2024年2月12日

デュ・バリー夫人を処刑台に追いやったザモールとは

今、 日本で公開中の映画「ジャンヌ・デュ・バリー 国王最期の愛人」は、昨年のカンヌ国際映画祭のオープニングを飾った話題作。その中にも登場するザモールは、ルイ15世が公妾ジャンヌにプレゼントした黒人。ジャンヌはザモールを自分の身近に置いてかわいがりますが、後年、革命が起きた時に成長したザモールは過激革命家になり、ジャンヌを裏切り、処刑台にのぼる運命に陥れたのです。このザモールに関してあまり情報がないので、いろいろ調べてわかったことを、お知らせします。

ザモールが生まれたのは1762年ころで、現在のバングラデシュとされています。両親がイギリスの奴隷商人に売ったいう説と、捕まったという説がありますが、いずれにしても彼は生まれ故郷から離れたヨーロッパに暮らしていたのです。その後、アフリカ大陸近くのマダガスカル経由でフランス入りし、国王ルイ15世 の手に入り、王最愛のジャンヌに仕えるようになったのです。その時、彼は、11歳。

ジャンヌ・デュ・バリー伯爵夫人に
コーヒ―を差し出すザモール。

ジャンヌはこの少年をことのほかかわいがり、ルイ=ブノワと名づけ、宮廷にふさわしいきれいな服を着させ、教育もほどこします。文学が特に好きで、哲学者ジャン=ジャック・ルソーの「政治の決定権は人民にある」という人民主権に共鳴した彼は、インテリで、世の動きに敏感な青年となります。すべての人は平等だと心から信じていた彼は、王でさえも自分と同等な人間だとさえ考えるようになったのです。

革命が起きると彼は、過激派のジャコバン派の革命家となり、ヴェルサイユ宮殿での目に余る贅沢な宮廷生活や、恩人のジャンヌにも抑えきれないほどの憎悪を抱きます。当時の国王はルイ16世で王妃はマリー・アントワネット。ジャンヌを公愛としていたルイ15世は世を去っており、宮殿から追い出された彼女は、ヴェルサイユからさほど遠くないルーヴシエンヌの瀟洒な館に暮らしていました。その館はルイ15世からプレゼントされたもので、多くの崇拝者がいたジャンヌは、美しく着飾って頻繁に夜会を催していたのです。

革命が起きるとザモールは、
過激派のジャコバン派に共鳴します。

ジャンヌとザモールの間には、当然、大きな亀裂が生じ、ザモールは館から追放されます。有能な黒人ザモールは、革命家にヴェルサイユ地域の監督秘書官に任命されます。

一方ジャンヌはロンドンに亡命しますが、ルーヴシエンヌに残しておいた宝飾品が盗まれことを知ると、友人たちが止めるのもきかずにフランスに戻ったのです。それをザモールが通告し、かつてのルイ15世の公愛は、捕らえられ、革命裁判で死刑の判決を受け、処刑されたのでした。

修道院で育ったためか、穏やかな性格で、
気の毒な人への援助を度々していたジャンヌ。

ジャンヌに仕えていたザモールに嫌疑をかけたのは、ジャコバン派と対立するジロンド派で、捕らえられた彼は6週間監獄に入れられますが、ルーヴシエンヌで働いていた仲間たちの証言で、ザモールが革命支持者であることが分かり、釈放されます。

その後、利発な彼は革命が引き起こす危険を予知し、外国に逃れ、フランスに戻ったのは、ナポレオン皇帝が失脚し、復古王政でルイ16世の弟、ルイ18世が国を治めていた1815年。パリの学生街の小さなアパルトマンで、子供たちに勉強を教え、わずかな収入で暮らすようになったザモールは、「ジャンヌ・デュ・バリーの裏切り者」のレッテルを貼られ、友人もなく、1820年2月8日の寒い日に、貧困と孤独の中で58歳の生涯を閉じ、近くの共同墓地に葬られます。その墓地は、今では跡形もない。