ルイ・シャルルの新しい生活
ルイ・シャルルは夫が最後の日まで暮らしていた、階下の部屋を使うことになったと知りました。息子の面倒をみるのは靴屋のシモンとその妻で、2人は夫の侍従だったクレリーの部屋に住むことになったそうです。
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| 息子の養育係りにエレばれた 靴職人のシモン。 |
シモンは国民の平等を唱える改革に最初から賛成し、熱心だし、買収されることもない真面目な性格だったのです。そのために信用を得るようになり、パリ・コミューンの役人に選ばれ、タンプル塔の一階に住んでいました。
コミューン検事ショメットとエベールが、シモン夫婦に与えた指示は「カペーの息子に高貴な生まれを忘れさせること」でした。
コミューン検事ピエール=ギャスパール・ショメットは、法律を学び、奴隷廃止を強く求めていた人でした。革命が起きるとすぐにその運動に加わり、雄弁で説得力があるために、サン・キュロットのスポークスマンに選ばれていました。サン・キュロットというのは、貴族たちが身に付ける、お洒落なキュロット(半ズボン)をはかないで、ブカブカな長ズボンをはいていた貧困の人々のことです。その言葉には、侮辱的な意味があるのです。ショメットはそうしたサン・キュロットの代弁者となって、人類の平等を強く主張していました。
一方、ジャック・ルネ・エベールは政治家であり、ジャーナリストでもあり、恐怖政治を強く主張する過激な人物で、あまりにも急進的な考えの持ち主なので、革命家たちの間でも孤立した存在だったそうです。
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| 高貴な生まれであることを 出来るだけ早く忘れさせるよういというのが コーミュンの命令でした。 |
ルイ・シャルルから王家に生まれたことを忘れさせ、一般の子供のように育てる命令を受けたシモンは最初、泣き続ける息子にどのように接していいかわからず、戸惑っていたそうです。シモン夫婦に子供がいなかったので、扱い方がわからなかったのでしょう。
ルイ・シャルルは2日間、食べ物も拒否して一日中泣いていたのです。でも、それが何の役にも立たす、何の希望も受け入れてもらえないことがわかった3日目あたりから、泣くことをやめ、食事も取るようになったのです。
ルイ・シャルルはこのように賢い子供でした。息子はシモン夫婦に驚くほど早くなつきました。幼いながら、自分が置かれている立場をすぐに理解したのです。
シモンは背が高く、丈夫そうな体格の持ち主で、バサバサした髪の毛は黒く、目も黒く大きく、態度や話し方が粗野で、そのために外見的に怖そうに見える人でしたが、理由なく暴力を振るう人ではありませんでした。ただ、アルコールを飲むと気が荒くなったようです。
妻のマリー・ジャンヌは、修道院にいたこともあるおっとりした人で、子供がいなかったために、ルイ・シャルルを可愛がり、母親のように接していたのです。
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| ルイ・シャルルは割と早く 新しい生活に慣れていったようです。 |
シモン夫婦は勉強を強いることもなく、礼儀にうるさいわけでもなく、朝から晩まで遊ばせていたので、小さい子供には好都合だったようです。おしゃまな性格の息子は、すぐに二人に親しむようになったのでした。王子にふさわしいきれいな服装で、侍従たちに囲まれ、宮殿で育つのが似合う美しい容姿の子供だったのに、ルイ・シャルルは共和国の普通の子供になることを余儀なくされたのです。
ルイ・シャルルは毎日朝から晩まで遊んでいただけでなく、礼儀作法も簡単に忘れてしまい、言葉も荒くなったのでした。コミューンの命令に忠実だったシモンは、ある日、息子にサン・キュロットの象徴の、赤いフリジア帽を被せることを思いつきました。それだけでなく革命家たちが歌っていた「ラ・マルセイエーズ」の歌を教え、それをルイ・シャルルは得意になって歌うようになったのです。ワインが好きなシモンが、面白がって息子にも飲ませたりもしたし、シモンや役人とのゲームに加わることもありました。すっかり共和国にふさわしい少年になったルイ・シャルルに、コミューンは満足していたそうです。
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| 息子の生活は乱れに乱れていたようです。 |
幸いなことに、主治医ティエリーが、時々散歩をさせなければいけないと忠告したので、お庭で子供らしく遊ぶこともできました。とはいえ他に子供がいるわけでもなく、いつも役人に囲まれていたのです。
ある日、息子がシモンに連れられてタンプル塔のお庭で遊ぶ姿を、わずかながら見れる場所があることがわかりました。それ以来、その瞬間を逃さないように、私はそこに立ち続けるようになりました。
ルイ・シャルルがお庭で遊ぶ姿を見れるのは、明り取りの小さな窓がある所で、そこにも鉄柵があり、顔を押し付けないと姿を見ることができませんでした。いつお庭に出てくるかわからない小さな姿を見逃さないように、一日中そこに立っているのが私の日課になっていたのです。シモンは息子を塔の最上階にある渡り廊下に連れて行くこともありました。こうした些細なことまでフェルセンさまはご存知だったのです。
・・・パリからの手紙によると、王妃は毎日一時間ご子息を見ていらした・・・
と、日記に書いてあったそうです。
その他、私がしていたのは、ときどき娘や義理の妹と言葉を交わすことでしたが、変化のない生活ですから、話すこともほとんどなかったし、刺繍の材料もないので、それもあきらめざるをえませんでした。読書もときどきしていました。欠かさなかったのはお祈りです。朝と夕方の祈祷の時が一番心が休まるひとときでした。
未亡人ですから着るのは喪服だけ。擦り切れたり、ほころびたりした服を縫ってもらって着ていました。ボンネットもシュミーズも飾りがないシンプルなものでした。そうした服を着た自分を鏡で見ることもなくなりました。
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| クシャルスキがタンプル塔で描いた 私の最後の肖像画。 |





































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