2025年6月24日

パリの犬たち 263

たくさんの感動と大きな希望を与えてくれたワンちゃん

スーパーに行った帰りに見かけたワンちゃん。
後ろ足に問題があるようで車椅子をつけている。
パパに遅れないように、
一生懸命速足で走っている姿が愛らしく、
しばらく見つめていました。

こんなに小さくて体が不自由なのに、頑張っている。
しかも、車椅子をつけていて不便なのに、
走るのがうれしくてたまらないかのように、楽し気。
感動せずにはいられない光景でした。

2025年6月22日

音楽の祭典

 フランス各地で開催される「音楽の祭典」の6月21日は、クラシック、ジャズ、ロック、ラップなどあらゆる音楽を無料で楽しめる日。1982年、当時のフランス文化大臣ジャック・ラングによって創設された「音楽の祭典」は、今では世界中に広がり、重要な文化イヴェントのひとつになっています。プロもアマチュアも参加できるのが、この祭典の大きな特徴。

今年はチュイルリー公園で大規模なコンサートが行われたほか、セーヌ左岸・右岸の複数の教会や大小の広場、博物館などでも音楽祭を楽しめ、35度の異常な暑さの中で、熱気に包まれたパリ。

例年と異なるのは、昨年のパリ・オリンピックで世界中の人を驚嘆させた気球の聖火台が、この日の夜空を飾り、再び歓喜の声を響かせたこと。この気球は今ではパリのモニュメントとさえ言われていて、9月14日までチュイルリー公園で見られる。特に、夜空に浮かぶ気球の美しさは、体が震えるほど感動的。

チュイルリー公園内に設置された舞台の前に集まった人は35000人。
参加したアーティストは50人。
夕方9時に始まり、真夜仲の12時30分まで続いたコンサート。
音楽に合わせて歌う人も多かったし、踊る人も多かった。

あたりが多少暗くなった10時ころ、それまで舞台の後ろの地上に置かれていたあの気球が、ゆっくりと空に向かって舞い上がる。一斉に大歓声が起き、一団となって気球と共にパリの空高くのぼり、音楽祭はますます華やぎを増し、記憶に深く刻まれたのです。
いつ見ても感動せずにはいられない、品格ある気球。
夢幻の境地に誘われたよう。

2025年6月17日

リッツパリの中庭で、パリならではのランチ

このところ 晴天続きのパリ。こうした心地よい気候のときには、テラスでのランチが最高。屋外の空気に全身を包まれながら、美味と美酒を親しい友人と味わうのは、この上ない幸せ。

快適な日々が続くある日、日本からグルメの友人がパリに来るとのメールを受け取り、ランチのために選んだのは、リッツパリのテラス。なにしろ、ここはお料理もワインも上等だけでなく、美女、美男の行き届いたサーヴィスが魅力。自分たちが高尚な人であるように思わせるほど、それはそれは柔和な微笑みを称えながら、丁寧に接客してくれる。

予約が大変だったのも、よくわかる。何しろ世界中のこだわりの人が集まるのだから、当然。居心地がよく話題も豊富で、2時間半ほどの長いランチになりました。

リッツパリの中庭の大きなパラソルの下でランチ。
美味に加え、行き届いたサーヴィス。
忘れがたい思い出になる貴重なひととき。

お花のすぐお隣のいいお席。
まずはシャンパーニュで乾杯。

選んだシャンパーニュは創立1812年のローラン・ペリエ。
こだわる女性ばかりだから、ロゼ。
一口飲んで全員が同時に「ああ、美味しい!!! 」

テーブル上のバラの花と
ステキなハーモニーを奏で、極上気分。
フレッシュでデリケートな味は、さすが老舗ならでは。

満開のバラの花のような演出が素晴らしい、
メロンと生ハムのアントレ。



メインに選んだ海老入りスパゲッティ。
ちょうどいい量は、経験豊富なベテランシェフならでは。

オリジナルのパンは4種類もあって、
しかも焼き立て。抵抗しがたく2種類いただきました。

チョコレートやコーヒ―の後、外に出ると、ナポレオンが誇らしげに立つ円柱があり、周囲は名だたる宝飾店がずらり。ヴァンドーム広場に面したホテル・リッツパリでのランチには、心を輝かせるマジックがある。
エレガントで幸せなベル・エポックの
リッツパリの中庭でのディナー。1904年。
当時の華やかさと格式は、変わることなく引き継がれている。

2025年6月11日

マロニエの実がいっぱい

 数日前までは暖房をいれていたのに、急に気温が上がったパリ。温度差が激しいから、着る物の変化も激しい。コートを着た次の日に夏服ということが結構多い。ほんとうに気まぐれなパリ。

我が家のゼラニュームが満開で、毎日見るのが楽しいけれど、公園のマロニエもどんどん実がなって、それを見るのも嬉しいこの頃。今の時期にぴったりの若い緑色の実は、何だか明るい未来を象徴しているようで、心が浮き立ちます。

生まれて間もないマロニエの実。


全てのマロニエの木に実がなっていて、
あたりの空気が清々しい。

マロニエがはじめてパリに姿を見せたのは1615年。現在のイスタンブールがコンスタンチノープルと呼ばれていたルイ13世の時代で、あるフランス人(名前は不明)がコンスタンチノープルからマロニエを持ち帰り、14世紀に建築されたスービーズ侯爵邸の庭に植えたと記録されている。

パリ中心にあるチュイルリー宮殿の庭園に植えられたのは1670年で、ルイ14世の時世。国王のお気に入りの造園家はル・ノートル家で、3代にわたってチュイルリー宮殿の庭園を手がけている。3代目のアンドレ・ル・ノートルはチュイルリーにあったル・ノートル家の館で生まれ、そこで生涯を閉じている。このように、かなり優遇されていた家族だった。
マロニエをこの庭園に植えたのは3代目のアンドレ・ル・ノートルで、彼が57歳の時だった。主に花壇を手がけていた祖父や父と異なり、アンドレは庭園の設計も任されていた。後の名はヴェルサイユ宮殿にフランス式庭園を実現した時から、一挙に世界中に広がる。
春に愛らしい花を咲かせ、その後実がなり、秋には栗をたくさんつけるマロニエは、多くのパリジャンを魅了し、1870年、ナポレオン3世の第二帝政時代に実施されたパリ大改造以来、街路樹の80パーセントはマロニエになったほど。
マロニエの絵で最も感動的なのは、ゴッホの「花咲くマロニエの枝」。
1890年5月末の作品で、この絵を描いた2か月後に自殺。絵を描いたのも生涯を閉じたのもオヴェール・シュル・オワーズだった。
ゴッホ作「花咲くマロニエの枝」

マロニエの木を見るたびに、この絵を思い出す。描かれた花が清らかで美しいだけに、胸が締め付けられます。

2025年6月7日

マリー・アントワネット自叙伝 52

チュイルリー 宮殿襲撃の日

 

数日前から、群衆が何か事を起こそうとしている気配がしていたので、チュイルリー宮殿には、万が一に備えてスイス兵900人、国民衛兵2000人、貴族志願兵300人が配置され、大砲も設置されていました。


じっくり眠ることのできない日が続いていた8月10日、とても暑い日の早朝、3時か4時ころ、教会の鐘の音が聞こえてきました。

何か重要なことを知らせるときには、鐘を鳴らす習慣があったのですが、気になったのは次々と鳴り響いたことです。まるで、計画の実行に移る合図のように、鐘の音には激しさが加わっていました。

そのうち、太鼓の音も響いてきました。もう間違いありません。パリの要所要所に集まった群衆たちが、一団となって宮殿に向かうのです。数1000の兵が守っているとはいえ、不安が一挙に増しました。


衛兵たちを鼓舞する夫。
でも、説得力はなかったようです。

夫は前日からほとんど眠っていなかったために、目が腫れ、どんよりした瞳を落ち着きなく動かしながら、ふらふらした足て衛兵たちを鼓舞するために閲兵に向かいました。夫は極度の近眼なので、長い階段をおりるときに転ばないかと私は心配しましたが、無事に衛兵の前に着きました。

立派な軍服で身を包み、引き締まった顔で居並ぶ衛兵たちの前で、夫は国王らしく、説得力のある言葉をかけると思っていたのです。


ところが、その内容はあまりはっきりしていなかったらしく、しかも急いで被った鬘が乱れていたし、グレーの服を着ていたので、王の権威が感じられなかったのでした。

その惨めな姿に失望した衛兵たちの中には、「国王バンザイ」のかわりに、「国民バンザイ」という声を上げた人がいたほどでした。それだけでなく「拒否権を倒せ」「太ったブタを倒せ」という叫び声を上げる兵士もいたのです。その時点で国王側から離れ国民側についた人もいたようです。侮辱された夫が部屋に戻ってきたときには、夫だけでなく私も血の気を失いました。

宮殿に押しかける群衆の数は、みるみる内に増え、
小競り合いもあちこちでありました。


銃や斧だけでなく、
大砲まで引きずってきたのです。

すでにそのころには、群衆の動きが危険極まりないことは空気でわかりました。どうすればいいのかと夫はうろたえていましたが、私は護衛や大砲もあるのだから、大した武器を持っていない群衆と戦えば勝利を得られると信じていました。もうこれ以上黙っていられなった私は

「いよいよ国王が勝つか、過激分子が勝つかの時が来たのです」

と、思っていたことをはっきりと告げました。

7時ころ、信じられないほど多くの群衆が、武器を手に宮殿に向かっているとの情報が入りました。

「陛下、5分も無駄にはできません。もっとも安全な場所に移らねばなりません。それは議会です。そこ以外に考えられません」

絶望的な声をあげたのは、夫の相談役のパリ県知事のレデラーでした。

「でも、私たちには兵力があるではないですか」

戦うべきだと思った私は声を上げました。ところが、それを聞いたレデラーは反発したのです。

「すべてのパリ市民が大挙して宮殿に押し寄せているのです」

群衆は宮殿を守っていたスイス兵を容赦なく襲い、
恐ろしい叫び声が宮殿内にまで響いてきました。


その後、レデラーは再び夫に向かって

「陛下、もはや時間がないのです」

とくり返しました。その言葉に夫はうなずき、私に「行こう」と無表情で言いました。



群衆は武器をかざしながら宮殿内に入り込み、
そこでも忠実なスイス兵との戦いがありました。

血走った群衆は奇声をあげながら
宮殿を走り回っていたのです。


戦場と化した由緒ある歴史を誇るチュイルリー宮殿。

議会はチュイルリー宮殿から徒歩で行ける距離だったのです。もはや説得の余地もないと悟った私は、夫の言葉に従う他ありませんでした。

夫の後ろに娘と息子の手を握った私が続き、その後ろに義理の妹、ランバル公妃、トゥルゼル夫人、数人の大臣が続いて無言のまま議会へと向いました。宮殿から離れる際に私は

「すぐに戻ってきますから」

と貴族や衛兵に声をかけました。そのときはそれを心から信じていたのですが、ああ、何てことでしょう、その日以来、二度とチュイルリー宮殿に足を入れることはなかったのです。1792年8月10日朝でした。

2025年6月4日

ゼラニュームがキレイ

 今年もゼラニュームがキレイに咲いてうれしい。朝起きて最初にするのは、カーテンを開けて、ゼラニュームがどれほど咲いているか見ること。

大した手入れもしていないのに、冬の寒さを耐え抜き、春の気配がするころに小さな蕾を付け始め、それ以後、毎日少しずつ大きくなり、色が見えてきて、蕾がどんどん開いて、見事な花を咲かせてくれるゼラニュームたち。多分、20年は同居していると思う。だから、日々見える成長が楽しいし、うれしい。

単純な言い方だけれど、毎年、美しい花を咲かせる自然の素晴らしさ、不思議さに驚かないではいられない。

キレイなキレイなゼラニューム。
私が一番気に入っているのがこのピンク。
もうじき満開ね。
太陽をたっぷり浴びて、可憐な花を咲かせて。

まだまだ小さいけれど、頑張ってね。
新鮮なお水もたっぷりあげるから。

我が家のゼラニュームは
1メートル以上あるのがジマン。


11月中旬まで花を咲かせ、やがて散り、
そしてまたキレイな花を見せてくれるゼラニューム。
いつまでもよろしくね。

2025年6月1日

皇帝ナポレオンの弟の孫はFBI創設者

ナポレオン1世が皇帝になった1802年につくらせ、常に身元に置いていた剣が4月に競売にかけられ、466万ユーロで落札され、その記録的高値は世界を驚愕させた。ナポレオンの息吹がかかった品がオークションにかけられる度に、世界中から入札があり、いつも大きな話題になる。これほどの熱気を呼ぶのは、他にはマリー・アントワネットしかいない。ただ、彼女の場合はジュエリーがほとんど。

このようにナポレオン・ボナパルトの名は格別な威力を持っているが、それほどの人物の弟の子孫がアメリカに暮らし、ルーズベルト大統領の時代に活躍し、歴史に名を残していることはあまり知られていない。

アメリカ合衆国の国内治安維持を担う捜査局が、現在のFBI(連邦 捜査局)と改名されたのは1935年。その前身となる捜査局BOIは1908年に創設されていた。それは、ルーズベルト大統時代の司法長官チャールズ・ジョゼフ・ボナパルトの業績だった。彼はナポレオン1世の末弟ジェローム・ボナパルトの孫にあたる。

FBI創設者
チャールズ・ジョゼフ・ボナパルト
1851-1921

ジェローム・ボナパルトは兄ナポレオンの驚異的成功のおかげで、かなり裕福で優遇された環境で育つ。兄の勧めで海軍に入り、アメリカのボルチモアに滞在中の1803年に、富豪の商人の娘エリザベス・パターソンと出会い、半年後にスピード結婚。けれども、野心の固まりのナポレオンに激怒され、強制的に離婚させられる。理由は未成年のジェロームが親の同意なしで結婚したからだとされているが、実際には、ナポレオンはヨーロッパの王族との結婚を望んでいたのだった。政略結婚により、自分の、フランスの価値を高めたかったのだ。

ナポレオン1世の末弟
ジェローム・ボナパルト
1784-1860


その妻エリザベス・パターソン
1785ー1879

弟の懇願など受け付けないナポレオンが決めた結婚相手は、ヴュルテンベルグ王国の王女カタリーナ。その後、ジェロームは兄によってヴェスト王国の国王に就任。ナポレオンのモスクワ遠征、最後のワーテルローの戦いにも参加する

ナポレオンが戦いに敗れ、皇帝を退位し流刑されると、妻の実家ヴュルテンベルグに逃れる。その後ナポレオン・ボナパルトの甥ルイ・ナポレオンが大統領、引き続き皇帝に就任した時代にフランスに戻っていたジェロームは、数々の重要な役職に就き、75歳の長い生涯を閉じた後、兄と同じアンヴァリッドに埋葬された。

ジェロームの最初の妻エリザベス・パターソンは、夫の兄ナポレオンの皇帝になる戴冠式に出席するためにフランスに向かう。ところが二人の結婚を認めていないナポレオンは、無常にも彼女のフランス上陸を禁止する。当時子供を身ごもっていた彼女は、イギリスに向かい1805年7月1日に、男児を出産する。

ジェローム=ナポレオン・ボナパルトと名付けた息子とバルチモアに戻ったエリザベスは、そこで裕福な生活を送り、生涯を閉じ、その地に埋葬される。ボナパルト家の支流がアメリカにあることに、ナポレオンは関心を抱いていたようで、甥を育てるエリザベスに充分な年金を払っていた。


ナポレオン1世のアメリカ人の甥
ジェローム=ナポレオン・ボナパルト
1805-1870


その妻となったスーザン・メイ・ボナパルト
1812-1881

息子ジェローム=ナポレオン・ボナパルトは、ナポレオン皇帝失脚後フランスに渡り、祖母をはじめとする家族に会い、スイスで教育を受ける。その後アメリカに戻りハーヴァード大学で学ぶ。バルチモアの富豪の娘スーザン・メイ・ウイリアムズと結婚し、2人の息子に恵まれ、その次男がFBIを創設したチャールズ・ジョゼフ・ボナパルト。

若い頃のチャールズ・ジョゼフ・ボナパルト

バルチモアで生まれたチャールズはハーヴァード大学で法律を学んだ後、故郷に戻り弁護士として活躍すると同時に政治家としても名を成す。そうした活躍がセオドア・ルーズベルト大統領に認められ、1906年に司法大臣に任命される。後にFBIと改名される連邦捜査局の前身を彼が創設したのは、それからわずか2年後の1908年7月26日だった。コレラで70歳の生涯を閉じたのは生まれ故郷だった。フランスとアメリカ国籍を持つチャールズ・ジョゼフ・ボナパルトだったが、最後まで自分はアメリカ人だと主張していたという。

チャールズ・ジョゼフ・ボナパルトの妻
エレン・チャニング・デイ・ボナパルト
1852-1924

ボナパルト家のバルチモアの別邸。

チャールズは弁護士の娘エレン・チャニング・デイと結婚したものの、子供には恵まれなかった。夫の母は若い時代にひどい目にあったせいか、フランスやボナパルト家に好意的ではなかったが、エレンは逆に興味を抱いていたと語られている。

チャールズ・ジョゼフ・ボナパルトは子孫を残さなかったが、FBIを語る時、その創設者として彼の名は歴史にしっかりと刻まれている。

FBI紋章