2024年5月9日

オリンピック聖火 フランスに到着

 ギリシャのオリンピアで、4月16日に太陽光によって点火されたオリンピック聖火が、5月8日、フランスのマルセイユに到着しました。オリンピアからアテネまで、聖火はリレーによって運ばれ,27日、ピレウス港からフランス最後の3本マストの帆船ベレム号に乗り、マルセイユ旧港を目指して出航。この間、帆船ベレム号上の聖火やスタッフ、地中海の様子など連日報道。フランスがいかにパリ・オリンピックに熱意をもっているか、ひしひしと伝わってきました。聖火が乗るベレム号は、海上だけでなく空からもしっかり護衛されながら、12日間の旅を終え無事にフランスに到着。

ル・フィガロの一面を飾る、
華やかなベレム号のマルセイユ到着。

ベレム号は第1回近代オリンピックが開催された1896年に、フランスの造船所ナントで建造され、歴史的記念物に認定されている重要な帆船。聖火を船で運ぶのはオリンピックで初めて、と、フランスは何かにつけて、いまだかつてないオリンピックにしたくて、オープニングセレモニーをセーヌ川で行ったり、競技によっては街中の観光地で開催したり。約1万人による聖火リレーも、フランスの名所めぐりだし・・・

フランス最大の軍港、ブレスト港で
美しい姿を見せるベレム号。2014年。

聖火がフランス入りする日を、第2次世界大戦の戦勝記念日の5月8日にしたのも、多分、歴史に残るオリンピックにしたかったからだと思うし、ギリシャを出港し到着をマルセイユにしたのも、マルセイユが2600年前にはギリシャの領土だったから。

ベレム号到着をひとめ見たいと集まって群衆は15万人。無数の船に守られながら港に入ると、フランス空軍がアクロバット飛行で帆船を称え、まるで著名な外国の元首を迎えるかのような華やかさ。夕方からコンサート、花火と祭典が続き、まるでオリンピックで最多の金メダルを獲得したかのような興奮状態。いつまでも語り続けられる、フランスならではのイヴェントになること間違いない、パリ・オリンピックです。

2024年5月5日

マリー・アントワネット自叙伝 27

フェルセンさま

 

娘を身ごもっていた1778年8月25日でした。駐仏スウェーデン大使が若い殿方をご紹介してくださいました。その方にお会いするのは初めてではないので、

「ああ、古くから存じ上げています」

と、思わす言ってしまいました。


実はその方には、皇太子妃だった時代にパリのオペラ座でお会いしたのです。仮面舞踏会に身分を隠して行った1774年1月30日でした。

長身で身のこなしがエレガントで、多くの女性たちの憧れのまなざしを受けていた青年に、私から声をかけたのです。育ちの良さが全身からほとばしっているその青年と、どのくらいの間おしゃべりしていたでしょうか。周囲の目を気にし始めた女官たちに、

「お時間でございます。参りましょう」

と催促されるまで、何と幸福な時を過ごしたことでしょう。

アクセル・フォン・フェルセンさま


お互いに名を告げることもなく別れたその青年に、それ以降お目にかかるチャンスはまったくありませんでした。それが今、さらに魅惑的な男性になって、目の前に姿を現したのす。思いがけない再会で私の胸はときめき、周囲の人にも聞こえるのではないかと思うほど、鼓動が大きかったのです。その方のお名はハンス・アクセル・フォン・フェルセンさま。偶然にも私と同じ1755年に生まれたスウェーデン人。きっと私たちは最初から運命でつながれていたのでしょう。


由緒ある貴族の家に生まれたフェルセンさまのお父さま、フレデリック・アクセル・フォン・フェルセン伯爵は、陸軍元帥であり政治家。王家に継いで重要な貴族だったそうです。お母さまのカトリーヌさまも貴族出身で、おふたりの間に4人の子供が生まれました。お姉さまエレオノラさま、お妹さまソフィさま、弟君ファビアンさまに囲まれたアクセル・フォン・フェルセンさまは長男なので、家族の期待も信頼も大きかったそうです。


お父さま、フレデリック・フォン・フェルセン伯爵

お母さま、カトリーヌ伯爵夫人

フェルセン家所有のシャトーのひとつ。

フェルセン家は高位の貴族にふさわしく、立派なシャトーを5つも持っていて、アクセル・フォン・フェルセンさまが生まれたのは、ストックホルムの王宮が見える豪奢な建物だったそうです。


オペラ座での出会いの後、フェルセンさまはいったん故郷に戻り、父君の希望で外国を訪れ、フランスにも立ち寄ったのです。4年の間に何て立派な殿方になったことでしょう。その凛々しいお姿を拝見した時の喜びは、おさえきれないほど大きく、今でもはっきりと覚えています。人生が急にバラ色に染まったようでした。

 

アメリカがイギリスからの独立を望んでいることは私も知っていました。ベンジャミ・フランクリン駐仏アメリカ大使がヴェルサイユ宮殿にいらして、夫に援助を頼んだからです。1778年3月20日でした。当初、あまり乗り気でなかった夫でしたが、お人よしの定評通り、最終的に経済援助と軍を送ることも約束してしまったのです。フランスの国庫は苦しい状態だったのに、です。これで経済困難は何倍にも膨れてしまいました。とはいえ、当時の私はそうした事情を知らずに、好き勝手なことをしていましたが・・・

1778年3月20日、
ベンジャミン・フランクリン駐仏アメリカ大使が、
ヴェルサイユ宮殿で夫に謁見しました。

フランスが参戦することを知ったフェルセンさまは、志願したのでした。つまり私から離れて遠い海の向こうの国に行ってしまうのです。これを悲劇と呼ばないではいられないほど、私の悲しみは大きかったのです。


再会したとき、私もフェルセンさまも23歳でした。その年の12月にマリー・テレーズを出産した私は、自信に満ちていました。この後も何人か子供を産んで、王妃としての役割をきちんと果たそう。でも、人生を最大に楽しみたいとも思っていました。


以前の体型を取り戻した私は、ベルタンを迎えて頻繁にドレスをオーダーしました。もっと美しくなりたい、もっとも魅力ある女性になりたいと、毎日そのことばかり願っていました。それはあの方に気に入られたいからだったのです。あの方、そう、フェルセンさま。あの方にお会いしてから、女性としての意識が高まりました。生まれて初めて本当の愛を知ったのだと思います。


壮麗なベルサイユ宮殿の庭園には、ロマンティックな場所がたくさんあり、愛が育つのにふさわしい雰囲気が漂っています。フェルセンさまと片時も離れたくなかった私は、ゲームに誘ったり、ダンスのお相手に選んだり、お散歩に誘ったり。夢中になっていた私は周囲の目を気にすることもなく、ひたすらフェルセンさまの吐息を直ぐ近くで感じたいと、それしか考えていませんでした。


メランコリックな眼差し、スリムな体型、豊かな教養、軍人にふさわしいキリっとしたふるまい、舞踏会で見せる芸術的で優雅な踊り・・・私が好きなすべてを備えているフェルセンさま。彼のために、もっともっと美しくなりたいと、そればかり願っていました。正直で自分に誠実な私は、フェルセンさまへの好意を隠すこともなかったので、当然、噂が立ちました。それを危険なことだと思ったのか、フェルセンさまは、突然、意を決したのです、フランスから遠ざかることを。

アメリカに行く決心をしたころのフェルセンさま。

冷静に考えてみると、フェルセンさまがアメリカの独立戦争に参加しようと決意なさったのは、不思議なことではありません。何しろ彼は尊い騎士道精神の持ち主。しかも若い年齢。イギリスの勢力などに屈していたくない、自分たちの手で新しい国を造りたいというアメリカ人の情熱が、きっとフェルセンさまを感激させ、心を動かしたのでしょう。スウェーデン大使のクルツ伯爵や多くの宮廷人は、私の危険な働きかけから身を守るためにアメリカに行くのだ、などと、ずいぶん失礼なことを考えていたのです。


それにしても、何て辛いこと。せっかく幸せな日々を送っていたというのに・・・・彼の出発の日が近づくに従って涙で目がかすむばかり。私の打ちひしがれた姿を見て、側近が心配したほどでした。

 

フェルセンさまがフランスの軍港ブレストから、アメリカに向かって出航したのは1780年5月2日でした。6000人の軍人のひとりとして軍艦に乗ったフェルセンさまは、きっと心を弾ませていたことでしょう。何しろ総司令官は、多くの軍人が憧れていた伯爵ロシャンボー将軍。様々な戦いで目立った活躍をした人です。


ブレストを後にした軍艦が、アメリカのロードアイランドにあるニューポートに到着したのは7月11日。その間、フェルセンさまは手紙で航海の様子を頻繁に父君に知らせていたのです。このような息子を持った父君は、さぞかし誇りに思っていたことでしょう。アメリカ側の指揮官はジョージ・ワシントン将軍で、後に大統領になった方。ロシャンボー将軍とワシントン将軍の鋭敏な指揮のもとに、アメリカ兵とフランス兵は勇気を持って戦い、ついに1781年10月、重要な拠点、ヴァージニア州のヨークタウンを占拠して、イギリス軍に徹底的な打撃を与えたのです。

ヨークタウンで決定的勝利を得る前に会見した
フランスのロシャンボー将軍(右)と
アメリカのワシントン将軍。

この戦いの間フェルセンさまは、格別な貢献をしました。フランス語を話さないワシントン将軍と、英語を話さないロシャンボー将軍の間の重要なやり取りの通訳をしていたのです。父君へのお手紙の中でそのように書いたのだそうです。何て素晴らしい活躍でしょう。勇敢な兵士として戦っただけでなく、知的活躍もしたのです。このようにフェルセンさまがアメリカ独立戦争に参加している間に、大きな悲劇が私に襲いかかりました。


2024年5月2日

スズラン祭

 5月1日は世界中がメーデーの日。フランスはスズラン祭の日でもあり、街中でスズランが売られます。この日に限って誰でもスズランを売っていい。.森に行って積んでキレイなブーケを自分で作って売る人もいるのです。今日は幸運をもたらす愛らしいスズランをご紹介。

メトロの入り口でスズランを売る人が結構多いパリ。
小さな素朴な台の上に並べたスズラン。
かわいいお花にぴったりな雰囲気。

チョコレート店は華やかなデイスプレイ。

シンプルでかわいい。
チョコのベースがおいしそう。
フラワーショップは高級なセットで人目を引きます。
根があるから来年まで持たせられるかも。

マルシェでも可憐な姿を見せています。

2024年4月24日

マリー・アントワネット自叙伝 26

 母になりました

 1778年12月18日の真夜中を少し過ぎた頃でした。陣痛を感じた私はすぐに女官長ランバル公妃を起こしました。公妃は夫を呼びに行かせ、あわてふためいた夫は、急いで支度をして私の寝室に入ってきました。信じられないかもしれませんが、国王夫妻の寝室は別々なのです。

ヴェルサイユ宮殿の王妃の寝室。

朝方3時ころ、親族や貴族に「王妃のご出産が近づいています」と、華々しく連絡されたようです。それを知って、待ち望んでいた時がいよいよきたかと、皆、興奮しながら急いで身支度を整え、南の庭園が一望できる私の寝室に向かった、と後で女官から聞きました。


驚いたことにフランス王妃の出産に、親族と貴族が立ち会う習慣があったのです。本当にびっくりです。信じがたいことです。なぜこのような習慣があったかというと、子供はたしかに王妃から生まれ、それを責任ある地位にいる人たちが見届けたと記録する必要があったからなのです。フランス人はずいぶん疑い深いのです。好奇心に満ちた数10人が、この大イヴェントを少しでもよく見ようと、家具の上に乗ったりカーテンをよじ登ったり。例え由緒ある貴族でも、いざという時には、このように恥も外聞もないのです。


押し合う人で、ベッドの周囲を囲んでいた背の高い屏風が倒れそうになったこともありましたが、幸いなことに、夫が事前に丈夫なコードでしっかり縛っておいたお陰で、悲劇にはなりませんでした。いつもは判断が鈍いのに、このときの夫の機敏の良さにちょっと感動しました。

大勢の貴族たちが見守る中で、最初の子供を出産。
生まれのは女の子でした。

真冬だというのに、部屋は熱気で息苦しい。でも、王妃ともあろう人が陣痛のいたみで大声を出すわけにはいかない。ハプスブルク家の名誉にかけて、王妃にふさわしくしなくてはと思いながら、見事に耐えました。


お昼近くに生まれた子供は女の子でした。この出産のときの医師はドクター・ヴェルモン。ヴェルモン神父さまのお兄さまです。子供が生まれたのは11時35分だったそうです。私は気を失っていたので、何時だったか知りません。ぐったりした私を見て、新鮮な空気が必要と思ったヴェルモン医師の言葉にすぐに応じたのは夫。天井まで届く重いドアを夫が力任せで開けたと聞いて、頼りがいがある面を知った思いでした。


生まれたばかりの王女は、その日のうちに宮殿の王立礼拝堂で洗礼を受け、マリー・テレーズ・シャルロットと名づけられ、通常はマダム・ロワイヤルと呼ばれることが決まりました。国はお祝いムード一色。王女とはいえ、とにかく子供が生まれて心から安心しました。

王妃としての自信もわいてきました。ほんとうによかったと心の底から思いました。

生まれたのは王女で、
マリー・テレーズ・シャルロットと名付けられました。

お母さまには、すぐに王女誕生を知らせました。王子でなかったので、ちょっとがっかりしたようです。でも、これで私が子供を産めることがわかったので、安心したようです。私がまだまだ若いので、この後もどんどん子供を産めると思ったのでしょう。

女官に抱かれる王女。


子供が生まれても、王妃の役割は相変わらずあるので、一日中娘と一緒にいることはできません。しかも私のお部屋は宮殿の2階にあり、マリー・テレーズ・シャルロットのお部屋は1階なので、行き来するのも大変でした。でも、母になった喜びは、日に日に増していきました。

2024年4月20日

エカテリーナ2世、愛人オルロフへの破格のプレゼント

ロシア女帝エカテリーナ2世(1762-1796)

 34年間ロシア女帝として君臨していたエカテリーナ2世が、情熱家で、公の愛人だけでも10人以上いたことはよく知られている。その中で、彼女が若いころに出会ったグリゴリー・オルロフへの愛は、格別だったようです。

ピョートル皇太子とエカテリーナ。
結婚した1745年のお二人。

ロシア皇太子ピョートルとエカテリーナが結婚したのは1745年で、ドイツ貴族の家に生まれたエカテリーナは15歳、ピョートルは2歳上でした。絢爛豪華な結婚式を挙げたものの、夫は体に欠陥があり、彼女に触れることもなく、8年もの間、不幸な結婚生活を送っていました。こうなると、マリー・アントワネットと同じ運命のように思えてきます。外国からお嫁入りしたことも、結婚したときの年齢もほとんど同じ。長い間夫が原因で子供に恵まれなかったのも似ている。

若い頃のエカテリーナは、
ほっそりしていて、とてもチャーミング

エカテリーナがグリゴリー・オルロフと出会ったのは1760年で、皇太子妃の彼女は30歳、彼は25歳。エカテリーナは若い美男子が好みのようで、60歳を越えて30歳以上も年下の愛人を持ったことも度々ある。女帝の愛人になると、莫大な報酬と地位をえられるのだから、候補の美青年はいくらでもいたのです。

12年間、エカテリーナの愛人だった
グレゴリー・オルロフ(1734-1783)

近衛連隊に配属されていたグリゴリー・オルロフは、長身で、ガッチリした男らしい体格、整った顔。武力や戦略に比類なき才能を発揮するかと思うと、社交にも長け、出会う女性を一瞬のうちに魅了する全てを備えている。

エカテリーナの夫は、というと、ひ弱で、情緒不安定で、判断力に欠け、奇妙な行動をとり、無能呼ばわりされていたような人。第7代ロシア皇帝ピョートル3世になっても、側近からも国民からも信頼されず、ついにクーデターが起きる。その時大活躍したのがグリゴリー・オルロフと彼の兄弟でした。

それ以前からグリゴリー・オルロフと愛人関係になっていたエカテリーナは、クーデターで夫が惨めな最期を閉じた年の1762年には、彼の子供を身ごもっていて、同年に男の子アレクシを産み、伯爵の称号を与えます。それ以前の愛人セルゲイとの間にも男子パーベルが生まれていて、後に皇帝になります。バーベルは自分の父親はピョートル3世で、母の愛人の子ではないと生涯主張しますが、エカテリーナがセルゲイの子だと回想録に書いているので、これは動かせない事実。

エカテリーナが産んだオルロフの息子アレクセイ
(1762-1813)

6か月しか皇帝の座にいなかった夫亡き後、大国ロシアの女帝になったエカテリーナの寵愛を一身に受けていたオルロフは、女帝から伯爵、後には公爵の称号をもらっただけでなく、多額の報酬、館、土地、宝石などを受け取り、宮殿内に豪華な家具や絵画が飾られた居室も与えられ、至れり尽くせり。大理石を豊富に使用したきらびやかな宮殿さえも建てさせたのです。けれども、やがて、気まぐれで、若く有能な愛人なしで生きていられないエカテリーナは、彼を遠ざけるようになります。出会いから約12年後のことで、長続きした方です。

12年間もの長い間連れ添い、しかもクーデターの主導権を握り、女帝の地位につけてくれた大恩あるオルロフだっただけに、別れる際にエカテリーナは派手なプレゼントをします。今後、不自由なく暮らせしていけるだけの多額の現金、4000人もの農民、宮殿内の彼の居室で愛用していた家具など、できる限りの贈り物をします。

そうした中で、特に目立ったのは銀製品で、ルイ15世お気に入りのフランスで最高級の金銀細工師に製作を依頼。60人用の食卓セットで、700近い食器、80を越える燭台、コーヒ―ポットは40、もちろん、ナイフ、フォーク、スプーンもある。その数は全部で3000.製作に使用した銀は2トン。歴史に残るほど破格のプレゼントでした。

オルロフが1783年に世を去ると、彼ほど素晴らしい人はいなかったと嘆き、1週間ほど悲嘆に暮れていましたが、ある日、突然、彼にプレゼントした銀の食卓製品をオルロフ家から買い取り、国のものとします。けれどもロシア革命で、盗まれたり、外国に売られたりし、オルロフに贈った銀製品のほとんどは、行方がわからなくなります。

エカテリーナ2世がオルロフと別れる際に贈った、
銀の食卓製品の一部が、パリのニッシム・ドゥ・カモンド美術館に
展示してあります。
めまいを起こしそうなほど、
きめ細やかな細工。

ところが、奇跡的にその貴重な銀製品を手に入れた貴族がパリにいたのです。大銀行家コマンド伯爵で、その数点が、現在、ニッシム・ドゥ・カモンド美術館に展示されています。眩いばかりの輝きを放つ、ゴージャス極まりない銀製品。これが3000点もあったのだから、エカテリーナ2世が君臨していた18世紀のロシア宮廷の凄さは、想像を絶するほど。エカテリーナ2世のオルロフへの愛の深さが煌めいているような逸品です。

一方、女帝が産んだオルロフの息子アレクシは、初代ボブリンスキー伯爵となり、結婚し、5人の子供が生まれ、その子孫は実業家、政治家、学者として活躍。ロシア革命でフランスに亡命した人もいます。エカテリーナ2世はオルロフに何世紀も続く子孫まで与えたといえます。

また、ネヴァ川に面した30種類以上の大理石を使用した華麗な大理石宮殿も、エカテリーナ2世がオルロフのために建築させたネオクラシックの美しい建造物で、今はサンクトペテルブルクの美術館となっています。

ネオクラシックの優美な大理石宮殿

銀製品、アレクシの子孫たち、大理石宮殿は、エカテリーナ2世とオルロフの愛を今でも語り続けているのです。

2024年4月14日

マリー・アントワネット自叙伝 25

 お兄さまがヴェルサイユ宮殿に

お母さまと共同でオーストリアを治めているヨーゼフ2世お兄さまが、ヴェルサイユ宮殿にいらしたはこの上もない喜びでした。何しろ結婚してから家族に会うのは初めてのこと。うれしくてうれしくて、子供のようにはしゃいでしまいました。

ヴェルサイユの森を切り開いて建築した宮殿なので、
周囲は深い緑で囲まれていました。


長い歴史を刻んだ家に生まれ、大公女として育てられ、14歳で見も知らない外国人と結婚させられ、いじわるな女官長や婚期を逃した叔母たちに悪知恵を叩き込まれ、ひとりも味方のいないまま、わけのわからない義務を果たしていたのですから、疲れきっていました。


そうしたときに頼りがいがあるお兄さまがいらしたのです。血を分けた家族に会えるのは最高です。気を使う必要はないし、いろいろな不満を打ち明けても、告げ口される心配もないのだから。もう、思いっきり甘えようと歓喜した私でした。

大好きな頼りがいがあるヨーゼフ2世お兄さま。

驚いたことにお兄さまは、偽名を使っていたのです。ファルケンシュタイン伯爵。それがお兄さまがフランス滞在中の、1777年4月18日から5月30日まで使っていたお名前。もちろんヴェルサイユ宮殿内にお兄さまのお部屋を準備していたのですが、それを断って、安いホテルをわざわざ選んでいました。なぜかというと、身分がわかると儀式に時間を取られたり、行動範囲も狭くなる。国の本当の事情を知るためには、無名でいるのが賢明と判断したからなのです。何て素晴しい考えの持ち主でしょう。自分の兄ながら尊敬します。


4月18日にパリ入りしたお兄さまは、駐仏オーストリア大使公邸に行きご挨拶。翌日、メルシー大使と一緒にヴェルサイユ宮殿に向かう予定だったのですが、大使は病気で動けなく、代わりにヴェルモン神父さまが同行しました。ヴェルモン神父さまは、まず、私のお部屋にお兄さまをお通しして、久しぶりの再会を水入らずで楽しめるように席を外してくださいました。私の監視役として、お母さまに告げ口ばかりしているメルシー大使に比べて、何て理解がある人でしょう。その後、夫のお部屋には私がご案内しました。それからあまり気が進みませんでしたが、義理の弟たちにもお兄さまをご紹介。敏感なお兄さまは即座に、プロヴァンス伯とアルトワ伯のいじわるで貪欲な性格を見抜いたようです。

お兄さまのヴェルサイユ宮殿訪問は、
この上ない喜びでした。

お兄さまはかなり精力的に動き回って、パリではアンヴァリッドやゴブラン織り工場、オテル・デュ病院などを訪問。その他地方も視察。ブレスト軍港の視察、リヨンやマルセイユ、ボルドーにも足を運んだそう。フランスの様々な面を見て回ったのですが、それは君主として必要だったから。


でも、一番大事な目的は、後で知ったことですが、国王にお会いしてアドバイスをすることだったのです。とういうのは、結婚して7年もたつのに、ルイ16世に世継ぎが生まれていなかったからなのです。お母さまはそのことをずっと心配していて、もっと国王に優しくしなさいとか、甘えた態度を示しなさいとか、手紙でうるさく言っていたのですが、夫は私にまったく無関心で、結婚して7年もの長い間、私に指一本触れることがありませんでした。


優しいのは優しいけれど、それだけではやはり不満。何でも好きなようにさせてくだったことは感謝するけれど、あまりにも無関心なので、私に女性としての魅力がないのかと悩んだこともありました。宮廷の殿方たちは、皆、私が魅惑的だとおっしゃるのに、夫がいかにド近眼だとはいえ、あんまりです。


王妃の役目は国に世継ぎを授けることだと、お母さまはすごくしつこかったけれど、こればかりは・・・・だから私はうさ晴らしのために、パリに頻繁に行ってオペラや劇、舞踏会、ときには賭け事に夢中になっていたのです。ドレスやヘアスタイルが日に日に派手になった理由も、今考えると気晴らしだったのかもしれない。


お兄さまは男同士だからと夫を気楽にし、心置きなく話し合って、どうやら夫の体に欠陥があるとわかったので、手術をすすめました。私の人生に大きな変化が起きたのは、その翌年でした。

 

フランスにいらしたとき、35歳のお兄さまは独身でした。美しく優しいパルマ公女マリア・イザベラさまと結婚し、相思相愛だったのですが、お妃が結婚からわずか3年後に病死したのです。お兄さまの嘆きはとても大きく、もう2度と結婚しないのではないかと思ったほどでした。でも皇帝にお妃がいないのは、国民にとっても諸外国の手前も許されないことです。「気が進まない」などと贅沢を言っている場合ではないので、バイエルン選帝侯の王女マリア・ヨーゼファさまを新たなお妃として迎えました。ところが彼女も結婚2年後に病死し、それ以後お兄さまは再婚しなかったのです。子供もいませんでした。

お兄さまの最初のお妃マリア・イザベラさま。

2番目のお妃マリア・ヨーゼファさま。


ウィーンで国務に専念していたお兄さまの耳にも、デュ・バリー夫人の噂は届いていたようです。ルイ15世亡き後、ヴェルサイユ宮殿から追い出されたことも、ポント・ダム修道院で、しばらくの間つつましい日々を送っていたことも知っていました。それだけでなく、1776年、つまりお兄さまがフランスに極秘でいらした前年に、ルイ15世逝去で取り上げられたルーヴシエンヌの館を、デュ・バリー夫人が取り戻したことも知っていて、彼女に会いにその館に意気揚々と行ったのです、ルーヴシエンヌの館に再び暮らしたいと願ったデュ・バリー夫人は、自ら国王に、つまり私の夫に頼み、気が弱い夫はすぐに同意したのです。

デュ・バリー夫人が暮らしていた
ルーヴシエンヌのシャトーの一部。


お兄さまは私やお母さまには、短時間しかいなかったと報告したけれど、とんでもない。実際には2時間もの長い間ルーヴシエンヌにいたのです。でも、こう見えても私は寛大で、やさしい心も持っている人。本当は前国王の前愛妾のことは、大して気にならなかったのです。それよりも一刻も早く母親にならなければという思いで一杯でした。

2024年4月11日

「宰相ロランの聖母」とチュイルリー公園

 春らしい日差しの中で、木や花がキレイな色を見せていて、散策する人が一挙に増えているチュイルリー公園。ここの大きな楽しみは、毎年、異なるテーマでお花が植えられること。今年はルーヴル美術館の秘蔵品、ヤン・ファン・エイクの名作「宰相ロランの聖母」がテーマ。この名作の修復が完了したお祝いに、ルーヴル美術館では特別展が開催されています。

「宰相ロランの聖母」1435年頃の作品。
細密なディテールに圧倒されないではいない。

チュイルリー公園ではこの作品に見られる色に合った花々を選び、独特な雰囲気を放っています。その近くには絵の写真と、花の名前を書いたボードがあり、わかりやすく解説。美術館に隣接する公園ならではの配慮です。ヤン・ファン・エイクは私が好きな画家のひとりなので、近日中に、彼に捧げるフランス最大規模の展覧会を鑑賞するために、ルーヴル美術館に行きます。

自然に植えられた、のびのびした花たち。
アネモネ、チューリップ、ナルシスetc

「宰相ロランの聖母」へのオマージュは、
公園いっぱいに広がっています。

花壇の近くのボードには
「宰相ロランの聖母」の写真と
花の名が書かれています。