2017年1月13日

メトロの駅名は語る 21

Opéra
オペラ (3,7,8号線

第三共和制の時代に完成したオペラ座。
着飾った紳士淑女により、
さらなるきらめきを放っていました。
パリの名所オペラ座は外も中も絢爛豪華で、これぞパリといった印象を受ける人が多いようです。
正面入り口から中に入ると、大理石の幅広い階段が目の前に見え、
それをのぼっていくに従って高揚感が増し、自分が価値ある人になったような喜びを与えるオペラ座。

この殿堂の建築を命じたのはナポレオン三世皇帝ですが、彼はその後失脚し、ロンドンに亡命。完成を見ずにその地で世を去ります。

1875年に完成し、
落成式はマクマオン大統領列席のもとにおこなわれました。
建築開始は1862年7月21日で第二帝政時代、完成は1875年1月5日で第三共和制時代。その間に普仏戦争もあり工事が中断され、10年以上の年月を必要としました。

このオペラ座の前にあるのがオペラ広場。多少離れた場所に造られました。
というのは、壮麗なオペラ座の全景をじっくり見るのに、その方がふさわしいと考えられたため。

メトロ3号線の工事が始まりました。
1904年、メトロ3号線がオペラ座近くを通ることになり、その入り口をどうするか論議がなされます。
当時はアール・ヌーヴォーの時代。 その巨匠といわれるエクートル・ギマールが大活躍し、今でも数箇所に残っているメトロの入り口を随所につくります。

オペラ座の美観をそこねないよう、
メトロの入り口は背が低くシンプル。1904年、メトロ開通の年の写真。
当然、オペラ駅にも同じようにアール・ヌーヴォーの入り口をと案が出されます。
けれども
「ネオ・バロックのオペラ座と調和がとれない
ギマールのメトロ入り口は背が高すぎて、せっかくの殿堂が損なわれる

ギマールが生み出したメトロの入り口。
背が高いのでオペラ座の前にこの入り口をつくったら、
華麗な全景を損ないます。
このような判断が下され、現在見られるような背が低く控えめなものとなり、遠くからでもオペラ座の全景が見れるのです。
たしかに、ここの主役はオペラ劇場で、メトロの駅ではない。
さすが、都市の美観に才知を発揮するパリジャン。学ぶべきことです。 

2017年1月18日

メトロの駅名は語る 22

Quatre septembre 
キャトル・セプタンブル (3号線)
 
皇帝ナポレオン3世。
この駅名は日付を表していて「9月4日」という意味です。1870年9月4日、共和国宣言がなされたのです。それまではナポレオン三世が治める第二帝政でした。

セダンで捕虜になったナポレオン3世。
ところがドイツとの戦い、普仏戦争最中の1870年9月2日、ドイツ国境近くのセダンでフランスは敗れ、皇帝はそこで捕虜になります。

1870年9月4日、
パリ市庁舎で共和国宣言をする議員レオン・ガンベッタ。
それを知ったパリで共和制樹立の運動おき、9月4日、議員レオン・ガンベッタが共和国宣言をします。この重要な日をオペラ座近くの道路名とし、メトロも同じ名が付けられたのです。

2017年1月31日

メトロの駅名は語る 23

Bourse
ブルス (3号線)

「ブルス」フランス語で証券取引所のことです。
フランスに証券取引所が生まれたのは17世紀で、古い歴史があります。

現在見られるパリ2区の証券取引所を建築させたのは皇帝ナポレオン。1808年、最盛期に自ら建築用の最初の石を置いています。

1854年、セレモニーが行われた証券取引所。
けれども完成したのは1826年で、ナポレオンは失脚しセント・ヘレナ島で世を去っていました。その年に完成した姿を見せた証券取引所は、コリント様式の列柱に取り囲まれた均整のとれた建物で、まるで、ギリシャの神殿のよう。

1900年に描かれた証券取引所の外観。
現在も同じ姿。
2000年に証券取引所の機能を果たさなくなり、今はレセプションやディナー、コンサートなどの会場として使用されています。

この界隈は今でも両替所が多く、レートがいいと旅行者に評判です。
昔の紙幣やコインを取り扱っているお店もあり、一日中賑わいを見せています。

グルメにうれしいのは、この周囲においしいレストランが たくさんあること。
中でも 下記の4店はおすすめです。

Le Vaudeville 1920年代のインテリアがすばらしい。味もしっかりしている。
Gallopin 1876年創業、伝統的な味が大人気。
Mori Venice Bar ヴェネティアの本格的味が魅力。コンテンポラリーなインテリアもステキ。
Terroir Parisien Bourse スターシェフ、ヤニック・アレノご自慢の最新フレンチの味を満喫できます。

2017年2月12日

メトロの駅名は語る 24

Réaumur=Sébastopol
レオミュール=セバストポル (3,4号線)

東西に走るレオミュール通りと南北に走るセバストポル大通りが交差する地にあるこの駅は、おわかりのように二つの名からなっています。

著名な学者レオミュール
レオミュールは18世紀の科学者であり、昆虫学者であり、物理学者だった人で、特に彼が書いた昆虫の生態に関する6巻にも及ぶ集大成は高く評価されています。

レオミュール通りのアール・ヌーヴォーの建造物。
彼の名を冠したレオミュール通りは、1900年代にファサード・コンクールが行われた際の建築物が多数残っていて、それを見るために足を運ぶ価値があります。特に、当時のまま残っているアール・ヌーヴォーのファサードが見ごたえあります。

1905年のセバストポル。
セバストポルは黒海に面したクリミア半島の都市で、重要な軍港があります。
1854年、その地はクリミア戦争の激戦地になりました。
イギリス・フランス・トルコ連合軍と、セバストポルを陣取っているロシア黒海艦隊の間で激戦が繰り広げられ、約一年間のすざまじい戦いの後、ロシアは撤退。

勝利を得た激戦地の名がセバストポル大通りとなったのです。

2017年2月19日

メトロの駅名は語る 25

Temple
タンプル (3号線)

この近くには、フランス革命の際に国王一家が幽閉されていたタンプル塔があり、後年、それが取り壊され今はタンプル公園になりました。
この名から駅名が決まりました。

頑丈な石の壁に取り囲まれたタンプル騎士団の本拠地。
もともとこの地には、タンプル(テンプル)騎士団の拠点があり、豪勢な居館がありました。

キリスト教徒による第一回十字軍が、11世紀末に聖地エルサレムを手に入れると、それを守るために騎士修道会がいくつか作られます。そのひとつがタンプル騎士団。彼らは他の騎士団と同じように、修道士であり戦士でもありました。

第二回十字軍に参加した国王ルイ7世は、タンプル騎士団の業績を高く評価し、
当時パリの東近郊にあった広大な土地を寄贈します。後年パリが拡大され、その土地はパリ市内になります。

1240年から壁で取り囲んだ城砦のような建造物を創り、そこを拠点として勢力を増し、多額の寄付を受け、莫大な財産を持つようになります。
財産管理の安全性を知ったフランス国王や貴族たちは、タンプル騎士団に財産を預けたほど有力な騎士団でした。

ところが14世紀のフィリップ一世が、国王以上に裕福で有力な騎士団に激怒し、不法な罪状で騎士たちを捕らえ、財産を没収し、騎士団は廃止され、領地と建物は聖ヨハネ慈善修道会のものとなります。
タンプル騎士団の敷地内には、
高さ50メートルの大塔と、それにぴったりつく小塔も建築されました。
そこに、革命で捕らえられたルイ16世一家が幽閉されていました。
時が流れ、18世紀にルイ16世の末弟アルトワ伯の息子が、その修道会代表となり彼所有となります。その後革命の時代を迎え、修道会は廃止され、塔にルイ16世一家が幽閉されたのです。

タンプル塔の国王一家。
左から、国王の妹、国王夫妻の王女、マリー・アントワネット、
王子に勉強を教える国王。
 ナポレオン皇帝は、この忌まわしい歴史が刻まれているタンプル塔を嫌い、1808年、取り壊す命令を出し、後年に公園がつくられたのです。
一説では、王家の人々の巡礼地になるのをナポレオンが恐れ、壊させたともいわれています。

2017年2月24日

メトロの駅名は語る 26

République
レピュブリック (3,5,8,9,11号線)

当初、三角形の小さな広場にすぎなかったのが、現在見られるような大きな広場になったのは、ナポレオン3世の第二帝政時代でした。

1827年の広場。
中央に噴水がありシャトー・ド広場と呼ばれていました。
ナポレオン3世の時世に、3200人収容可能兵舎が広場近くにありました。必要な際に多数の兵士を集合させ、直ちに目的地に向かって移動できるよう、広場には7本の幅広い道路も創られます。

名前が変りレピュブリック広場と呼ばれるようになりました。
共和国を象徴する、人民のための広場です。
広場の名がレピュブリックとされたのは1889年。それが後にメトロ名にもなります。
中央には共和国を象徴する9,50メートルのブロンズのマリアンヌ像が置かれ、現在は共和国の名のもとに、様々な集会が行われたり、デモ行進の発着、終着の場となっています。

フランスの共和政が始まったのは革命のときで、1792年。
その後ナポレオンの第一帝政、王政復古、ナポレオン3世の第二帝政、共和政などめまぐるしい政変があり、現在は第五共和政。

大統領の挨拶は常に「共和国万歳、フランス万歳」で終わります。
なぜか、その言葉を聴くたびに感動します。

2017年3月1日

メトロの駅名は語る 27

Parmentier
パルマンティエ (3号線)

ルイ16世の時代の農学者であり、薬剤師だったアントワーヌ・パルマンティエの名が駅名になっていますが、彼の名は日本人にはあまりお馴染みではありません。
けれどもパルマンティエは、誰にも親しまれているじゃがいもを普及した重要な学者なのです。 

18世紀の偉大な農学者アントワーヌ・パルマンティエ。
18世紀に悪い気候が続き、農作物が被害にあっていたときに、 パルマンティエは寒さに強く、しかも、やせた土地でも立派に育つじゃがいもの生産をうながし、それによって1785年、ルイ16世の時世の最悪の飢饉も逃れることもできたのです。

 じゃがいもを普及するために、パルマンティエは様々な工夫をしますが、そのひとつは畑を兵士に守らせ、いかにも貴重な食べ物であるかのように見せかけたことです。

ルイ16世に
じゃがいもの花をプレゼントするパルマンティエ。
また、ルイ16世にじゃがいもの花をプレゼントしました。王はきれいに咲いているその花をボタンホールにさして歩いたり、マリー・アントワネットの帽子につけたりし、 じゃがいもの普及に協力したのでした。このように優しい心を持つまじめでおとなしい国王が、なぜ革命の名のもとに処刑されなけれがならなかったのでしょうね。
 
可憐なジャガイモの花。
じゃがいもというとルイ16世を思い出します。
それにしても、きれいなお花を咲かせるのですね。マルシェやスーパーに並んでいるのしか見たことがなく、お花が咲くことも知りませんでした。

メトロの駅名の連載を書きながら、たくさんのことを学べます。

2017年3月6日

メトロの駅名は語る 28

Gambetta
ガンベッタ (3号線)

 19世紀の共和主義者の政治家、レオン・ガンベッタの名を冠したガンベッタ駅がオープンしたのは1905年。
当時は3号線の終着駅でしたが、その後メトロが延長されました。

共和国に欠かせない政治家、レオン・ガンベッタ。
弁護士だったガンベッタは後年に議員になり、1870年、普仏戦争で皇帝ナポレオン3世が敗れ捕虜になり第二帝政が終わったとき、共和体制樹立を宣告します。

1870年10月7日、プロセイン軍のパリ進入を知り、
熱気球で脱出を図りました。
その後、敵国プロセイン軍がパリに進入すると、熱気球でパリから脱出し、トゥールに向かいます。
1879年、第三共和政が生まれた際に、首相に任命されますが、病をわずらい44歳の若い人生を閉じます。結婚はしませんでしたが、美しい愛人レオニー・レオンが最期まで彼の看病にあたっていました。

ガンベッタの長年の愛人レオニー・レオン。
1920年、彼の心臓はフランスの偉人たちに捧げるパンテオンに葬られました。それほど共和国発展に必要な政治家だったのです。