2021年4月30日

段階的に制限が緩和されるフランス

 ロックダウンの成果が多少とはいえ、数字であらわれてきて、マクロン大統領が新たな案を発表しました。それによると、状況を見ながら、かなり慎重に制限を緩和するようです。

5月3日から、 フランス国内の移動は自由。

5月19日から、レストランやカフェのテラス席のみ営業可能。ワンテーブルに6人まで。映画館、美術館、劇場、モニュメントは最高800人の入場制限で再開。夜間外出禁止令は夜9時から翌朝6時まで。

6月9日から  レストラン、カフェの店内での営業可能。ワンテーブルに6人が限度。夜間外出禁止令は夜11時まで延長。

6月30日から 夜間外出禁止令を完全になくし、自由を取り戻せる。

このように4段階に分けて緩和するのです。
この予定で進むとオート・クチュールも開催できるし、夏のツ―リストも期待できそう。そうなるとホテル、レストラン、ブティック、デパートが活気を帯び、経済が回復していくでしょう。

ワクチン接種の効果を期待しているようですが、変種株も多いので不安を感じますが、精神的な解放を感じられていいと喜ぶフランス人が多いのは確か。でも、専門家たちの中には、危険だと反論する人もいます。

自由を尊び必要とするフランス人。

私も自由を取り戻したいのは山々だけど、本当に大丈夫かなと心の片隅で思っています。

2021年4月25日

すっかり春 

長い冬が終わって、お世話になっていたダウンコートがお休みに入る日が到来。今日はまぶしいほどの太陽に恵まれて、誰もが幸せそう。こうした光景を目にするだけで、元気になります。

すっかりお友だちになったヤギさんは、草むしりのお仕事に疲れたのか、眠ってばかり。邪魔をしたくないので、遠くから見て「じゃ、またね」と一言告げて、カモさんたちに餌をあげに移動。

お馴染みの池に着くと、カモだけでなくハトもいっぱい寄ってきて、ちょうだい、ちょうだいと催促され、すごい人気。その後は噴水がある池で子供たちのヨット遊びを飽きることなく見て、春の爽やかな午後を存分に楽しみました。

マロニエが満開。その下で憩う最高の季節。


久々にカモやハトの好物のクッキーをサーヴィス。
鳥たちの世界も生存競争がはげしいみたい。


公園内の池で子供たちがヨット遊びをするのは、楽しい伝統です。
この貸しヨット屋さんには「1850年から」と書いてあります。
江戸の終わりころですから、すごく長い歴史があるのです。
太陽がまぶしいほど寛大。ジャケットで外出できるのがうれしい。


マロニエは白いお花がほとんどですが、
ご覧の通り赤いお花もあるのです。ひときわ華やか。

2021年4月24日

ナポレオン没後200年 ③ フランスへの帰還

 フランスのフリゲート艦が停泊しているジェームズタウンの港では、ジョアンヴィル公の指揮のもとに、ナポレオンの棺を囲む葬列を迎える準備を整えていました。港に停泊していたフランスのフリゲート艦はもちろん、イギリスや外国の船のすべてが半旗をあげ、そこまでの道中の家々は固く閉ざされ、住民たちは引き締まった顔で列を作って葬列を見守っていました。その間中、大砲が打ち鳴らされ、偉大な人物を見送るのにふさわしい、重厚な雰囲気を漂わせていました。

使節団と共にセント・ヘレナに行ったコクロー神父を先頭に、
葬列はジョアンヴィル公が待つ港に到着。


高位軍人の制服姿のジョアンヴィル公の前で葬列が止まったのは、15日午後3時半ころでした。それと同時にフランスの音楽隊が葬送曲を演奏。使節団の一員としてフランスから随行したフェリックス・コクロー神父が聖水をジョアンヴィル公に渡し、王子はそれをナポレオンの棺にかけました。その後、セント・ヘレナ総司令官ミドルモアが、ジョアンヴィル公にナポレオンの棺を正式に引き渡すと告げ、王子がお礼の言葉を述べます。


ミドルモアからナポレオンの棺を受け取るジョアンヴィル公。

その後、棺は小舟に乗りラ・ベル・プール号に向かっていきました。フリゲート艦では士官たちが一糸乱れず整然と並び、太鼓が打ち鳴らされる中、小舟からラ・ベル・プール号に移されたナポレオンの棺は、軍艦の後部にあらかじめ準備していた祭壇に安置されました。

棺はラ・ベル・プール号に設けられた祭壇に置かれ、
コクロー神父が祝福を与えました。神父はその夜徹夜でナポレオンを見守っていました。


翌、10月16日朝10時、フリゲート艦上で盛大な儀式が行われました。マストにはフランス国旗が高々とあげられ、ジョアンヴィル公と使節団代表が棺を囲み、随行したフリゲート艦の水平たちなど約1000人が甲板に並び、砲声があたり一面に轟き、太鼓が華やかに鳴らされました。葬送行進曲が奏でられ、厳粛なミサがあげられた後、棺は長い船旅に耐えられるように、地下に備えた礼拝堂へと移されます。

ナポレオンはラ・ベル・プール号の地下に設けたこの礼拝堂で、
フランス人のみに囲まれ、守られながら、懐かしい故郷へと戻るのです。

書類の手続きなどに時間がかかり、フリゲート艦がセント・ヘレナを出航したのは10月18日でした。多くの船や島の住民が見送る中、船体54メートルの美しい姿を誇るラ・ベル・プール号は錨をあげ、フランスへと向かって行きました。一ヵ月を超える航海の後、目的地のシェルブール港に到着したには11月30日朝でした。

ナポレオンの遺骸をのせたラ・ベル・プールは
フランスのシェルブール港を目指して進んで行きました。

つづく・・・

2021年4月20日

ナポレオン没後200年 ② ナポレオンの遺骸発掘

長年、ナポレオンの遺骸をフランスに戻すことを拒んでいたイギリスが、やっと同意したのは、ルイ・フィリップ国王の時代の 1840年でした。国王はフランス海軍提督を務めた3男、ジョアンヴィル公を指揮官とする使節団を直ちに形成。フリゲート艦のラ・ベル・プール号とラ・ファヴォリット号を派遣することにしました。

ジョアンヴィル公(1818-1900)

2隻の軍艦が南仏のトゥーロン港からセントヘレナに向かったのは、7月7日夕方。そのトゥーロン港は、イギリス相手の攻防戦で、無名だったナポレオン・ボナパルトが驚異的活躍をし、歴史に登場した記念すべき港だったのです。フランス革命中の1793年でした。

セント・ヘレナからナポレオンの遺骸をのせるラ・ベル・プール号には、祭壇が設けられ、フリゲート艦全体を黒一色に塗り直しました。ジブラルタル海峡を通り、アフリカの横手を通りながら大西洋を進み、セント・ヘレナが見えてきたのは10月7日夕刻。偶然にもトゥーロン港を出発したのと同じ日でした。

翌日からボートに分乗して上陸し、皇帝の墓所を訪れ、祈りを捧げ、息を引き取ったロングウッドの館を訪れ、王子や上官たちは食事に招待され、夕方には軍艦に戻る日々が続きます。その間に書類交換や葬儀の準備があり、ナポレオンの遺骸発掘は10月15日に行うと、イギリス総司令官はジョージ・ミドルモアが告げます。

ナポレオンが葬られていた「ゼラニュウムの谷」


14日真夜中、フランス使節団は、皇帝の墓を取り巻く鉄柵の周りに集まります。夜の静けさがあたり一面を重く包んでいる中、15日になると同時に鋭い音が響き、真っ暗な中で発掘作業が始まりました。雨が降り始め、またたく間に強くなり、風も吹いてきましたが、作業は黙々と続いていました。

長時間かけて発掘作業が続けられているその間、ジョアンヴィル公は軍艦に留まっていました。発掘作業はイギリス人のみで行うことが決まっていたために、それを妨害したくないと思った王子は、ラ・ベル・プール号で待機していたのです。

ナポレオンの墓は地面より多少高くなっていました。


墓を守るように置かれていた石がはずされ、休むことなく交代で掘り続け、深さ3メートルの所に棺が見えてきたのは9時すぎでした。その瞬間、作業に当たっていたイギリス人も、それを微動もせずに見続けていたフランス人も、思わず脱帽し、祈りを捧げました。その後、強力な綱で棺を引き上げ、兵士たちが肩にかつぎながら、近くに準備してあったテントの中に運びました。

19年とういう長い間、暗い土の中で深い眠りに陥っていたナポレオンは、やっと地上に戻ることができたのです。

使節団と同行していた外科医レミ・ギヤール博士が監視する中で、いよいよ棺を開ける時がきます。最大の注意を払って次々に棺が開けられるのを、数人の使節団がかたずをのんで見守っていました。しばらくの後、皇帝が横たわる最後のブリキの棺が見えてきました。その瞬間、恐ろしいほどの緊張がテントに流れました。

かつての偉大なフランス皇帝ナポレオンは、
世を去って19年後の1840年10月15日に、地上に現れました。

棺に中のナポレオンは、まるで安らかに眠っているようでした。しっかり閉じた目にはまつ毛が数本残っていて、口は少し開き、そこから3本の歯が見えました。両手の爪は亡き後に多少のび、傷んだブーツの先から4本の足の指が飛び出していました。衣類は埋葬された時と全く同じで、あまりにも生き生きとした皇帝の姿に打たれた使節団の人々は、こみあげる感動に身を震わせながら、熱い涙を流し、言葉を失っていました。重い沈黙が、行き場を失ったかのように、その場から動こうとしませんでした。

午後2時過ぎに、ギヤール博士が遺骸が空気にあたって傷むことを極度に恐れ、棺を閉めるよう勧告。棺はしっかり閉じられ、溶接され、ナポレオンは姿を消しました。その場にいたすべての人が、自分たちが歴史の証人になっていることに感慨を覚えた日でした。

その後、無言のナポレオンは、ジョアンヴィル公に引き渡されるために、礼装に包まれたイギリス兵とフランス代表に見守られながら、軍艦が待つ停泊地へと向かって行きました。

つづく・・・

2021年4月18日

やっと春らしい気候

 4月になっても霜が降りた日が数日あり、農作物の被害が多く、農業にたずさわる人々が悲痛な声をあげていましたが、今日からやっと本格的な春の気候。今後は午後は15度以上が続くそう。春にふさわしい光景をご覧ください。

今年もヤギさんが出動して除草作業を始めました。チューリップも満開。

鮮やかない色を誇るセイヨウハナズオウが、あちらこちらで華麗な姿を見せています。


子どものカモがスイスイと上手に泳ぐのも春ならでは。


2021年4月17日

ナポレオン没後200年 ① セント・ヘレナ島での埋葬

 ヨーロッパの歴史に、計り知れないほどの影響を与えたナポレオンが没して、2021年は200年周年の記念すべき年。それにちなんで、パリ北東のラ・ヴィレットで大規模な展覧会が開催されます。予定では4月14日から9月19日まででしたが、コロナの影響で変更され、今の所はっきりした開催予定日は発表されていません。

ナポレオンが流刑地セント・ヘレナ島で世を去ったのは、1821年5月5日。毎年、皇帝の命日の5月5日には、棺が安置されているアンヴァリッドで、私も会員になっているナポレオン史学会主催のセレモニーがあり、その後ディナ―で「皇帝バンザイ」と乾杯するのですが、今年はそれも実現できなく、残念だし、さみしい限りです。

セント・ヘレナのナポレオン。

ナポレオンが暮らし、息を引き取った
セント・ヘレナのロングウッドの館。

ナポレオンが自ら言っていたように「小説のごとき人生」をセント・ヘレナで閉じたのは51歳のときでした。病に侵され、日に日に衰弱していることを意識していたナポレオンは、時間をかけて遺書を準備し、それが終るまで持ちこたえていました。遠征に行くときには、兵士たちの靴下の数まで決めていた人物にふさわしく、細部にわたる遺書でした。

セント・ヘレナでナポレオンが気に入っていたのは、緑豊かで、おいしい水をたたえる澄んだ泉がある「ゼラニウムの谷」でした。たくさんのゼラニウムがあたりに咲いていたので、そう呼ばれていたのです。ナポレオンはその泉の水を毎日飲んでいたし、万が一セント・ヘレナで葬られることになったら、ここに葬ってほしいと、もっとも忠実だった部下、アンリ・ガティアン・ベルトラン(1772-1844))に伝えていました。

ナポレオンが望んでいたのは、セーヌ川のほとりの、フランス国民が見守る中に眠ることでした。けれども宿敵イギリスが、自分の遺体を手放さないことを充分に察していたために、「万が一」とベルトランに伝えたのです。

1821年5月5日、忠実な部下に見守られながら、
ナポレオンは波乱万丈の生涯を閉じました。


1821年5月5日5時49分、長年の病の末、ナポレオンは部下たちに見守られながら息を引き取りました。デスマスクを取り、解剖し、心臓と胃を取り出しそれぞれ別の銀の容器に入れ、エタノールを注ぎ封鎖し、遺体と一緒に棺に納めらるのです。

棺の製作にあたった責任者の記録によると、最初の棺はブリキで綿が入ったサテンで裏打ちされ、同じ素材のマットレスと枕がありました。2番目のは木製で、3番目は鉛の棺。最後のはムラサキのビロードで覆われたマホガニーだったとなっています。つまり4重の棺でした。これは納棺に立ち会ったナポレオンの部下たちも全員記録に残しています。

ヴィニャリー神父が皇帝の体を清め、護衛隊猟歩兵のユニフォームを着せ、白いカシミアの半ズボン、ブーツをはかせたナポレオンを最初の棺に安置しましたが、狭すぎたので、頭に帽子をかぶせることができず、皇帝の膝の上に置くことにした、と忠実な部下ベルトランは綴っています。胸には、栄えあるレジオンドヌール大勲章が飾られ、銀の容器に入った心臓と胃は両脚の間に置かれました。その後、しっかりとハンダ付けし、次々に棺に入れたのです。

墓の準備は7 日から始まりました。深く掘った穴をセメントで固め、その上に3つの重い敷石をのせ、周囲を鉄柵で囲み、棺を待つばかりとなりました。

ヴィニャリー神父が先頭を歩き、
その後ろに4人の部下が守るナポレオンの棺が続き、
さらにその後ろで皇帝が愛していた馬が歩を進めていました。


9日、ナポレオンが最後の日々を過ごしていたロングウッドの館を離れ、イギリスの駐屯部隊が凛々しい制服で立ち並ぶ中を、ヴィニャリー神父を先頭に、厳粛な葬列は「ゼラニウムの谷」へと向かっていきました。ナポレオンは四頭の馬にひかれる馬車に乗り、その四隅を部下たちが守っていました。ナポレオンから遺言執行人に指名されていたベルトラン、モントロン、マルシャンと、ベルトランの息子です。その後ろにはナポレオンの愛馬が続いていました。イギリス総督のハドソン・ローは、さらにその後ろを歩いていました。

神父がミサをあげ、棺がおろされ、再び祈りが捧げられ、花崗岩の墓石が置かれ、フランス皇帝ナポレオンは異国の土の中に姿を消したのです。ゼラニュウムと柳がそのすぐ傍で見守っていました。墓石には何も書かれませんでした。フランス側とイギリス側の折り合いがつかなかったからです。

「ゼラニュウムの谷」のナポレオンのお墓。

無名の人となったナポレオンは、フランスから遠いその地に、長い間ひっそりと眠っていたのでした。年老いたナポレオンの母の、血を吐くような嘆願にもかかわらず、イギリスはナポレオンの遺骸をフランスに戻すことを頑固に拒み続けていたのです。長年の交渉の結果、皇帝がフランスに戻ったのは、19年後でした。

つづく・・・

2021年4月15日

2024年のパリオリンピックのために

 コロナ感染者が増える一方で、今年7月に開催予定の東京オリンピックが、日に日に厳しい状態に追い込まれているようですが、パリは、すでに、2024年のオリンピック開催に情熱を捧げています。

リニューアル工事中のエッフェル塔。
でも毎夜輝く「光のダイヤモンド」は
工事中も続きます。


まずエッフェル塔がそれに合わせて大々的なリニューアルの工事に入っています。そうした中でも2000年に始まった「光のダイヤモンド」と呼ばれる、夜のイルミネーションは、通常通り続けられています。


1900年のパリ万博会場として建築されたグラン・パレ。
当時の面影は今でも健在。優雅な時代だったのですね。


美術展やファッションショー、その他さまざまなイヴェント会場として馴染み深いグラン・パレも、オリンピックを目指した修復工事のために閉鎖。そのかわり、シャン・ド・マルスの旧陸軍士官学校前に、巨大な「つかの間のグラン・パレ」を設け、そこで行事を行うそうです。その大きさは10,000m²。

建築家は日本でもおなじみのジャン・ミッシェル・ヴィルモット。歴史に敬意を払いつつ、近代建築を実現する巨匠です。数回インタヴューをしましたが、とても気さくで、話術に富む人。「つかの間のグラン・パレ」も旧陸軍士官学校をそこねないで、コンテンポラリーな設計。建築途中の写真を見ましたが、爽やかさが漂う画期的な建造物です。一刻も早く中を見たい。


フランス人の心のより所のノートル・ダム大聖堂。


もっとも関心が高いのは、劇的な大火災にあったノートル・ダム大聖堂。文化大臣の発表によると、オリンピック開催の2024年の4月15日、つまり火災で世界中の人々の心を打った日に、最初のミサを行うそうです。大聖堂全体の修復はその日に間に合わないけれど、オリンピック開催という重要なイヴェントがある年に、ミサをあげる意義があるからです。

このように、パリは2024年のオリンピックをめざして、まっしぐらに突き進んでいます。

2021年4月13日

パリの犬たち 249

 ナニをどうすればいいの?

「さ、これから本格的にお散歩よ。パリにふさわしく優雅に歩いてね」
ママンが言うから素直にうなずくワタシたち。


「ダメ、ダメ、そうじゃないのよ」
「エッ、ちがうの?結構いい感じだと思うけれど・・・」


「平行に歩くのよ。フランス人は左右対称が好きなのよ」
「これでどう?」
「そう、それで満点。とってもエレガントよ」

2021年4月10日

イギリスのフィリップ殿下

イギリス女王エリザベス2世の王配、フィリップ殿下が4月9日に99歳で亡くなられ、フランスではトップニュ―スとして報道していました。貴重な生前の映像が流されましたが、特に注目されたのは、流暢なフランス語で挨拶したことです。実は、フィリップ殿下は子供時代をフランスで過ごしていたのです。

ギリシャ王子アンドレアスの子供として生まれたフィリップ殿下は、その翌年のクーデターで祖国を後にし、家族ともどもフランスに亡命したのです。その時滞在していたのは、パリの西郊外にあったサン・クルーでした。

フィリップ殿下の父母。1903年


サン・クルーには、父の兄であるゲオルギオスの妃、マリー・ボナパルトが瀟洒な別荘を持っていました。マリー・ボナパルトはナポレオン・ボナパルトの弟ルシアンのひ孫で、母方の祖父がモナコのカジノ創立者で、破格の大富豪。莫大な遺産を相続し、裕福な生活を送っていたのです。フィリップ殿下の伯父にあたるゲオルギオスは、サン・クルーの館で生涯を閉じています。その後、フィリップ殿下はイギリスに渡り、そこで高祖母ヴィクトリア女王に迎られ、高度な軍事教育を受けるようになったのです。

フィリップ殿下の父アンドレアスは第二次世界大戦が終わる直前に、モナコで生涯を閉じました。大戦中は、ドイツに協力していたヴィシ―政権下の南仏に滞在していたために、敵となったイギリス海軍士官だった息子フィリップ殿下に会うこともなく、62歳の生涯を閉じています。

エリザベス王女とフィリップ殿下の結婚式。1947年11月20日。
お二人の結婚証明書。


1947年にエリザベス王女と結婚してからも、軍人としての活躍を続け、1952年にエリザベス王女が女王に即位すると、軍歴を終え、王配として常に傍らで支えていたのでした。軍人のりりしさがあり、エレガントで機知に富み、親しみ深かったフィリップ殿下は、多くの慈善団体を積極的に支援していました。

数日後に、軍人だったフィリップ殿下にふさわしい儀式が、亡くなったウインザー城の聖ジョージ礼拝堂で執り行われるそうです。

2021年4月7日

猫の像がシャンゼリゼに

3月26日から、シャンゼリゼ大通りに猫の大きな像が並んでいて、道行く人の笑顔を誘っています。ベルギ―人風刺漫画家、フィリップ・グルック作「 Le Chat 猫」が、2.7メートルものブロンズの大きな像となって、コンコルド広場からロンポワンまで立っているのです。その数はナンと20点。

1983年からベルギーの新聞 Le Soirに登場している猫のキャラクターが、ユーモアたっぷりに世の中を風刺し、大人気。グルックが描く太った猫は、アイディア豊富で、愛情もたっぷりあるようで、年齢に関係なく愛されています。

フィリップ・グルック作の猫のキャラクターが、
シャンゼリゼ大通りでユーモアを振りまいています。6月9日まで。

「ゴルファー」
鳥がゴルフボールをしっかり口にくわえています、


「ロメオとジュリエット」
悲劇的でもないし、ロマンティックでもないのが面白い。


優勝してお喜びの猫。2等はカメ、3等はカタツムリ。
競争相手がこれでは、誰でも勝てそうに思えるけれど。


主人公の猫の絵がコンコルド広場近くに飾ってあります。
「いいデッサンは長いスピーチより優れている」
などと言っていますヨ。

コロナで疲れた心を癒してくれるそう。

2021年4月3日

イースター・エッグ

 キリストの復活をお祝いするイースタ―には、新しい命の象徴の卵型チョコレートを買い求める人が多い。どれもカラフルで、大切な祭典を盛り上げます。コロナの影響でどこも不況ですが、チョコレート店は売り上げがのびているそうです。今年のイースタ―は明日、4月4日です。

イースタ―・エッグと言えば、ファベルジェの名前が浮かびます。ロシア皇帝お気に入りのファベルジェは、インペリアル・イースタ―・エッグで世界に名を轟かせた宝石商であり、卓越した金細工師です。

ピーター・カール・ファベルジェ
(1846-1920)

ファベルジェ家はもともとフランス人で、ピカルディ地方に暮らすプロテスタントでした。ところが、1685年に国王ルイ14世が「ナントの勅令」で、プロテスタントの信仰の自由を禁じたために、ドイツに向かいそこに落ち着きます。

ドイツ人として生まれた手仕事に長けたグスタフ・ファベルジェが、サンクトペテルブルクに工房を開いたのは1842年で、その地でデンマーク女性と結婚し、息子ピーター・カール・ファベルジェが生まれます。

ピーター・カール・ファベルジェはサンクトペテルブルクとドイツのドレスデンで金細工を学んだ後、フランス、イギリスで腕を磨き、1872年、生まれ故郷のサンクトペテルブルクに戻り、26歳になっていた彼は結婚し、創作に全身全霊を捧げるようになったのです。

非凡なファベルジェの才能を高く評価したロシア皇帝アレクサンドル3世は、彼を「王室ご用達金細工師」に任命し、エルミタージュ宮殿で作品の展示を許可しました。

ファベルジェの才能を高く評価していた、
ロシア皇帝アレクサンドル3世(1845-1894)

アレクサンドル3世が、妃マリアへのプレゼントとしてファベルジェにイースター・エッグをオーダーしたのは1885年で、貴石やエナメル加工をほどこした卵は、この上なく華麗でした。時には殻の中に、ダイヤモンドやルビーなどのペンダントが隠されていたり、クレムリン宮殿の上に卵が乗っていたり、精密な加工と思いがけないアイディアは、アレクサンドル3世の息子、ニコライ2世も魅了し、毎年注文していたほどでした。


サンクトペテルブルク郊外にある
ガッチナ宮殿のミニチュアが中にあるエッグ。
ニコライ2世皇帝が母にプレゼントした1901年の作品。
ミニチュアの宮殿は取り外し可能。


工房はサンクトペテルブルクだけでなく、モスクワやイギリスにも造られ、王侯貴族にもてはやされていました。けれども、ロシア革命が起き、国内の工房は国営化され、ファベルジェは危険にさらされながら外国に逃れ、スイスで失意のうちに生涯を閉じます。後年に遺体は子供たちによって、フランスのカンヌの墓地に葬られました。

シルバーのティーセットやジュエリーも手掛けていました。


ニコライ2世皇帝が、皇太子アレクセイ誕生を祝って、
妃アレクサンドラにプレセントしたエッグ。
中にはダイヤモンドのネックレスが入っていました。
待望の皇太子が生まれたのは1904年でしたが、
日ロ戦争のために、妃にお祝いのプレゼントをしたのは、
戦後の1907年だったそうです。


ファベルジェのインペリアル・イースター・エッグを、写真で見たときから惹かれていた私は、サンクトペテルブルクに行った時は、何が何でもファベルジェの工房でイースター・エッグを買うのだと固い決心をしていました。いろいろと見て、何度も吟味を重ねて一点だけ購入。もちろん貴石など一切使用されていない、手の平にのる小さなレプリカです。


サンクトペテルブルクのファベルジェの工房で買ったエッグ。
太陽光線があたるとキラキラ輝いて、とってもキレイ。

蓋を開けるとご覧の通り、中も精巧に作ってあります。

その旅からしばらくたったある日、アメリカ人彫刻家がパリで個展を開催し、そのオープニングパーティーに出席した夜のこと。ロンドンからわざわざいらした女性と話がはずみ、
「私の遠い先祖はフランス人なのよ」
と言われ、まあ、そういう人はたくさんいると思っていたら、
「でも、その後ロシアに暮らすようになって」
フランスからロシアに・・・それを知って私の目が輝いてきました。
あのファベルジェとずいぶん似た運命だと思って、
「で、お名前は?」
と聞くと
「〇〇・ファベルジェです」
そう言いながら名刺をくださり、そこに、たしかにファベルジェと書いてある。途端にたくさんいた周囲の人の姿が消え、その女性しか見えない。ミュージックも聞こえない。楚々とした長身のファベルジェさんは笑顔を絶やすことなく、ロンドンに来る時にはぜひ連絡してねとさえ言って、携帯番号まで下ったのです。

世の中には不思議なことがあるものです。これも何かのご縁でしょう。ロンドンに行く楽しみが増えました。


一つだけだと寂しそうなので、
パリの蚤の市で買ったガラスの卵型置物も並べました。
左は京都の展示会で気に入って購入した焼き物。
暖炉の上のオブジェは年中変えています。
気分転換になってロクダウンも気にならないのです。

2021年4月2日

フランス全土がロックダウン

 ついにフランス全土がロックダウンになりました。最初はパリを含む16の都市でのコロナ感染者が急増していたので、ロックダウンはそうした限られた都市だけでした。ところがコロナの猛威はおさまることを知らず、3月31日夕方、マクロン大統領が全土をロックダウンにするとテレビで声明を発表。約1か月間続きます。

全国の学校が閉まり、生活必需品以外の店舗も閉まる。6人以上の集まりも禁止。19時以降の夜間外出も禁止。住まいから10キロメートル以上離れることは、特別な事情がない限り禁止。

今後はワクチン接種を加速し 4月16日から60歳以上、5月5日から50歳以上、6月上旬からすべての年齢の希望者がワクチンを受けられるようにする。大多数の国民が願っている、レストランや文化施設などの再開は、5月に入って予定を立てていくことも明確にしました。

約20分の声明を、テレビカメラから目を離さず述べたのは、説得力があったと思います。街の声はもちろん不満もありましたが、今の状態を続けていくわけにはいかないから、不便を我慢する他ない、約一ヵ月後を期待するとわりと理解を示しています。

「一致団結しよう」と、こぶしを握りながら語る若いマクロン大統領。彼の言葉にも、語りかけ方にも、誠意が感じられました。暗いトンネルの先に明るい出口がありそうな、希望を持てるような声明でした。

「団結しよう」という力強い言葉を耳にするたびに、
ドラクロワの「民衆を導く自由の女神」の絵が思い出されます。


こうした厳しい状況にあるフランスでは、テレビのニュースの3分の1、日によっては半分、大統領の声明があった日は100パーセントがコロナに関することです。

2021年4月1日

エイプリルフール

 4月1日のエイプリルフールを、フランスでは poisson d'avrilと言います。直訳すると「4月の魚」。

7世紀から1564年まで、新年は聖母マリアの受胎告知の日である3月25日に始まり、お祝いを4月1日まで続けていました。それを変えたのは、国王シャルル9世でした。

1564年、自分の国をしっかり把握するために、母と宮廷人に伴われながら各地を旅し、リヨンに滞在する予定だった夏に、ペストが流行しているとの情報が入り、急遽、そこから50キロほどの距離にあるルシオンのシャトーに向かいます。そこでさまざまな会議がおこなわれ、その際に新年の見直しがなされ、1月1日となったのです。当時、国王は14歳で、母カトリーヌ・ド・メディシスが実権を握っていました。この新年の変更は1564年8月9日に決定し「ルシオンの勅令」と呼ばれます。

シャルル9世(1550-1574)

ルシオンのシャトー。左の建物。

4月1日のエイプリルフールをフランスで「4月の魚」と呼ぶのには、いくつかの説があります。

キリスト教の四旬節に近く、肉を食べられないので魚を食べていた、という説。

この時期は魚の繁殖期で漁が禁止されていて、魚の絵を描いて「釣れた」と自慢したり、だましたりしていた、という説。

星座のうお座が近いからという説。

4月1日の新年をあきめられなかったり、反対する人が、以前と同じように魚を食べて「偽の新年」を祝っていた説。

19世紀には、魚の絵ハガキを贈る習慣があったし、それ以降は、魚の絵を描いて、他の人の背中にはりつける子供の遊びもあったようですが、現在は何もしないことが多い。ただ、カラフルな魚のチョコレートやクッキーを、スイーツの店頭で見かけることはあります。

オシャレな色合いのチョコレートのお魚。


色鮮やかな魚が、巣から飛び立つような演出。
これがすべてチョコレートなのです。

チョコレートサーディンの詰め合わせもあります。