2026年9月1日

マリー・アントワネット自叙伝 70

カーネーション事件 

アレクサンドル・ゴンス・ド・ルージュヴィル
王家に忠実で誰よりも勇気がある人でした。
 コンシエルジュリーに移された8月末、28日、ミショニがひとりの男性を伴って牢屋に入ってきました。 その人の顔を見た私は、ハッとしました。見覚えのあるアレクサンドル・ゴンス・ド・ルージュヴィルだったからです。当時私たちが暮らしていたチュイルリー宮殿に群衆が押し入ったとき、守ってくださったひとりがルージュヴィルだったのです。
王党派のルージュヴィルを目の前にした私は、動揺を隠しきれませんでした。勇敢で徹底的に王家に忠実なルージュヴィルと、タンプル塔から私の救出計画に加わったミショニが連れ立って牢屋に入ってきたからには、何かあるに違いない。それ以前にもミショニは、希望する人がある程度のお金を払うと、その人を連れてきて、かつての王妃だった私の姿を見せていたのです。でも、監獄の監督官だったミショニは、タンプル塔の子供たちやエリザベート王女さまにも会っていたので、時には、塔に残した大切な人たちの様子を知ることもできたので、貴重な存在でもあったのです。
アメリカ独立戦争に参加し、その後夫の弟プロヴァンス伯に仕えていたルージュヴィルは、私たちがヴェルサイユ宮殿からチュイルリー宮殿に移されたときにも同行し、それ以降もずっと王家につくしていたのです。そうしたルージュヴィルを目の前にした私は、驚きで茫然としていました。ルージュヴィルは落ち着き払ったまま、かすかに会釈をし、その後、ミショニにうながされて「女たちの中庭」に出て行きました。
そのときルージュヴィルは、私に壁近くの床を見るように、目で合図したように思えました。何が何だかわからないままその壁に近づくと、何とそこにカーネーションが見えたのです。先ほどまで何もなったところに、カーネーションを見つけた私はすぐに理解しました。そこにルージュヴィルから私への何かのメッセージが隠されているのだと。カーネーションを拾って震える手で開くと、そこに短い文が書いてありました。 「どうなさるおつもりですか。私は監獄にいたことがありますが、奇跡的に脱出しました。金曜日にまた来ます」あわてていたのではっきりした文章は覚えていませんが、私の脱出を計画していることはわかりました。必要なお金の準備もあるという文字もあったと思います。

シンプルな花の中に
重要なメッセージを入れるのは
破格の冒険家ならでは。
ペンもインクもないので、小さい紙の切れ端に針で穴をあけて綴りました。 「私は見張られています。 誰にも話しません。 お任せします。参ります」ルージュヴィルの計画に従う意志があることを、何が何でも知らせなくてはいけないと思った私は、いつも親切な看守ジルベールに、その小さな手紙を渡し、先ほどの殿方が金曜日にいらっしゃるので、渡してくださいねと頼みました。 
脱出は9月2日、夜の闇に隠れて行われることになりました。牢屋から出て通路を通り,馬車が待っている中庭に行き、その後は一目散で、パリの北12キロメートルほどの所にあるリヴリー・ギャルギャンの領主ジャルジェイ夫人のシャトーに向かい、その後ドイツに行くことになっていたのです。  
脱出を実行する2日の真夜中に、ドアが開き、その向こうにミショニとルージュヴィルの姿を見た私は、無言で2人の後に続きました。監獄監督官ミショニが、私をタンプル塔に移すという偽の書類をもっていたので、要所に控えて看守たちは疑いもせずに私たちを通してくれました。 いくつもの通路とドアを通り、後一歩で自由の世界に行けると思った最後のドアの前で、止められてしまいました。 誰かが裏切ったのです。
この事件の調査は保安委員会が行うことになり、その責任者はジャン=ピエール=アンドレ・アマール。政治家で弁護士だった人。 彼の尋問は牢屋にいたすべての人に及び、徹底的に打ちのめされたのは、ハリで穴をあけたメモを見せられた時でした。つまり看守ジルベールが裏切ったのです。
恐れをなしたジルベールが、すでに書類で、上官のデュメル大佐に報告していたのです。。
小心のジルベールは迷った末、報告することにしたのです。日付は1793年9月3日になっていました。脱出を試みて失敗したのは9月2日夜中だったので、その翌日です。「大佐殿」で始まるその報告書には、 「カペーの寡婦の部屋に入った人物を知らせるのは、自分の義務だと確信し、ここに報告いたします」これらに関しては報告書通りです。でもその後に続く次の文の内容が事実であるかは私にはわかりません。 「後悔するようなことはすべきではない、自分の義務を果たさなければならないと思った私は、直ちにコンシエルジュリー所長の妻の元に行き、メモを渡したのであります」 自分のお金でお花を買って、私のみじめな部屋に慰めを与えていたジルベールが、まさかこのようなことをするとは夢にも思ってもいませんでした。気が小さい人なので、脱出計画に恐れおののいたのでしょう。
コンシエルジュリーは、
この立派な建物の中にあり
右下のアーチの奥に牢屋に向かう入り組んだ通路があり、
アーチのこちら側が自由の世界です。
ここで馬車に乗る手配が整っていたのです。

私の監視はさらに厳しくなり、一日に何度も検査されました。ずっと大切にしていた2つのリングも、刺繍の針も取り上げられ、私には擦り切れたわずかな衣類しか残されませんでした。

2026年8月12日

マリー・アントワネット自叙伝 69


牢屋での一日

 

朝起きるのは7時ころでした。ヴェルサイユ宮殿に暮らしていた時代は、舞踏会とかゲーム、コンサートなどが夜遅くまで続いていたので、起きるのも遅かったのです。でもコンシエルジュリーに移されてからは、話し相手もいないし、ゲームをするわけでもないので、早めにベッドに入っていたために、自然に朝早くに目が覚めたのです。


起きて最初に口にするのはカフェかショコラでした。ロザリーが毎朝適度な温度に温めた飲み物を持ってきてくれて、彼女のあたたかみがある姿が見えるとほっとしました。

その後、ロザリーが貸してくれた小さな鏡に向かって髪を結います。髪を2つに分けてとかし、毛先を白いリボンで止めて上にあげるだけ。その後、長いヴェールとリンネルの帽子を被って終わり。


洋服は白と黒の2着だけだったので、あれこれ迷うこともありませんでした。王妃だった時と比べて、何もかもシンプルでした。私の面倒を見る人は、ロザリーの他にもう一人いました。私とほぼ同じ年齢のアレル夫人です。ご主人はパリ市の役人だと聞いています。冷たさがあり好きになれなかった人です。いつも監視しているような鋭い眼差しをしていました。

宮殿に暮らしていた時は
食器に自分の好みをいかしたセーヴル焼きを
いくつも注文していました。

昼食は変化に富んでいて、スープに始まり、野菜料理、にわとりか鴨の肉料理、そしてデザートでした。夜は特にお肉が豪華で、ハトとか牛肉、七面鳥が出ることもありました。 

食器はもちろん質素で、錫の軽いものでしたが、ロザリーがていねいに洗っていたので、ピカピカ輝いていました。飲み物はお水だけで、私が好きなのはタンプル塔でも飲んでいた、ヴェルサイユ近くのヴィル=ダヴレの泉の水。タンプル塔にまだ残っていたようで、それを運んできてくれました。


娘も義理の妹もいないので会話はなく、過ぎ去った日々に思いを馳せたり、二つのリングをはずしたり、はめたりをくり返したりして、ひたすら時間が経つのを待っていました。

屏風の向こうで、2人の看守がゲームに興じているのをのぞき見することもあったし、同じ本を何度も読み返すのも退屈しのぎになりました。冒険物が特に面白く『キャプテン・クックの冒険』とか『ヴェニスへの旅』『有名な難船の歴史』なども繰り返し読んでいました。

立派な図書室もあったのですが、
読書が苦手だったので、ほとんど手にしてませんでした。
並んでいる本は実は表紙だけキレイに作ってあり、
後は空っぽだったです。

手先を使うのが好きな私は、編み物をしたこともありましたが、一番好きだったのは刺繍です。ヴェルサイユ宮殿、チュイルリー宮殿、タンプル塔でも、エリザベート王女さまとおしゃべりしながらたくさんの刺繍をてがけました。コンシエルジュリーでも刺繍をしたいと思ったのですが、材料の糸がないので、タペストリーをほぐして糸を作り刺繍をしたこともありました。このように退屈な日々の連続でした。

結婚後、作っていただいた
14歳の私の最初の象。

2026年8月3日

マリー・アントワネット自叙伝 68

コンシエルジュリーへ

8月2日夜のことでした。

監視員たちに囲まれた役人が、突然、部屋に入って来ました。4人だったと思いますが、先頭コンシエルジュリーへにいた人は顔見知りでした。バッツ男爵が計画した私たちの脱出計画に加わった、監獄監督官ミショニです。

あまりにもいろいろなことが引き続きあったので、私は自分の身に起きたことがよく理解できませんでした。茫然としている私の目の前で、役人は紙を広げ、そこに書いてある文字を読み上げました。それが裁判を受けるためにコンシエルジュリーに移すという内容だったことがわかるまでに、数秒必要でした。


これまでに何度も不条理な決定を押し付けられてきた私は、声をあげることもなく、黙ったまま支度にかかりました。着替えた服のポケットを、役人が無遠慮に探ったときにも、抵抗しなかったし、何も言いませんでした。ハンカチを握りしめ、娘を抱擁し、

「勇気を持つのです。健康に気をつけて」

とだけ言い、その後、義理の妹に娘と息子をよろしくと頼み、9カ月間住んだタンプル塔を後にしました。

いくつものドアと、いくつもの階段をおりて庭に出て、そこに待っていた馬車に乗ったのは2日の朝2時ころだったでしょう。20分後くらいにシテ島に到着しました。

私が移されるコンシエルジュリーは、その島のセーヌ川に面した建物の一角にあるのです。

私が捕らえられていた2番目の牢屋
左に窓の外は中庭ですが、一度も行ったことがありません。

コンシエルジュリーに着いて馬車をおり、ミショニにうながされて中に入ると、所長のリシャールが分厚い名簿を開いて、

「280番目の囚人、フランスに対して陰謀を図った罪」

 と記録したのでした。

 私は元王妃でも、カペーの寡婦でもなく、番号のみの囚人のひとりになったのです。

 その後、私は奥まった所にある部屋に連れて行かれました。部屋ではなく、正確には牢屋です。壁も床も天井もデコボコの石造りで、暗く、狭く、湿気がひどく、鉄格子がはめてある小さな窓が一つだけありました。その外は「女たちの中庭」と呼ばれる狭い空間があり、そこで女囚たちが時々お散歩していたのです。


私が入れられたのは、怖ろしいほど殺風景な牢屋でした。狭いのに、屏風で2つに仕切られていて、私の部屋の向こう側で、2人の監視人が四六時中見張ると知ったときには、驚きました。私には一秒の自由も、プライベシーも許されないということなのです。

ここにいつまで閉じ込められているのか、私はもちろん、所長リシャールも知らなかったのです。革命家たちがすることは、本人たちでさえもはっきりわからず、何事も毎回議論を交わして決めていたのです。その間に意見が合わなくなり、昨日まで同士だった人を処刑にさえ追いやっていたのです。


コンシエルジュリーは「死の控え室」と呼ばれ、恐れられていたことは私も知っていました。ここから無事に出れるという希望は皆無でした。でも、身なりは貧しくても心の気高さは保っていようと、小さな牢屋で決心しました。

 

私が来ることを知らされたコンシエルジュリー所長の妻マリー・リシャールは、女中ロザリー・ラモルリエールに手伝ってもらいながら、大急ぎで最低限必要なものを揃え、牢屋に置いてくれました。簡易ベッド、マットレス2枚、細長い枕、毛布、籐椅子、テーブル、トイレなどでした。リシャール夫人は新しいシーツをベッドに敷いてくれたし、ロザリーは自分の部屋から、背もたれのない丸い椅子を持ってきてくれました。カビで黒ずんだ個所に、傷んでいるとはいえタペストリーさえかけてくれたり、2人とも気を配っているのがわかり、冷たく暗い牢屋にわずかながら、温かみが感じられる思いでした。

心の優しいロザリ―さん。

ロザリーはピカルディ地方の貧しい靴屋に生まれたそうです。私の世話をするようになったとき25歳で、整った顔立ちの美人でした。教育を受けたことがないので、読み書きはできませんでしたが、心の優しい娘さんで、私のために最大のことをしてあげたい、という心遣いがはっきり感じられました。


コンシエルジュリーに入った初めての日、ベッドに入るために着替えを始めると、ロザリーが遠慮がちに私に近づき手伝おうとするので、ていねいにお断りしました。

「娘さん、ありがとうございます。でもお手伝いして下さる人がいなくなってから、自分でするようになりましたから」

その後、リシャール夫人とロザリーが、たいまつを1本ずつ持って部屋に置き、無言で出て行き、私は眠りに陥りました。


牢屋は屏風で2つに区切りられた、片側3メートル50センチの小さな部屋で、屏風の反対側に待機する看守は、ジャン・ジルベールとフランソワ・デュフレンヌでした。仕切りは叩いたら壊れそうな簡単な屏風だけで、しかも背が高くないので、上から私がいる場所が丸見えでした。その中で暮らす身になった自分を惨めに感じないではいられませんでした。

幸いなことに、2人の看守が結構おだやかな性格で、私に気をつかっているようにさえ思えることもあったほどです。わりと頻繁にお花を届けてくれて、それがどれほど私の心を慰めてくれたことか。

でもいつも剣を携えているので、気を許すことはできませんでした。困ったことは2人ともお酒が大好きで、毎日浴びるほどワインを飲んでいたことです。ワインをまったく飲まず、お水の味しか知らない私は、彼らが飲むワインの匂いに悩まされていました。

牢屋で着ていた肌着。


この牢屋でも、一番心が休まるのはお祈りのときでした。誰にも邪魔されることなく、静かに神にお祈りを捧げるとき、すべての不幸、すべての恨みから解放されるようでした

2026年5月19日

マリー・アントワネット自叙伝 67

ルイ・シャルルの新しい生活

ルイ・シャルルは夫が最後の日まで暮らしていた、階下の部屋を使うことになったと知りました。息子の面倒をみるのは靴屋のシモンとその妻で、2人は夫の侍従だったクレリーの部屋に住むことになったそうです。

息子の養育係りにエレばれた
靴職人のシモン。

シモンは国民の平等を唱え
る改革に最初から賛成し、熱心だし、買収されることもない真面目な性格だったのです。そのために信用を得るようになり、パリ・コミューンの役人に選ばれ、タンプル塔の一階に住んでいました。

コミューン検事ショメットとエベールが、シモン夫婦に与えた指示は「カペーの息子に高貴な生まれを忘れさせること」でした。

コミューン検事ピエール=ギャスパール・ショメットは、法律を学び、奴隷廃止を強く求めていた人でした。革命が起きるとすぐにその運動に加わり、雄弁で説得力があるために、サン・キュロットのスポークスマンに選ばれていました。サン・キュロットというのは、貴族たちが身に付ける、お洒落なキュロット(半ズボン)をはかないで、ブカブカな長ズボンをはいていた貧困の人々のことです。その言葉には、侮辱的な意味があるのです。ショメットはそうしたサン・キュロットの代弁者となって、人類の平等を強く主張していました。

一方、ジャック・ルネ・エベールは政治家であり、ジャーナリストでもあり、恐怖政治を強く主張する過激な人物で、あまりにも急進的な考えの持ち主なので、革命家たちの間でも孤立した存在だったそうです。

高貴なまれであることを
出来るだけ早く忘れさせるよういというのが
コーミュンの命令でした。


ルイ・シャルルから王家に生まれたことを忘れさせ、一般の子供のように育てる命令を受けたシモンは最初、泣き続ける息子にどのように接していいかわからず、戸惑っていたそうです。シモン夫婦に子供がいなかったので、扱い方がわからなかったのでしょう。

ルイ・シャルルは2日間、食べ物も拒否して一日中泣いていたのです。でも、それが何の役にも立たす、何の希望も受け入れてもらえないことがわかった3日目あたりから、泣くことをやめ、食事も取るようになったのです。


ルイ・シャルルはこのように賢い子供でした。息子はシモン夫婦に驚くほど早くなつきました。幼いながら、自分が置かれている立場をすぐに理解したのです。

シモンは背が高く、丈夫そうな体格の持ち主で、バサバサした髪の毛は黒く、目も黒く大きく、態度や話し方が粗野で、そのために外見的に怖そうに見える人でしたが、理由なく暴力を振るう人ではありませんでした。ただ、アルコールを飲むと気が荒くなったようです。

妻のマリー・ジャンヌは、修道院にいたこともあるおっとりした人で、子供がいなかったために、ルイ・シャルルを可愛がり、母親のように接していたのです。

ルイ・シャルルは割と早く
新しい生活に慣れていったようです。


シモン夫婦は勉強を強いることもなく、礼儀にうるさいわけでもなく、朝から晩まで遊ばせていたので、小さい子供には好都合だったようです。おしゃまな性格の息子は、すぐに二人に親しむようになったのでした。王子にふさわしいきれいな服装で、侍従たちに囲まれ、宮殿で育つのが似合う美しい容姿の子供だったのに、ルイ・シャルルは共和国の普通の子供になることを余儀なくされたのです。


 多くの子供がそうであるように、順応性があるルイ・シャルルは、日に日に普通の少年になっていったのした。幸いなことに、シモンの妻マリー・ジャンヌは優しい心の持ち主で、息子に遊び相手がいないのを不憫に思い、ニワトリを飼うことを思いつきます。後には、ハトを飼う許可も得たそうです。部屋にはお花も飾るようになったし、特別に作った大きなバスタブも、息子の部屋に置いて体を清潔に保っていました。息子は丈夫な体ではなかったので、多分、主治医ティエリーがすすめたのでしょう。お湯の温度を測る温度計もあったし、9日置きに洗濯物を係りに渡していたそうですから、シーツや着る物もこぎれいだっだと思っています。


ルイ・シャルルは毎日朝から晩まで遊んでいただけでなく、礼儀作法も簡単に忘れてしまい、言葉も荒くなったのでした。コミューンの命令に忠実だったシモンは、ある日、息子にサン・キュロットの象徴の、赤いフリジア帽を被せることを思いつきました。それだけでなく革命家たちが歌っていた「ラ・マルセイエーズ」の歌を教え、それをルイ・シャルルは得意になって歌うようになったのです。ワインが好きなシモンが、面白がって息子にも飲ませたりもしたし、シモンや役人とのゲームに加わることもありました。すっかり共和国にふさわしい少年になったルイ・シャルルに、コミューンは満足していたそうです。


息子の生活は乱れに乱れていたうです。


幸いなことに、主治医ティエリーが、時々散歩をさせなければいけないと忠告したので、お庭で子供らしく遊ぶこともできました。とはいえ他に子供がいるわけでもなく、いつも役人に囲まれていたのです。


ある日、息子がシモンに連れられてタンプル塔のお庭で遊ぶ姿を、わずかながら見れる場所があることがわかりました。それ以来、その瞬間を逃さないように、私はそこに立ち続けるようになりました。


ルイ・シャルルがお庭で遊ぶ姿を見れるのは、明り取りの小さな窓がある所で、そこにも鉄柵があり、顔を押し付けないと姿を見ることができませんでした。いつお庭に出てくるかわからない小さな姿を見逃さないように、一日中そこに立っているのが私の日課になっていたのです。シモンは息子を塔の最上階にある渡り廊下に連れて行くこともありました。こうした些細なことまでフェルセンさまはご存知だったのです。

 

・・・パリからの手紙によると、王妃は毎日一時間ご子息を見ていらした・・・

 

と、日記に書いてあったそうです。

その他、私がしていたのは、ときどき娘や義理の妹と言葉を交わすことでしたが、変化のない生活ですから、話すこともほとんどなかったし、刺繍の材料もないので、それもあきらめざるをえませんでした。読書もときどきしていました。欠かさなかったのはお祈りです。朝と夕方の祈祷の時が一番心が休まるひとときでした。


未亡人ですから着るのは喪服だけ。擦り切れたり、ほころびたりした服を縫ってもらって着ていました。ボンネットもシュミーズも飾りがないシンプルなものでした。そうした服を着た自分を鏡で見ることもなくなりました。


クシャルスキがタンプル塔で描いた
私の最後の肖像画。

ポーランド人画家アレクサンドル・クシャルスキがが、タンプル塔内での描いた私の肖像画は、まるで修道女みたいです。すべてから見放され、この世にいながら、別の世界に属しているような、空虚な表情をしています。夫を失い、息子を取り上げられ、王妃の称号も失った私には、何も残っていなかったのです。

2026年4月15日

マリー・アントワネット自叙伝 66

 

息子との永遠の別れ

 

2度の脱出計画は、コミューンの人たちを極度に苛立たせたようで、それは、私たちの日常生活をますます不便にしました。


四六時中、監視員が近くで見張っているので、会話も思うようにできず、子供たちの笑い声も、ほとんどなくなってしまいました。黙って刺繍をしたり、同じゲームをくり返したりしながら、何の目的もない退屈な時間を過ごしていたのです。それでも、2人の子供とエリザベート王女さまが一緒だったので、小さいながら心に安らぎを持つことができました。けれども、それさえも失う日が突然訪れたのです。


忘れようにも忘れられない冷酷な出来事は、1793年7月3日に起きました。

息子はすでにベッドに入っていて、私たちもそろそろ着替えて、休もうとしていた夜10時ころでした。ドアを叩く音がして、一体この時間に何事か、と不安を抱きながら開けると、身支度を整えた5人のコミューンの役人が入ってきました。その内のひとりが、手にしていた紙を大きく開いて、そこに書いてある命令を読み上げたのです。

息子を私たちから引き離すために
コミューンの役人たちが入って来ました。

それを聞いた私は、一瞬、自分の耳を疑いました。あまりの衝撃に打ちのめされて、はっきりした言葉は覚えていませんが、コミューンは、カペーの息子がひとりで暮らすことを決定したという内容だったのです。

息子は今後ひとりで暮らす? 

ということは、私たちから離れさせられるということ?

とんでもない。そんなことは許さない!

何があろうと、息子を手放すわけにはいかない。

絶対に、絶対に、この子を私たちから引き離すことなど、許さない!


自分の記憶には残っていないのですが、息子と離ればなれになるくらいなら、私を殺してと叫んだようです。

私は息子なしでは生きられないほど溺愛していたのです。その息子を家族から強引に引き離し、監視員のもとに一人で暮らさせると決定したのはエベールだったようです。過激な革命家エベールは、ジャコバン党に属していて、当時は大きな権力を持ち、特にパリ・コミューンでもっとも重要な人物とされていたのです。


夫が処刑され、息子が非公式ながらルイ17世になると、今は幼くても、成長するに伴いどんな人物になるかわからないし、亡命貴族たちが外国と結束して救出することも考えられる。今の内に何とかすべきだ、とコミューンで議論がなされていたのです。

孤島に追いやろうとか、亡き者にすべきだとか、恐ろしい意見を述べる革命家さえいたようです。最終的にカペーの息子を一人で暮らさせ、共和国にふさわしい子供に育てることに決まったのです。これならば、外国や亡命貴族たちを刺激することもないだろうと判断したのでしょう。

家族のあたたかい愛に包まれて育った息子は
まだ、母親に甘える幼い年齢でした。
それなのに・・・

力ずくでも息子を連れて行くと言い張る役人たちに囲まれながら、私はあふれる涙をぬぐいもせず、嘆願し続けました。

「この子はまだ幼いのです、たった8歳です。お願いです。息子を私たちから引き離すなどという非情なことはしないでください。

お願いです、お願いです!

騒ぎで目を覚ました息子は、私に駆け寄り、腕の中に身を投げ出しました。


約1時間ほどやり取りしていたでしょうか。役人たちは命令を実行するためにそこにいるだけで、彼らにはそれに背く権利もないのだとわかった私は、涙にむせびながらルイ・シャルルを着替えさせました。

 一秒でも長く息子に触れていたいので、私はわざとゆっくり服を着せました。その時の私には、息子の一枚一枚の服が、この上なく貴重な品に思えました。着替えが終ると、私はもう一度ルイ・シャルルを抱きしめました。その時の感触を忘れないように、強く強く抱きしめました。

ああ、何て細い体。

何と華奢な体。

息子がまだ母親の愛を必要とする子供に過ぎないことが体全体に伝わり、苦しみで引き裂かれそうでした。


息子は幼いながら自分の運命を理解したようで、私たちひとりひとりに別れの言葉を告げ、抱擁し、泣きながら役人に囲まれてドアの向こうに消えていきました。その姿があまりにも小さかったので、あわれな運命の息子を思って泣き崩れました。この日を最後に、2度と息子に会うことはありませんでした。


2026年4月6日

マリー・アントワネットのコルセット

国立公文書館に保管されている、マリー・アントワネットに仕えていたマダム・エロフの帳簿によると、このコルセットは王妃のために製作したプロトタイプ。製作年は1780~1787となってる。ウエストは52cmという細さで。タフタとシルクの布地。

マリー・アントワネットのコルセット
Palais Galliera/Paris Musées 
ガリエラ美術館 7月12日まで展示

フランスに伝わる窮屈なコルセットを嫌い、新時代にふさわしい自由がきく服装を好んだマリー・アントワネットは、王妃になった後、体を最大に締め付けるコルセットをさっさと放棄した。

プティ・トリアノンや村里では礼儀作法を無視し、自由なひとりの女性として人生を楽しんでいた若い王妃だった。そうした時のマリー・アントワネットは宮中での豪華な服ではなく、飾りの少ないシンプルな服を着て農婦の真似事に喜びを見いだしていたのだ。野菜や果物を栽培したり、家畜に餌をあげたり・・・そうした際の服のコルセットもシンプルで、おそらくこのプロトタイプもその一つだったと推測されている。前身頃も後身頃もゆったりしていて、動きやすそう。

前身頃の中央に逆三角形のあて布があるのが
18世紀のコルセットの特徴。
ウエストは細く胸は豊かに・・・

このコルセットを見ていると、自由を満喫しているマリー・アントワネットの姿が浮かぶようだ。多くのジュエリーを革命初期に様々な人の手を経て外国に避難させたが、着る物はない。それだけにこのコルセットは貴重だ。

2026年3月22日

「ルノワール展」人生の喜びがいっぱい

今回の展覧会はオルせー美術館とロンドンのナショナルギャラリー、ボストンの美術館など国際共同企画で実現したもので展示作品は総数約60点。これほどの規模の展覧会は40年ぶり。ルノワールの初期の作品に集中しているのが大きな特徴。3月7日から7月19日まで開催。

「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」
1876年作で今年150年記念。

友人たちとの気さくな食事、ダンス、笑い声、着飾った乙女たち・・・太陽の輝きを浴びて誰もが幸せそう。どの作品からも人生の喜びを満喫しているのが伝わってくる。どこでも見かけるような気さくな人ばかりで、穏やかで、平和があたり一面にゆったり漂い、心が温まる。

「ラ・グルヌイエール」1869年作

「ラ・プロムナード」1870年作

「ブランコ」1876年作

「舟遊びの昼食」1880年~1881年作

「ブージヴァルのダンス」1883年作

なつかしい少女時代から画集で見た作品が多く、それだけに親しみやすい。時を忘れて、あたりにただよう幸せな空気に身を任せていたいような、さわやかさあふれる展覧会です。