長年、ナポレオンの遺骸をフランスに戻すことを拒んでいたイギリスが、やっと同意したのは、ルイ・フィリップ国王の時代の 1840年でした。国王はフランス海軍提督を務めた3男、ジョアンヴィル公を指揮官とする使節団を直ちに形成。フリゲート艦のラ・ベル・プール号とラ・ファヴォリット号を派遣することにしました。
ジョアンヴィル公(1818-1900) |
2隻の軍艦が南仏のトゥーロン港からセントヘレナに向かったのは、7月7日夕方。そのトゥーロン港は、イギリス相手の攻防戦で、無名だったナポレオン・ボナパルトが驚異的活躍をし、歴史に登場した記念すべき港だったのです。フランス革命中の1793年でした。
セント・ヘレナからナポレオンの遺骸をのせるラ・ベル・プール号には、祭壇が設けられ、フリゲート艦全体を黒一色に塗り直しました。ジブラルタル海峡を通り、アフリカの横手を通りながら大西洋を進み、セント・ヘレナが見えてきたのは10月7日夕刻。偶然にもトゥーロン港を出発したのと同じ日でした。
翌日からボートに分乗して上陸し、皇帝の墓所を訪れ、祈りを捧げ、息を引き取ったロングウッドの館を訪れ、王子や上官たちは食事に招待され、夕方には軍艦に戻る日々が続きます。その間に書類交換や葬儀の準備があり、ナポレオンの遺骸発掘は10月15日に行うと、イギリス総司令官はジョージ・ミドルモアが告げます。
ナポレオンが葬られていた「ゼラニュウムの谷」 |
14日真夜中、フランス使節団は、皇帝の墓を取り巻く鉄柵の周りに集まります。夜の静けさがあたり一面を重く包んでいる中、15日になると同時に鋭い音が響き、真っ暗な中で発掘作業が始まりました。雨が降り始め、またたく間に強くなり、風も吹いてきましたが、作業は黙々と続いていました。
長時間かけて発掘作業が続けられているその間、ジョアンヴィル公は軍艦に留まっていました。発掘作業はイギリス人のみで行うことが決まっていたために、それを妨害したくないと思った王子は、ラ・ベル・プール号で待機していたのです。
ナポレオンの墓は地面より多少高くなっていました。 |
墓を守るように置かれていた石がはずされ、休むことなく交代で掘り続け、深さ3メートルの所に棺が見えてきたのは9時すぎでした。その瞬間、作業に当たっていたイギリス人も、それを微動もせずに見続けていたフランス人も、思わず脱帽し、祈りを捧げました。その後、強力な綱で棺を引き上げ、兵士たちが肩にかつぎながら、近くに準備してあったテントの中に運びました。
19年とういう長い間、暗い土の中で深い眠りに陥っていたナポレオンは、やっと地上に戻ることができたのです。
使節団と同行していた外科医レミ・ギヤール博士が監視する中で、いよいよ棺を開ける時がきます。最大の注意を払って次々に棺が開けられるのを、数人の使節団がかたずをのんで見守っていました。しばらくの後、皇帝が横たわる最後のブリキの棺が見えてきました。その瞬間、恐ろしいほどの緊張がテントに流れました。
かつての偉大なフランス皇帝ナポレオンは、 世を去って19年後の1840年10月15日に、地上に現れました。 |
棺に中のナポレオンは、まるで安らかに眠っているようでした。しっかり閉じた目にはまつ毛が数本残っていて、口は少し開き、そこから3本の歯が見えました。両手の爪は亡き後に多少のび、傷んだブーツの先から4本の足の指が飛び出していました。衣類は埋葬された時と全く同じで、あまりにも生き生きとした皇帝の姿に打たれた使節団の人々は、こみあげる感動に身を震わせながら、熱い涙を流し、言葉を失っていました。重い沈黙が、行き場を失ったかのように、その場から動こうとしませんでした。
午後2時過ぎに、ギヤール博士が遺骸が空気にあたって傷むことを極度に恐れ、棺を閉めるよう勧告。棺はしっかり閉じられ、溶接され、ナポレオンは姿を消しました。その場にいたすべての人が、自分たちが歴史の証人になっていることに感慨を覚えた日でした。
その後、無言のナポレオンは、ジョアンヴィル公に引き渡されるために、礼装に包まれたイギリス兵とフランス代表に見守られながら、軍艦が待つ停泊地へと向かって行きました。
つづく・・・
コメントを投稿