賢三さんの業績は今更振り返る必要がないほど、世界中で知られています。女性たちに気軽に装う喜びを与えてくれた賢三さんは、作品と同じように親しみ深く、屈託のない大きな笑顔は、年齢に関係なく青年そのものでした。
賢三さんに最後にお会いしたのは、彼の81歳のお誕生日の2月27日でした。自宅に50人ほど招待して、ミュージシャンのライヴ、TOYOのシェフによる絶品、至る所に飾られた花々、顔なじみの親しい友人たち・・・会話がはずんだ楽しいソワレに顔をほころばせていた元気そうな姿が、思い出されます。
賢三さんのバースディ・パーティーで、 建築家のエドを囲んで記念写真。 賢三さんにお会いした最後になってしまいました。 賢三さんとマリアンヌと 3人でよくお食事をしたものです。 もちろんバースディ・パーティーに欠かせない人。 2月末にはこんなにお元気だったのです。 |
そのときにすでにコロナウイルスが話題になっていましたが、まだまだ深刻な状況ではないので、みな、賢三さんを囲んでおしゃべりしたり、時には踊ったり。その後コロナが加速度的に広がりフランスはロックダウンを発表。
その間お会いできないので、何度かお電話で「毎日、どうしてる?」などと話し会っていました。ロックダウンが解除されても、用心深い賢三さんはレストランにもほとんど行かないで、健康管理をしていたのです。でも、夏のヴァカンスくらいちょっと楽しみたいと、賢三さんは2ヵ所で夏を楽しみ、パリにもどってから、お電話でお話したのが9月半ば。それが賢三さんとの最後の会話でした。
「ファッションは楽しくなくてはいけない」と語っていた賢三さん。笑顔が飛び切りチャーミングで誰にも優しく、パリに住む日本人でもっともパリらしい人だった賢三さん。太陽のような存在だった賢三さんがいないなんて、実感が湧きません。パリも私も、その他賢三さんを知っている人は、みな、泣いています。
ご冥福を心からお祈りいたします。
コロナウイルスでロックダウンが続き、それが緩和されたとはいえ不安で、レストランからもソワレからも遠ざかっていたけれど、今回だけは別。何しろ親しい友人が、私のバースデイを自宅でお祝いすると言ってくれたのだから。
バースデイの10日ほど前に連絡があり、「招待したい人は何人? 準備があるから知りたい」と聞かれて、一瞬、とまどいました。なぜって、マスクが義務づけられ、ソーシャルディスタンスも守らなくてはいけないこの時期に、たくさんの人は呼びたくないし、コロナにかかっていない人を選ばなければならないのだから、複雑。結局、私を入れて全員で5人にしました。
バースディをお祝いしてくれた、 長年の友人エルヴェ。 |
彼の愛猫ジュルのお迎えがうれしいニャー。 |
彼の新しいアパルトマンに行くのは初めてなので、興味津々。インテリアのアーティストで、こだわりも超一流だから、きっとすごいに違いない。その期待は裏切られるどころか、想像以上。17世紀の旧邸宅を4年もかけてリニューアルした結果は・・・・息をのむほど洗練されている!!! アンティークとコンテンポラリーの家具が共存しながら、パリにふさわしいアンビアンスを漂わせていて、私好みのインテリア。
アントレはフォアグラ。 |
メインはカモ料理。 |
デザートは特製ケーキ。 |
まず、アパルトマンの探検をした後、シャンパーニュのアペリティフをグラン・サロンでいただいて、その後ダイニングルームでお食事。それが終ったらまた場所を変え、プティ・サロンでティータイム。そうなのです、お部屋がいくつもあるひろ~いひろ~いお住まいなのです。そんな豪邸でバースデイをお祝いしてくれるなんて、何てステキなアイディア。
やはり持つべきものは良き友ですね。
パリ中心にあるチュイルリー公園に、突然、大きな鉢に入れられた楡の木の整列が見えてびっくり。公園中央の幅広い散歩道に並ぶその木の数は92本と、半端ではない。なぜ楡の木がこんなにたくさん? と気になって調べてみると、ルイ14世の時世の庭園を再現しているそう。
整然と並ぶ木で、いつもと違う雰囲気。 |
親政を開始した23歳のルイ14世 (1638-1715) |
1682年に国王ルイ14世が宮廷をヴェルサイユ宮殿に移すまで、ルーヴル宮殿は重要な居城でした。そのために宮殿から延びるチュイルリー庭園は重視されていました。当時は公園ではなく、チュイルリー庭園と呼ばれていました。それは、ルーヴル宮殿の西側に、16世紀、カトリーヌ・ド・メディシスの命令によって宮殿が建築され、チュイルリー宮殿と命名され、その庭園だったために「チュイルリー庭園」だったのです。現在は一般に公開されている28ヘクタールの優美な公園です。
アンドレ・ル・ノートル (1613-1700) |
この庭園が造られたのは1664年、ルイ14世の時代で、当時の卓越した造園家アンドレ・ル・ノートルが手掛けました。ル・ノートルはヴェルサイユ宮殿にフランス式庭園を実現し、世界に名を轟かせた人物。ヨーロッパの多くの君主が羨ましがり模倣したフランス式庭園の特徴は、平面幾何学式。庭園の中央を直線が貫き、遠方まで見渡すことができ、力強さが感じられます。それは権力と秩序の象徴でした。
17世紀のチュイルリー庭園。 軸となる中央に幅広い散歩道があり、遠方まで見渡せます。 両サイドに木が左右対称に並べられていました。 |
フランス式庭園のチュイルリーの軸となる中央には、ルイ14世の時代に楡の木がシンメトリックに並べられていました。それを今回再現したのです。突然登場した整然と並ぶ楡の木をまじかに見ながら、かつての王朝時代のアンビアンスを多少でも味わえるのは、心地よいことです。パリ市民の憩いの場、チュイルリー公園にさらなる楽しみが生まれました。
すっとこのままでもいいくらい。 |