2024年12月1日

マリー・アントワネット自叙伝 41

 いろいろな出来事が続けて起きました

バスティーユが1789年年7月14日に襲撃されて、早くも1年経ち、それを記念する全国連盟祭がシャン・ド・マルスで開催されました。今まで見たこともないほど派手で、大げさな規模でした。


革命1周年記念のこの祭典をオーガナイズしたのは、国民衛兵軍司令官ラ・ファイエット将軍でした。彼の指揮のもとに、7月1日から、祭典の会場になるシャン・ド・マルスの大掛かりな準備にかかったそうです。何しろ、フランス各地から大勢の人が集まり、40万人にもなる予定だったのだから、何もかも前代未聞。職業や年齢、男女の差もなく、みんなが一体となって準備に携わったのです。いざとなるとフランス人の団結力はすごいのです。ヴェルサイユ宮殿への行進のときもそう感じました。

1790年7月14日、革命1年記念の全国連明祭が
シャン・ド・マルスで開催されました。
この日のために、凱旋門まで建てた派手な式典でした。

何もないシャン・ド・マルスに、全国連盟祭のために、祭典の会場の入り口には立派な凱旋門が造られ、中央には「祖国の祭壇」などと呼ばれる奇妙な式典台が設けられ、観客席が会場の周囲を取り巻いていました。私たちが着くと、お天気が悪い日でしたが、明るい雰囲気が流れたように思えました。国民を刺激するといけないので、その日私はシンプルなドレスに身を包み、ヘアには3色のリボンをつけ、息子を胸に抱いていました。

国民を刺激するといけないので、
白いドレスを着て夫と子供と会場に着きました。


祭典は国民衛兵部隊の華麗な行進で始まりました。整然と進む軍服姿の男性たちの行進は、気持ちが引き締まるようでした。やがて白い愛馬に乗ってラ・ファイエット将軍が到着し、誇らしげに「祖国の祭壇」にのぼり、誓いの言葉を高らかに述べました。

「国に、法に、国王に、永遠に忠実でいようと誓おうではないか。憲法によって認められた我々の全ての権利を保ちながら」

その後300人もの司祭に囲まれて、オータンの司教タレイランがミサをあげました。国民議会議長の誓いがそれに続き、いよいよ夫が言葉を述べる時が来たのです。

「フランス人の王である余は、国会で承認された憲法に従い・・・」

夫は法を守り、国民のために尽くすことを誓うと宣言し、私が国民によく見えるように息子を高々とあげると

「国王バンザイ!  王妃バンザイ!  王太子バンザイ!

と、大合唱がなり響いたのです。その思いもよらない反応に感激して、夫も私も思わず涙を浮かべたほどでした。そのとき、王室と国民の間に強い絆があると感じ、国の美しい統一を見たようでした。


「祖国の祭壇」で近いの言葉を述べる
ラ・ファイエット将軍。

遠くにいる人にもよく見えるように、
皇太子を高くあげると、割れるような大歓声が響き渡りました。

取り壊されたバスティーユ監獄跡だけでなく、そのほかの広場でも、地方でも、民衆は歌い、ワインを飲み、朝方まで踊ったのです。全国連盟祭に出席した私たちは明らかに歓迎されていたし、国民は喜びに湧いていたので、革命は終わったように思えたのでした。


この日、国民は至る所で革命1年記念を祝いました。


 私たちはチュイルリー宮殿に暮していましたが、週末や夏の暑いときなどは、パリ近郊のサン・クルー城で数日間過ごしていました。セーヌ川を見下ろせる高台にあるサン・クルー城は、緑が多く、そのために空気も澄んでいて、気持ちがいいシャトーでした。


このシャトーの歴史はとても長く、16世紀に、イタリアの銀行家が建築させたのが始まりだそうです。夫がサン・クルー城を買ったのは1784年で、私を喜ばせるためでした。うれしかった私は、シャトーの改築を、お気に入りの建築家リシャール・ミックに頼みました。外観は一切変えませんでしたが、インテリアを私好みにしていたので居心地がよく、革命前には舞踏会などでパリに行くとき、このシャトーに泊まったりしていました。

パリの西郊外にあるサン・クルー城。

このお城の庭園には深い自然がたくさんあったので、隠れて人に会うのに最適でした。それを利用して、ミラボー伯爵にお会いしたのは1790年7月3日朝で、あのバスティーユ襲撃1年記念にシャン・ド・マルスで行われた全国連盟祭の直前です。


幼い頃に天然痘にかかったミラボー伯爵のお顔は、あばただらけで、気持ち悪かったし、貪欲で、その上で乱れた私生活をしていたので、いつも避けていました。そのようなミラボー伯爵に意を決してお会いしたのは、メルシー大使から何度も言われていたからです。

「伯爵は国民議会の重要な議員で、大きな影響力がございます。由緒ある貴族なので国民議会議員といえども王家の味方で、両者の間を取り持つのに最適な人物なのです。以前から王妃さまにお目にかかって、ぜひお役に立ちたいと申しております」

嫌で嫌で仕方ないミラボー伯爵に、サン・クルー城の木陰で早朝にお会いすることにしたのは、誰にも知られないためでした。いつ誰が告げ口するかわかりませんから、最大の注意が必要だったのです。

ミラボー伯爵。
容姿も性格も私は嫌っていましたが、
才知ある有能な伯爵で、私たちの味方だったことは確か。

雄弁で説得力があり、王政維持を主張しながら国民の圧倒的支持を受けていたのは、たしかにミラボー伯爵だけでした。つまり彼は、王家と革命家に忠誠を誓っていたずるい人だったのです。伯爵はすでに、王政を救うために最大の努力をすると夫に約束して、莫大なお金を受け取っていました。でも、夫には決断力もなければ勇気もないと見て、私と話す必要性を感じたそうです。彼が理想とするのは立憲君主制。いつまでも国王が、チュイルリー宮殿でびくびくしながら暮らしているのは我慢ならないと、根っからの王党派のミラボー伯爵は思っていたのです。


彼は逃亡を盛んにすすめていました。白昼に正々堂々と狩猟に行くふりをして、パリから西側の郊外に行き、そこに待機している有能な護衛兵に囲まれながら、王党派が多い街に行き、パリで暴動が起きるようにし、国王に首都に戻ってきてほしい状態を故意に作るのがいい、というのが伯爵の計画でした。国に混乱を起こさせ、国王が実権を握っていた時代の方が安泰でいい、と思わせるためです。結局それは、夫の反対で実現しませんでしたが、私の逃亡したい願いに火がついたのは確かです。

サン・クルー城の庭園は緑が豊かで広く、
人の目にさらされることもないので、
フェルセン様にお会いするのに最適でした。

サン・クルー城での警備は、パリのチュイルリー宮殿に比べてかなりゆるやかだったので、フェルセンさまも気兼ねなくいらしてくださって、庭園のお散歩を楽しんだりしていました。2人とも少しでも長く一緒にいたかったので、フェルセンさまがお帰りになるのは朝3時ころのこともありました。夏が終わり秋にパリに戻るまでの間、私たちは何度会ったことでしょう。

 

ベルヴュ城に暮らしていた2人のおば様が逃亡したのは、1791年2月16日の夜10時でした。ローマでイースターをお祝いしたいという口実で、数10人の護衛を連れてイタリアに向かっていたのですが、ブルゴーニュ地方にある小さな村アルネイ・ル・デュックで、村人たちに行方をさえぎら、捕まってしまったのです。


恐れていたことが現実になり、あわてたおば様たちは国民議会に手紙を届けさせます。自分たちは一般の国民としてローマ行くだけで、決して亡命ではない、といった内容が書かれていたようです。けれども議員たちは、王家の人であるからにはそうはいかない、重大な出来事だから、すぐにパリに連れ戻すべきだ、と騒ぎ始めたのです。


そのとき活躍したのがミラボー伯爵でした。雄弁な伯爵は、人民の自由を尊ぶフランスでは、誰にでも旅をする権利があると主張し、無事にイタリアへ行けたのです。さすがです。それでもすぐには解放されず、イタリアに向けて馬車をふたたび動かせたのは、2月28日とされています。結構長い間捕らわれていたのですが、気が強い2人のこと、自分たちに危害を加えるはずはない、必ず希望は通ると信じていたことでしょう。人のいい夫も、おば様たちが旅を続けられるよう手助けしていました。

アデライード王女さま

ヴィクトワール王女さま

その後、おば様たちはトリノの親戚の家にしばらく暮らしたり、ローマに滞在たりし、ナポリでは私と一番仲が良かったマリー・カロリーナお姉さまにも会っています。マリー・カロリーナお姉さまは、ナポリのフェルディナンド国王と結婚していたのでナポリ王妃でした。本当は私が会いたかったのに、あの大嫌いなおば様たちがお姉さまに会えて、どうしてこの私が会えないのかと、どれほど残念で悔しかったことか。


このおば様たちの逃亡後、国王一家もいつか亡命するのに違いないと、革命家たちは一層厳しい目を私たちに向けるようになったのです。

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