2024年5月15日

オリンピックのために、いろいろ不便

 オリンピック聖火のリレーがすでに始まり、通過する各地で熱狂的に迎えられ、連日、ニュースで映像が流されているフランス。これが7月26日のオープニングまで続く。けっこう先のことなのに、パリ市内の規制が発表され、それによると日常生活にもかかわってるのが、ちょっと問題。

一番大きな問題は、メトロの駅によっては、オリンピック、パラリンピック開催中どころが、早くも来月から閉鎖されること。チュイルリーとコンコルドの駅は6月17日から9月半ばころまで、;メトロは通過するが止まらない。今のところ再開は9月21日となっている。シャンゼリゼ・クレマンソーも7月1日から同じ運命。コンコルドは3つのメトロがとまり、乗り換えする人が多いから、かなりの混乱を生みそう。不満を述べる人が多いのもよくわかる。

本来は均整が取れた美しい広場なのに、
今は大工事で、見る影もないコンコルド広場。

コンコルド広場といえば、7月14日に、凱旋門から出発するフランスが誇る軍事行進を大統領、官僚、その他の重要人物が迎える重要な地。ところが、オリンピック、パラリンピックの競技が行われるため、今、その準備を大々的に行っていて、それどころではない。というわけで、今年はシャンゼリゼの代りにフォッシュ大通りで軍事パレードが行われることに。オリンピック聖火もこれに参加するという情報もあります。

これに加え、公道に面した工事も6月中旬以降は禁止だそうで、そのために、あちらこちらで工事が急ピッチで行われていて、美観も何もない。会期中は車はもちろん、歩くことすら禁止される地域もある。オリンピックはまだ始まってもいないのに、いろいろあって疲れを感じます。

歩道と車道の工事で、車が通れる幅が狭い。
渋滞が起きるのは当然。

歩行者が通れない歩道も多い。
「歩行者はこっち」などと書いてある。
ハイわかりました。

このように歩道も安心ではない。
いつ、何が落ちてくるかわからない。
心配で緊張してしてしまう。私は用心して車道を歩きます。

2024年5月12日

好天気のウィークエンド、いきなり軽装

数日前まで暖房が入っていたのに、急に気温が上がってポカポカ。ウィークエンドの最高気温は、ナンと26~27度 。こうなると、軽やかな服を着て太陽に肌をあてたくなる。天気予報によるよ、快晴は長くは続かないようで、明日から気温が下がり雨の日が続くとなっている。だから、今のうちに思いっ切り軽装をエンジョイしたいパリジェンヌたち。誰もが自分好みの装いで、見ているだけでたのしい。

うらやましい美脚のマドモアゼルたち。
ロングヘア、黒いパンツ、スニーカー。
パリジェンヌ好みのスタイル。
豊かな木々の下を、
ベビーカーをおしながら優雅に歩く若いママン。
見習いたい姿勢。

個性的な組み合わせ。
涼しそう。

黒い装いが圧倒的に多い中で、
特に目だったツーリストらしき女性たち。

絵のような光景。輝く若さ。

パリジェンヌと日本女性の一番大きな違いは、姿勢と歩き方だ、と、私は思います。服にお金をかけなくても、パリジェンヌたちがステキに見えるのは、自分に自信を持っていて、内面の輝きが全身から放たれているからでしょう。

2024年5月11日

マリー・アントワネット自叙伝 28

 お母さまがお亡くなりになりました

 お兄さまと共同で国の統治にたずさわっていたお母さまは、すでに64歳になっていました。カール6世の長女として生まれたお母さまには兄君レオポルトさまがいて、本来ならばその方が皇帝を継承することになっていたのです。ところがレオポルト皇太子さまは、1歳になる前に世を去ってしまったのです。その後生まれたのは王女2人。王子に恵まれないので、長女のお母さまが後継者になったのです。


1740年10月20日にハプルブルク家の神聖ローマ皇帝カール6世が逝去し、お母さまがその後継者として即位しようとすると、ハプスブルク帝国に所属する諸国が、女性の統治など認めないと、激しい反対があがりました。23歳の若い年齢だったのに、お母さまは驚くほどの才知と勇気でそれに対処したのでした。しかも、そのとき4番目の子供を身ごもっていたのですから、賞賛するほかありません。私にはとても真似できない事です。執務に明け暮れしながらも、子供たちに愛情を注ぎ、家族生活を大切にしていた偉大なお母さま。

お母さまのハンガリー女王戴冠式。1741年6月24日。
ハンガリーはハプスブルク家の支配下にありました。

1750年、33歳の美しい盛りのお母さま。
お父さまが亡くなった1765年以後は、
黒い服しか着ませんでした。


その後も帝国維持、外交を見事に続け、しかも16人もの子供を産み、それぞれの結婚相手まで決めていたのですから、超人的な女帝だったのです。でも、年と共に気力も体力も衰え始めた1780年11月8日、狩りを見物している間に大雨にあい、急性肺炎にかかったのでした。必死の手当のかいもなく、29日夕刻、お母さまは家族に見守られて逝去なさいました。そのとき私はまだ王子に恵まれていなかったので、お母さまはきっと心配なさっていたことでしょう。それが大きな心残りでした。

お母さまの逝去を悲しむウィーン宮廷。

お母さまは歴代のハプスブルク家の墓所となっている、ウィーンのカプツィーナー教会地下にある納骨堂に葬られました。そこではお父さまが待っていました。強い愛で結ばれていたお父さまとお母さまに捧げるお墓には、見つめ合うおふたりの彫刻がほどこされ、訪れる人々に深い印象を与えているようです。フランスに嫁いだ私は一度もお墓参りができませんでした。


お母さまがお亡くなりになったことを知らせて下さったのは、ヴェルモン神父さまでした。この悲しくつらい知らせを最初に受けたのは夫だったのですが、気が弱い夫は私に伝える勇気がなく、ヴェルモン神父さまにお願いしたのです。亡くなられたときの様子も詳しくわかりました。最後の最後まで意識をしっかり持っていて、亡くなった11月29日に

「今日が私の最期の日です」

 とさえおっしゃたのです。

夜8時ころ、外の空気に触れたかったようで、お兄さまに支えられながら窓辺に行き、あまりにも息苦しそうなのでお兄さまが

「具合が悪いのですか」

 と問うと、

「死ぬ力はあります」

 と答えたそうです。

その後、主治医に向かって、死者のキャンドルを灯し私の目を閉じてくださいと命じ、お兄さまの腕の中で息絶えたのでした。


亡くなられる2日前には、外国に嫁いだ娘たちの名をひとりひとり呼び、祝福したそうです。私は末娘なので最後に呼ばれ「マリー・アントワネット、フランス王妃」とはっきりおっしゃったのだそうです。それを知ったとき涙を止めることができませんでした。私室に閉じこもって何時間も何時間も泣き続けていました。


帝国の統治者としても母親としても、この上ない立派な人でした。歴史にその名を残すに値する人でした。お母さまの希望通りの王妃でなかっただけに、後悔は大きかったのです。よき王妃になるように、激務の間をぬってこまめに手紙で指導して下さっていたのに、それに従わなかった自分を恥じました。親が子を思うほど子は親を思わないという言葉を、このときほど痛切に感じたことはありませんでした。


政治も子育ても立派にこなしていたお母さまは、芸術を愛する人で、特に音楽や絵画の知識は驚くほどでした。訪問したこともない東洋に発達していた漆にも大きな興味を持っていて、シェーンブルン宮殿に「漆の間」を造らせたほどでした。子供だった私はその良さがまったくわからなかったのですが、お母さまは「ジュエリーよりも漆の方が何倍も美しい」と言っていたことが思い出されます。日本や中国の漆器を多数コレクションしていて、その内の50点ほどの日本の漆器を形見として私に下さったのです。遺言書にそのように書いてあったので、お兄さまがそれを実行したのです。どこまでも子供思いのお母さまでした。


私が受け取ったのは18世紀の日本の漆器で、ほとんどが手の中に入る大きさ。鳥や花、人、風景が繊細に描かれ漆加工がなされているのですが、どれも気が遠くなるほど精巧。四角や扇型、動物の形の小箱もあれば、引き出しがついた小物入れ、すずり箱もありました。あまりにも素晴らしく、すっかり心を奪われた私は、業者を通して買い求め、お母さまからいただいたコレクションに加えて、それを私室に飾っていました。

18世紀の日本の漆器をお母さまから遺品としていただき、
すっかり魅了された私は、霧中になってコレクションを増やしました。


フランス革命のときに暴徒たちに略奪されたくないと思って、専門知識がある方に頼んで、この貴重な漆器コレクションを、ヴェルサイユ宮殿から秘かに安全な場所に移し、保管していただきました。そのために無傷で後世に残りました。

2024年5月9日

オリンピック聖火 フランスに到着

 ギリシャのオリンピアで、4月16日に太陽光によって点火されたオリンピック聖火が、5月8日、フランスのマルセイユに到着しました。オリンピアからアテネまで、聖火はリレーによって運ばれ,27日、ピレウス港からフランス最後の3本マストの帆船ベレム号に乗り、マルセイユ旧港を目指して出航。この間、帆船ベレム号上の聖火やスタッフ、地中海の様子など連日報道。フランスがいかにパリ・オリンピックに熱意をもっているか、ひしひしと伝わってきました。聖火が乗るベレム号は、海上だけでなく空からもしっかり護衛されながら、12日間の旅を終え無事にフランスに到着。

ル・フィガロの一面を飾る、
華やかなベレム号のマルセイユ到着。

ベレム号は第1回近代オリンピックが開催された1896年に、フランスの造船所ナントで建造され、歴史的記念物に認定されている重要な帆船。聖火を船で運ぶのはオリンピックで初めて、と、フランスは何かにつけて、いまだかつてないオリンピックにしたくて、オープニングセレモニーをセーヌ川で行ったり、競技によっては街中の観光地で開催したり。約1万人による聖火リレーも、フランスの名所めぐりだし・・・

フランス最大の軍港、ブレスト港で
美しい姿を見せるベレム号。2014年。

聖火がフランス入りする日を、第2次世界大戦の戦勝記念日の5月8日にしたのも、多分、歴史に残るオリンピックにしたかったからだと思うし、ギリシャを出港し到着をマルセイユにしたのも、マルセイユが2600年前にはギリシャの領土だったから。

ベレム号到着をひとめ見たいと集まって群衆は15万人。無数の船に守られながら港に入ると、フランス空軍がアクロバット飛行で帆船を称え、まるで外国元首を迎えるかのような華やかさ。夕方からコンサート、花火と祭典が続き、まるでオリンピックで最多の金メダルを獲得したかのような興奮状態。いつまでも語り続けられる、フランスならではのイヴェントになること間違いない、パリ・オリンピックです。

2024年5月5日

マリー・アントワネット自叙伝 27

フェルセンさま

 

娘を身ごもっていた1778年8月25日でした。駐仏スウェーデン大使が若い殿方をご紹介してくださいました。その方にお会いするのは初めてではないので、

「ああ、古くから存じ上げています」

と、思わす言ってしまいました。


実はその方には、皇太子妃だった時代にパリのオペラ座でお会いしたのです。仮面舞踏会に身分を隠して行った1774年1月30日でした。

長身で身のこなしがエレガントで、多くの女性たちの憧れのまなざしを受けていた青年に、私から声をかけたのです。育ちの良さが全身からほとばしっているその青年と、どのくらいの間おしゃべりしていたでしょうか。周囲の目を気にし始めた女官たちに、

「お時間でございます。参りましょう」

と催促されるまで、何と幸福な時を過ごしたことでしょう。

アクセル・フォン・フェルセンさま


お互いに名を告げることもなく別れたその青年に、それ以降お目にかかるチャンスはまったくありませんでした。それが今、さらに魅惑的な男性になって、目の前に姿を現したのす。思いがけない再会で私の胸はときめき、周囲の人にも聞こえるのではないかと思うほど、鼓動が大きかったのです。その方のお名はハンス・アクセル・フォン・フェルセンさま。偶然にも私と同じ1755年に生まれたスウェーデン人。きっと私たちは最初から運命でつながれていたのでしょう。


由緒ある貴族の家に生まれたフェルセンさまのお父さま、フレデリック・アクセル・フォン・フェルセン伯爵は、陸軍元帥であり政治家。王家に継いで重要な貴族だったそうです。お母さまのカトリーヌさまも貴族出身で、おふたりの間に4人の子供が生まれました。お姉さまエレオノラさま、お妹さまソフィさま、弟君ファビアンさまに囲まれたアクセル・フォン・フェルセンさまは長男なので、家族の期待も信頼も大きかったそうです。


お父さま、フレデリック・フォン・フェルセン伯爵

お母さま、カトリーヌ伯爵夫人

フェルセン家所有のシャトーのひとつ。

フェルセン家は高位の貴族にふさわしく、立派なシャトーを5つも持っていて、アクセル・フォン・フェルセンさまが生まれたのは、ストックホルムの王宮が見える豪奢な建物だったそうです。


オペラ座での出会いの後、フェルセンさまはいったん故郷に戻り、父君の希望で外国を訪れ、フランスにも立ち寄ったのです。4年の間に何て立派な殿方になったことでしょう。その凛々しいお姿を拝見した時の喜びは、おさえきれないほど大きく、今でもはっきりと覚えています。人生が急にバラ色に染まったようでした。

 

アメリカがイギリスからの独立を望んでいることは私も知っていました。ベンジャミ・フランクリン駐仏アメリカ大使がヴェルサイユ宮殿にいらして、夫に援助を頼んだからです。1778年3月20日でした。当初、あまり乗り気でなかった夫でしたが、お人よしの定評通り、最終的に経済援助と軍を送ることも約束してしまったのです。フランスの国庫は苦しい状態だったのに、です。これで経済困難は何倍にも膨れてしまいました。とはいえ、当時の私はそうした事情を知らずに、好き勝手なことをしていましたが・・・

1778年3月20日、
ベンジャミン・フランクリン駐仏アメリカ大使が、
ヴェルサイユ宮殿で夫に謁見しました。

フランスが参戦することを知ったフェルセンさまは、志願したのでした。つまり私から離れて遠い海の向こうの国に行ってしまうのです。これを悲劇と呼ばないではいられないほど、私の悲しみは大きかったのです。


再会したとき、私もフェルセンさまも23歳でした。その年の12月にマリー・テレーズを出産した私は、自信に満ちていました。この後も何人か子供を産んで、王妃としての役割をきちんと果たそう。でも、人生を最大に楽しみたいとも思っていました。


以前の体型を取り戻した私は、ベルタンを迎えて頻繁にドレスをオーダーしました。もっと美しくなりたい、もっとも魅力ある女性になりたいと、毎日そのことばかり願っていました。それはあの方に気に入られたいからだったのです。あの方、そう、フェルセンさま。あの方にお会いしてから、女性としての意識が高まりました。生まれて初めて本当の愛を知ったのだと思います。


壮麗なベルサイユ宮殿の庭園には、ロマンティックな場所がたくさんあり、愛が育つのにふさわしい雰囲気が漂っています。フェルセンさまと片時も離れたくなかった私は、ゲームに誘ったり、ダンスのお相手に選んだり、お散歩に誘ったり。夢中になっていた私は周囲の目を気にすることもなく、ひたすらフェルセンさまの吐息を直ぐ近くで感じたいと、それしか考えていませんでした。


メランコリックな眼差し、スリムな体型、豊かな教養、軍人にふさわしいキリっとしたふるまい、舞踏会で見せる芸術的で優雅な踊り・・・私が好きなすべてを備えているフェルセンさま。彼のために、もっともっと美しくなりたいと、そればかり願っていました。正直で自分に誠実な私は、フェルセンさまへの好意を隠すこともなかったので、当然、噂が立ちました。それを危険なことだと思ったのか、フェルセンさまは、突然、意を決したのです、フランスから遠ざかることを。

アメリカに行く決心をしたころのフェルセンさま。

冷静に考えてみると、フェルセンさまがアメリカの独立戦争に参加しようと決意なさったのは、不思議なことではありません。何しろ彼は尊い騎士道精神の持ち主。しかも若い年齢。イギリスの勢力などに屈していたくない、自分たちの手で新しい国を造りたいというアメリカ人の情熱が、きっとフェルセンさまを感激させ、心を動かしたのでしょう。スウェーデン大使のクルツ伯爵や多くの宮廷人は、私の危険な働きかけから身を守るためにアメリカに行くのだ、などと、ずいぶん失礼なことを考えていたのです。


それにしても、何て辛いこと。せっかく幸せな日々を送っていたというのに・・・・彼の出発の日が近づくに従って涙で目がかすむばかり。私の打ちひしがれた姿を見て、側近が心配したほどでした。

 

フェルセンさまがフランスの軍港ブレストから、アメリカに向かって出航したのは1780年5月2日でした。6000人の軍人のひとりとして軍艦に乗ったフェルセンさまは、きっと心を弾ませていたことでしょう。何しろ総司令官は、多くの軍人が憧れていた伯爵ロシャンボー将軍。様々な戦いで目立った活躍をした人です。


ブレストを後にした軍艦が、アメリカのロードアイランドにあるニューポートに到着したのは7月11日。その間、フェルセンさまは手紙で航海の様子を頻繁に父君に知らせていたのです。このような息子を持った父君は、さぞかし誇りに思っていたことでしょう。アメリカ側の指揮官はジョージ・ワシントン将軍で、後に大統領になった方。ロシャンボー将軍とワシントン将軍の鋭敏な指揮のもとに、アメリカ兵とフランス兵は勇気を持って戦い、ついに1781年10月、重要な拠点、ヴァージニア州のヨークタウンを占拠して、イギリス軍に徹底的な打撃を与えたのです。

ヨークタウンで決定的勝利を得る前に会見した
フランスのロシャンボー将軍(右)と
アメリカのワシントン将軍。

この戦いの間フェルセンさまは、格別な貢献をしました。フランス語を話さないワシントン将軍と、英語を話さないロシャンボー将軍の間の重要なやり取りの通訳をしていたのです。父君へのお手紙の中でそのように書いたのだそうです。何て素晴らしい活躍でしょう。勇敢な兵士として戦っただけでなく、知的活躍もしたのです。このようにフェルセンさまがアメリカ独立戦争に参加している間に、大きな悲劇が私に襲いかかりました。


2024年5月2日

スズラン祭

 5月1日は世界中がメーデーの日。フランスはスズラン祭の日でもあり、街中でスズランが売られます。この日に限って誰でもスズランを売っていい。.森に行って積んでキレイなブーケを自分で作って売る人もいるのです。今日は幸運をもたらす愛らしいスズランをご紹介。

メトロの入り口でスズランを売る人が結構多いパリ。
小さな素朴な台の上に並べたスズラン。
かわいいお花にぴったりな雰囲気。

チョコレート店は華やかなデイスプレイ。

シンプルでかわいい。
チョコのベースがおいしそう。
フラワーショップは高級なセットで人目を引きます。
根があるから来年まで持たせられるかも。

マルシェでも可憐な姿を見せています。