2024年2月25日

能と狂言をパリで満喫

 久ぶりに日本の伝統芸術を鑑賞し、雅の世界に浸る喜びをたっぷり味わいました。エッフェル塔近くのパリ日本文化会館で開催された「能・狂言の国、日本への誘い」は、通常の舞台と異なり、事前に能楽の歴史や舞台の構成、さらに3つの演目の説明があり、非常にわかりやすかったのが大きな特徴。会場の手前のホールには衣装やお面、楽器なども展示されていて、そこでも多くを学びました。

艶やかな能衣装。
これほど近く拝見したことがなかったので、大感激。
日本が守ってきた芸術の素晴らしさを再認識。
幅広い音を奏でる小鼓と、
メロディーを奏でる唯一の能楽器の能管。

変化に富んだお面も展示。驚くほどのリアリティがあります。
左上は神扇。右下は表が桜の花柄で裏が紅葉の天女扇。

広い会場で見かけたのはフランス人がほとんど。私の近くにいた若いフランス人が、ノートに細かい文字でひっきりなしに綴っていたのが、深く印象に残っています。ひとつひとつの動きを見逃したくないかのよう、ほとんどの人が熱心に舞台の動きを追っている姿にも、感心。フランス人がいかに日本が好きなのか、改めて感じた日でした。

2024年2月24日

マリー・アントワネット自叙伝 20

 大好きなパリ

 1773年6月8日、皇太子さまと私は馬車に乗りパリに向かいました。その道中、どこもかしこも想像以上の大歓迎。豪華極まりないヴェルサイユ宮殿の中で、着飾って暮している皇太子夫妻は、国民にとって遠い存在なのです。その姿を身近で見られるのかと、パリ市民の興奮がかなり高まっていたようです。その光景を見て、私も馬車の中で思わずはしゃいでいました。


セーヌ川沿いに馬車が快適に走りながら、ノートルダム大聖堂に向かっていた11時半頃だったと思いますが、セーヌ川左岸にあるアンヴァリッドの礼砲が華々しく打ち鳴らされました。皇太子夫妻パリ訪問をお祝いする印です。空にまで届くようなその歓迎の礼砲に心が浮き立ち、顔がほてっているのが自分でもよくわかりました。

ゴシック建築の威厳あるノートルダム大聖堂。
3 つの入り口の上には、歴代の国王の像があります。

群衆の歓喜の声を浴びながらパリ市内に入った馬車は、ノートルダム大聖堂に到着。そこも大変な人だかり。私たちがこれほど人気があるとは思ってもいませんでしたので、うれしくて仕方ありませんでした。ヴェルサイユ宮殿での儀礼的な賛辞に比べて、パリ市民の歓迎は、何て率直で暖かいのでしょう。


ノートルダム大聖堂で祝福を受けた後、学生街にある名門高校ルイ・ル・グランの横手を通り、その先の由緒あるサント・ジュヌヴィエーヴ修道院でも、司祭の歓迎を受けました。その後チュイルリー宮殿に向かいましたが、その沿道にも驚くほどたくさんの群衆がいて熱狂的歓迎。パリ市民に愛されていることを体感した私は、とても幸せでしたし、自信を持ちました。


チュイルリー宮殿では晩餐会があり、その後バルコニーに出ると、群衆が割れるような拍手と歓声をあげ、それが長い時間続いたので、あまり感情表現をしない皇太子さまも、笑顔を浮かべたほどでした。やはりパリは素晴しい。これからも何度も行こうと思った幸福に満たされた日でした。


パリ市民の熱狂的歓迎を受けたチュイルリー宮殿。
 

ヴェルサイユ宮殿には立派なオペラ劇場があり、悲劇や喜劇、コンサートなど、いろいろな催しがありましたが、観客は王家の人々と貴族だけ。だから毎回同じ顔ぶれで飽きてしまいます。それに加えて皇太子妃の私はいつも注目の的なので、観劇中も見られているようで神経が休まりません。デュ・バリー夫人派と皇太子妃派の間は、私がデュ・バリー夫人に声をかけてから多少良くなったとはいえ、微笑みの裏に隠しながらの争いは続いていました。ですから気を許すことはできません。その上、叔母さまたちが敵になってしまったから、彼女たちにも気をつけなければならないという複雑な立場。


ヴェルサイユ宮殿の一角にあるオペラ劇場。

このような環境では、いくら出し物がよくても、思う存分楽しめません。自由な環境で育った私は、無名の女性になって、もっと人生を楽しみたかったのです。だって、まだ16、17歳の若い年齢だったのですから、大きな声で笑ったり思いっきり踊ったりしたい年齢。皇太子さまとパリに行って大歓迎を受けた私は、あのとき触れたパリの自由を尊ぶ空気と、いろいろなモニュメントに飾られた街並みが忘れられずにいました。活発なパリ市民たちの間に入って、青春を生きる喜びをしっかり味わいたい。その思いが日に日に強まり、パリ行きにまったく興味を抱かない皇太子さまを宮殿に残して、お気に入りの貴族夫人を伴ってパリに行くようになったのです。


ヴェルサイユ宮殿のオペラ劇場は、ルイ15世が私たちの結婚祝いのために建築させたもので、宮殿内にあるために規模も小さかったのですが、パリの劇場はその数倍の大きさ。そうした劇場で受ける感動も数倍。太陽王ルイ14世が創設したコメディ・フランセーズがセーヌ左岸にあり、モリエール作の喜劇、ラシーヌ作の悲劇、ボーマルシェの作品が好評を得ていました。


そのほか、右岸にはオペラ劇場がありました。ルイ13世の時世の重要な枢機卿であり宰相だったリシュリュー公爵の館内です。広大な館はリシュリュー枢機卿が亡くなったときに国王ルイ13世に寄贈し、後にルイ14世が幼少時代を送ったために、「王宮」という意味の「パレ・ロワイヤル」と呼ばれるようになったのです。リシュリュー枢機卿の館内にあったオペラ劇場では、オペラのほか仮面舞踏会も開催され、楽しい思い出がいっぱいあったのですが、1781年6月8日の火事で焼けてしまい跡形も残りませんでした。

ルイ13世の時代の偉大な宰相リシュリュー枢機卿の館。
この中に劇場があり、何度も足を運びました。

たくさんの思い出が刻まれている劇場がなくなり、すっかり気落ちした私でした。でもすぐに気を取りなおし、それでは新しい劇場を造りましょうと提案。あきらめが早いのは私の長所でした。いつまでもぐつぐつしていないで、人生を前向きに肯定的に生きる気質なのです。


その頃すでに王妃になっていた私の希望ということで、一致団結して工事を進めて下さり、劇場はわずか2カ月で完成。もちろん、新しい劇場に何度も足を運びました。数千人もの観客とオペラや劇を鑑賞するのは、宮廷でのわずらわしいしきたりから解放される、貴重なひとときでした。一番のお気に入りは仮面舞踏会。仮面で顔が見えないので無名の女性になれ、心が晴れ晴れ。好きなだけ踊れるし、作法もなく、解放感を満喫できるので朝帰りもたびたびでした。

私のためにたった2ヶ月で建築した新しいオペラ座。

パリに行きたがらない夫は、夕方から妻がパリで存分に楽しんでいる間、宮殿の最上階のアトリエで錠前を作ったり、機械いじりに夢中になっていたのです。こうした二人の間に接点がないのはおわかりですね。簡単にいうと、趣味がまったく合わなかったのです。

2024年2月18日

パリに似合う車

 新旧の建造物が共存して、美しい景観を保っているパリ。そうしたパリには、歴史ある古い車も、斬新な車もよく似合う。それらが相まって、パリにさらなるチャームを加えている。街中で見かけた2台の対照的な車のご紹介です。

イタリアのスポーツカー、ランボルギーニ・ウラカン。
真っ赤な色も、迫力あるもライトも
ひと目をとらえないではいない。

フランス製のシトロエン・トラクション・アヴァン。
1934年から1967年まで生産。

車に関心がないけれど、この2台は立ち止まって写真を撮りたくなるほどのインパクトがある。どちらもパリの街並みに溶け込んでいるのが素晴らしい。何だか映画の一場面みたい。

2024年2月12日

デュ・バリー夫人を処刑台に追いやったザモールとは

今、 日本で公開中の映画「ジャンヌ・デュ・バリー 国王最期の愛人」は、昨年のカンヌ国際映画祭のオープニングを飾った話題作。その中にも登場するザモールは、ルイ15世が公妾ジャンヌにプレゼントした黒人。ジャンヌはザモールを自分の身近に置いてかわいがりますが、後年、革命が起きた時に成長したザモールは過激革命家になり、ジャンヌを裏切り、処刑台にのぼる運命に陥れたのです。このザモールに関してあまり情報がないので、いろいろ調べてわかったことを、お知らせします。

ザモールが生まれたのは1762年ころで、現在のバングラデシュとされています。両親がイギリスの奴隷商人に売ったいう説と、捕まったという説がありますが、いずれにしても彼は生まれ故郷から離れたヨーロッパに暮らしていたのです。その後、アフリカ大陸近くのマダガスカル経由でフランス入りし、国王ルイ15世 の手に入り、王最愛のジャンヌに仕えるようになったのです。その時、彼は、11歳。

ジャンヌ・デュ・バリー伯爵夫人に
コーヒ―を差し出すザモール。

ジャンヌはこの少年をことのほかかわいがり、ルイ=ブノワと名づけ、宮廷にふさわしいきれいな服を着させ、教育もほどこします。文学が特に好きで、哲学者ジャン=ジャック・ルソーの「政治の決定権は人民にある」という人民主権に共鳴した彼は、インテリで、世の動きに敏感な青年となります。すべての人は平等だと心から信じていた彼は、王でさえも自分と同等な人間だとさえ考えるようになったのです。

革命が起きると彼は、過激派のジャコバン派の革命家となり、ヴェルサイユ宮殿での目に余る贅沢な宮廷生活や、恩人のジャンヌにも抑えきれないほどの憎悪を抱きます。当時の国王はルイ16世で王妃はマリー・アントワネット。ジャンヌを公愛としていたルイ15世は世を去っており、宮殿から追い出された彼女は、ヴェルサイユからさほど遠くないルーヴシエンヌの瀟洒な館に暮らしていました。その館はルイ15世からプレゼントされたもので、多くの崇拝者がいたジャンヌは、美しく着飾って頻繁に夜会を催していたのです。

革命が起きるとザモールは、
過激派のジャコバン派に共鳴します。

ジャンヌとザモールの間には、当然、大きな亀裂が生じ、ザモールは館から追放されます。有能な黒人ザモールは、革命家にヴェルサイユ地域の監督秘書官に任命されます。

一方ジャンヌはロンドンに亡命しますが、ルーヴシエンヌに残しておいた宝飾品が盗まれことを知ると、友人たちが止めるのもきかずにフランスに戻ったのです。それをザモールが通告し、かつてのルイ15世の公愛は、捕らえられ、革命裁判で死刑の判決を受け、処刑されたのでした。

修道院で育ったためか、穏やかな性格で、
気の毒な人への援助を度々していたジャンヌ。

ジャンヌに仕えていたザモールに嫌疑をかけたのは、ジャコバン派と対立するジロンド派で、捕らえられた彼は6週間監獄に入れられますが、ルーヴシエンヌで働いていた仲間たちの証言で、ザモールが革命支持者であることが分かり、釈放されます。

その後、利発な彼は革命が引き起こす危険を予知し、外国に逃れ、フランスに戻ったのは、ナポレオン皇帝が失脚し、復古王政でルイ16世の弟、ルイ18世が国を治めていた1815年。パリの学生街の小さなアパルトマンで、子供たちに勉強を教え、わずかな収入で暮らすようになったザモールは、「ジャンヌ・デュ・バリーの裏切り者」のレッテルを貼られ、友人もなく、1820年2月8日の寒い日に、貧困と孤独の中で58歳の生涯を閉じ、近くの共同墓地に葬られます。その墓地は、今では跡形もない。

2024年2月11日

バレンタインデー

 愛の守護聖人を祝うバレンタインデーが近づくと、ハートマークがあちらこちらに見られます。日本ではこの日の解釈が異なり、いつからか、女性が男性にチョコレートをプレゼントする習慣になっているようですが、最近はそれを見直す傾向があるとか。

フランスではこの日に、親しい友人や恋人、あるいは、夫婦で過ごす人が多い。お花をプレゼントしたり、食事をしたりするのが定番。特別メニューを用意しているレストランやホテルもあるし、セーヌ川の遊覧船もライヴ付きのメニューを宣伝している。こうなると、やはりバレンタインデーには、何かしないではいられない気分になる。そんな雰囲気のパリをご紹介します。

思わず近づきたくなる
香水店のステキなディスプレイ。
香水もバレンタインデーに最適なプレゼント。

格別なセンシビリティで、
高尚な趣味の人を虜にしているセルジュ・ルタンスのフレグランス。
サントノレ店のウインドーはいつも話題。

ハート形の容器はバレンタインデーならでは。
チョコレートだけでないのが個性的でいい。

大きな造花が華やぎを放っているチョコレート店。

小鳥さんがジュエリーをくちばしに加えている宝飾店。
窓を大きく開けておくから、我が家にも飛んできて💓💓

2024年2月6日

マリー・アントワネット自叙伝 19

義理の弟と妹たち

皇太子さまには弟と妹が二人ずついました。弟のひとりは、生まれてすぐにプロヴァンス伯の称号を授けられました。生まれた年も月も私と同じで1755年11月。私は2日生まれで弟は17日。なんだか日が多少ずれた双子みたいで、最初からあまりいい感じを持っていませんでした。


予感通り、プロヴァンス伯は何かにつけて夫と私につらくあたっていました。特に私たちになかなか子供が生まれないので、世継ぎはこの自分だ、と言いふらしていたような人なのです。その弟自身も、結局、子供に恵まれませんでした。プロヴァンス伯がお妃を迎えたのは、私がデュ・バリー夫人に声をかけた1771年の5月で、2歳年上のサルデーニャ国王の王女、マリー・ジョゼフィーヌ・ドゥ・サヴォアさまが選ばれました。

義理の弟プロヴァンス伯。
王座を狙っていた性格が悪い人。


さほど美人でなかった彼女は、プロヴァンス伯爵夫人になってヴェルサイユ宮殿に顔を出すようになっても、注目されませんでした。義理の姉の私にも儀礼的な態度で接していて、心からの親しみを持つことはありませんでした。プロヴァンス伯は私を毛嫌いしていただけでなく、夫を無能だと言ったり、目に余る野心家で、ほんとうに嫌な性格でした。彼が狙っていたのは、フランス国王の座だったのです。


もう一人の弟はアルトワ伯で2歳年下。明るい性格で私と気があい、一番の仲良しでした。ゲームをしたり、一緒に劇を演じたり楽しい思い出がたくさんあります。彼は何と、プロヴァンス伯のお妃の妹マリー・テレーズ・ドゥ・サヴォアさまと結婚したのです。美型の弟は全く乗り気ではなかったのですが、ルイ15世が国益のために決めた人。それでもおふたりの間に4人もの子供が生まれたのですから、役目をちゃんと果たしたと言えます。

明るく、楽しいことが大好きで、
私と気が合っや義理の弟アルトワ伯。

こうした弟たちの他に、妹も2人いました。夫の妹たちは気立てがよく、気が合い、大好きでした。妹のひとりクロティルド王女さまは、私がヴェルサイユ宮殿に暮らすようになってわずか5年後に結婚されたので、あまり長いお付き合いはありませんでした。クロティルド王女さまの結婚相手は、後年にサルデーニャ王国の国王カルロ・エマヌエーレ4世になった人。その方のふたりの妹が、皇太子さまの弟のプロヴァンス伯とアルトワ伯と結婚しているのですから、何だか複雑な気持ちです。どなたも祖父ルイ15世が決めた結婚です。よほど国王はこの家がお気に召していらしたのでしょう。

義理の妹クロチルド王女さま。

夫と私と一番気が合った
従順なエリザベート王女さま。

サルデーニャ王国を支配していたのはサヴォワ家。ルイ15世のお母さまマリー=ジョゼフ・ドゥ・サクスさまの実家だったのですから、お気持ちはよくわかります。


8歳年下の末の妹エリザベート王女さまは信仰心があつく、私をほんとうの姉のように慕っていました。結婚することもなく、最後の最後まで私たちと行動をともにしていました。そうした王女さまは私が心から信頼できる唯一の人でした。


こうした義理の弟妹たちとヴェルサイユ宮殿で生活していましたが、飽きっぽくて刺激が必要な性格の私は、パリに行きたいという思いが強くなる一方でした。儀式ばかりで大した変化がない宮廷生活に、うんざりしてきたのです。それに比べてパリは活発な街。一日も早く行きたいと思うばかりでしたが、皇太子妃ともなるとそう簡単ではないのです。

 

ずっと待ち続け、願いがかなったのは1773年で、結婚から3年目でした。

2024年2月1日

マリー・アントワネット自叙伝 18

 ついにデュ・バリー夫人に声をかけました

メルシー大使作の劇を演じるのは、わりと簡単なことのように思えました。シェーンブルン城では年中祭典があって、子供の頃からいろいろな役をこなしていた私は、舞台慣れしていました。だから、必ずうまく演じられると確信していたのです。


劇の筋書きはとってもシンプル。 日曜日の恒例のトランプゲームが終わりに近づいた時に、メルシーがデュ・バリー夫人に話しかけ、偶然そのそばを通りかかっていた私がメルシーに言葉をかけ、ついでにデュ・バリー夫人にもひとこと挨拶する。自然な成り行きでそうなったことにするのだから、簡単にできそう。これなら私の自尊心が傷つけられることもないので、この役を引き受けました。


メルシーの喜びは想像以上で、これが大人の男性にふさわしいのかと思ってしまうほど有頂天。そしていよいよ実行の日、なぜか急に心配になった私は、思わずメルシーに言いました。

「ムッシュー、何だかとても怖いのです。でも、安心してください。必ず話しかけますから」

尊敬しているお母さまのためですもの、これくらいの事はしなくては 。

メルシー大使が暮らしていたパリの館。
モンマルトル大通りの瀟洒な貴族館で、この建物の2階です。

ルイ15世の相談役、ラボロド侯爵が建築させた館で、
後に有能な銀行家になり、豪奢な邸宅をいくつも持っていて、
そのひとつにメルシー大使が暮らしていたのです。

ゲームが終わると、私はいつもの通り、貴族夫人たちに愛嬌を振りまきながらあちこち回りました。そして、デュ・バリー夫人とメルシーが言葉を交わしているのが見えたので、近づいて、ひと言声をかけようとしたその瞬間、最年長の叔母さまのアデライード王女さまが、まるで軍人が部下に言うように、鋭い声で命令を下したのです。

「もう時間です、行きましょう。妹のヴィクトワールのお部屋で王をお待ちするのです」

メルシーの筋書きになかったことが起きて、すっかり気が動転した私は、急ぎ足でその場を離れました。


この出来事をメルシーがお母さまに報告しないわけがありません。国務で忙しいのに、すぐにお小言の手紙が届いたのです。ほんとうにマメなお母ま。

複雑な情勢の中でお兄さまと一緒に
オーストリアを統治していたお母さま
マリア・テレジア。

当時お母さまは、大きな決定を迫られていたようです。それはポーランドをめぐる問題で、プロセイン国王フリードリヒ2世とロシア女帝エカテリーナ2世が、一緒にポーランドを分割しようと持ち掛けてきたこと。

組む相手はどちらもすご腕で破格の野心家。危険満載の交渉なのに、お母さまと共同で国を治めていた若いヨーゼフお兄さまは、すぐにでも賛成しようと考えていました。長年女帝の地位にあって、多くの経験を積んでいたお母さまは、なかなか決断を下せないでいました。ポーランドと親しくしていたフランス国王が、ポーランド分割を快く思わないかもしれない、と考えたのです。


ルイ15世のお妃は、ポーランド元国王のプリンセスだったから、無理もないことです。娘が嫁いで絆が強くなっているから、多分ルイ15世は黙認してくれるだろうと思っていた矢先に、私が国王最愛のデュ・バリー夫人を怒らせてしまったのです。


ルイ15世はもうこれ以上我慢できないと、今や不機嫌が最高潮。これでは、フランスとオーストリアの関係が悪化してしまう。何が何でも娘を説得して、デュ・バリー夫人に声をかけさせねばならない。そう思ったお母さまは、私に長いお手紙を書いたのです。皇太子妃の自覚をしっかり持って、フランスとオーストリアのために役立つことを優先すべきです。自分の娘であるからには、それができるといった内容の文に打たれた私は、愛するお母さまの事だけを思って、意を決して実行することにしました。


それをどの日にするか、いろいろと考えて、1772年1月1日の鏡の回廊での新年のあいさつの時、と決定しました。

いつもよりきれいな装いで、いつもより数倍優美なデュ・バリー夫人の左右には、デギュイヨン公爵夫人とミルポワ元帥夫人がいました。まずデギュイヨン公爵夫人にご挨拶し、その後デュ・バリー夫人に声をかけました。これが一番自然だと思ったからです。

ヴェルサイユ宮殿で一番広い鏡の回廊。
重要な行事がいくつも行われていました。


「今日はヴェルサイユに、たくさんの人がいらっしゃること」

私が言ったのはそのひと言だけ。

その後ミルポワ元帥夫人にご挨拶し、他の貴族夫人にも次々に笑顔を振りまきました。自分ながら上手に事を運べて、義務を果たした私はほっとし、国王とデュ・バリー夫人は、当然、大喜び。


皇太子妃がついに愛妾に声をかけたと、宮殿はハチの巣をつついたように大騒ぎ。でも、正直言って私は敗北感で心が真っ暗だったのです。ただひたすら、これでお母さまのために良いことをしたと思うことで、自分を慰めていました。ポーランド分割はその年の夏に実現し、オーストリアの領土が少し増えましたが、叔母さまたちの怒りは言葉で表せられないほど大きく、この日を境に私の敵となったのでした。


今後どんな試練が待っているかわからない。でも、これからは自分の考えで行動しようと、心の中で強く誓いました。フランスの宮廷は、私が想像していたより、はるかに複雑なのです。