フランス海軍士官ラ・ぺルーズ伯爵が、ルイ16世から太平洋探検を命じられたのは1785年。4年後の1789年6月にはフランスへ戻る計画だったのが、探検の途中で消息を絶ってしまう。案じた国王は「ラ・ぺルーズの情報はないのか」とずっと心配していたのです。しかも処刑の寸前までだったという。国王は科学と地理学に大きな興味を持ち、知識も豊富だった。
1785年6月26日、ルイ16世は自分の図書室にラ・ぺルーズを呼び、 太平洋探検を命じ、長時間かけて計画を綿密に立てました。 |
ラ・ぺルーズ伯爵(1741-1788) |
ラ・ぺルーズ伯爵率いるフリゲート艦、ブッソル号とアストロラブ号は、1785年8月1日ブルターニュ地方のブレスト港を出港。チリ、カリフォルニア、アラスカ、日本、カムチャッカ半島などをまわり、その後、太平洋の島々を探検し、さらにオーストラリアへと向かい、そこで突然消息を絶ってしまう。
フリゲート艦、ブッソル号とアストロラブ号。 アラスカを通過したときの絵とされています。 |
それ以前に、ラ・ぺルーズはカムチャッカ半島で部下のひとりバルテルミー・ドゥ・レセップスに、それまでの探検記録をヴェルサイユに届けるよう命じ、彼は約一年かけてロシアを横断し、1788年に無事にフランスに到着。レセップスは探検隊の唯一の生還者となったのです。消息を絶つ前に、ラ・ぺルーズがシドニー沖に停泊していたイギリス艦シリウス号に、手紙や記録を託していたのは幸いです。
ルイ16世が最期まで気にかけていたラ・ぺルーズの消息を知るために、捜査隊が太平洋に向かいますが、革命とその後の混乱で打ち切られてしまう。本格的捜査に乗り出したのはフランス系アイルランド人のピーター・ディロンで、1826年のこと。彼はソロモン諸島のヴァニコロ島近くで、フリゲート艦の残骸を見つけたのです。周囲の島から遺品も発見。それを持ち帰り、ただ一人の生還者レセップスに見せ、確かにラ・ぺルーズ率いる探検隊の物であることが判明。
ピーター・ディロンによる残骸発見の翌年に描かれた絵。 手前が沈没寸前のアストロラブ号。左後ろがブッソル号。 |
バルテルミ―・ドゥ・レセップス(1766-1834) 有能な外交官であり探検家。 ラ・ぺルーズの探検隊唯一の生存者。 |
現在残されている遺品はさほど多くないけれど、修復工事が終わったトロカデロの海洋博物館に展示してあり、関心を集めている。
ルイ16世とラ・ぺルーズが 大きな期待を寄せながら準備したであろう遺品を目の前にすると、 無念でならない。 |
リリーフをほどこしたブロンズの重厚な鐘。 |
ルイ16世が絶対的信頼を寄せていた 海軍士官ラ・ぺルーズ伯爵の立派な胸像。 |
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