赤いお鼻のトナカイ、ルドルフがサンタさんをのせて心地よさそうに空を走り回ります。
ルドルフの赤いお鼻が役立つパリの夜空。 パリ市民たちに愛嬌を振りまくサンタさん。寒いのに大丈夫? |
スピードアップして人々を驚かせるユーモアもあるサンタさん。 |
12月11日 |
12月15日 |
12月18日 |
長年憧れていたルクソール神殿を訪問した時に撮影。左右対称に立っていたオベリスクのうち、右側のがフランスに送られ、左側のだけがルクソールに残っています。 |
コンコルド広場に設置されるのを見るために、 20万もの人が集まったそうです。もしも、当時私が生まれていたら、 きっとその一人になっていたでしょう。 |
ジャン=フランソワ・シャンポリオン(1790-1832) |
12月上旬からテレビに頻繁に登場するスポットCMは、何といっても香水。クリスマスプレゼントに適しているからでしょう。とにかくフランス人がつける香水の量は半端ではない。いつも体全体から香りが放たれている。香水は日常生活の必需品なのです。
雑誌や新聞で特に目立つのは、ジュエリーのパブリシティー。それにつられて本物が見たくて宝飾店のショーウィンドウ巡り。今年は豪華なジュエリーを展示するのではなく、ディスプレイに工夫を凝らしているので、それが見もの。心が浮き立ち、幸福ホルモンのセロトニンが一挙に増加します。
少なくとも私は・・・
パールのネックレスはシャネルのアイコンのひとつ。 |
ナポレオンのお気に入りだったショーメ。 シックで趣のあるデイスプレイ。 |
輝く星が散りばめられたブルガリ。 |
遠くから視線をとらえるディオール。 花園の中にジュエリーが潜んでいてポエティック。 |
無数のシルバーとゴールドの球が舞うカルティエ。 |
物語が浮かぶような、ショパールのメルヘンの世界。 |
リッツホテルのエントランスで、 きらめく装いのクマさんが愛嬌を振りまいています。 |
マンダリン・オリエンタルホテルでは、 一見、ロイヤルファミリーのような3人が「ようこそ」とお出迎え。 |
香水店のクリスマスツリーが香水ボトルのフォルム。 パリらしいオシャレなセンス。 |
すぐれた彫刻のような大きなオブジェが目に止まり、足が釘付け。 レースのような緻密なモチーフをほどこした、幸運をもたらす星。 その下でたわむれる愛らしいトナカイや犬。 白一色の、清らかでそれでいて華やかなオブジェ。 ポーランド教会の前広場を飾っています。 |
ヴィラージュ・ロワイヤルの中庭にも大きなクマさん。 ベンチがあるので、皆、代わる代わる座って記念撮影。 おどけた表情のクマさんが両手を広げて迎えます。 |
クリスマスの特別なケーキ「ビュッシュ・ドゥ・ノエル」は丸太のフォルムで細長く、それを切り分けていただきます。ビュッシュ・ドゥ・ノエルを食べる習慣は、フランスでは19世紀からあったとされていますが、本格的になったのは第二次世界大戦以後で、フランスが自由を獲得した後。
今年は時世を反映してか、割とシンプルなのが多い。 |
丸太の形にこだわるのは、広く伝わっているように、かつて、クリスマスの食事の最後に、薪が赤々と燃える暖炉の前に家族や友人たち集まって、デザートとしていただいたため。丸太を暖炉で燃やすのは、その灰が魔除けや厄除けになるとか、煙突から悪者が入らないようにするためだとか、寒い日に生まれたキリストの身を守るために薪を燃やしたとか、いろいろな説がある。
でも今は大気汚染対策が重んじられ、公害を出さないように暖炉を使用しないパリジャンがほとんど。
1900年代初期のクリスマスの光景。 暖炉の近くにテーブルを置いて、たくさんのご馳走を並べ、 デザートに細長いビュッシュ・ドゥ・ノエルを切っていただきます。 |
暖炉で薪を燃やさないかわりに、その上にクリスマス装飾をしたり、横にツリーを飾る人が多い。いつもと異なるデコレーションを添えるだけで、一年でもっとも重要な祭典をお祝いできる。だいいち、クリスマスの大スターのサンタさんは、暖炉の煙突から部屋に入ってくるのだから、キレイに飾ってお迎えしなくては。
わがアパルトマンの暖炉の右上の屏風のような飾りは、アドヴェント・カレンダー。 24個ある窓の中に小箱に入ったチョコレートが潜んでいて、 それを取り出して、クリスマスまで毎日食べるのが楽しみ。 空になった小箱は、暖炉の左上にあるブルーのベースの枯れ木に飾って24日に完成。 このようにしてステキなツリーになる。 豪華なアドヴェント・カレンダーはディオールからのプレゼント。メルシー、ディオール💕💕 |
16年ぶりに蘇ったラ・サマリテーヌの クリスマス装飾は、きっと特別に違いない。そう思いワクワクしながら行ってみたら、どこもかしこもキラキラ。この輝きは期待以上。かなりのお金をかけているのがひと目でわかります。パリ中心に今だけ存在している輝きの国へお誘いします。
リヴォリ通りに面したガラス張りのファサード。 当初は、歴史を誇るパリの旧建築の真っ只中に合わないと反対も多かったけれど、 今では古い景観にフレッシュな息吹を吹き込んでいると好評。 たしかに、ラ・サマリテーヌのこのファサードを見ると清涼感があって 21世紀を感じます。 |
ショーウィンドーは華やかなクリスマスのアンビアンスがあふれ、 気持ちが高揚します。 |
エントランスを入ったスぺースにシックなデコレーション。 |
すべての階段とエスカレーターに、クリスマスならではの飾り。 |
各階のディスプレイもクリスマス一色。 このデパートは展示する製品の数をおさえ、アーティスティックにしていて 気品がある。 |
手すりに施された常設の金箔のマロニエの葉と、 クリスマス飾りが相まって華やか極まりないラ・サマリテーヌ。 今、見逃せないデパート。 |
コロナでいろいろと心配されたけれど、パリ中心にあるチュイルリー公園では、クリスマスマーケットが開催され、人気を集めています。寒さが厳しくなってきたけれど、とっても気になったので様子を見てきました。
すごい人出。フランス人は楽しむことに本当にマメ。 |
ユーモアたっぷりのサンタさん。 この姿を見るだけで寒さを忘れます。 |
小さなお店が軒を並べていて、雰囲気満点。 |
クリスマスにふさわしいカラフルな品が 多くの人の視線をとらえます。 |
祭典にふさわしい帽子をかぶりながら、 子供たちも興味深く品定め。 |
ホットワインはこのシーズンに大人気。 テーブルを囲んで会話が弾みます。 |
ホカホカのラクレットも大人気。 私の大好物で、クリスマスマーケットで必ずいただきます。 |
華やかな装飾が目立ちます。 いろいろなお料理を楽しめる広いレストランです。 |
ボリュームたっぷりのラクレットをいただいて、ゴキゲン。 ノエル近くにまた行きま~す。 |
アメリカ生まれの黒人 ジョゼフィヌ・ベーカーが、有名な歌手だったことは知っていたけれど、フランス国籍を持ち、第二次世界大戦のときのレジスタントであり、危険なスパイ活動を自ら希望しておこなっていた英雄だったことは、まったく知らなかった。
パイロットの資格も持っていたジョゼフィヌ・ベーカー。 フランス空軍のユニフォームに身を包む凛とした姿。1948年 |
最近、テレビや雑誌がジョゼフィヌの特集を組み、こうしたことが分かったのです。なぜ、今、彼女のことが注目されているかというと、パンテオンに祀られるからです。この、フランスの偉人たちの墓所に眠る女性は非常に少なく、彼女は6人目。それだけでなく、初めての黒人でもあるために大きな出来事なのです。テレビは実況でセレモニーを中継。もちろん大統領のジョゼフィヌを称える言葉で始まりました。
アメリカの貧民街で生まれ、差別や貧乏に屈しることなく、強い意志で人生を切り開き、10代半ばころに歌手としてデビューしたジョゼフィヌは、19歳でパリの舞台に立つようになります。エキゾチックな容姿、奇抜な衣装、ダイナミックでのびのびとした歌声でフランス人を魅了し、大きなセンセーションを起こしました。
子供時代のジョゼフィヌ。 |
舞台に立っていた10代半ばのジョゼフィヌ。 |
パリ・モンマルトルの有名な劇場 「カジノ・ド・パリ」に出演していたジョゼフィヌのポスター。1930年 |
自分をこれほどまでに寛大に受け入れたパリを、フランスを彼女は「私の国」と呼び、愛し、歌い、長年暮らします。その「私の国」をナチス・ドイツに占領されると、ジョゼフィヌはいてもたってもいられなくなります。最前線の兵士たちの士気を鼓舞するために、彼らの前で歌っただけでなく、レジスタント運動に加わり、名声を活用して機密書類を運んだり、敵の高官に接触して重要な情報をフランスに伝えていたのです。
戦後はいろいろな国の12人の戦争孤児を養子として迎えたり、人種差別撤退運動に加わったり、舞台に立ったり、幅広い活躍をし、1975年にアーティストのキャリア50周年記念のショーをパリでおこないます。多くの著名人が拍手をおしみなく送った4日後、脳溢血で突然68歳の生涯を閉じたのでした。
ドルドーニュ地方の古いシャトーを購入し、 そこで戦争孤児たちを育てていましした。その中には日本人も一人いました。 シャトーの庭でくつろぐジョゼフィヌ。1961年 |
同じアメリカ女性のモナコのグレース公妃と特別に親しく、時間があるときにはモナコ公室の別荘で過ごしていた ジョゼフィヌは、モナコの墓地に葬られました。そして今、フランスに大きな貢献をなした女性として、パンテオンに祀られる栄誉に輝いたのです。
遺体は遺族の希望でモナコの墓地に眠ったままで、彼女のゆかりの地の土がパンテオン入りする棺に納められました。ジョゼフィヌが生まれたミズリー州のセントルイス、こよなく愛したパリ、12人の養子たちを育てていたドルドーニュ地方、そしてモナコの墓地の4ヵ所の土です。
パリの官庁関係の建物のほとんどは旧貴族館、と以前ブログに書きましたが、フランス銀行も同じ。ナポレオン・ボナパルトが第一執政だった時代に設立したフランス銀行が置かれている建物も、他の旧貴族館同様に歴史は長く、ルイ13世に時世の17世紀にさかのぼります。
貴族の館だった時代の「黄金の間」の豪華さは、 目を見張るばかり。 |
国王ルイ13世の国務卿を務めていたラ・ヴリリエール侯爵は、1653年にフランソワ・マンサールに広大な豪奢な館の建築を依頼します。ルイ13世、ルイ14世の時代に活躍したマンサールは、バロック建築のもっとっも優れた建築家。
マンサールがラ・ヴリリエール侯爵の依頼で建築した館。 侯爵の名前はフランス銀行前の道路名になっています。 |
ルイ13世の国務卿だった ルイ・フェリポー・ド・ラ・ヴリリエール(1599-1681) |
彼が依頼主ラ・ヴリリエール侯爵のために実現した館は、豪勢極まりないもので、中でも40mもの長いギャラリーは賞賛の的でした。イタリアとフランスの絵画を多数コレクションしていたラ・ヴリリエール侯爵は、ギャラリーの両サイドに名画を飾り、8mの高い天井には壁画を描かせ、まるで美術館の一室のよう。記録によると、侯爵が所有していた絵画は250点もあったというから、破格のコレクター。その数点は現在、ルーヴル美術館所蔵になっています。
トゥールーズ伯爵(1678-1737) |
その館をトゥールーズ伯爵が購入したのは1713年で、ルイ14世の時代。彼はルイ14世と愛妾モンテスパンの間に生まれた認知された息子で、5歳の時にすでにフランス提督の称号を持ちます。ラ・ヴリリエール侯爵の館を買ったトゥールーズ伯爵は、当時の最高の建築家ロベール・ド・コットに改築を命じロココ風にします。その時ギャラリーの羽目板に金箔が施され、金色に輝くようになり、「黄金のギャラリー」あるいは「黄金の間」と呼ばれます。
けれども革命の際に荒らされ、絵画も家具もすべて没収され、何と国立印刷局になった時期もあった。ところがナポレオン・ボナパルトが1800年にフランス銀行を創設し、1811年から旧トゥールーズ伯爵邸にフランス銀行本部を置くことになったのです。
1852年1月29日、「黄金の間」で開催されたフランス銀行の総会。 |
「黄金の間」はその後数回修復されましたが、貴族館だった面影は一部残っています。このギャラリーでは時々コンサートやソワレが開催され、11月末のコンサートでは、ピアノ、オペラ、お琴、尺八の演奏と狂言がありました。フランスのロココ様式の中での日本の伝統芸術の雅なパフォーマンス。忘れがたいひとときでした。
「黄金の間」にふさわしい煌めき。 |
コンサートが終り拍手と花束を受ける出演者たち。 |