2012年8月27日

シャトレのつぶやき 60  思い出のアルバム2

とても居心地がいい
ワタシ自慢のネコ庭園で~す

ワタシはお花が大好き。
それで前にブログに書いたように、
小さいバルコニーにネコ庭園をつくったの。
そこにはゼラニュームやチューリップ、
ときにはバラが咲いてそれはそれはきれい。

どうしてこの3つのお花かというと、
ママンがすごいお花音痴でゼラニュームとチューリップとバラしかしらないの。
でも、どれもきれいだから許してあげる寛大なワタシなの。


ナンだかすごく眠くなってきたわ。
そうそう、あの人の名誉のためにいうと、ひまわりも知っているの。つまり、小さい子供でも知っているお花だけなのネ。
それでも前より少しは進歩したの。
ナニしろ前はお花の種をかってきて、
種が入っている袋の写真を見ながら言ったの。
「早く咲かないかなぁ」
種を土の中にまいてお水をあげることも知らなかったのョ。
だからワタシもこの庭園をつくるのに
すごく苦労したの。

それにしても、このネコ庭園にいるとすぐに眠くなるのはどうしてかしら。
平和だからかな?
「そうじゃないのよ。ネコはほとんど一日中寝るの。
よくネル子だからネコって呼ぶのよ」
「まさか!」
「ほんとうよ。君だって10分と目をあけていられないじゃないの。
ホ~ラ眠い、眠~い」

そういわれるとほんとうに眠くなってきたわ。
まさかあの人催眠術かけたんじゃないわよネ。
眠~い、ほんとうに眠い。
睡魔におそわれて、ついにダウン。

2012年8月19日

ナポレオンの運命を決めたワーテルローの戦い


1815年の
ワーテルローの戦い
1812年のモスクワ遠征失敗後、連合軍との戦いにも敗北しエルバ島に流刑されたナポレオン。けれども不屈の精神の持ち主である彼は、そこから脱出し、再び決戦に挑みました。それが1815年6月のこと。

イギリス・ベルギー連合軍がベルギーのワーテルロー近辺に駐屯していることを知ったナポレオンは、そこに強力なロシア軍とプロシア軍が合流する前に徹底的にたたこうと計画し、軍を進めました。


ライオンの丘
ところが、ナポレオン自身が以前のような気鋭の指導者でなくなっていたし、軍人も若獅子のように目覚しい活躍をする年齢を超えた人がほとんど。そうしたナポレオン軍に見切りを付けて、戦地で敵に寝返り打った将校さえいたという有様。

226段の階段ものぼりました。
本来ならば勝利を得られるはずだったワーテルローでの戦い。にもかかわらず、ナポレオンや部下たちの度重なる不祥事でついに6月18日に完敗したフランス軍。その戦いが命取りとなり、彼は大西洋の孤島セント・へレナに追いやられた無念の戦いの地、ワーテルロー。

以前に一回訪問したことがあるけれど、
何しろ今年はロシア遠征200記念の年。それに続く最後の大戦だから、と自分なりの勝手な理由をつけての旅。
こうした場所は訪問するたびに感動があるもの。

ワーテルローで最初に目につくのは、なんといっても小高い丘の上のライオン像。高さ約40メートルの丘は、連合軍側のオランダ王太子が負傷した場に作らせた人工的なもの。戦いで命を失った兵士への慰霊碑でもある。


ナポレオンの総司令部が
置かれた畑の中の農家
その頂上のライオンの像はフランス軍の大砲を鋳造して製作させたそう。ライオンはフランスに向かって睨んでいます。
226の階段をのぼると戦地が一望でき、そこに両軍の多くの兵士の血がしみ込んでいるかと思うと感無量。この戦いでフランス軍兵士30、000、連合軍兵士25、000が死傷。
頂上までの階段はかなり急で、何度か立ち止まり、そのたびに兵士の苦労を思えばこれくらいのこと、と比較にならない比較をしながらやっと到着。


ナポレオンがワーテルローで
使用した野戦用ベッド
そこから5キロメートルほどのところにあるナポレオン司令部も感動的。そこでフランス皇帝は戦略を練り、ときには勝利を獲得する自信にあふれ、ときには敗戦の兆しに落胆したりしていたのです。

畑の中の農家を急遽司令部にした家は小さいけれど、中に展示してある多くの品の価値は大きい。
ナポレオンの野戦用折りたたみ式ベッド、彼がワーテルローでも身に付けていた指輪、頭髪、日本も参考にした部分がある「ナポレオン法典」、戦略会議に使用した長テーブル、そのほか武器、ナポレオンのデスマスク、数点の肖像画など。
ここまでの道のりが不便なためか、訪問する日本人は少ない。

ナポレオン法典
そのかわりにイギリスのウェエリントン公の司令部を訪れる人は多く、
日本語のオーディオ解説があるほど。その司令部はワーテルロー市内にあり、もともとホテルだった建物でより豪華だからかも知れませんが、ぜひナポレオンの無念の思いが満ち満ちている司令部にも足を運んでほしい。

ナポレオンがワーテルローで
身につけていたダイヤのリング。
連合軍兵士が盗み後に返却
ところで、この戦いで勝利を得たのはイギリスをはじめとする連合軍だけではない。世界的に有名な大富豪ロスチャイルドが莫大な利益を得たのです。
ドイツのフランクフルト出身ロスチャイルド家は、そのとき創立者から数えて二代目。
5人の息子たちがヨーロッパの主要都市でそれぞれ金融業を営み、ロンドンのネイサン・メイアー・ロスチャイルドがフランス・ロスチャイルドを通して、いち早くフランス敗北の兆しを知ったのです。

その結果、極秘でフランを売りポンドを買う計画を立てる一方、イギリスでは逆にイギリス敗北の偽の情報を流し、ポンドを売らせ価格が大幅に下がったときに大々的に買い占めたという、ナポレオンもびっくりの戦略。

これがロスチャイルド財閥の基盤を作ったというから、想像を絶するほどの、大げさにいえば天文学的数字の利益だったに違いない。


ワーテルローの戦いで
大々的な利益を得た
ネイサン・メイアー・ロスチャイルド
さすが短期間で世界に名だたる大富豪になる家系は違う。家族の結束も稀に見るもので、結婚は親戚の間でしかしなかったという。叔父と姪、いとこ同士という具合に。これではまるで小型ハプルグルグ家。

ハプルグルグ家も有利な結婚や血族結婚によって領土を拡大し、権力安泰にやっきになっていたのだから、歴史に名を残す家系が教えてくれることは破格。
もっともそれは過去のことで、近年は本人の自由意志ということ。よかったよかった。

と、いろいろと話題豊富なワーテルローの戦いです。

2012年8月17日

リッツ・ホテル工事のため閉鎖

パリでもっとも優美なホテル
として名高いリッツ・ホテル
パリの名所にさえなっているリッツ・ホテルが7月31日に閉鎖されました。
リニューアルのために2年半閉めることは、以前のブログでお知らせした通り。

工事のためにホテル前に不細工な柵が張り巡らされているのを見ると、やはりさみしいし心が痛む。でも、それにかわるアート的な囲いがもうじき必ずできるはず。
何しろ美的感覚が優れているパリ。工事中もそれを損なわないような配慮をすることを
義務付けているかも知れない。第一パリ市民が許すわけがない。
そうなると、どのような素晴らしい工事現場装飾が生まれるか、これもまた楽しみ。


リッツ・ホテル創立者
セザール・リッツ
リッツがあるヴァンドーム広場は、国王アンリ4世と愛妾ガブリエル・デストレの間に生まれた庶子、セザール・ド・ヴァンード公の敷地と豪勢な館があった地。その後代々彼の子孫が持ち主となり、1685年にルイ14が購入。王の騎馬像を中心とした広場を作る計画をたてたのです。

ところが度重なる外国との戦いで財政困難におちいり、広場を取り囲む建物の正面がほぼ出来上がったころに断念。1699年に敷地はパリ市所有となり、分譲して売ることになりました。
パリ市に譲るときに国王は条件をつけました。建物の正面はそのまま保存する。その後ろ側はそれぞれの好みにしてよい。
そのために、広場を囲む調和ある建造物が数世紀を経ても保たれているのです。

当然のことながら大金持たちが競って購入。次々と瀟洒な館が生まれ、広場ではルイ14世の騎馬像を囲んで夜毎舞踏会や祭典。このときからヴァンドーム広場は格別な場として注目を浴びていたのです。王の騎馬像は革命のときに破壊され、台座の一部はルーヴルに保管されています。

フランスの文豪 
マルセル・プルースト
リッツがある15番地の所有者になったのはグラモン公爵で1705年に購入。その子孫が長年にわたって住んでいましたが、時の流れと共に所有者は次々とかわります。ロートレック伯爵、ヴィエット侯爵、ブルスロン男爵と。

1850年に生まれたセザール・リッツは、当初はレストランのサーヴィス係り。ところが仕事熱心で社交性にたけ、顧客へのサーヴィス向上に昼夜費やしていた功績が認められ、日の出の勢いで出世し、スイスや南仏、ロンドンのホテルで重要なポストにつくようになりました。
多くの著名人と親しくなったリッツの名声はロンドンで確実なものとなり、彼を支援する人々と共同でリッツ・ホテル・シンジケートを設立し、本格的にホテル経営をはじめたのが1896年。
その年にリッツはヴァンードム広場15番地を購入。


パリをこよなく愛した
アメリカの作家
アーネスト・ヘミングウェイ
リッツ・ホテルのオープニングは1898年6月。新聞が大々的に報道したほどの大ニュースでした。それ以来リッツはパリのエレガントなエスプリが宿るホテルとして、無数の顧客を迎えるようになったのです。プルーストが定宿とし、ウィンザー公爵夫妻が愛用し、シャネルが長年住み生涯を閉じたホテル。

とくにリッツと文豪ヘミングウェイは切っても切れないなか。彼はリッツに足をいれた瞬間から魅了され、通いつめ、バーでドライ・マルティニーを何倍も味わっていたのです。後に収入が上がるとリッツに宿泊し、あいかわらす連日バー通い。

第二次世界大戦でコレスポンダントとして活躍した作家ヘミングウェイは、パリがドイツ支配から開放された1944年8月25日に、いち早くリッツに駆け込み、バーで自由のために乾杯。
ヘミングウェイ・バーの
個性的なメニュー。
表は1944年8月25日にヘミングウェイが
リッツに戻ったとか、
リッツを開放したとの報道。
その裏にバーで味わえる飲み物が書いてあります。
数年前にいったときに記念にいただいておいて
よかった。
そのバーは「ヘミングウェイ・バー」と呼ばれるようになり、工事で閉鎖されるまで健在でした。

現在のオーナーはエジプト人のモハメッド・アルファイド。
今回大々的にリニューアルを行い、パラスホテルにふさわしい豪華なホテルにするのでしょうが、
私の唯一のお願いはバーを以前のままの状態で残して欲しいこと。
何しろそこはヘミングウェイの時代そのものを味わえる、貴重な場なのだから。
ヘミングウェイが好んで通っていたキューバのバーと同じように、天井には古めかしいプロペラ式扇風機が付けられ、タイプライターも当時のもの。
壁にはヘミングウェイのたくさんの写真が飾られ、落ち着いた色合いのイスもテーブルもヘミングウェイに思いをはせさせないではいない。

二年半後にいかなる姿を見せるか、今から多くの人が待ち焦がれています。
もうすでに予約を入れている人も多いのに違いない。
どのようなオープニングパーティになるか、それも今からわくわく。
いずれにしても、大イヴェントになることは確か。
そのときにはまたブログでお知らせします。

2012年8月12日

フランス人はエジプト大好き

最初の訪問はカイロ近郊の
サッカラにある世界最古の
ピラミッド。
フランス人はエジプトに並々ならない関心を抱いている国民です。
そのエジプトで常に引き合いに出されるのがナポレオン。

中でも、ナポレオンの名言はくり返し語られています。
カイロでの激戦を直前にした1798年のことです。
「ピラミッドの頂から、4000年の歴史が諸君を見つめているのだ」
何という才知に富み、何という博学で説得力ある言葉。

カルナック、アメン神殿の
大列柱。気絶しそうなほど壮麗
ナポレオンのこの言葉に戦闘心を掻き立てられた兵士たちは、彼のため、フランスのために命をかけて戦ったのだから、ナポレオンはやはりすごい。まだ皇帝になる前のことでした。言葉がいかに人の心を動かすか、ナポレオンはそれにたけ、践していた人。彼が子供のころから憧れていた英雄、古代マケドニアのアレキサンダー大王やローマのシーザーのように。

ナポレオンのエジプト遠征が、単なる遠征に終わらなかったことも素晴らしい。遠征隊がロゼッタで作業にあたっていたときに見つけた石盤に、エジプトの文字ヒエログリフ(象形文字)が書かれていて、その重要性を直感t的に見抜き、後に解読に成功したのです。

ルクソールのメムノン巨像
難解なヒエログリフ解読をライフワークとし、解き明かしたのも若きフランス人、シャンポリオン。彼の功績により、それまで謎が多かったエジプトの歴史や文明が解明されたことは、フランスの大きな誇り。

ロゼッタ・ストーンは後年にイギリスにもって行かれ、今では大英博物館にあるものの、ナポレオンのエジプト遠征のお陰で、エジプトの偉大な過去が世界に知れ渡ったのだから、エジプト人のフランスへの評価も大きい。
だから、エジプトに行くときには絶対にフランス人のツアーで行くべきだ。なぜならいいことばかりにちがいない、と私は正当な理由を考え参加。

フェラエ島のイシス神殿
エジプトとの関係が深いフランスには、ナイル川下りの船中も含めて連日の講義つきツアーがある。
これに参加すればエジプトがしっかりわかるはず。
しかも、夏に行けば40度をこえる気温だから、体の奥底まで強烈な印象が残る。エジプトは盛夏に行かなければならない。
そう考えての真夏のエジプト見聞の旅。

ところが、やはり、厳しい。外はまるで酸欠しているようで、息も十分に吸えない。
ほんとうに猛烈に暑いのです。
どの写真を見ても頭を布なり帽子でしっかり守り、サングラスで目も見えない。例外は、エジプト民族衣装での船上ディナーのときだけ。これでは一体誰が写真に写っているか判断しにくい。

経験してわかったことは、これだけの暑さになると肌を出すのがいいのではなく、布で隠して保護しないと焼けるなどどなまやさしいものではなく、焦げてしまうのです。

いろいろと学んで知識が増えたようだけれど、あまりにもたくさんの説明があり、しかも舌がからまりそうな人名や神殿、神様の名が多くて、学んだことが頭の中で複雑に混ざり合い、解明にかなり時間がかかりそう。

ナイル川船上でのディナー。
エジプトの民族衣装で。

2012年8月10日

シャトレのつぶやき 59 思い出のアルバム1

ハロー、ボンジュール


いまさらながら、たくさんのファンがいることを知って大カンゲキ。
ナニしろワタシのブログが見れなくなって、
すご~くさみしい、すご~く悲しいっていうメールを、
ママンがたくさん受け取ったの。

どうしてわかったかというと、
今はとてもベンリなジダイで、
ロボットが火星におくられて、地球にたくさんの情報を送れるの。
ワタシの一番のお気に入りだった
場所。ここにいるととっても安心。
つまり安全地帯なの。
くわしいことはわからないけれど、
とにかく科学のシンポのおかげで、
遠くはなれていても連絡がとれるのネ。

それでママンにお願いして、とっておきのアルバムを
思い切って公開することにしたの。

これからの「思い出のアルバム」毎回楽しみにしてね。