2015年9月30日

マリー・アントワネット 絵で辿る生涯 1

1755年11月2日誕生。
父は神聖ローマ皇帝フランツ1世。
母はその皇后であり、オーストリア大公であり、
ハンガリー女王のマリア・テレジア。


ウィーンのホーフブルク宮殿で15番目の子供として生まれた最後の王女で、この後王子が生まれます。
末娘なので、両親はことのほか可愛がっていたようです。

2015年10月1日

マリー・アントワネット 絵で辿る生涯 2

公務を離れた家族団らんのひととき。
シンプルな生活を好んでいた様子がよく分かります。

12月上旬のサン・ニコラ祭にプレゼントされた人形を、自慢げに見せているのが中央の少女マリー・アントワネット。
サン・ニコラは実在した人で、後にサンタクロースのモデルになったといわれています。
子供たちはサン・ニコラ祭にプレゼントを受け取るが習慣なのです。

この絵を描いたのはマリー・アントワネットの姉マリア・クリスティーナ。
政略結婚が政策だったハプスブルク家で、ただひとり恋愛結婚をした第4皇女。
相手はポーランド王でありザクセン選帝候の息子アルベール・カジミール。
左側に立っている女性で、マリー・アントワネットより13歳年上。

その手前はマリー・アントワネットの1歳年上の兄フェルディナント、後にオーストリア=エステ大公になります。

足元でオモチャに夢中になっているのは末っ子のマクシミリアン・フランツ。
聖職者の道を選びケルン大司教になります。ドイツ作曲家ベートベンの良き理解者。

右端がマリア・テレジアと夫。
家族がもっとも好んでいた、ウィーン郊外のシェーンブルン宮殿が絵の舞台だったとされています。

2015年10月3日

マリー・アントワネット 絵で辿る生涯 3

1762年、7歳のマリー・アントワネット。
シェーンブルン宮殿で。
明るく、活発で、やんちゃで、むじゃきで、
善良で、リボンとピンクが大好きな少女でした。
この好みは生涯続きます。

グルック
とにかくじっとしていられない性格。
体を動かすバレーとか劇を演じるのが好きだったし、
楽器を奏でたり、歌ったりも得意。特にハープとクラヴサンは上手にこなしていました。

彼女が生まれる前にマリア・テレジアに気に入られ、
宮廷楽長になっていたグルックが、子供たちの音楽教師でもあり、マリー・アントワネットも生徒のひとりでした。

フランスにマリー・アントワネットが嫁いだ後も、グルックは彼女の招きでヴェルサイユ宮殿で活躍します。

2015年10月5日

マリー・アントワネット 絵で辿る生涯 4

1762 年、7歳のマリー・アントワネット。
透き通るように色白で、ブロンドの髪がよく似合う、
誰の目から見ても美しい王女でした。

歴代のハプスブルク家の人にふさわしく、音楽を楽しむことはあっても、語学は大の苦手。
母国語のドイツ語もきちんと書けなかったし、フランス語もイタリア語も、ましてやラテン語はお手上げの状態。歴史にもまったく興味を持てないでいたマリー・アントワネット。

そうした末娘でしたが、天真爛漫な性格が愛らしく、マリア・テレジアは特別にかわいがり甘やかしていました。
ハプスブルク家に生まれたからには、政略結婚で家族から遠く離され、外国に嫁ぐことになるかも知れない運命が待っているなどと、想いも及ばないあどけない年齢のポートレート。

2015年10月7日

マリー・アントワネット 絵で辿る生涯 5

お気に入りのピンクのドレスの9歳のマリー・アントワネット。
右は3歳年上のマリア・カロリーナ。

年が近く一番仲が良かったマリア・カロリーナは、ナポリ王でありシチリア王フェルディナンドの妃になります。

最初、マリア・カロリーナがフランス皇太子、後のルイ16世と結婚する予定だったのが、ナポリ・シチリア王のフィアンセだった姉マリア・ヨーゼファが急死したために、急遽マリア・カロリーナに変わったのです。

母マリア・テレジアに似て、頭脳明晰で行動力があり、外交手腕もある彼女が、予定していた通りにフランス王妃になっていたならば、革命も異なった展開をしていたかも知れません。

マリア・カロリーナと同じ部屋に暮しながら育ったマリー・アントワネットは、16歳で遠い国に嫁いでいった姉の不在を誰よりも悲しんでいました。

2015年10月8日

マリー・アントワネット 絵で辿る生涯 6

兄ヨーゼフの結婚祝いにバレーを踊る9歳のマリー・アントワネット。

マリア・テレジアの長男ヨーゼフの最初の妃が1763年に世を去ったために、新たに妃を迎えることになりました。選ばれたのはバイエルン選帝候のプリンセス、マリア・ヨーゼファ。

その結婚式が1765年1月シェーンブルン宮殿で行なわれ、そのお祝に妹のマリー・アントワネットが、宮殿内の劇場で兄弟と一緒に愛らしい姿でバレーを踊りました。
彼女の左は兄フェルディナントと弟マクシミリアン。

同じ年の8月18日、父が逝去し、長男ヨーゼフは母マリア・テレジアと共同統治を始めます。
当時のシェーンブルン宮殿。劇場は右翼にありました。

2015年10月9日

マリー・アントワネット 絵で辿る生涯 7

1767年、11、12歳のマリー・アントワネット。

ハプスブルク家は幾世紀もの長い間、結婚を重要な政策とし、ヨーロッパの王家との縁組みによって国土を広げ、権力を増していました。

家訓に従い、姉たちが外国の王家に嫁いだように、末娘マリー・アントワネットにも順番がまわってきて、真剣に嫁ぎ先が考えられるようになったのが、この年齢のとき。

ルイ15世
オーストリアのハプスブルク家とフランスのブルボン家は、長年に及ぶ戦いで不和が続いていました。
その手っ取り早い解決方法は、両家を結婚で結びつけること。

当初は、妃を失っていた国王ルイ15世の再婚相手として、マリア・テレジアの美貌の誉れ高い5女マリア・エリザベートを、という案が出ました。ところが間もなくして、彼女が天燃痘にかかったために立ち消えになってしまう。彼女は修道院に送られ、そこで生涯を閉じます。

次にマリア・テレジアが目につけたのは、国王ルイ15世の孫で王太子のルイ・オーギュスト。
夫が亡くなってから、
生涯喪服姿だった
マリア・テレジア
未来の王の座が確約されている相手で、しかも末娘より1歳年上。年齢的にも申し分ない。

それからというものマリア・テレジアは、ルイ15世の説得に全精力を傾け、やっと正式に承諾を受け取ったのが1769年6月。
マリー・アントワネットは13歳でした。

実はフランス国王も、ハプスブルク家の皇女を妃に迎えることにかなり乗り気だった。けれども、フランスの権威を示したかったために、わざと返事を遅らせマリア・テレジアを苛立たせていたのです。

結婚式は翌年春に執り行うことも決定すると、大喜びしたマリア・テレジアは、諸外国に報告書を送り届けさせたほでした。

挙式までわずか1年しかない。マリー・アントワネットのお妃教育が本格的に始まります。

2015年10月11日

マリー・アントワネット 絵で辿る生涯 8

フランス王家に送られた、1769年に描かれた
マリー・アントワネットの肖像画。

透き通るようなブルーの大きな瞳、陶器のような滑らかな肌、ほっそりした手足の華やかさがある皇女。
ピアノ、ハープ、ダンス、劇が大好きで、じっとしていることが出来ない性格。

同年に描かれたマリー・アントワネットの夫となる
ルイ・オーギュスト王太子。

180センチの長身で、ほっそりした整った顔立ち。真面目で優しい性格。極度の近視。趣味は狩猟と錠前作り。音楽やダンスは苦手で、理科系の人。大きな興味を抱いていたのは科学。

このように、何の接点もないようなお二人でした。