2026年5月19日

マリー・アントワネット自叙伝 67

ルイ・シャルルの新しい生活

ルイ・シャルルは夫が最後の日まで暮らしていた、階下の部屋を使うことになったと知りました。息子の面倒をみるのは靴屋のシモンとその妻で、2人は夫の侍従だったクレリーの部屋に住むことになったそうです。

息子の養育係りにエレばれた
靴職人のシモン。

シモンは国民の平等を唱え
る改革に最初から賛成し、熱心だし、買収されることもない真面目な性格だったのです。そのために信用を得るようになり、パリ・コミューンの役人に選ばれ、タンプル塔の一階に住んでいました。

コミューン検事ショメットとエベールが、シモン夫婦に与えた指示は「カペーの息子に高貴な生まれを忘れさせること」でした。

コミューン検事ピエール=ギャスパール・ショメットは、法律を学び、奴隷廃止を強く求めていた人でした。革命が起きるとすぐにその運動に加わり、雄弁で説得力があるために、サン・キュロットのスポークスマンに選ばれていました。サン・キュロットというのは、貴族たちが身に付ける、お洒落なキュロット(半ズボン)をはかないで、ブカブカな長ズボンをはいていた貧困の人々のことです。その言葉には、侮辱的な意味があるのです。ショメットはそうしたサン・キュロットの代弁者となって、人類の平等を強く主張していました。

一方、ジャック・ルネ・エベールは政治家であり、ジャーナリストでもあり、恐怖政治を強く主張する過激な人物で、あまりにも急進的な考えの持ち主なので、革命家たちの間でも孤立した存在だったそうです。

高貴なまれであることを
出来るだけ早く忘れさせるよういというのが
コーミュンの命令でした。


ルイ・シャルルから王家に生まれたことを忘れさせ、一般の子供のように育てる命令を受けたシモンは最初、泣き続ける息子にどのように接していいかわからず、戸惑っていたそうです。シモン夫婦に子供がいなかったので、扱い方がわからなかったのでしょう。

ルイ・シャルルは2日間、食べ物も拒否して一日中泣いていたのです。でも、それが何の役にも立たす、何の希望も受け入れてもらえないことがわかった3日目あたりから、泣くことをやめ、食事も取るようになったのです。


ルイ・シャルルはこのように賢い子供でした。息子はシモン夫婦に驚くほど早くなつきました。幼いながら、自分が置かれている立場をすぐに理解したのです。

シモンは背が高く、丈夫そうな体格の持ち主で、バサバサした髪の毛は黒く、目も黒く大きく、態度や話し方が粗野で、そのために外見的に怖そうに見える人でしたが、理由なく暴力を振るう人ではありませんでした。ただ、アルコールを飲むと気が荒くなったようです。

妻のマリー・ジャンヌは、修道院にいたこともあるおっとりした人で、子供がいなかったために、ルイ・シャルルを可愛がり、母親のように接していたのです。

ルイ・シャルルは割と早く
新しい生活に慣れていったようです。


シモン夫婦は勉強を強いることもなく、礼儀にうるさいわけでもなく、朝から晩まで遊ばせていたので、小さい子供には好都合だったようです。おしゃまな性格の息子は、すぐに二人に親しむようになったのでした。王子にふさわしいきれいな服装で、侍従たちに囲まれ、宮殿で育つのが似合う美しい容姿の子供だったのに、ルイ・シャルルは共和国の普通の子供になることを余儀なくされたのです。


 多くの子供がそうであるように、順応性があるルイ・シャルルは、日に日に普通の少年になっていったのした。幸いなことに、シモンの妻マリー・ジャンヌは優しい心の持ち主で、息子に遊び相手がいないのを不憫に思い、ニワトリを飼うことを思いつきます。後には、ハトを飼う許可も得たそうです。部屋にはお花も飾るようになったし、特別に作った大きなバスタブも、息子の部屋に置いて体を清潔に保っていました。息子は丈夫な体ではなかったので、多分、主治医ティエリーがすすめたのでしょう。お湯の温度を測る温度計もあったし、9日置きに洗濯物を係りに渡していたそうですから、シーツや着る物もこぎれいだっだと思っています。


ルイ・シャルルは毎日朝から晩まで遊んでいただけでなく、礼儀作法も簡単に忘れてしまい、言葉も荒くなったのでした。コミューンの命令に忠実だったシモンは、ある日、息子にサン・キュロットの象徴の、赤いフリジア帽を被せることを思いつきました。それだけでなく革命家たちが歌っていた「ラ・マルセイエーズ」の歌を教え、それをルイ・シャルルは得意になって歌うようになったのです。ワインが好きなシモンが、面白がって息子にも飲ませたりもしたし、シモンや役人とのゲームに加わることもありました。すっかり共和国にふさわしい少年になったルイ・シャルルに、コミューンは満足していたそうです。


息子の生活は乱れに乱れていたうです。


幸いなことに、主治医ティエリーが、時々散歩をさせなければいけないと忠告したので、お庭で子供らしく遊ぶこともできました。とはいえ他に子供がいるわけでもなく、いつも役人に囲まれていたのです。


ある日、息子がシモンに連れられてタンプル塔のお庭で遊ぶ姿を、わずかながら見れる場所があることがわかりました。それ以来、その瞬間を逃さないように、私はそこに立ち続けるようになりました。


ルイ・シャルルがお庭で遊ぶ姿を見れるのは、明り取りの小さな窓がある所で、そこにも鉄柵があり、顔を押し付けないと姿を見ることができませんでした。いつお庭に出てくるかわからない小さな姿を見逃さないように、一日中そこに立っているのが私の日課になっていたのです。シモンは息子を塔の最上階にある渡り廊下に連れて行くこともありました。こうした些細なことまでフェルセンさまはご存知だったのです。

 

・・・パリからの手紙によると、王妃は毎日一時間ご子息を見ていらした・・・

 

と、日記に書いてあったそうです。

その他、私がしていたのは、ときどき娘や義理の妹と言葉を交わすことでしたが、変化のない生活ですから、話すこともほとんどなかったし、刺繍の材料もないので、それもあきらめざるをえませんでした。読書もときどきしていました。欠かさなかったのはお祈りです。朝と夕方の祈祷の時が一番心が休まるひとときでした。


未亡人ですから着るのは喪服だけ。擦り切れたり、ほころびたりした服を縫ってもらって着ていました。ボンネットもシュミーズも飾りがないシンプルなものでした。そうした服を着た自分を鏡で見ることもなくなりました。


クシャルスキがタンプル塔で描いた
私の最後の肖像画。

ポーランド人画家アレクサンドル・クシャルスキがが、タンプル塔内での描いた私の肖像画は、まるで修道女みたいです。すべてから見放され、この世にいながら、別の世界に属しているような、空虚な表情をしています。夫を失い、息子を取り上げられ、王妃の称号も失った私には、何も残っていなかったのです。

2026年4月15日

マリー・アントワネット自叙伝 66

 

息子との永遠の別れ

 

2度の脱出計画は、コミューンの人たちを極度に苛立たせたようで、それは、私たちの日常生活をますます不便にしました。


四六時中、監視員が近くで見張っているので、会話も思うようにできず、子供たちの笑い声も、ほとんどなくなってしまいました。黙って刺繍をしたり、同じゲームをくり返したりしながら、何の目的もない退屈な時間を過ごしていたのです。それでも、2人の子供とエリザベート王女さまが一緒だったので、小さいながら心に安らぎを持つことができました。けれども、それさえも失う日が突然訪れたのです。


忘れようにも忘れられない冷酷な出来事は、1793年7月3日に起きました。

息子はすでにベッドに入っていて、私たちもそろそろ着替えて、休もうとしていた夜10時ころでした。ドアを叩く音がして、一体この時間に何事か、と不安を抱きながら開けると、身支度を整えた5人のコミューンの役人が入ってきました。その内のひとりが、手にしていた紙を大きく開いて、そこに書いてある命令を読み上げたのです。

息子を私たちから引き離すために
コミューンの役人たちが入って来ました。

それを聞いた私は、一瞬、自分の耳を疑いました。あまりの衝撃に打ちのめされて、はっきりした言葉は覚えていませんが、コミューンは、カペーの息子がひとりで暮らすことを決定したという内容だったのです。

息子は今後ひとりで暮らす? 

ということは、私たちから離れさせられるということ?

とんでもない。そんなことは許さない!

何があろうと、息子を手放すわけにはいかない。

絶対に、絶対に、この子を私たちから引き離すことなど、許さない!


自分の記憶には残っていないのですが、息子と離ればなれになるくらいなら、私を殺してと叫んだようです。

私は息子なしでは生きられないほど溺愛していたのです。その息子を家族から強引に引き離し、監視員のもとに一人で暮らさせると決定したのはエベールだったようです。過激な革命家エベールは、ジャコバン党に属していて、当時は大きな権力を持ち、特にパリ・コミューンでもっとも重要な人物とされていたのです。


夫が処刑され、息子が非公式ながらルイ17世になると、今は幼くても、成長するに伴いどんな人物になるかわからないし、亡命貴族たちが外国と結束して救出することも考えられる。今の内に何とかすべきだ、とコミューンで議論がなされていたのです。

孤島に追いやろうとか、亡き者にすべきだとか、恐ろしい意見を述べる革命家さえいたようです。最終的にカペーの息子を一人で暮らさせ、共和国にふさわしい子供に育てることに決まったのです。これならば、外国や亡命貴族たちを刺激することもないだろうと判断したのでしょう。

家族のあたたかい愛に包まれて育った息子は
まだ、母親に甘える幼い年齢でした。
それなのに・・・

力ずくでも息子を連れて行くと言い張る役人たちに囲まれながら、私はあふれる涙をぬぐいもせず、嘆願し続けました。

「この子はまだ幼いのです、たった8歳です。お願いです。息子を私たちから引き離すなどという非情なことはしないでください。

お願いです、お願いです!

騒ぎで目を覚ました息子は、私に駆け寄り、腕の中に身を投げ出しました。


約1時間ほどやり取りしていたでしょうか。役人たちは命令を実行するためにそこにいるだけで、彼らにはそれに背く権利もないのだとわかった私は、涙にむせびながらルイ・シャルルを着替えさせました。

 一秒でも長く息子に触れていたいので、私はわざとゆっくり服を着せました。その時の私には、息子の一枚一枚の服が、この上なく貴重な品に思えました。着替えが終ると、私はもう一度ルイ・シャルルを抱きしめました。その時の感触を忘れないように、強く強く抱きしめました。

ああ、何て細い体。

何と華奢な体。

息子がまだ母親の愛を必要とする子供に過ぎないことが体全体に伝わり、苦しみで引き裂かれそうでした。


息子は幼いながら自分の運命を理解したようで、私たちひとりひとりに別れの言葉を告げ、抱擁し、泣きながら役人に囲まれてドアの向こうに消えていきました。その姿があまりにも小さかったので、あわれな運命の息子を思って泣き崩れました。この日を最後に、2度と息子に会うことはありませんでした。


2026年4月6日

マリー・アントワネットのコルセット

国立公文書館に保管されている、マリー・アントワネットに仕えていたマダム・エロフの帳簿によると、このコルセットは王妃のために製作したプロトタイプ。製作年は1780~1787となってる。ウエストは52cmという細さで。タフタとシルクの布地。

マリー・アントワネットのコルセット
Palais Galliera/Paris Musées 
ガリエラ美術館 7月12日まで展示

フランスに伝わる窮屈なコルセットを嫌い、新時代にふさわしい自由がきく服装を好んだマリー・アントワネットは、王妃になった後、体を最大に締め付けるコルセットをさっさと放棄した。

プティ・トリアノンや村里では礼儀作法を無視し、自由なひとりの女性として人生を楽しんでいた若い王妃だった。そうした時のマリー・アントワネットは宮中での豪華な服ではなく、飾りの少ないシンプルな服を着て農婦の真似事に喜びを見いだしていたのだ。野菜や果物を栽培したり、家畜に餌をあげたり・・・そうした際の服のコルセットもシンプルで、おそらくこのプロトタイプもその一つだったと推測されている。前身頃も後身頃もゆったりしていて、動きやすそう。

前身頃の中央に逆三角形のあて布があるのが
18世紀のコルセットの特徴。
ウエストは細く胸は豊かに・・・

このコルセットを見ていると、自由を満喫しているマリー・アントワネットの姿が浮かぶようだ。多くのジュエリーを革命初期に様々な人の手を経て外国に避難させたが、着る物はない。それだけにこのコルセットは貴重だ。

2026年3月22日

「ルノワール展」人生の喜びがいっぱい

今回の展覧会はオルせー美術館とロンドンのナショナルギャラリー、ボストンの美術館など国際共同企画で実現したもので展示作品は総数約60点。これほどの規模の展覧会は40年ぶり。ルノワールの初期の作品に集中しているのが大きな特徴。3月7日から7月19日まで開催。

「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」
1876年作で今年150年記念。

友人たちとの気さくな食事、ダンス、笑い声、着飾った乙女たち・・・太陽の輝きを浴びて誰もが幸せそう。どの作品からも人生の喜びを満喫しているのが伝わってくる。どこでも見かけるような気さくな人ばかりで、穏やかで、平和があたり一面にゆったり漂い、心が温まる。

「ラ・グルヌイエール」1869年作

「ラ・プロムナード」1870年作

「ブランコ」1876年作

「舟遊びの昼食」1880年~1881年作

「ブージヴァルのダンス」1883年作

なつかしい少女時代から画集で見た作品が多く、それだけに親しみやすい。時を忘れて、あたりにただよう幸せな空気に身を任せていたいような、さわやかさあふれる展覧会です。

2026年3月18日

マリー・アントワネット自叙伝 65

脱出計画


思わぬ出来事がありました。タンプル塔に配置されていた役人トゥーランから、ぜひ脱出計画を立てたいと連絡があったのです。


1792年8月10日のチュイルリー宮殿襲撃に参加したトゥーランは、パリ政府コミューンの信頼を受け、私たちがタンプル塔に幽閉されると、その年9月5日から見張り役として塔に派遣されていたのです。 情熱的で寛大な31歳のトゥーランは、私たちを身近で見張っている間に、同情を寄せるようになったようです。夫は心が優しく気さくな人で、私には生まれの良さを放つオーラがあると語っていました。すっかり私たちの味方になったトゥーランは、表面的にはコミューンの役人として振舞っていましたが、新聞売りにお金を払って、その日その日のニュースを大声で叫ばせ私たちに情報を与えさせたし、時には、あぶり出しインクやレモン汁で書いた、秘密の手紙のやり取りの仲介も引き受けてくれました。


そうした貴重な存在のトゥーランが逃亡計画を話したのです。でも、いかに彼を信頼しているとはいえ、さすがに決断をひとりで下せないと思った私は、ジャルジェイ将軍に相談することにしました。 将軍は最初の奥方を亡くした後、私の侍女だったルイーズと再婚していました。そのルイーズもジャルジェイ将軍とは再婚で、亡くなった彼女の最初の夫は私のハープの教師だったのです。

ジャルジェイ将軍

軍人として有能で、夫からも信頼を受けていたジャルジェイ将軍は、亡命貴族や義理の弟たちが暮らしていたドイツのコブレンツに亡命したのですが、夫が希望したし、私たちの身が心配でパリに戻っていたのです。 未亡人になった私にとって、ジャルジェイ将軍は大きな心の支えでした。 トゥーランから計画を打ち明けられた私は、彼に私からの手紙を持たせ、ジャルジェイ将軍に会いに行くようにと伝えました。見も知らない人物が突然現れたら、きっと疑いを持つにちがいないと思ったからです

 

・・・私からの手紙を貴方に渡すこの男性を、信用なさって大丈夫です。

   彼の心の内を、私はよく存じ上げています。

   5ヵ月前から、ずっと変わらない気持ちを抱いているのです。


2月2日、トゥーランから私の手紙を受け取った将軍は、それでも直ぐに信用しなかったようで、私に会うためにタンプル塔に入れないものかと尋ねたのです。 私のためなら何でもするトゥーランは、毎日夕方に塔に明かりを灯すために通ってくる点灯係りに、愛国者の友人が一度塔の中を見たいと言っているので服とランプを貸してもらえないかと、報酬を渡しながら頼んだのでした。いとも簡単に誘いに乗った点灯係りの服を着たジャルジェイ将軍は、無事に私のお部屋に入ることができたのです。


トゥーランとジャルジェイ将軍は、この計画を実現するためには、もうひとり協力者が必要と思い、役人ルピトルが選ばれました。彼はだパリ大学の修辞学教授でしたが、革命初期に、新時代をつくるのだと革命派の仲間入りをし、1792年12月上旬からタンプル塔で私たちの監視役になっていたのです。ところがルピトルは、時が経つに連れて私たちに同情するようになったのです。


脱出の計画は短時間で具体化していきました。塔から出るには変装しなければならないので、私とエリザベート王女さまは役人のユニフォームを身に付け男装し、息子と娘は点灯係りの子供になりすまし、父親の仕事に付き添ってきたことにする。その変装に必要な服は、トゥーランとルピトルが準備することも決まりました。馬車は3台準備し、私と息子、ジャルジェイ将軍が一台に乗り、娘はルピトルと同じ馬車で、エリザベート王女さまとトゥーランも一緒の馬車に乗る。3台の馬車はノルマンディー地方にある港町ディエップまで行き、そこから船でイギリスに渡る。このように詳細が決まりましたが、パスポート取得をまかされたルピトルが、その手続きに手間取り、一向に許可が出なかったのです。そのために、ルピトルはすっかり自信をなくし、計画に恐れを抱くほどになったのでした。


そうしている間に警備が厳しくなり、4人一緒に脱出するのは危険が大きすぎるとジャルジェイ将軍が懸念し、私だけ塔から救出することにしたいと言い出したのです。 私の気持ちは、はっきりしていました。子供たちを危険な中に残して、自分だけ助かって、どうして生きていけるでしょう。私の最大の生き甲斐は息子であり娘なのです。ジャルジェイ将軍から計画を変更したいと告げられたとき、私は一瞬も躊躇しないで自分の思いを手紙で伝えました。

 

・・・私たちは美しい夢を見たのです。ただそれだけのこと。

   でも貴方の私に対する不変の思いを知ることができたのは、

          大きな収穫でした。

   私が貴方に抱く信頼は無限です。

   貴方は、私に気骨と勇気があると見ていらっしゃるようですが、

   息子のためになることだけが、私をそうさせるのです。

   ここからひとりで出て、どのような幸せを感じられるのでしょう。

   息子と離ればなれになることには同意できません。

   子供たちなしでは、いかなる喜びも得られないのです。



ふたりの小さな手をとりながら、
緑豊かな庭園を歩くのは、私の最大の喜びでした。


プティ・トリアノンの庭園で幸せなひとときを過ごしていた
娘と息子。仲良しの姉弟でした。

 私の決心が固く、動かせないとわかったジャルジェイ将軍は、直ちに計画を取りやめました。

今後もずっと、恐らく生涯、タンプル塔に幽閉されたままだと覚悟した私は、自由の身の将軍に、夫の遺品を、義理の弟プロヴァンス伯に届けるように依頼しました。 それは、夫が革命広場に向かう直前に、私に渡して欲しいと侍従クレリーに頼んだ、指輪、印章、頭髪です。それらはすべて役人に取り上げられ、彼らが保管していたのですが、勇敢なトゥーランがそこからこっそり取り出して、私に届けてくれたのです。


でも、捕らわれている私が身近に置いていることに大きな危険を感じ、亡命しているプロヴァンス伯が持っている方が安全だと思ったのです。それに、彼は摂政を宣言したのですから、そうした人の手元に置くのが道理だと考えたのです。それに加えて、もうひとつ大切なものも将軍に委ねました。それは、あの方、一時として忘れなかった、愛しいフェルセンさまに届けて欲しい指輪の写しです。その指輪には、あの方と私のシンボルになっていたハトが空を舞い、その上に標語が刻まれていたのです。「すべてが私をあなたにもとに導かせます」 と。


この指輪は、タンプル塔で細々と生きている私の貴重な心の糧でした。ジャルジェイ将軍にその指輪の写しを委ねるとき、「昨年末、私に会いにブリュッセルからいらした方にお渡しください」 と。 あの方のお名前は言わずに頼みました。そして、この標語は、今ほど真実であることはないのです、ともその方にお伝え下さい」 と付け加えました。


フェルセンさまがそれを受け取ったかは、わかりません。きっと手にしたと信じることによって、気を強くするよう心掛けていました。あの方は、ルイ16世が処刑されたからには、王妃は実家のオーストリア王家に戻られるべきである。従って、祖国は何とかするべきだと、かつての駐仏大使メルシーに強く訴えていたそうです。


私のお嫁入りのときから、ずっと見張り役を忠実に務め、お母さまに事細かく報告していたメルシー伯爵は、革命が起きると、オーストリア領ネーデルランド内のブリュッセルに亡命し、そこでオーストリアの外交代表として働いていたのです。フェルセンさまは何とかして私を救い出したいといろいろお考えになり、メルシー伯爵の協力を得ようと思ったのでしょう。


でも、当時のオーストリア皇帝、私の甥にあたるフランツ2世は、ポーランド領土分割でプロシアやロシアと戦っていて、フランスに捕らわれている馴染みもない叔母のことなど、どうでもよかったのです。


その後もバッツ男爵が脱出計画を立てましたが実現できませんでした。

2026年3月9日

「ナポレオンの遺言書」公開

セント・ヘレナ島に流刑されたナポレオンが遺言書を書いたのは、1821年4月15日から27日にかけてで、それから数日後の5月5日、波乱に富んだ生涯を閉じたのです。今回国立公文書館で展示している遺言書は、全文自筆。当初、忠実な部下モントロンに口述させ、その後自らペンで書いた貴重なもの。
国立公文書館で展示されている
ナポレオンの遺言書

全文自筆の貴重な遺言書

ナポレオンはこの遺言書のなかで、自分の人生、戦争、部下や政府関係の人の裏切り、3歳で別れたままの息子への思いなどの他、遺品の分配に至るまで事細かに綴っています。特に心に響くのは、遺言書の最初に書かれたこの文。

   余は余の遺骸がセーヌ川のほとり、
   余がかくも愛したフランス国民の間に葬られることを願う

宿敵イギリスとの長く困難な交渉の結果、
ナポレオンは遺言通り、
セーヌ川近くのアンヴァリッドに葬られました。

この遺言書は国立公文書館でもっとも厳重な「鉄の扉」の奥深くに保管されていて、一般公開は非常に稀なことです。6月29日まで。

2026年2月11日

「ナポレオンの息子」時事通信社から出版

ナポレオンの息子の生涯を描いた本が、時事通信社から発刊されることになり、幸せいっぱいです。

「ナポレオンの息子」
時事通信社
発売予定日 2026年2月24日

隆盛を極めたナポレオンは、その栄華を子孫代々引き継がれることを強く望んでいました。そのために、子供を産めない妃ジョゼフィーヌと離婚し、オーストリア大皇女マリー・ルイーズと再婚。二人の間に生まれた王子は、生後直ちにローマ王の称号を授与され、世継ぎが生まれたナポレオンの第一帝政時代は、輝かしい未来が確約されてるようでした。

けれども、その後の無謀とも言えるモスクワ遠征の失敗を境に、フランス皇帝はヨーロッパ諸国の平和を乱す最悪な敵とみなされるようになり、3歳の王子は母と共に母の生まれ故郷オーストリアへ向かう。その時からナポレオンの息子の悲劇が始まり、21歳の壮絶な人生を閉じたのでした。

母の故郷でのローマ王は、まるで人質のように扱われた。名前を変えられ、フランス語を禁止され、海がなく太陽も少なく重い雰囲気に包まれたウィーンから出ることも禁止されました。後年に胸の病に侵され、寛大な太陽の国ナポリでの静養を願ったが、それも拒否された。父のような立派な軍人になることのみを熱烈に望んでいた若き王子は、それを実現することもなく、父の敵国で若い命を終えた。彼は、オーストリアの、ヨーロッパの宿敵ナポレオンの息子であったために、非人情的な扱いを受け、青春の真っ只中で散ってしまったのです。

日本ではほとんど、その存在さえも知られていないナポレオンの息子の無念の叫び声が、様々なフランスの書物から聞こえてくるようで、何とかして日本で本にできないかと思い続け、この度それが実現されました。本書を通して一人でも多くの人が、ナポレオンの息子の悲劇的生涯をしっていただけたら、嬉しいです。