2024年2月1日

マリー・アントワネット自叙伝 18

 ついにデュ・バリー夫人に声をかけました

メルシー大使作の劇を演じるのは、わりと簡単なことのように思えました。シェーンブルン城では年中祭典があって、子供の頃からいろいろな役をこなしていた私は、舞台慣れしていました。だから、必ずうまく演じられると確信していたのです。


劇の筋書きはとってもシンプル。 日曜日の恒例のトランプゲームが終わりに近づいた時に、メルシーがデュ・バリー夫人に話しかけ、偶然そのそばを通りかかっていた私がメルシーに言葉をかけ、ついでにデュ・バリー夫人にもひとこと挨拶する。自然な成り行きでそうなったことにするのだから、簡単にできそう。これなら私の自尊心が傷つけられることもないので、この役を引き受けました。


メルシーの喜びは想像以上で、これが大人の男性にふさわしいのかと思ってしまうほど有頂天。そしていよいよ実行の日、なぜか急に心配になった私は、思わずメルシーに言いました。

「ムッシュー、何だかとても怖いのです。でも、安心してください。必ず話しかけますから」

尊敬しているお母さまのためですもの、これくらいの事はしなくては 。

メルシー大使が暮らしていたパリの館。
モンマルトル大通りの瀟洒な貴族館で、この建物の2階です。

ルイ15世の相談役、ラボロド侯爵が建築させた館で、
後に有能な銀行家になり、豪奢な邸宅をいくつも持っていて、
そのひとつにメルシー大使が暮らしていたのです。

ゲームが終わると、私はいつもの通り、貴族夫人たちに愛嬌を振りまきながらあちこち回りました。そして、デュ・バリー夫人とメルシーが言葉を交わしているのが見えたので、近づいて、ひと言声をかけようとしたその瞬間、最年長の叔母さまのアデライード王女さまが、まるで軍人が部下に言うように、鋭い声で命令を下したのです。

「もう時間です、行きましょう。妹のヴィクトワールのお部屋で王をお待ちするのです」

メルシーの筋書きになかったことが起きて、すっかり気が動転した私は、急ぎ足でその場を離れました。


この出来事をメルシーがお母さまに報告しないわけがありません。国務で忙しいのに、すぐにお小言の手紙が届いたのです。ほんとうにマメなお母ま。

複雑な情勢の中でお兄さまと一緒に
オーストリアを統治していたお母さま
マリア・テレジア。

当時お母さまは、大きな決定を迫られていたようです。それはポーランドをめぐる問題で、プロセイン国王フリードリヒ2世とロシア女帝エカテリーナ2世が、一緒にポーランドを分割しようと持ち掛けてきたこと。

組む相手はどちらもすご腕で破格の野心家。危険満載の交渉なのに、お母さまと共同で国を治めていた若いヨーゼフお兄さまは、すぐにでも賛成しようと考えていました。長年女帝の地位にあって、多くの経験を積んでいたお母さまは、なかなか決断を下せないでいました。ポーランドと親しくしていたフランス国王が、ポーランド分割を快く思わないかもしれない、と考えたのです。


ルイ15世のお妃は、ポーランド元国王のプリンセスだったから、無理もないことです。娘が嫁いで絆が強くなっているから、多分ルイ15世は黙認してくれるだろうと思っていた矢先に、私が国王最愛のデュ・バリー夫人を怒らせてしまったのです。


ルイ15世はもうこれ以上我慢できないと、今や不機嫌が最高潮。これでは、フランスとオーストリアの関係が悪化してしまう。何が何でも娘を説得して、デュ・バリー夫人に声をかけさせねばならない。そう思ったお母さまは、私に長いお手紙を書いたのです。皇太子妃の自覚をしっかり持って、フランスとオーストリアのために役立つことを優先すべきです。自分の娘であるからには、それができるといった内容の文に打たれた私は、愛するお母さまの事だけを思って、意を決して実行することにしました。


それをどの日にするか、いろいろと考えて、1772年1月1日の鏡の回廊での新年のあいさつの時、と決定しました。

いつもよりきれいな装いで、いつもより数倍優美なデュ・バリー夫人の左右には、デギュイヨン公爵夫人とミルポワ元帥夫人がいました。まずデギュイヨン公爵夫人にご挨拶し、その後デュ・バリー夫人に声をかけました。これが一番自然だと思ったからです。

ヴェルサイユ宮殿で一番広い鏡の回廊。
重要な行事がいくつも行われていました。


「今日はヴェルサイユに、たくさんの人がいらっしゃること」

私が言ったのはそのひと言だけ。

その後ミルポワ元帥夫人にご挨拶し、他の貴族夫人にも次々に笑顔を振りまきました。自分ながら上手に事を運べて、義務を果たした私はほっとし、国王とデュ・バリー夫人は、当然、大喜び。


皇太子妃がついに愛妾に声をかけたと、宮殿はハチの巣をつついたように大騒ぎ。でも、正直言って私は敗北感で心が真っ暗だったのです。ただひたすら、これでお母さまのために良いことをしたと思うことで、自分を慰めていました。ポーランド分割はその年の夏に実現し、オーストリアの領土が少し増えましたが、叔母さまたちの怒りは言葉で表せられないほど大きく、この日を境に私の敵となったのでした。


今後どんな試練が待っているかわからない。でも、これからは自分の考えで行動しようと、心の中で強く誓いました。フランスの宮廷は、私が想像していたより、はるかに複雑なのです。

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