2025年5月21日

マリー・アントワネット自叙伝 51

もはや戦うほかない

 

国王が3時間にも及ぶ抵抗に凛とした態度を示し、表面的には国民たちの怒りが収まったかのようでしたが、王の権力に対する不満や怒りの炎は燃え続けていたのです。いつそれが爆発するかわからないので、外に出ることも控え、ひたすら宮殿内に留まっていました。

チュイルリー宮殿の庭園は
ヴェルサイユ宮殿の庭園を手がけた造園家ル・ノートル。
典型的なフランス庭園で、どこまでも幾何学様式。
国民たちが自由に入れたので、連日にぎわっていました。
でも、悲しいことに私たちはそれさえも出来なかったのです。

衛兵に囲まれてたとはいえ、彼らの中には、革命家の影響を受けて、裏切り行為に走る人がいるかも知れないと、宮殿の中でさえも緊張していました。それに耐えられなく、毎日のようにフェルセンさまにお手紙を書いていました。危険があちらこちらにはびこっているので、お手紙はすべて3人称で、しかも暗号で書いていました。とはいえ、その多くは心底から忠実な王党派ゴグラ男爵にお願いしていました。万が一没収されても誰が何を訴えたいのか判断しにくい内容で、例えば、

 

急いでください。時間がないのです。あなたのお友だちは大変危険な状態にいます。病は怖ろしい勢いで進んでいるのです

 

といったお手紙でした。


それでもフェルセンさまは、きちんとわかってくださっていたのです。お手紙で、多額の資金をフランスから外国、特にベルギーに運ばせたこともお知らせしました。オーストリア=プロシア連合軍が軍資金を必要としていると思ったからです。革命家たちの動きも、もちろん細かくお知らせしていました。


私もフェルセンさまも、国王一家が捕らわれの身から解放されるためには、連合軍がパリに攻め入り、革命家たちの軍を徹底的につぶすことしかないと考えていました。側近の中には、命がけでパリからの脱出をお手伝いします、と申し出て下さった方がいましたし、ラ・ファイエット将軍は、7月14日のシャン・ド・マルスでの2回目のバスティーユ監獄襲撃記念の連盟祭の折に、国民がお祝いに酔っているころを見計らって逃亡するのが最良などと、具体的な案を出していました。でもどれもお断わりして、熟練兵で固めた連合軍がパリに進軍し、自由になる日を待ちわびていたのです。


7月になると連合軍の動きが活発になったとの噂が広がり、迎え撃つ準備がまったくなく慌てた議会は「祖国は危機にある」と大げさな宣言をしました。それに動かされて、フランス各地からパリを目指して多くの兵が集まってきました。14日には愛国者の集まりの連盟祭もあるので、それに間に合うように大挙してパリに向かったのです。


そうした中に、南仏のマルセイユで結成した義勇兵たちがいました。遠方から来る彼らは、14日の祭典には間に合いませんでしたが、行進の間に、愛国心を高めるために歌を歌っていました。それはストラスブールでルジェ・ドゥ・リール大尉が作曲したもので、その地域の守備にあたっていたライン軍団のための行進曲だったのです。けれども、歌詞も曲も革命派を勇気付けるもので、特にマルセイユ義勇兵たちの心を打ち、長く厳しいパリへの道をこの歌を合唱しながら進んでいたのです。

作曲した曲を披露するルジェ・ドゥ・リール大尉。

その楽譜


以前から、私はメルシー大使を通して連合軍に宣言書を書くよう依頼していました。革命家たちに威圧感を与えるのが目的ですが、刺激するような言葉は使わないでほしいと伝えていました。連合軍の目的は、国王ルイ16世の自由と権利を以前のように認め、国王一家の安全を確保することであり、国内政治に干渉するつもりは一切ない、という内容を希望していたのです。宣言書は、連合軍総司令官ブラウンシュヴァイク公が手掛けましたが、最後に付け加えた内容は革命家だけでなく、それまで王家寄りだった人々の怒りさえもかうものだったのです。


連合軍総司令官が発表した宣言書の最終行に書かれていたのは、

 

パリ市とパリ市民は直ちに国王に服従すべし。

万が一、チュイルリー宮殿に押し入ったり、国王、王妃、その他の王家の人々に暴力、侮辱を与える場合には、見せしめとして永久に残る容赦ない刑罰を受けることになる

 

これは怖ろしい脅しの文です。

ブラウンシュヴァイク公はプロシア王家の親戚の身分が高い家柄で、妃として迎えたのはイギリス国王ジョージー3世の姉君オーガスター・オブ・ウェールズでした。戦いが好きな軍人で、アメリカ独立戦争にも参加したような人ですから、連合軍総司令官として威圧的な文を加えたかったのでしょうか。

ブラウンシュヴァイク公爵
プロシア=オーストリア連合軍総司令官。


ブラウンシュヴァイク公爵が発表した
宣言書の一部

7月25日に発表された脅迫的なこの宣言書は、直ちにパリ中に知れ渡り、あらゆる階級の人々を激怒させました。人々は王政が続いている限り祖国を救うことはできない、自分たちが望んでいる自由と平等の国家は生まれない、王政に終止符を打つためには、国王は邪魔な存在だ、と思うようになったのです。


国民は今や一致団結して、一刻も早く行動に移らなければならないと血を沸かせ、ますます危険な状態になりました。それは、連合軍に軍事的介入を求めた私が願った結果と正反対の事態を招いたのです。団結した国民が、今後どのような行動に移るかと心配で、夜もゆっくり眠れないほどでした。

2025年5月16日

オートクチュールの父、ウォルト(ワース)回顧展

 パリがファッションの中心であることは、世界中で認められていること。ロンドン、ミラノ、ニューヨークでも、毎年ファションショーが開催されているが、大量生産のプレタポルテだけで、高級注文服のオートクチュール発表はパリのみ。値段が高すぎるし、着る機会も少なくなり、戦争や経済不振、コロナなどで年々顧客が減少し、一時期オートクチュールの存在が危ぶまれたこともあったが、その全てを乗り越え今でも健在。それどころか、エルメスも2年後を目指してオートクチュールを手がける予定と発表。

オートクチュールの発祥地はパリ。でも,その創始者はフランス人ではなく、イギリス人のシャルル=フレデリック・ウォルト(英語ではワース)。この偉大なオートクチュールの生みの親に捧げる大規模な展覧会が、プティ・パレで開催されている。パリのガリエラ美術館、アメリカのメトロポリタン美術館、フィラデルフィア美術館、その他、個人所有などから集めた展示作品は400を越えている。この稀に見る充実した回顧展は、オートクチュールが織り成す華麗な世界へ誘います。

シャルル=フレデリック・ウォルト
1825-1895

ウォルトがパリのラ・ペ通りにメゾンを創立したのは1858年で、ナポレオン3世による第二帝政時代だった。フランスは産業が驚異的発達をし、経済的に豊かで、文芸が花を咲かせ、宮廷生活が復活していた。パリ大改造が行われ、統一された建造物、幅広い道路、豊かな街路樹がどこまでも続く美しい街並み。そうしたパリにふさわしく、満開のバラの花のように美しい皇后ウジェニーを中心とした華麗な社交が繰り広げられていたのだった。

ラ・ぺ通りのウォルトのメゾン。

当時のラ・ペ通りは
パリのエレガンスと豪華さの代名詞的存在で、
着飾ってこの通りを散策するのが憧れだった。

そうした時代にウォルトは、それまで誰も考えつかなっかったことを実現した。以前は顧客の家に出向いてオーダーを受けていたが、ウォルトはラ・ペ通り7番地の瀟洒なサロンに顧客を招き、自分がデザインし製作した服をモデルに着せて歩かせたのだ。それが現在も引き継がれているファッションショーのはじまりだった。当初モデルを務めていたのは彼の妻マリー・ヴェルネで、ふたりは高級生地店ガシュランでは働いていた時に知り合った。その店にいる間にウォルトは服をデザインするようになる。才能が認められ名が人々に語られるようになり、自信を持ったウォルトはメゾンを創立。

夫のためにモデルを務めていたマリー・ヴェルネ。
彼女はファッションの歴史上最初のモデルとして名を残す。
1825-1898

ナポレオン3世の皇后ウジェニーがウォルトのドレスを気に入っていたのは、彼にとって幸運だった。華やぎがある容姿の皇后は、ウォルトのドレスで眩いばかりに美しかった。貴族夫人や裕福なご婦人たちは競ってラ・ペのサロンへと足を運ぶようになる。それだけでなく、オーストリアの伝説的な皇后エリザベートもウォルトのドレスに包まれて、艶やかな姿を披露している。

ナポレオン3世の妃ウジェニー。
ウォルトの服をこよなく愛し、
ヨーロッパの貴婦人たちに大きな影響を与えていた。
オーストリアの美貌で名高い皇后エリザート。
華やぎある容姿にウォルトのドレスが
さらなる輝きを加えていた。

69歳で生涯を閉じたウォルトなしでは、オートクチュールはこれほどの発展を遂げなかった。彼へのオマージュの展覧会は、パリならではの重要なイヴェント。連日長い行列が出来るのも無理ない。フランス人だけでなく外国人も多く、様々な言葉が飛び交う会場。世界中の人がモードに大きな関心を抱いているのが伝わってくる。

貴重な作品ばかりなのでガラス張り。
フランス語と英語の簡潔な説明があるので分かりやすい。

1866-1868年のドレス。
夜のコルセットを付けたドレス。

1869年ころの街着。

1898-1900年の夜のケープ。

イギリスのヴィクトリア女王の
ジュビレー・ダイアモンド《60周年記念》を祝う舞踏会で
デヴォンシャー公爵夫人が着たドレス。1897年。

レディ・カーゾンの1900年ころの宮廷ドレス。
夫ジョージ・カーゾン侯爵は1899年から1905年まで、
インドの総督であり副王だった。
アメリカ人だった彼女は気品ある美貌の持ち主で、社交上手で、
当時は最も華やかな女性と語られいた。

ウォルトが活躍していた時代の
ハイソサエティーの人々の優雅な日常を表す絵から、
オートクチュールが必要だったことがよくわかる。

ラ・ぺ通り7番地のウォルトのメゾンの
アトリエ、サロンなどの写真も豊富。
1階はショーウインドーで2階の複数の部屋がサロンとアトリエだった。

2025年5月12日

カモの子供たち、こんなに大きくなりました

 5月1日のブログで紹介したカモのベベたちが、あっと言う間に大きくなって、家族そろってお散歩。かわいくて、かわいくて、抱きたかったけれど、その願いはかなうはずがない。でも、写真をたくさん撮ったから、これで我慢。

今日は社会見学の日。
池にばかりいると大したことを学べないから、陸の上を見学。
いろいろな障害物があるから、
しっかり前を見ながら歩くのよ。

真剣な表情がたまらなくかわいい。

なぜか、家族全員が立ち止まる。
きっとカモが大好きなお兄さんで、
テレパシーが通じたのでしょう。


じゃ、今日はこのくらいにして、お家に戻りましょう。

広々とした我が家に戻ってホッと一息。


2025年5月8日

フランス国王「最後の戴冠式」展

 フランス国王シャルル10世が、国王になる戴冠式を行ったのは1825年5月29日。今年はその200年記念の年にあたり、大規模な展覧会を開催中。国王の戴冠式がこれほど豪華だったのか、と圧倒されるばかり。展示方法が素晴らしく、まるで、その場に身を置いているような錯覚を起こすほど。

ランスのカテドラルで戴冠式を執り行った
ブルボン朝最後の国王、シャルル10世。

シャルル10世は革命で処刑されたルイ16世の末の弟で、国王になる前はアルトワ伯だった。ルイ16世処刑後、ナポレオンの帝政時代を迎えたフランスだが、皇帝が失脚し、王政復古でルイ16世の上の弟がルイ18世の名で即位し、病で世を去った後王座に就いたのがシャルル10世。彼がブルボン朝最後の国王。

もともと楽しいこと、遊ぶことが好きで、派手で、気まぐれで目立ちがりやのシャルル10世は、自分の戴冠式は絢爛豪華なものであるべきだと考える。歴代の国王と同じように、ランスのカテドラルで執り行なうのはもちろん、ブルボン朝が栄光に輝いていた旧体制の時代の、厳粛で華やかな戴冠式を復活させたい。シャルル10世はそれに固守していた。

1825年5月29日の戴冠式は、国民だけでなく貴族たちさえも驚いたほど煌びやかだった。現在の3000万ユーロに匹敵する破格の費用をかけ、戴冠式出席者は700人、5日間続いた祝宴に招待したのは7000人。カテドラルの壁はビロードとシルクで覆われ、その中で40キロの白テンのマントを付けたシャルル10世は、ルイ14世依頼守られてきた豪華な式を蘇らせたが、国王在位は5年間と短かった。

このブルボン朝最後の国王シャルル10世の戴冠式に使用した貴重な品の展覧会を、13区のギャラリー・ゴブランでじっくり鑑賞。今回は、国立家具コレクション検査官であり、この展覧会のキュレーターのご招待で、ありがたいことに自ら詳しい解説をして下さり、有意義な2時間を過ごしました。招待されたのは、フランス芸術報道組合員。皆、熱心で、質問も多く、意見の交換もあり、大いに勉強になりました。

革命で荒れ果てたランスのカテドラルは、大掛かりな修復作業が行われ、
4時間にも及ぶ華麗で厳かな戴冠式が執り行われた。
まるで、その場にいるような再現。

フランス王家の象徴ユリの花と、
シャルル10世のシンボルの
二つのLが絡みあう刺繍があちらこちらに。
カテドラルの高い天井から30を越えるシャンデリアが、
煌びやかな輝きを放っていた。そのひとつ。

天蓋は下から見れるように、2階への階段上にあり、
天蓋の中央の太陽のお印が見える。

歴代の国王が戴冠式で被った「シャルルマーニュの王冠」は、
革命で破壊され、ナポレオンが皇帝になる際に製作させたもの。


聖油入れ。
メロヴィング朝フランク王国の初代国王クロヴィスの洗礼の際に、額に聖油を付けたが、
その聖油は、聖霊が白いハトとなり天の使者として地上に届けたとされている。
それ以降、フランス国王はランスでの戴冠式で聖油を受け、正式に王権を得ることになる。

シャルル10世が戴冠式で使用した手袋のひとつ。
4回も変えてたそう。
戴冠式の前日に一夜を過ごした大司教館の王の寝室。
シャルル10世を迎えるために、様々な品が集められた。
ルイ14世がヴェルサイユ宮殿で使用していたカーペット。
鏡の前の置時計は、ナポレオンが息子のために作らせたもの。
壁を飾る燭台はエリゼ宮から運ばせた。

5日間に渡って行われた祝宴は、
カテドラル近くの大司教館トー宮で行われ、
その際のテーブルの一部も再現。食器はすべてセーヴル焼き。

シャルル10世の朝食のセッティング。

キュレーターの説明を熱心に聞く私たち。
まるで生き字引のようなすごい知識のキュレーター。

戴冠式に招待されたヴィクトル・ユーゴーへの
国王からのプレゼント。

戴冠式を終えパリに戻ったシャルル10世。

この時の馬車は8頭立てで大きく、
展示会場に入りきれないので実物の一部と絵で再現。

革命を起こし、王政が廃止されたとはいえ、フランス人がかつての王朝時代にノスタルジーを抱いているのが伝わってくる。初めて公開される品々がほとんどの稀有な展覧会。
7月20日まで

2025年5月1日

ある晴れた日の公園

緑がひときわ美しい季節。快晴が続いているパリの公園は、お散歩に 最適。
パリの清々しい空気が皆様に届きますように・・・

マロニエの花が満開。

プラタナスも大きな葉を広げてお出迎え。
広々した芝生の上にいるのはダ~レ?

おや、ワンちゃんではないか。
この公園はワンちゃん禁止。係員が見たら追い出される。
ゆったりできるのも、今のうちよ。

彫刻の足元でお昼寝中のカモたち。
気持ち良さそう。

軍服の兵の見回り。安心して散策を楽しめます。

モネの絵を彷彿させるような池で、
カモのお母さんが子供たちを見守る心温かくなる光景。

ベベたちがどのくらい大きくなるか気になるから、
来週、また行かなくては。