それは偶然だった。レ・アル近くの自然食品専門店に向かって歩いていたときのこと。そのお店は初めて行くので、歩きながらあちこち見ていると、背の高い木が茂った公園のようなものが目に入った。よく見ると、古びた塔がその中に立っている。これはただ事ではない、何かある、と近づくと、その公園らしき場所を囲む鉄柵に、プレートがある。ドキドキしながらそこに書いてある文字を読むと、「ジャン・サン・プール塔」となっている。パリでは残り少なくなっている中世の貴重なモニュメントなのだ。ということで、急いで写真を撮って、家に帰っていろいろ調べることに・・・
ジャン・サン・プール塔 偉大な勢力を誇っていたブルゴーニュ公が15世紀に建築させた塔。 |
怖いもの知らずのブルゴーニュ公 無怖公ジャンと呼ばれていた。 1371-1419 |
この地に最初に館を造らせたのはアルトワ伯で、1270年のこと。このアルトワ家と結婚で強い繋がりを持ったブルゴーニュ家が、それを手にした時には敷地は1ヘクタールもあったという。
怖いもの知らずのブルゴーニュ公、別名、無怖公ジャンの最大の敵はフランス国王シャルル6世の弟で、ジャンの従兄にあたるオルレアン公ルイ。国王に精神的異常が現れるようになると、オルレアン公ルイは政治に関与するようになり、勢力を強めていた。様々なことで対立していたブルゴーニュ公とオルレアン公だったが、1407年、オルレアン公ルイは無怖公ジャンの命令でパリで暗殺される。
ジャンによって館に塔が加えられたのは1409年から1410年にかけてで、自分の偉大さを見せつけるために、どの建造物よりも高いことを熱望。敵の侵略を塔の上から監視できる目的もあったのは当然のこと。
館に塔が加えられたのは15世紀初頭。 |
塔の階段の天井の植物の装飾は現在も残っていて、 中世の面影を味わえる貴重なもの。 |
均整が取れた美しいブルゴーニュ公のパリの館。 残念なことに塔だけが残り、それ以外は跡形もない。 |
百年戦争の最中、ブルゴーニュ派はイギリスと手を結び、フランス王家のオルレアン=アルマニャック派と対立し激戦が繰り広げられる。1419年、無怖公ジャンはアルマニャック派に刺殺され、48歳で生涯を閉じる。彼亡き後、パリの館は子孫に引き継がれる。無怖公ジャンの孫シャルルは勇胆公と呼ばれ、権力と領土拡大に情熱を捧げていたが、その実現を見ることもなく1477年に戦いで世を去る。これによって幾世紀もの間フランスのヴァロワ朝と勢力争いを続けてきたブルゴーニュ家は、シャルル勇胆公に世継ぎの男児がいなかったために崩壊し、公国はフランスに併合されたのだった。
ブルゴーニュ公の館はその後、様々な人の手に渡り、道路拡大などで取り払われた部分もあったが、無怖公ジャンが建築させた塔は19世紀にパリ市が買い取り、修復を行い、歴史的建造物に認定され、貴重な中世の面影を今でも伝えている。
小さい塔だけれど、多くの歴史を語る中世の名残り。 |
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