2023年9月12日

マリー・アントワネット自叙伝 5

 私の嫁ぎ先はフランスと決まったようです
私が13歳のときでした。唯一の独身娘だった私の売り込みに、お母さまはすべての情熱を捧げていました。
お母さまが熱望していた私の嫁ぎ先は、フランスのブルボン家だったのです。フランスとオーストリアは戦争ばかりしていて、いい加減つかれてきたし、すぐお隣のプロシアのフリードリッヒ国王が勢力をまして、かなり危険状態にあったのです。
そのために、このあたりで二つの大国が手を結ぶべきだと、側近たちがしつこく進言していたのです。その手っ取り早く、確実な方法は、結婚という手段を用いること。

当時、フランスの国王はルイ15世。お妃はすでにお亡くなりになっていて、国王は愛妾とヴェルサイユ宮殿で幸せな日々を送っていらしたそうです。
ルイ15世にはルイ・フェルディナン皇太子さまがいらしたけれど、王位につく前に亡くなられたので、その息子、つまり国王のお孫さんのルイ・オーギュストさまが、未来のフランス国王に就くことが決まっていました。私が結婚するのは、その方です。とはいうものの、お会いしたことがなかったので、容姿も、性格も、趣味もまったく知りませんでした。

ルイ・オーギュスト皇太子さまは私より一歳年上で、しかもフランスの国王の座が確約されているので、お母さまは興奮状態。どうしても私をその皇太子さまに嫁がせたかったのです。私は、ルイ・オーギュストさまに関心もないし、フランスにも少しも興味がありませんでした。でも、お母さまも取り巻きも、帝国の維持と発展のために、何としてもこの結婚を実現したかったようです。
私より1歳年上のルイ・オーギュストさま。
1769年の肖像画だそうです。


みんなが知恵を絞ってルイ15世の説得にあたっていましたが、ある日ふと、未来のフランス王妃になる要素が私にあるのかと、心配になってきたのです。もっともなことです。
政務に忙しいお母さまは、末娘の私にはかなり甘く、簡単にいうと自由にしていました。退屈なお勉強はほどほどにして、劇やダンス、遊びに夢中になっていた私を、侍女たちも何も言わずに、ただニコニコと笑顔を浮かべて見ているだけでした。首になるのを恐れていたのか、私が手に負えないほどやんちゃだったのかわかりませんが、とにかく好きかってに暮らしていたのです。
ところが今や、ヴェルサイユ宮殿を建築させ、ヨーロッパ諸国の君主の羨望を独り占めしていたルイ14世の子孫に嫁ぐかも知れない身。あまりにも自由奔放に育って、礼儀作法も歯並びさえもきちんとしていない上、宮廷で必要とされている三ヵ国語のドイツ語、フランス語、イタリア語の読み書きも惨憺たるもの。これではルイ15世が大切なお孫さんの妃として迎えるはずはない。
このような的確な判断を下した頭脳明晰なお母さまは、私の再教育に本腰を入れるようになりました。かわいそうな私は、フランス人の歯医者さんによって歯並びを矯正され、たくさんのお勉強を強いられました。そのほか、歩き方、挨拶の仕方、絵や楽器のレッスン etc
 
ヨーロッパに君臨する偉大なハプルブルク家の恥にならないように、ヴェルサイユ宮殿では、流暢で品格あるフランス語を話さなければならない。そう思ったお母さまは、美しいフランス語を操ると評判が高かった、マテュー=ジャック・ド・ヴェルモン神父さまを、フランスからウィーンに呼んで、私の教育をその方に委ねたのです。私より20歳年長で、幸いなことに整った顔立ちの感じがいい方です。
温厚な性格のヴェルモン神父さまとは、なぜか気が合って、私はわりと素直にお勉強をするようになりました。もともと素質があったのか、フランス語は短期間に上達して、神父さまがお褒めの言葉を本国に送ったほどでした。神父さまはフランス語だけでなく、宗教や歴史も教えて下さいました。博学なのです。私はヴェルモン神父さまにかなりいい印象を与えていたようです。
「大公女さまは色白で、愛らしいお顔で、チャーミングな性格の方です」 
などと、満点に近い評価をフランスに報告したのです。
それが役立ったのかはわかりませんが、ついにルイ15世からお母さまに、皇太子のお妃として私を迎えたいと正式の連絡が届いたのです。1769年6月13日で私は13歳でした。
フランスに届けるために描かれた
1769年のパステル画

お母さまの喜びようは大変なものでしたが、私には自分に無関係な出来事のようにしか感じられませんでした。結婚が何を意味するのかもわかっていなかったのです。ただ、大好きなシェーンブルン宮殿とお別れすのは、ちょっと寂しいと思ったことは覚えています。

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