2026年3月9日

「ナポレオンの遺言書」公開

セント・ヘレナ島に流刑されたナポレオンが遺言書を書いたのは、1821年4月15日から27日にかけてで、それから数日後の5月5日、波乱に富んだ生涯を閉じたのです。今回国立公文書館で展示している遺言書は、全文自筆。当初、忠実な部下モントロンに口述させ、その後自らペンで書いた貴重なもの。
国立公文書館で展示されている
ナポレオンの遺言書

全文自筆の貴重な遺言書

ナポレオンはこの遺言書のなかで、自分の人生、戦争、部下や政府関係の人の裏切り、3歳で別れたままの息子への思いなどの他、遺品の分配に至るまで事細かに綴っています。特に心に響くのは、遺言書の最初に書かれたこの文。

   余は余の遺骸がセーヌ川のほとり、
   余がかくも愛したフランス国民の間に葬られることを願う

宿敵イギリスとの長く困難な交渉の結果、
ナポレオンは遺言通り、
セーヌ川近くのアンヴァリッドに葬られました。

この遺言書は国立公文書館でもっとも厳重な「鉄の扉」の奥深くに保管されていて、一般公開は非常に稀なことです。6月29日まで。

2026年2月11日

「ナポレオンの息子」時事通信社から出版

ナポレオンの息子の生涯を描いた本が、時事通信社から発刊されることになり、幸せいっぱいです。

「ナポレオンの息子」
時事通信社
発売予定日 2026年2月24日

隆盛を極めたナポレオンは、その栄華を子孫代々引き継がれることを強く望んでいました。そのために、子供を産めない妃ジョゼフィーヌと離婚し、オーストリア大皇女マリー・ルイーズと再婚。二人の間に生まれた王子は、生後直ちにローマ王の称号を授与され、世継ぎが生まれたナポレオンの第一帝政時代は、輝かしい未来が確約されてるようでした。

けれども、その後の無謀とも言えるモスクワ遠征の失敗を境に、フランス皇帝はヨーロッパ諸国の平和を乱す最悪な敵とみなされるようになり、3歳の王子は母と共に母の生まれ故郷オーストリアへ向かう。その時からナポレオンの息子の悲劇が始まり、21歳の壮絶な人生を閉じたのでした。

母の故郷でのローマ王は、まるで人質のように扱われた。名前を変えられ、フランス語を禁止され、海がなく太陽も少なく重い雰囲気に包まれたウィーンから出ることも禁止されました。後年に胸の病に侵され、寛大な太陽の国ナポリでの静養を願ったが、それも拒否された。父のような立派な軍人になることのみを熱烈に望んでいた若き王子は、それを実現することもなく、父の敵国で若い命を終えた。彼は、オーストリアの、ヨーロッパの宿敵ナポレオンの息子であったために、非人情的な扱いを受け、青春の真っ只中で散ってしまったのです。

日本ではほとんど、その存在さえも知られていないナポレオンの息子の無念の叫び声が、様々なフランスの書物から聞こえてくるようで、何とかして日本で本にできないかと思い続け、この度それが実現されました。本書を通して一人でも多くの人が、ナポレオンの息子の悲劇的生涯をしっていただけたら、嬉しいです。

マリー・アントワネット自叙伝 64

ルイ17世になった息子

 夫を失った私は、その日から寡婦カペーと呼ばれるようになりました。悔しさ、怒り、悲しみに打ちひしがれましたが、私にはするべきことがありました。


国王が世を去ったからには、その息子を直ちに新たな国王とすることです。それはフランス王家の習慣なのです。私たちもルイ15世が世を去った日に、「国王崩壊」「新国王バンザイ」と貴族たちの祝福を受けたのです。当時と状況はまったく異なりますが、捕らわれの身であっても、フランス王妃の誇りを持っていた私は、その習慣を守りたかったのと同時に、革命への秘かな反発でもあったのです。

父を失った時、息子は7歳の少年でした。

ブロンドの髪とブルーの瞳の
明るくおしゃまな子で、私の宝物でした。

夫が処刑された1793年1月21日には、ルイ=シャルルは7歳の幼い子供でしたが、この日、タンプル塔でルイ17世になったのです。

息子を直立させ、その前にひざまずいた私は

「ルイ17世バンザイ」

と小さな声で即位のお祝いをしました。

もちろん、革命を起こし共和国になったフランスでは認められませんでしたが、認めてくださった国もありました。私の祖国オーストリアをはじめとし、プロシア、イギリス、アメリカ、スペインが。


本来なら華やかな服装で、立派な即位式をあげる息子が、
捕らわれの身で塔の中で即位せざるを得なかったことが、
あわれで仕方ありませんでした。


夫が処刑され、息子が非公式にルイ17世となりましたが、新国王が幼く、しかもタンプル塔に幽閉されていて何もできないからには、我こそがブルボン家の家長であると、義理の弟プロヴァンス伯が亡命先のコブレンツで摂政を宣言しました。

そうした話を耳にしても、私たちは無関心でした。ただその日その日をひっそり生きているだけでした。


今までは夫が階下に暮らしていて、いつか会える日がくるかも知れないという、かすかな希望を持っていたのですが、今やそれも打ち砕かれました。

最初の数日は会話も途絶え食欲もなく、ただ茫然と過ごしていました。そのうち、気を取りなおして楽器を奏でたり、刺繍をしたり、子供たちとゲームしたりしながら、長い1日を過ごすよう努力しました。


夫を失ってから、私たちは何の目的もなく、
ひっそりと暮らしていました。

夫の妹とふたりで刺繍タペストリーを手がけたこともあります。
ヴェルサイユ宮殿に暮らしていた時から、私たちは同じ趣味を持っていたのです。
これはタンプル塔で作った作品です。


未亡人になった私は喪服を身に付けたいと希望を告げると、直ぐに届けてくれました。服だけでなく、黒いヴェールや靴も扇もありました。それ以後私は喪服しか着ませんでした。自慢していたブロンドの髪の毛はすっかり白くなり、自分でも一挙に年をとったことがわかりました。これほど早く喪服を着る運命におちいるとは、想像もしていませんでした。

喪服しか着なくなった私は、朝晩のお祈りの時間が
以前よりずっと長くなりました。

喪服を着ていると心が落ち着き、
今置かれている残虐な環境の中でも、
小さい幸せを見つけて生きていこうと思うようになりました。

2026年1月14日

マリー・アントワネット自叙伝 63

最後の日の夫

侍従クレリーによると1月21日、処刑の日、夫は朝5時頃に目覚め、よく眠ったと爽やかな顔で声をかけたそうです。

タンプル塔での王の最後のときは刻々と過ぎていき、いよいよ最後の祈りを捧げる時が来ました。白いシャツの上に白いチョッキを着て、グレーの半ズボンをはいた王のために、クレリーは祭壇のかわりになる大きさのタンスの埃をていねいに払い、その前にひざまずくためのクッションを置きました。王にふさわしくないその簡素な祈りの場を見つめながら、クレリーは胸が張り裂ける思いでした。

6時。フェルモン神父さまが夫の部屋に入ってきて、静かで、寂しい祈りが始まります。重い祈りの声は、部屋をさまよった後、厚く暗い壁の中に吸い込まれていきました。お祈りの後、神の元に行く準備が出来た、と言いながら、夫は指輪をはずし、それを王妃に、そして印章を息子に渡してほしいとクレリーに頼みます。夫は何度も涙を拭き、別れがつらいという悲痛な言葉もクレリーは耳にしたそうです。これほど温厚な国王が、共和国設立のために、何故処刑されなければならないのか、クレリーは最後の最後まで理解できなかったのです。

突然、ドアが荒々しく開き、役人たちが足音を高くしながら入って来ました。処刑場に行く時がきたのです。夫は落ち着いた態度を崩さず、役人に囲まれながらドアの外に向って行きました。そこに待たせてあった馬車に乗り、その周囲をおびただしい数の兵が囲んでいました。

昨夜の別れ際に、明日の朝7時にお会いしたいと言ったのに、
7時どころか8時になってもお迎えの役人が来ないので、
それはもはやかなわないのだと理解しました。
私たちが唯一できることは、
厚い壁を通して聞こえてくる物音で、夫の動きを想像するだけでした。

タンプル塔から革命広場に向う間、夫は途切れることなく、臨終の詩篇を唱え続けていました。その隣りには、フェルモン神父さまが神妙な面持ちで座っていました。ガタガタと音を立てながら進んでいた馬車に向かって、突然、大きな声が投げられました。「国王を救おう!」その声は群衆の間から鋭く響いていました。「王を救うのだ!」

熱烈な王党派のバッツ男爵

危険極まりない言葉を発したのはジャン=シャルル・ドゥ・バッツ男爵でした。破格の資本家であり、王の相談役だったバッツ男爵は、ヴァレンヌ逃亡の際にも多額の援助金を出してくださった王党派です。彼は剣を振りかざしながら叫び続け、群集が大挙して自分に続いてくることを願っていたのです。バッツ男爵は夫を土壇場で救出し、しばらくの間フランスでかくまい、その後国外亡命を企てていたのです。けれども、彼の声はかき消され、危険を感じたバッツ男爵は群集に紛れ込んでその場を離れ、ロンドンに向かったのでした。

何事もなかったかのように馬車は進み、広場に着いたのは、10時を少しまわったころでした。馬車を降り、上着を自ら脱ぎ、神父さまの足元にひざまずき最後の祈りを捧げた夫は、しっかりした足取りで処刑台の階段をのぼります。その間、フェルモン神父さまがずっと祈りを捧げていたそうです。

しっかりした足取りで処刑台に向かう夫。

1793年1月21日、10時22分、ルイ16世は38歳の生涯を閉じました。私たちはタンプル塔の周囲から聞こえてくる「共和国バンザイ」の叫び声で、夫が、今、処刑されたことを知ったのです。

かつてのフランス国王ルイ16世の処刑の告示。

夫の最期に関して様々な情報が流れ、中には不名誉なことまであったそうです。それに耐えられなくなったのは、死刑執行人のシャルル=アンリ・サンソンで、彼はルイ16世がいかに立派な態度だったか書き残し、夫の名誉を挽回したのです。
シャルル=アンリ・サンソン

夫は非常に憶病な人で、いざ処刑台に上ると、恐ろしさから叫び声をあげたなどと書いた機関誌もあったそうです。シャルル=アンリ・サンソンは死刑執行人の家に生まれ、その仕事を嫌っていたのですが、引き継がざるを得なかったのです。医学を学んだ人で、王党派でした。そのために、国王処刑後はひたすら祈りを捧げていたと語られています。死を直前にしたルイ16世は、冷静を保ち、自ら上着を脱ぎ、両手を差し出し縛るように催促し、最後の最後まで毅然とした態度をくずさなかったとサンソンは記録を残しました。このような立派な態度で死を迎えられたのは、ルイ16世が神を心から信じていたからに違いない、とも綴っています。そうしたサンソン自身も信心深い人だったのです。

2026年1月6日

パリの初雪

一月五日、新年のパリで雪が降りました。積もるほど降ったのは数年ぶり。

心も体も洗われたようでとてもさわやかな気分。

クリスマス装飾と初雪
歩いている人が彫刻に見える
芸術的なヴァンドーム広場

2026年1月2日

明けましておめでとうございます。

なだらかな線を描く富士山の写真を見ていると、
心がおだやかになります。
本当に美しく優雅。


新年明けましておめでとうございます。
健康に恵まれ幸福で平和な一年であるよう、心からお祈りしております。

今年は、念願の本を出版していただくことになり、幸せな年になりそうで、嬉しく思っています。2月が発売の予定ですが、詳しいことはまた後日にお知らせいたします。

今後もどうぞよろしくお願いいたします。


2025年12月21日

マリー・アントワネット自叙伝 62

 永遠の別れ

 役人が私たちの部屋に入って来たのは1月20日夜8時半ころでした。

ドアが乱暴に開けられ、階下にいるルイに会いに行ってよいと、いきなり言われたのです。その言葉に、1秒も早く夫の姿を見たいと、転がるように階段を下りて行きました。息子の手を取った私が先頭に立ち、義理の妹と娘がぴったりくっつくように続きました。


夫との再会の場はダイニング・ルームで、その真ん中に夫がポツンと立っていて、いかなるときにも感情を表すことがなかった夫が、すべてから見放されたような苦しみと寂しさに必死に耐えている表情をしていました。


私たちが急ぎ足で階下に行くと、
夫は無表情で放心したように立ちすくんでいました。

今まで見せたことがない、夫の打ちひしがれた姿を目の前にして、血を一気に失ったかのように体も心も何もかも凍り、しばらくの間、言葉を発することができませんでした。ただ、身を投げ出して、言葉にならないうめき声を上げるばかりでした。まるで、動物のように。エリザベート王女さまも、娘も息子も同じでした。かわるがわる夫の体を抱きしめ、叫び声をあげ、涙が流れるままにするだけでした。

夫が死刑の判決を受けたことは、新聞売りの叫び声ですでに知っていました。このような重要な決定でさえ、路上から聞こえてくる人民の声でしか知ることができないのか、と我が身のみじめさに、全身が震えるほどの怒りを感じないではいませんでした。

「国民公会はルイ・カペーに死刑判決を宣告。処刑は囚人にそれを通告してから24時間以内に行われる」

塔の下から響いてくるその残酷極まりない言葉は、地獄の底から這いあがっているようでした。


夫の、兄の、父の温もりがやがて消えてしまう。この愛情深い気立てのいい人が、もうじき地上から消えてしまう。

なぜ、なぜ、なぜ、なぜ? 

一体何の罪を犯したというのか!

声にならない叫びをくり返していただけでした。


私たちと夫が最後の別れを惜しんでいる間、役人たちはダイニング・ルームから離れ、隣の部屋で様子を伺っていました。それは夫が希望したことで、最後のひとときを、家族だけで過ごせることを国民公会も許可したのです。夫が選んだ告解師フィルモン神父は、私たちより前に夫に会っていましたが、私たち階段をおりる音を耳にすると、静かに隣の部屋に退いたのでした。神父さまはご自分の死を覚悟で、この役目を引き受けたと後に打ち明けています。

言葉を発することも出来ず、
私たちはただ、ただ、うめき声をあげていました。
フィルモン神父さまは、家族だけで最後の時を過ごせるように、
そっと、部屋から出て行かれました。


涙が枯れ、叫び声もあげる力をなくなり、私たちは静寂の中で寄り添っていました。

それを重い声で破ったのは夫でした。夫は落ち着きながら裁判の様子を詳しく話してくれました。その後、息子を引きよせ、父親の温かく、それでいて説得力がある声で言いました。

夫は息子を引き寄せ、優しい声で語りました。

「我が息子よ、余の死の復讐を絶対にしないと誓いなさい」

 ルイ・シャルルがその言葉にうなずくと、夫は息子のブロンドの髪をなでながら

「絶対に復讐をしてはいけない」

 とくり返し、きちんと誓いなさいと催促し、息子は片手をあげ、立派に父の希望通りに誓いをたてたのでした。


鉄格子に囲まれた暗く、陰気で、底冷えがするタンプル塔での別れは、
言葉では表せられないほど冷酷で残虐でした。


時間はあっという間に経ち、夜10時を少し回ったころ、夫に別れを告げました、明日の朝、もう一度会うことを約束して。

夫は、では明日の朝8時にと言ったので、私は7時がいいと主張し、やさしい夫は

「では明日の朝7時に」

 と、言い直しました。

それが私たち最後の会話になってしまったのです。というのは、再び会うと別れがさらにつらくなるとフィルモン神父さまがさとしたのです。夫は神父さまの忠告はもっともだと思い、それに従ったのでした。

その夜、夫はフィルモン神父さまと
静かに祈りを捧げ、翌日を迎えたのでした。

翌朝7時に会うのが最後かと思うと心が騒ぎ、着替える気力さえも失い、昼間の服のままベッドに倒れ、まんじりともしない夜を過ごし、夫の処刑の日の朝を迎えたのです。