2023年8月19日

マリー・アントワネット自叙伝 1

生まれたのはハプスブルク家

1775年11月2日の夕方でした。 母さまはいつものように、お仕事に熱中していました。外はすでに暗くなっていたのに、本当に自分の職務に忠実な方なのです。

それなのに、19時半ころ、私はお母さまのお腹をたたきながら、

「もう、こんな狭いところにいるのはイヤッ」

とばかりに勢いよく外に出たのです。


  何度も出産したお母さまは、少しもあわてることなく、生まれたばかりの可愛くもない私の顔を見ながら、

「思った通り女の子ですわ」 

と、満足な微笑みを浮かべました。


1755年11月日2日、
ウィーンのホーフブルク宮殿で生まれました。

お母さまはヨーロッパに名を轟かせている、ハプスブルク家の女帝と呼ばれるマリア・テレジアです。 ハプスブルク家は昔から、結婚によって領土を増やしたり、権力を増したりしているの子供は多いほど家の発展に役立つのです。それを「結婚政策」などと呼ぶ歴史家もいます。ですからハプスブルク家の帝国維持のために、お母さまも頑張って16人も子供を産んだのです。私はその15番目。それにしてもすごい数。


私が生まれるからには、お父さまもいるのに、なぜかあまり話題になっていませんでした。現在はフランスの一部になっている、ドイツに接するロレーヌ地方に、ロレーヌ公国がありました。その公国を治めるロレーヌ公の息子として生まれたお父さまには、フランス人の血が入っています。というのは、お父さまのお母さまは、かの偉大なフランス国王ルイ十四世の弟、オルレアン公フィリップの王女さまなのです。


 フランツと名付けられたお父さまは、整った顔立ちで、背も高く、お母さまは出会ったときにすっかり夢中になってしまったのです。そう、ひとめぼれだったのです。こうした両親の元に誕生した私は、翌日に洗礼を受け、マリー・アントワンヌ・ジョセフ・ジャンヌと名付けられました。 でもあまりにも長い名前なので、ラントワンヌとかアントニアと呼ばれるようになります

2023年8月23日

マリー・アントワネット自叙伝 2

憩いの場のシェーンブルン城


 お母さまが9歳年上のお父さまと結婚したのは1738年2月12日で、18歳でした。10歳にもならない時に、目鼻立ちが整い快活なお父さまに出会い、ひと目で恋に陥ったお母さまは、長い間あこがれていた人と結ばれて、さぞかしうれしかったことでしょう。

お父さまは人生を思う存分楽しむ、明るく陽気な性格の人でした。私はどちらかというとお父さま似でした。


お母さまがオーストリア女帝になったのは、父君カール六世が逝去なさった1740年で、すでに3人の王女の母親になっていた23歳のときでした。

複雑な国際情勢が続く中で、働き者のお母さまは、冬は朝6時、夏は4時に起きて一日中政務をおこなっていたのです。その間に、私を含めて次々と子供を産んでいたのですから、やはリ稀に見る女性です。


国務があるからと、子供たちを侍従や侍女に任せっぱなしにしなかったことに、お母さの偉さがあります。子供たちの養育に携わる人々と毎日手紙でやりとりし、すべてを把握し、正すべきことがあれば、それを伝えていたのです。


ハプスブルク家は宗教を重んじる家柄です。そのために、子供たちの教育の第一歩は宗教お勉強でした。5歳から始めるのが決まりになっているので、私もその家訓に従って、カトリックのお勉強を始めました。

音楽もわりと早い時期に始めました。お兄さまたちや弟は主に楽器を、そしてお姉さまたちと私は歌を歌うことが多く、コンサートも頻繁に開いていました。ダンスも大きな楽しみでした。

 

こうした幸せな時を過ごすのは、ウィーン近郊のシェーンブルン宮殿でした。

ここは家族団欒のための離宮で、緑に恵まれているし、お花もたくさん咲いていて、楽園のようでした。 その中を思いっきり駆け回っていた幸せな子供時代を、今でもはっきりと覚えています。お母さまは、自然に触れることが、子供たちによい影響を与えることを知っていたのです。


自然と言えば、お料理にも気を配っていたお母さまによって、野菜スープを毎日のようにいただいていたことも、思い出します。お食事はどちらかというと、いつまでも体の中に残らないピュアな感じでした。大人になっても食が細かったのは、この小さいころからの食生活のお陰でしょう。


劇や、オペラ、コンサート、ダンスが好きな両親だったので、シェーンブルン宮殿に劇場もありました。オープンしたのは1747年なので、私が生まれる前のことです。

ここでの忘れられない思い出は、9歳の時のバレエです。長男のヨーゼフお兄さまが、最初のお妃を亡くした後、マリア・ヨーゼファさまを2番目のお妃として迎えるご結婚をなさった際のこと。お母さまのご希望で、一番幼い3人が踊ったのです。そのタイトルは「愛の勝利」。ヨーゼフお兄さまの再婚にふさわしいバレエでした。


シェーンブルン宮殿の劇場で
お兄さまのご結婚祝いに踊りました。

この時の様子を描いた絵のコピーを、お母さまが私の結婚後にフランスに送ってくださり、それはヴェルサイユのプティ・トリアノンの壁を飾っていました。たくさんの楽しい思い出が詰まっているシェーンブルン宮殿を、生涯忘れたことはありませんした。

2023年8月27日

マリー・アントワネット自叙伝 3

突然、大きな不幸に見舞われました

幸福がずっと続いていて、それが当然のことだと思っていたのに、不幸が、何の前触れもなく訪れました。今、思い出しても、どうしてこのような不幸が、いきなり私たちを襲ったのか分かりません。幼い私は、ただウロウロするばかりでした。

実は・・・お父さまが、あのお優しいお父さまが、急に天国に召されてしまったのです。

お母さまの嘆きは、文字で表現できないほど大きなものでした。まだ幼さが残っていた年にお父さまに出会って、胸をときめかしたお母さまは、念願かなって結婚し、たくさんの子供に恵まれ、帝国も繁栄を遂げ、公私ともに充実した日々を送っていたのです。

それなのに、突然・・・・

それは1765年8月18日のことでした。
3男のレオポルトお兄さまの結婚祝いで、家族そろってインスブルックに行っていました。そこにもハプスブルク家の王宮があり、お母さまの好みでロココ様式の装飾がなされていました。

そこで結婚祝いの華やかな祭典が続いていました。そうしたある日、急に具合が悪くなったお父さまは、席を立ってお部屋に戻ろうとしたのですが、途中で倒れたのです。お父さまに付き添っていた長男のヨーゼフお兄さまの腕の中に崩れて、そのまま息を引き取ってしまったのです。後で知ったのですが、心臓発作だったそうです。私が9歳の時でした。

突然亡くなられたお父さま。

お父さまが57歳でお亡くなりになった時、お母さまはかなり取り乱したようです。幼かった私は、詳しいことを知らされませんでしたが、後年に聞いたことによると、お母さまはウィーンの居城、ホーフブルク宮殿のご自分のお部屋に、長い間、閉じこもったままだったそうです。

驚いたのは、お母さまは嘆きのあまり女帝を辞めて、修道院に入ってそこで余生を過ごしたいと、側近に語ったことです。それほど衝撃が強かったのです。黒い服だけ着るようになったお母さまは、女官たちにもそれを義務付けただけでなく、ホーフブルク宮殿の居室を黒くしたり、便箋にも黒い縁取りを入れさせました。
「私の幸せは29年間しか続かなかった」
と、お父さまと過ごした年月を頻繁に、口にしていたそうです。

皇太子にも恵まれ幸せだったお父さまお母さま。

でも、重要な地位にある自分の立場を思い、悲嘆から立ち上がる努力をしたのは、さすが気丈なお母さまです。国の維持だけでも気が遠くなるほど大変なことなのに、それぞれ重要なポストにある息子たちの監視や指導、それに加えて、ハプスブルク家の発展に有利な娘たちの嫁ぎ先の選択など、お仕事は山のようにあったのです。

お父さまはドイツ、チェコ、北イタリア、オーストリアを中心とする神聖ローマ帝国のローマ皇帝でしたので、お父さまが亡くなった年に、長男のヨーゼフお兄さまはその後を継いで、ローマ皇帝ヨーゼフ2世になり、その翌年には、お母さまのご希望でオーストリアの共同統治者にもなりました。

24歳だったお兄さまには、かなり重荷だったのではないかと、お気の毒に思えます。お兄さまは若かったためか、理想が大きく、改革にも積極的で、そのために、お母さまとぶつかり合うことも度々ありました。私がフランスに嫁いだ後、様々なことで心配してくださった頼りになるお兄さまでした。

2023年9月1日

マリー・アントワネット自叙伝 4

一番仲が良かったお姉さまがナポリに行ってしまいました

私が誰よりも好きだったのはマリア・カロリーナお姉さまでした。お部屋も一緒だったし、年も近いので気が合っていたのです。明るくて、活発で、頭がいいマリア・カロリーナお姉さまは、ほんとうに楽しい人でした。他にもお姉さまは何人もいたのですが、マリア・カロリーナお姉さまとは何でも話し合えたし、趣味や遊びの好みまで同じで、まるで双子のようだと言われていたほどでした。

そのお姉さまが、突然、結婚のためにナポリに行ってしまったのです。1768年5月で、私が12歳のときです。

マリア・カロリーナお姉さまとナポリのフルディナント4世との結婚は、急に決まったことでした。ほんとうは、もっと年上のマリア・ヨーゼファお姉さまが、フルディナント4世のお妃になるはずだったのです。ところがマリア・ヨーゼファお姉さまが、天然痘で亡くなってしまったのです。結婚直前の1767年でした。そのために、マリア・カロリーナお姉さまが代わりに嫁ぐことになったのです。
右が私で、
左がマリア・ヨーゼファお姉さまとマリア・カロリーナお姉さま。
1760年の肖像画です。

悲しいことに、政略結婚はこれがあたりまえだったのです。ナポリ王家とハプスブルク家にとって重要なのは、結婚によって両家を強く結ぶことで、簡単にいうと、相手は誰でもよかったのです。

最初、お母さまは、マリア・ジョゼファお姉さまをナポリ王家に、マリア・カロリーナお姉さまは、フランスに嫁がせるつもりでいたらしい。それが思わぬ出来事で予定が狂ってしまったのです。その結果、マリア・カロリーナお姉さまはナポリへ、そしてフランスには、私が穴埋めに送られることになってしまったのです。

ああ、何という運命!
見ず知らずの、しかも奇行が多く、政治には全く不向きで、国を統治する気力も能力もないフルディナント4世と結婚させられ、家族とも別れたマリア・カロリーナお姉さまは、娘時代の女官に、私のことを度々聞いていたそうです。可愛そうなお姉さま。

でも、お母さまには同情している余裕はありませんでした。最後の娘である私の結婚を、本格的に考える重要なお仕事があったのです。

12歳になった私。
結婚を本格的に考える時期がきたのです。
credit: Österreichische Nationalbibliothek

お母さまはたしかに子供たちを可愛がっていましたが、それ以上に統治者だったのです。しかも、歴史上稀にみるすご腕の。激動の時代だったので、そうならないではいられなかったのです。

2023年9月11日

マリー・アントワネット自叙伝 5

 私の嫁ぎ先はフランスと決まったようです
私が13歳のときでした。唯一の独身娘だった私の売り込みに、お母さまはすべての情熱を捧げていました。
お母さまが熱望していた私の嫁ぎ先は、フランスのブルボン家だったのです。フランスとオーストリアは戦争ばかりしていて、いい加減つかれてきたし、すぐお隣のプロシアのフリードリッヒ国王が勢力をまして、かなり危険状態にあったのです。
そのために、このあたりで二つの大国が手を結ぶべきだと、側近たちがしつこく進言していたのです。その手っ取り早く、確実な方法は、結婚という手段を用いること。

当時、フランスの国王はルイ15世。お妃はすでにお亡くなりになっていて、国王は愛妾とヴェルサイユ宮殿で幸せな日々を送っていらしたそうです。
ルイ15世にはルイ・フェルディナン皇太子さまがいらしたけれど、王位につく前に亡くなられたので、その息子、つまり国王のお孫さんのルイ・オーギュストさまが、未来のフランス国王に就くことが決まっていました。私が結婚するのは、その方です。とはいうものの、お会いしたことがなかったので、容姿も、性格も、趣味もまったく知りませんでした。

ルイ・オーギュスト皇太子さまは私より一歳年上で、しかもフランスの国王の座が確約されているので、お母さまは興奮状態。どうしても私をその皇太子さまに嫁がせたかったのです。私は、ルイ・オーギュストさまに関心もないし、フランスにも少しも興味がありませんでした。でも、お母さまも取り巻きも、帝国の維持と発展のために、何としてもこの結婚を実現したかったようです。
私より1歳年上のルイ・オーギュストさま。
1769年の肖像画だそうです。


みんなが知恵を絞ってルイ15世の説得にあたっていましたが、ある日ふと、未来のフランス王妃になる要素が私にあるのかと、心配になってきたのです。もっともなことです。
政務に忙しいお母さまは、末娘の私にはかなり甘く、簡単にいうと自由にしていました。退屈なお勉強はほどほどにして、劇やダンス、遊びに夢中になっていた私を、侍女たちも何も言わずに、ただニコニコと笑顔を浮かべて見ているだけでした。首になるのを恐れていたのか、私が手に負えないほどやんちゃだったのかわかりませんが、とにかく好きかってに暮らしていたのです。
ところが今や、ヴェルサイユ宮殿を建築させ、ヨーロッパ諸国の君主の羨望を独り占めしていたルイ14世の子孫に嫁ぐかも知れない身。あまりにも自由奔放に育って、礼儀作法も歯並びさえもきちんとしていない上、宮廷で必要とされている三ヵ国語のドイツ語、フランス語、イタリア語の読み書きも惨憺たるもの。これではルイ15世が大切なお孫さんの妃として迎えるはずはない。
このような的確な判断を下した頭脳明晰なお母さまは、私の再教育に本腰を入れるようになりました。かわいそうな私は、フランス人の歯医者さんによって歯並びを矯正され、たくさんのお勉強を強いられました。そのほか、歩き方、挨拶の仕方、絵や楽器のレッスン etc
 
ヨーロッパに君臨する偉大なハプルブルク家の恥にならないように、ヴェルサイユ宮殿では、流暢で品格あるフランス語を話さなければならない。そう思ったお母さまは、美しいフランス語を操ると評判が高かった、マテュー=ジャック・ド・ヴェルモン神父さまを、フランスからウィーンに呼んで、私の教育をその方に委ねたのです。私より20歳年長で、幸いなことに整った顔立ちの感じがいい方です。
温厚な性格のヴェルモン神父さまとは、なぜか気が合って、私はわりと素直にお勉強をするようになりました。もともと素質があったのか、フランス語は短期間に上達して、神父さまがお褒めの言葉を本国に送ったほどでした。神父さまはフランス語だけでなく、宗教や歴史も教えて下さいました。博学なのです。私はヴェルモン神父さまにかなりいい印象を与えていたようです。
「大公女さまは色白で、愛らしいお顔で、チャーミングな性格の方です」 
などと、満点に近い評価をフランスに報告したのです。
それが役立ったのかはわかりませんが、ついにルイ15世からお母さまに、皇太子のお妃として私を迎えたいと正式の連絡が届いたのです。1769年6月13日で私は13歳でした。
フランスに届けるために描かれた
1769年のパステル画

お母さまの喜びようは大変なものでしたが、私には自分に無関係な出来事のようにしか感じられませんでした。結婚が何を意味するのかもわかっていなかったのです。ただ、大好きなシェーンブルン宮殿とお別れすのは、ちょっと寂しいと思ったことは覚えています。

2023年9月17日

マリー・アントワネット自叙伝 6

ウィーンで代理結婚式

私の結婚は1770年の春にと決まりました。最初にウィーンで、その後フランスのヴェルサイユ宮殿でと、結婚式は二度もあるのです。

4月15日、イースターの日、マリア・クリスティーナお姉さまと、ある伯爵夫人のシャトーの窓辺に立っていました。すごい行進があると聞いて、それを見るために伯爵夫人邸の窓に近づいていたのです。

その行進は、私のためにわざわざフランスからいらした使節団で、お姉さまと何度も歓声をあげたほど絢爛豪華でした。それが私の結婚のためだとは、とても信じられませんでした。第一、結婚する実感がまったくなかったのですから、まるで、国の重要な祭典のためのようにしか思えなかったのです。

豪華な行列の中で特に目に焼き付いたのは、二台の大型馬車でした。聞けば、その二台は私がフランスにお嫁入りするときに乗る馬車で、国王ルイ15世からのプレゼント。それほどの心配りをするなんて、何て優しい国王と感動しました。マリア・クリスティーナお姉さまもうらやましがっていました。

その一台の馬車は、深紅のビロードを張り巡らし、四季をあらわす精美なブロドリーがほどこされていました。そしてもう一台は、四大要素の装飾があるブルーのビロード張り。それだけではありません。ゴージャスな二台の馬車は私のための馬車なので、誰も乗っていませんでした。

それに続く46台の馬車には、結婚のために特別に派遣された、デュルフォール侯爵とお付きの人々が乗っていました。それを取り囲む117人もの随行人はブルー、イエロー、シルバーのきらびやかな色彩の服装。きっとフランスは、自国の偉大さを見せびらかしたかったのでしょうが、とにかくめまいを覚えるほどの豪華さでした。

その翌日の16日、フランス特使のデュルフォール侯爵が、お母さまとヨーゼフ2世お兄さまにお会いになって、正式に私をフランスの王太子妃に迎えたいと申し出ました。デュルフォール侯爵は、私のフィアンセからのお手紙とポートレートをうやうやしく差し出したのです。お隣の部屋でじっと事の成り行きをうかがっていた私は、呼ばれると急ぎ足でお母さまとお兄さまがいるお部屋に入り、それらを受け取りました。 

そのまた次の日の17日、フランスに嫁ぐ私は、オーストリアでのすべての継承権を破棄する宣告をしました、というか、無理やりさせられました。まるで、二度と生まれ故郷に戻ることがないかのようなその宣告は、後味の悪いものでした。

その後は、祭典に祭典が続き、そうした楽しいことが好きな私は有頂天。踊って踊って、また踊って、皆にちやほやされて、花火も上がるし、結婚ってなかなかいいものだ、と思わずにはいられませんでした。

そうしたすべての騒ぎが終わり、4月19日になると、今度は厳粛な結婚式。代理結婚と呼ばれ、フランスにいるフィアンセの代わりに、代理の人と結婚式をあげるのです。選ばれたのはフェルディナトお兄さま。私より一歳年上で、後に北イタリアのロンバルディ総督になります。

トランペットが高らかに鳴り響く中、着飾った宮廷人が、王宮ホーフブルクのギャラリーからアウグスティーナ教会まで華やぎを散りばめながら進み、儀式は夕方6時に始まりました。
シルバーのドレスを着た私は、お母さまとヨーゼフ2世お兄さまに付き添われて、祭壇に向かいました。そこで待っていたフェルディナトお兄さまと揃ってひざまずいて、お祈りを捧げ、誓いを交わしたのです。代理結婚とはいえ、兄妹で誓いを交わすなんて、ほんとうに奇妙でした。


ウィーンでの代理結婚式が行われたアウグスティヌス教会。
王宮に併設している14世紀の歴史ある教会。
ウィーンでの結婚式で
ルイ・オーギュストさまの代理をつとめた
フェルディナントお兄さま。

フランスへの出発は4月21日でした。それまでの残されたわずかな日々を、私はお母さまのお部屋で過ごしました。お母さまの寝室に折り畳み式ベッドを置いて、夜寝る前にこまごまと注意事項を嫁ぎ行く娘に述べるお母さま。あの貴重な日々を、どうしてもっと大切にしなかったかと、後悔しないではいられません。 お母さまには、その後二度と会うことはありませんでした。

2023年9月26日

マリー・アントワネット自叙伝 7

さようなら、我が祖国

4月21日、予定通り私は馬車に乗りました。そうです、フランス国王ルイ15世がプレゼントしてくださった、あのゴージャスな馬車です。
大好きな家族とのお別れは本当につらく、思い出したくありません。たくさんのお花で飾られた馬車は、ウィーンをあっという間に離れ、郊外のシェーンブルン城が見えてきたときには、涙がポロポロ出てしまいました。

そんな私の気持ちに同情することもなく馬車は走り続け、8時間後に最初の目的地、メルクに到着しました。そこにはヨーゼフ2世お兄さまが待っていて、やさしく迎えてくださり、その日はベネディクト派の修道院に泊まりました。
この修道院はもともと居城として建築されたので、素晴しいフレスコ画が描かれ、バロックの装飾でとても豪華です。窓から見えるヴァッハウ渓谷の美しさも格別。そこでお祝いのオペラや演奏がありましたが、正直言うと疲れていたので、どれも退屈で早く終わってベッドに入りたいと思うばかりでした。
メルクのベネディクト派修道院。
ここでヨーゼフ2世お兄さまが迎えて下さり、
豪華な祝賀がありました。

翌朝、ヨーゼフ2世お兄さまにお別れを告げ、馬車はまた走り続けました。町や村では、私が通るたび教会の鐘が鳴り、道路に花びらがまかれお祝いしてくれましたが、毎日、数時間馬車で移動するのはとっても疲れます。馬車はどんなに豪華な椅子でも、揺れ動いているので座り心地は最悪。それに、道は舗装されていなく、適当に石を並べたり、砂ぼこりがあがる粗野な状態ばかり。

木が多くてお天気がいい日でも暗いので、「黒い森」と呼ばれている深い森を通り、ドイツとフランス国境に面したライン川のほとりに着いた時には、心からほっとしました。その川の中ほどの小さな島で、私はフランス入りの儀式を行い、フィアンセが待つパリの北にある宮殿に向かうのです。

ドイツとフランスの間を流れているライン川に架けられた橋を渡ったのは、5月7日11時時半でした。川の中ほどにあるエピ島行くためです。その島は中立の立場にあるとされ、そこで私はオーストリアからフランスに渡されることになっていたのです。そのための儀式は何と「引き渡し」と呼ばれ、それを知った時には聞きなれない言葉なので、正直言ってびっくりしました。何だか自分が品物になったような印象を受けました。

島には儀式にふさわしい建物がないので、急遽、造られたというのだから、またびっくり。それだけではありません。島に行く橋もなかったので、それもこの日のために架けたのです。木造の建物の内部は家具やタペストリーの飾りがあったとはいえ、いたってシンプルでした。右端にオーストリアの入り口があり、オーストリアの二つの控の間が続いていました。中央が儀式が執り行われるお部屋で、長方形の素朴なテーブルがあっただけ。それが国境なのです。
 
「引き渡し儀式」が行われた建物。
上が外観で下が内部の様子。
中央が儀式の間で、右はオーストリアの入り口、二つの控の間、
左は儀式後に入る二つのフランスの間とフランスへの入り口。

建物の立体的なデッサン。儀式が終った後、取り壊されました。

それまで着て来ていたドレスをオーストリアの間で脱ぎ、フランスのドレスに身を包んだ私は儀式の間に入りました。オーストリアが確かに私を引き渡し、フランスが間違いなく受け取ったといった内容の奇妙な文が読み上げられ、サインを終えるとオーストリア随員は引き下がり、私はフランスの間に入って行きました。そこには女官長ノアイユ伯爵夫人をはじめとするフランス人随員が待っていました。これがオーストリアとの永遠の別れだったのです。悲しみと感動が入り混って、私は思わず涙ぐんでしまいました。
その後馬車に乗り、フランスのストラスブールの街中へと進みます。この日のために、わざわざ立派な凱旋門を造ってくださったと聞いてとても感激しました。道路にはバラの花びらがまかれ、大勢の子供たちがアルザス地方の衣装で迎えてくれ、その姿があまりにもかわいいので、疲れもとれてしまったほど。すっかり気に入った私は、ドイツ語での歓迎の言葉を途中で止めて、
「今後はフランス語だけでお話してください」
とお願いしたほど、フランス大好きになってしまいました。
私のフランス入りお祝いのために、
立派な凱旋門まで造ってくれたストラスブール。
街をあげての大歓迎でした。

豪華な馬車で凱旋門の下をくぐる私。
感激しました。

その日もまた会食、劇、ダンス、花火など盛り沢山のスケジュール。でも、心地よい一日でした。お父さまはアルザス=ロレーヌ地方を支配していた、由緒あるロレーヌ公国の君主の家に生まれた人。そうしたこともあり、その主要都市のストラスブールが居心地よかったのかも知れません。
歓迎の儀式も立派でした。

2023年9月30日

マリー・アントワネット 自叙伝 8

フランス国王,フィアンセとの奇妙な出会い

ストラスブールを離れた馬車は、コンピエーニュに向かって走り続けていました。そこでフランス王家の人々にお会いすることになっていたのです。行き先々で相変わらず教会の鐘が鳴り、人々が興味深げに馬車に走り寄り、そのたびに笑顔でこたえるのにさすがに疲れていました。

コンピエーニュは大きな森で、王侯貴族のお気に入りの狩猟の場でした。その中ほどにシャトーがあり、到着した日に一泊するのです。森は5月の新緑がきれいだったし、そこから舞い上がる自然の香りも心地よく、ずっとそこにいたいほどでした。


突然、馬車が止まりました。シャトーに着いたのかと思って、あたりを見まわしましたがそれらしきものはない。シャトーはどこにも見えないのに、なぜか止まったのです。ベルヌという橋の近くでした。


何事かと馬車から顔を出すと、立派なユニフォームに身を固めた大勢の兵士の姿が見えました。その後ろで数えられないほどたくさんの人が、押し合っていました。群衆は何かを待っていたのです。

何かとは・・・・

未来のフランス王妃の私と、その私をお迎えするために、わざわざベルヌ橋までお出でになった、フランス国王ルイ15世の到着です。


突然、また突然、トランペットが高らかに鳴り響き、太鼓が華々しい音をあげました。それが国王到着を意味することがわかっていた私は、花で飾り立てた馬車から急いで降りて、国王の前に進み、ウィーンで何度も練習した通りに、最大の笑顔を浮かべて丁寧にごあいさつ。 

国王はおひとりではありませんでした。背が高いブルーの大きな瞳の殿方の姿が、国王のお隣に見えました。フィアンセのルイ・オーギュストさまです。笑顔を見せるわけでもないし、私のことが気に入らないかと心配したほど、無関心な態度。なので私もフィアンセに冷たい態度で接して、挨拶もそこそこにして、三人揃って馬車に乗りコンピエーニュ城へと向かいました。その道中、国王は孫のフィアンセの私がよほど気に入ったようで、ずっとご機嫌でした。


ベルヌの橋の近くで、ルイ15世とフィアンセにお会いしました。

 

コンピエーニュ城では着飾った王家の人々が勢ぞろいで迎えてくださいました。長々としたお定まりの楽しくもない挨拶の後、歓迎の会食があり、その後、私のお部屋で12のリングを試しました。後日、ヴェルサイユ宮殿での結婚式ではめるリングを選ぶためです。試したリングの中に、私の指にぴったり合うのが見つかったとき、その場にいた全員がほっとしました。何だかシンデレラになった気分でした。


コンピエーニュ城。深い森の中の優雅なお城です。

その日、私はシャトーに泊まりましたがフィアンセは、近くに館を持っているサン・フロランタン国務卿邸に泊まったのです。結婚前に同じ屋根の下に寝てはいけないという習慣がフランスにあったためです。わけのわからないことばかりの連続で、疲れ切っていたので、その夜はぐっすり眠ることができました。