2025年8月16日

マリー・アントワネット自叙伝 55

 私たちの住まいになったタンプル塔

 

タンプル騎士団本拠が置かれていた12世紀半ばに、要塞として建築されたタンプル塔は、中央に高さ50メートル、壁の厚4メートルの4階建ての大塔があり、その4つ角に寄り添うように小塔がありました。騎士団が廃止された後、監獄になっていたこともあったそうです。


タンプル塔は高い塀で囲まれた敷地のはずれにありました。

捕らわれの身の私たちの監視がしやすいように、
塔の周囲にあった立派に成長していた木は
すべて無残に切り倒されました。

私たちが住むのは大塔と決められていたのですが、何しろ厳重な監視のもとに重要な人物が暮らすので、それなりの設備が必要だと、大々的な工事を行うことになったのです。その準備が整う間、私たちは狭い小塔で過ごさなければなりませんでした。この塔にいる間に恐ろしい出来事があったのです。思い出しただけでぞっとします。

 

タンプルの小塔に暮らすようになって間もない1792年8月19日でした。コミューンの役人が塔に突然入ってきて、女官長ランバル公妃、子供たちの養育係りトゥルゼル夫人、その娘さんのポリーヌを連れ出したのです。 

3人はパリ市長舎で、いろいろな質問を受けたようです。ヴァレンヌ逃亡や、革命に関して尋問されたようですが、どこまでも王家、というより私に忠実なランバル公妃は、危険であることを知っていながら、勇気をもって革命には賛成できないと答えたのです。トゥルゼル夫人もポリーヌもそれぞれ別々に尋問された後、3人揃ってラ・フォルス監獄に連れて行かれたのでした。


ラ・フォルス監獄。

悲劇が起きたのは9月2日でした。革命をつぶすために戦っていたオーストリア軍が、その日、フランス東北部のヴェルダンで勝利を得たのです。

その知らせがパリに届くと、革命家たちは動揺します。このままでは革命軍は他の地域での戦いも失うに違いない。革命は失敗に終わる可能性もある。殺気立った彼らは、革命に反対する人を次々に捕らえ、監獄に押し込みます。その内、囚人たちが事を起こそうとしているなどという噂がたち、群衆が武器を手に監獄を襲い、多くの囚人が無差別に殺されたのです。

ヴェルダンの戦いの勝利の後、
多くの人が捕らえられたり殺されたりしました。

翌9月3日朝、2人の兵がランバル公妃の部屋に入り、急遽設けた臨時革命裁判所に連行しました。そこでいくつかの質問を受けた後、ランバル公妃が内庭に出た途端、「ランバルを殺せ」の声があちらこちらから上がりました。その恐ろしい声におののいて気を失った公妃の体に無数の槍や剣が刺され、彼女は息絶えたのでした。42歳でした。

臨時革命裁判所で尋問を受けたランバル公妃。

デリケートな精神の持ち主のランバル公妃は、
多くの人の死体を目にして、卒倒したのでした。

革命が起き、危険が迫っていたにもかかわらず、忠実だったランバル公妃に、私はヴァレンヌ方面に逃亡する計画をそっと知らせ、貴女もフランスから逃れた方がいいとすすめ、彼女はロンドンに向かったのです。けれども逃亡が失敗に終わったことを知った公妃は、再び役に立ちたいとパリに戻り、チュイルリー宮殿に暮らすようになったのです。あのときあのままロンドンにいれば、悲劇は起きなかったのに。


容姿も心も美しい人でした。

ランバル公妃の身に恐ろしいことが起きていたとき、私たちはタンプルの小塔のダイニングルームで家族そろってお食事をとり、その後、私のお部屋でゲームをしていました。テーブルの上で夫と私がゲームをし、娘と息子は椅子に腰かけてその様子を見ていました。どの家庭でも見られるシンプルで平和なひと時でした。

突然、叫び声が上がりました。恐ろしいほどの叫び声は、途切れることなく続いていたし、太鼓の音も聞こえてきました。


一体何事が起きたのかと胸騒ぎがして、いてもたってもいられなくなりました。その内、夫の侍従クレリーが部屋に入ってきたのですが、血の気を失った顔で私たちを見るだけで、声を上げることもできないようでした。体を震わせているので、よほど恐ろし事が起きたに違いないと、不安と恐怖で体が冷えるのが自分ではっきりわかりました。外の狂ったような騒ぎはまだ続いていて、コミューンの役人が姿を見せたので問い詰めると、一瞬躊躇した後で世にも恐ろしい言葉を放ったのです。

「槍の先につけているランバルの頭をオーストリア女に見せたいと、群衆たちが騒いでいるのです。衣類をはぎ取られた裸のランバル公妃は路上を引きまわされた後、タンプルに連れてこられ・・・」

想像を絶する残虐極まりない言葉の途中で気を失った私は、最後まで聞いていませんでした。私は声を上げることもなく気絶したと後で知らされました。