息子との永遠の別れ
2度の脱出計画は、コミューンの人たちを極度に苛立たせたようで、それは、私たちの日常生活をますます不便にしました。
四六時中、監視員が近くで見張っているので、会話も思うようにできず、子供たちの笑い声も、ほとんどなくなってしまいました。黙って刺繍をしたり、同じゲームをくり返したりしながら、何の目的もない退屈な時間を過ごしていたのです。それでも、2人の子供とエリザベート王女さまが一緒だったので、小さいながら心に安らぎを持つことができました。けれども、それさえも失う日が突然訪れたのです。
忘れようにも忘れられない冷酷な出来事は、1793年7月3日に起きました。
息子はすでにベッドに入っていて、私たちもそろそろ着替えて、休もうとしていた夜10時ころでした。ドアを叩く音がして、一体この時間に何事か、と不安を抱きながら開けると、身支度を整えた5人のコミューンの役人が入ってきました。その内のひとりが、手にしていた紙を大きく開いて、そこに書いてある命令を読み上げたのです。

息子を私たちから引き離すために
コミューンの役人たちが入って来ました。
それを聞いた私は、一瞬、自分の耳を疑いました。あまりの衝撃に打ちのめされて、はっきりした言葉は覚えていませんが、コミューンは、カペーの息子がひとりで暮らすことを決定したという内容だったのです。
息子は今後ひとりで暮らす?
ということは、私たちから離れさせられるということ?
とんでもない。そんなことは許さない!
何があろうと、息子を手放すわけにはいかない。
絶対に、絶対に、この子を私たちから引き離すことなど、許さない!
自分の記憶には残っていないのですが、息子と離ればなれになるくらいなら、私を殺してと叫んだようです。
私は息子なしでは生きられないほど溺愛していたのです。その息子を家族から強引に引き離し、監視員のもとに一人で暮らさせると決定したのはエベールだったようです。過激な革命家エベールは、ジャコバン党に属していて、当時は大きな権力を持ち、特にパリ・コミューンでもっとも重要な人物とされていたのです。
夫が処刑され、息子が非公式ながらルイ17世になると、今は幼くても、成長するに伴いどんな人物になるかわからないし、亡命貴族たちが外国と結束して救出することも考えられる。今の内に何とかすべきだ、とコミューンで議論がなされていたのです。
孤島に追いやろうとか、亡き者にすべきだとか、恐ろしい意見を述べる革命家さえいたようです。最終的にカペーの息子を一人で暮らさせ、共和国にふさわしい子供に育てることに決まったのです。これならば、外国や亡命貴族たちを刺激することもないだろうと判断したのでしょう。

家族のあたたかい愛に包まれて育った息子は
まだ、母親に甘える幼い年齢でした。
それなのに・・・
力ずくでも息子を連れて行くと言い張る役人たちに囲まれながら、私はあふれる涙をぬぐいもせず、嘆願し続けました。
「この子はまだ幼いのです、たった8歳です。お願いです。息子を私たちから引き離すなどという非情なことはしないでください。
お願いです、お願いです! 」
騒ぎで目を覚ました息子は、私に駆け寄り、腕の中に身を投げ出しました。
約1時間ほどやり取りしていたでしょうか。役人たちは命令を実行するためにそこにいるだけで、彼らにはそれに背く権利もないのだとわかった私は、涙にむせびながらルイ・シャルルを着替えさせました。
一秒でも長く息子に触れていたいので、私はわざとゆっくり服を着せました。その時の私には、息子の一枚一枚の服が、この上なく貴重な品に思えました。着替えが終ると、私はもう一度ルイ・シャルルを抱きしめました。その時の感触を忘れないように、強く強く抱きしめました。
ああ、何て細い体。
何と華奢な体。
息子がまだ母親の愛を必要とする子供に過ぎないことが体全体に伝わり、苦しみで引き裂かれそうでした。
息子は幼いながら自分の運命を理解したようで、私たちひとりひとりに別れの言葉を告げ、抱擁し、泣きながら役人に囲まれてドアの向こうに消えていきました。その姿があまりにも小さかったので、あわれな運命の息子を思って泣き崩れました。この日を最後に、2度と息子に会うことはありませんでした。
































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