2024年12月26日

マリー・アントワネット自叙伝 43

 逃亡の準備を始めました

夫が逃亡に賛成したので、本格的に準備にかかりました。けれども極秘のうちに事を運ばなければならないので、容易ではありませんでした。行き先は夫の希望で、モンメディに決まりました。

ベルギーとの国境の町モンメディの要塞。

この町はベルギーとの国境にあり、要塞があり防御に適した町でしたし、王党派のブイエ侯爵が優秀な軍人と駐屯していたのです。そこに到着したら、ブイエ侯爵率いる軍にオーストリア軍が加わり、強力な軍隊となって革命を一気に押しつぶす計画だったのです。モンメディの郊外にトネルというシャトーがあり、そこに私たちが滞在することも決まっていました。当時はベルギーという独立国はなく、オランダ、ルクセンブルクと合わせてネーデルランドと呼ばれ、ハプスブルク家の支配下にありました。ですから、万が一、革命軍相手の戦いが上手くいかない場合には、安全地帯のベルギーに簡単に逃れられるのです。私を含めた誰もが、この計画を素晴らしいと思ったのは当然です。まるですでに逃亡が成功したように心が躍りました。


ブイエ侯爵
名門貴族で勇敢な将軍。


常に国王として国民に心を配る夫は、ブイエ侯爵の軍隊に属している軍人は、ドイツ人やハンガリー人、クロアチア人のなど外国人が多かったので、フランス人同士の戦いにならないからといいとも思ったようです。このような非常事態に陥っているときでさえも、国民のことを思うなんて、夫は気立てが良すぎます。私のようにもっと利己主義な人だったら、私たちの運命も変わっていたでしょうに。


逃亡に必要な馬車は、実はフェルセンさまが、前年の暮れにすでに注文して下さっていたのです。あの方と私はずっと以前から、パリを後にするときのことを考えていました。ミラボー伯爵がいなくなって頼れるのはあの方だけ。それをよくわかっていたフェルセンさまは、私たちをいかにして安全に逃亡させられるか、そればかり考えていらしたのです。


夫がいつかパリから脱出するのに同意する日がくると信じていたので、馬車も昨年末に発注して準備を整えていたフェルセンさま。何て機敏で実行力のある方。このような方が守って下さっている限り、不幸になるはずがないと心から思っていました。私のフェルセンさまに対する想いは、高まる一方でした。そしてフェルセンさまも私のためであれば、たとえ命が危険にさらされようと、何でもする覚悟があったのです。

 

逃亡に必要な莫大な資金も、フェルセンさまが奔走して集めて下さったのです。スペインやナポリ、イギリスなどに頼んでも協力を得られなかったばかりか、私の実家オーストリアにさえ断られたのです。メルシー大使を通して兄レオポルト2世に、兵と資金援助を私から頼んだこともありました。それに対するお返事は、「無事にパリから脱出しモンメディに到着したことを確認したら考える」でした。信じられない事です。妹一家の命がかかっているというのに、何て冷たいのでしょう。もっとも当時オーストリアはロシアの威勢におびえていたし、フランス革命の火が自国に飛び散ってくる危険もあったので大変だったのでしょう。それに兄は質素な人なので、国民の税金を使いたくなかったのかも知れません。


幸いなことにフェルセンさまには財産があったし、彼の友人の富豪の貴族も、調達してくださったのです。その一人がドイツ出身の偉大なロシア貴族、ドゥ・コルフ男爵夫人でした。実は馬車の手配でも、フェルセンさまはドゥ・コルフ男爵夫人にお世話になったのです。フェルセンさまより15歳年長の男爵夫人は、ロシアの将軍と結婚し、ロシア宮廷でもてはやされていたようです。未亡人になった後、サンクトペテルブルクを離れ、パリでお母さまと暮らしていたのです。お母さまはスウェーデンの銀行家と結婚していたのですが、夫に先立たれ未亡人になっていました。


コルフ家の紋章

母と娘は揃って莫大な財産があり、セーヌ河畔の豪邸に暮らし、社交界で有名でした。1778年のある日、フェルセンさまはその館で催されたサロンに招待され、親しくなったのです。 男爵夫人を心から信頼していたフェルセンさまは、逃亡に必要な馬車の発注を彼女に依頼し、彼女はセーヌ左岸の確かな腕の職人ジャン・ルイに任せました。


ブイエ伯爵は、私たちが全員が同じ馬車に乗るのは危険がありすぎるので、小型馬車二台に分乗することをすすめていました。その方が速度が速いし、目立たなくていいということなのです。でも、夫と離ればなれになりたくなかった私は反対し、夫、私、夫の妹、2人の子供、養育係り、つまり6人が乗れる大型馬車の発注になったのです。長時間乗っているからには、居心地がよくきれいな方がいいので、馬車の装飾に関しても、フェルセンさまに私の希望を伝えました。馬車の内部には白いキルティングを張り、カーペットは赤で、クッションはグリーンと白。ドゥ・コルフ男爵夫人は、はっきりと希望を伝え、何度も早く仕上げるようにと、催促して下さったそうです。


彼女はロシアまでの長旅に必要なのだと職人に語っていたのです。そのために、頑丈で、しかも乗り心地がいい馬車が必要なのだと。頭がいい女性です。彼女が馬車を発注したのは1790年12月22日で、完成したのは1791年3月12日でした。でも、急がせたのに、すぐに引き取りに行かなかったので、馬車職人はいぶかしがっていたようです。男爵夫人にはパスポートのことでもお世話になりました。彼女は逃亡が発覚したときに自分の身も危ないと考え、ご自分のパスポートも頼んでいらしたのです。

  

フェルセンさまの愛人とささやかれていたイタリア人、エレオノール・シュリヴァンさまも、かなりの額を貸してくださったようです。もっとも当時は、エレオノールさまがあの方の愛人だったとは知りませんでした。もし知っていたら、私はどれほど苦しんだことでしょう。でも、彼女には感謝しています。完成した馬車をフェルセンさまが引き取った時に、あの方の館に置くのは危険なので、隠し場所が他にないか探していたのです。そのときエレオノールさまは、クロフォード卿と住んでいた、クリシー通り25番地の館の厩舎を提供して下さったのですから。


エレオノール・シュリヴァンさま

このように様々な方々の協力なしでは、逃亡の準備はできませんでした。お借りしたお金はすべて、無事に脱出したときにお返しするつもりでいましたから、借用書にサインもしました。逃亡が成功することを信じていましから、たくさんのドレスも、ある程度の宝飾品も、前もってシンプルな馬車でモンメディに送らせました。

義理の弟アルトワ伯
革命が起きるとすぐに亡命し、ロンドンやトリノ、コブレンツで
亡命貴族たちと反革命運動を派手にしていました。

極秘のうちに準備をしていたのに、ドイツのコブレンツに亡命していた義弟のアルトワ伯を筆頭に、有力な貴族たちが、革命派と一線を交える態度を派手に示していたのです。それに大きな危険を感じた私は、お兄さまレオポルト2世にそれを控えるように頼みました。派兵や資金援助にいいお返事をしなかったお兄さまでしたが、この要求はすんなりかなえて下さり、アルトワ伯たちを説得して下さったのです。

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