2024年11月27日

クリスマス装飾、これも絶対に見逃せない

クリスマス装飾の追跡は、まだ続きます。あれもこれもとすご~く忙しい、でも、キレイな光景を見ると心が浮き立って、精神にいい栄養を与えてくれるのが、よくわかる。

クリスチャン・ルブタンだから赤がいっぱい。
ヒールも値段も高すぎて、私には無理。でも見るのは大好き。
この淡いブルーのパケジングは・・・そう、もちろんティファニー。
ポエティックなディスプレイが愛らしい。

ココ・シャネルがこよなく愛した素材はツイード。
そのリボンで包まれたサントノレ店。
ツイードを見るだけでシャネルとわかるのだから、すごい。
服やバッグやだけでなく、硬い貴石のハイジュエリーさえも、
しなやかな布地ツイードの感触を出しているのだから
驚嘆するほかない。

ヴァンクリーフ&アーペルのディスプレイは、
いつも物語を語っているようで、見るのが楽しみ。
清浄な美しさに惹かれます。
ディオールのジュエリー店は、
外観そのものがジュエリーなのが魅力。

カルティエの象徴「トリニティ」が誕生したのは1924年。
今年はその100周年。ラ・ペ通りの本店は、
インパクトがある大きなトリニティの装飾で話題を呼んでいます。

2024年11月24日

クリスマスの夜景、ひたすらうっとり

毎年、パリにさらなる魅力を与える季節。クリスマスの喜び、美しさ探求の旅は続きます。

ヴァンドーム広場のこの美しさ。シックで華やか。

パリは大人の街だとつくづく思うのは、こうした空間に身を置いた時。

カメリアとコメットが、
ひときわの輝きを放つシャネルハイジュエリー店。

現実から遠く離れた夢の世界に引き込むディオール。
やはりモード界の王者にふさわしいインパクトがある。

シンプルで品格あるルイ・ヴィトン。

でも、ショーウインドーはカラフルで
夢幻の世界。

2024年11月19日

ギャラリー・ラファイエット、キラメキのクリスマス

 創立130年周年を迎えたギャラリー・ラファイエットのクリスマス装飾は、思っていた以上にきらびやか。デパートの象徴のクーポルの下に飾られた大きなクリスマスツリーは、パリのオシャレを放っていて、軽やかで、気品があり、ゴージャス。時々ミュージックに乗りながら色が変わるのも、心が浮き立つほどキレイ。夢があふれるほど満ちていて、幸福感が高まります。


クーポルの真下で輝きを放つツリー。
ため息が出るほど素晴らしいセンス。

パリならではの洗練された美しさ。

無数のゴールドの大きな星が
天井から舞い降りています。

クリスマスプレゼントがあちらこちらで待っています。

130周年を記念するオーナメントもいっぱい。

カラフルなショーウインド。
軽快な音楽が絶えなく鳴り響き、
それに合わせて人形もオブジェも何もかも動き、楽しさがはじけています。

夢の国にいるようでずっと見ていたいほど。

オシャレな鳥たちも嬉しさを全身で表しながら、
広い空を飛び交っています。

2024年11月16日

クリストフルの高貴な輝き

 フランスが誇るシルバーウエアの老舗クリストフルの製品には、不思議なパワーが秘められている。それを、たった一点でも手にすると、自分が高尚な人になったような想いをいだかせるから不思議。現在、パリ装飾美術館で開催されている展覧会は、1830年のクリストフル創立以来の稀有な品ばかりで、その一点一点から放たれる高貴な輝きに圧倒される。

クリストフル創立者、シャルル・クリストフル
1805-1863

クリストフルの画期的な飛躍は、1844年に始まった。この年から金銀の電子メッキの技術を導入した製品を手がけるようになったのです。それ以前の銀製品は純銀で、高価過ぎ、裕福な王侯貴族のみが手に出来る超高級品で、高嶺の花だった。それが、メッキ技術のお蔭で、一般の人も買えるプライスとなり、世界に大きく羽ばたく製品となったのです。

今回の展覧会には創立時代から現代にいたる製品、デッサン、絵など展示作品は約600点にも及ぶ大規模なもの。特に見応えがあるのは、変化に富んだテーブルセッティング。フランスが世界に誇るアール・ドゥ・ヴィーヴルを堪能できます。その他、家具、オブジェ、彫刻、アクセサリーなど多岐にわたる作品が展示されていて、このメゾンの素晴らしさに魅了されます。

1860年代の豪華なテーブル・セッテイング。
クリストフルのゴージャスな燭台、センターピース、カラトリー。
グラスはバカラで、食器はセーヴル焼き。

1935年に建造されたフランス豪華客船ノルマンディー号の
ファーストクラスのダイニングルーム。
45000点ものカラトリ―すべてがクリストフル。

1883年に誕生し1930年代まで走行していた、
パリとイスタンブールを繋ぐ、オリエント急行の6日間の旅は憧れの的でした。
そのダイニング車で使用するクリストフルのカラトリ―は、
洗練を極めたインテリア、窓の外に見える風景と相まって、
忘れ得ぬ思い出を届けていました。

セーヴル焼きとクリストフルが華麗なハーモニ―を生んでいます。
1856年ー1857年作

「ルイ16世」様式風のテーブル。
1784年にマリー・アントワネットのために製作したテーブルを
ナポレオン3世皇帝の妃ウジェニ―が購入し、
それを多少アレンジし1871年のロンドン万博に出展した作品。

「ルイ14世」様式のティーセット。1855年作

若い日本の女性と男性の彫刻。1875年作。
1878年のパリ万博に出展。
顔の表情も着物も驚くほどの観察力と技術。
銀、金、銅を使用。
日本が万博に初めて出展したのは、1867年の第2回パリ万博。

1873年作の豪華な置時計。
日本、中国の七宝焼きとクリストフルの組み合わせが独走的。

コンテンポラリーな作品やアクセサリーも人気。

エリゼ宮や主だった省の晩餐会では、
この19世紀末の
クリストフルのシルバーウエアは現在も使用。

パリ装飾美術館での展覧会は2025年4月20日まで開催。フランス人がこだわる食卓アートをこの機会に味わってください。


2024年11月13日

マリー・アントワネット自叙伝 40

チュイルリー宮殿が新しい住まい

ルイ14世の時代には、宮廷が置かれていたチュイルリー宮殿でしたが、国王がヴェエルサイユ宮殿を居城とした1683年から、チュイルリー宮殿はほとんど放置され、ルイ15世が幼いときに短期間ですが暮らしたそうです。その後は、アーティストや生活に困っている人たちが好き勝手に住んでいたのでした。そのために、私たちが暮らすようになったとき、荒れ果てた状態で、デリケートな息子は思わず悲鳴をあげたほどでした。きっとお化け屋敷に思えたのでしょう。

巨大なチュイルリー宮殿。私たちが暮らしていたのはこの一部。
庭園は誰もが自由に入れました。

タペストリーもカーテンも破れ、窓ガラスも割れていて、冷たい風が吹きこんでいました。ドアもきちんと閉まらないので、養育係のトゥルーゼル夫人は、家具を積み上げてドアが開かないようにし、それでも心配なので、夜通し寝ないで息子を見守っていたのでした。

パリに暮らすようになったとはいえ、国王一家の身分に変わりはありません。ですからそれにふさわしい内装が必要。翌日からヴェルサイユ宮殿からたくさんの家具が運ばれてきました。馴染み深い家具を身近にしたときには、親しい友人に再会したようにうれしかったものです。

チュイルリー宮殿で使用していた家具。
ヴェルサイユ宮殿から運んできた家具もありました。

親しい人といえば、フェルセンさまは私たちがチュイルリー宮殿に入る前にそこに行き、お迎えしようと考えていたのです。ところがサン・プリースト国務大臣が忠告したのです。
「貴殿と王妃が特別に親しいことは、皆、知っている。今は非常に微妙な時期であるから、国王ご夫妻にご迷惑がかかることも考えられるので、慎重にするように」
国務大臣の意見をもっともだと判断して、あの方は私たちが到着した日には宮殿に姿を見せませんでした。でも、フェルセンさまは宮殿からさほど遠くない館に住んでいたので、少し希望が湧いてきました。

 ヴェルサイユ宮殿から家具が運ばれてきて、一応、精神的に落ち着いたのですが、私たちの生活は規制され、それが日に日に厳しくなっていきました。夫の最大の趣味の狩猟は禁止されたし、舞踏会やコンサート、観劇もありません。あれほど愛していた離宮プティ・トリアノンも、庭園も、村里も、王妃の劇場も何もかも、すべて過去の中に追いやられてしまいました。チュイルリー宮殿の庭園のお散歩をするのにも、国民軍衛兵が見張っていました。庭園は一般に公開されていたので、パリ市民の憩いの場として誰でも入れたのです。チュイルリー宮殿は広大でしたが、私たちが使用できる部屋数は限られていました。不便だったし不満だったけれど、私たちの権限はすっかりなくなり、改善を頼むことは不可能でした。

国民軍衛兵に見守られながらお散歩。

近衛兵の代わりに国民衛兵軍兵士が宮殿の外も中も見張っていて、息苦しさを覚えるほどでした。ときどきお散歩を許されたのは、せめてもの慰みでした。そうした日々の最大の慰みは息子と娘でした。この子たちがいなかったら、屈辱の生活に耐えられなかったでしょう。義理の妹エリザベート王女さまも、女官長のランバル夫人も、同じ宮殿に暮していたので、頻繁にお会いしていました。夫の弟プロヴァンス伯夫妻は、カルチェ・ラタンにあるリュクサンブール宮殿に住み、ときどきお食事のためにチュイルリー宮殿にいらしていました。

パリ郊外のベルヴュ城に暮らしていたおば様たちは、そのままそこで監禁状態で生活していましたが、何回かお食事のためにチュイルリー宮殿に足を運びました。革命が起きる前に、ソフィー王女さまは47歳でお亡くなりになっていたので、私が特に嫌っていたアデライード王女さまとヴィクトワール王女さまのお2人だけです。性格が悪い人ほど長生きするのですね。気丈な人は精神力が強くそれが長生きさせるのでしょう。

おば様たちが暮らしていたベルヴュ城。

おば様たちが暮していた時代のベルヴュ城庭園には、村里がありました。プティ・トリアノンのお庭のはずれの、私のお気に入りの村里に似ていたそうです。やはり私に抑えきれないほど嫉妬していて、それに対抗するように造らせたのでしょう。ベルヴュ城は、ルイ15世が愛妾ポンパドゥール夫人のために建築させたシャトーで、国王亡き後私の夫のものになり、後に、おば様たちにプレゼントしたのです。何しろヴェルサイユ宮殿のファーストレディはこの私ですから、居心地が悪く、別のシャトーに暮らしたがっていたのです。それに窮屈な儀礼を逃れたかったのでしょう。私だって本当はそうしたかった。意地悪なおば様たちは、私嫌いの人をベルヴュ城に集めて悪口を楽しんでいたのです。そういう噂は私の耳にも入っていました。それだからといって、生まれつき性格がいい私は意地悪などしませんでした。ほんとうです。デュ・バリー夫人の件だって、おば様たちの策略に私がはまっただけです。

ある日大きな不幸が突然訪れました、お兄さま、ヨーゼフ2世が亡くなったのです。お兄さまが、あの、大好きで頼りがいがあったお兄さまが旅立ってしまいました。ほんとうに何てことでしょう。窮地に追いこまれ、援助を必要とている時期だというのに。1790年2月20日の事でした。

お父さまが逝去された後、ヨーゼフ2世として、お母さまと共同で帝国を治めていたお兄さまは先進的な人でした。啓蒙主義者で、国民のために精力的に改革をし、文芸人でもあったお兄さまは、モーツアルトを庇護したり、ドイツ語の普及にも貢献しました。あまりにも多くの改革をしたので反感をかうこともありましたが、帝国の近代化はお兄さまの勇気ある決断あってのもの。行動的なそうしたお兄さまを頼りにしていたのに、1790年2月20日に病で亡くなったのです。48歳の若さでした。

頼りがいがいがあるヨゼフ2世お兄さまでした。

立派な葬儀が執り行われたそうです。

このころから、私の悲劇は加速度的に深まったように思えます。ヨーゼフ2世お兄さまには跡継ぎがいなかったので、私のすぐ上のお兄さまがレオポルト2世と名乗って即位したのですが、わずか2年後に亡くなってしまい、その後皇帝になったのは、その息子のフランツ。彼が2歳のときに私がフランスにお嫁入りしたので、ほとんど記憶にない人。頼りになるわけがありません。その間にフランスの状況は悪化する一方でした。幸いなことにフェルセンさまがいらして慰めてくださいました。その当時の様子を彼はお妹さまにお手紙で知らせていました。

・・・何てお気の毒な人よ。

   行動にしても、勇気にしても、繊細な心にしても天使のような方です。
   このような人を、どうして愛さずにいられることか。
   あの人は大変不幸ですが、勇気を保っています。
   私は可能な限り慰めるようにしています。
   そうしなければいられないのです。
   あの人は私にとってパーフェクトな女性なのだから・・・

フェルセンさまが暮らしていた
マティニョン通り17番地の貴族館。
王家に忠実な由緒ある
ブルトゥイユ伯爵の館のひとつ。

パリの中心にあるこの館から、
フェルセンさまは
チュイルリー宮殿に来てくださいました。

1789年からマティニョン通りの貴族の館に暮らしていたフェルセンさまは、私に会うために何度もいらしてくださいました。彼がお出でになると私の顔が明るくなるので、夫も喜んで迎えていました。私のために何でもする覚悟があるフェルセンさまと、2人の子供たちがいなかったら、最悪な日々を耐えることはできなかったでしょう。実際に、みじめな我が身を思って、ほとんど毎日泣いていました。実家はあてにならないし、夫の家族も、義理の妹以外は敵のような存在で、信用できない人ばかり。側近もいつ裏切るかわからない。その上、八方ふさがりの中で、夫が適切な判断を下すこともできないでいるので、イライラするばかり。こうした環境の中で暮らしていた私は、必然的に強くならざるを得なかったのです。 

2024年11月8日

ヴァンドーム広場の現代アート

 現代アーティストの作品は、凡人には理解しがたいのが多い。今、ヴァンドーム広場に展示してある彫刻も、最初見た時には大きな鳥かと思ったけれど、反対側を見て説明を読むと、とんでもない。非凡なアーティストの作品は、解説を読まないといけないのです。

凡人の私には、大きな鳥に見えた作品。


実際は大きな3つのシャンピニオンが重なり合っている、
鬼才カーステン・ホラーの作品。

これはカーステン・ホラー(と言っても、まったく知らなかった)の作品で、タイトルは「巨大な3重シャンピニオン」アルミニウム、ステンレス鋼で製作。カーステン・ホラー(名前がまたすごい)は1961年にベルギーで生まれたドイツ人で、スウェーデンに暮らしているアーティスト。

有能な昆虫学者で、生物学と美学の調和を目的としているそう。人間を冷静に観察し、生物学、動物行動学、ヒューマニズムを調和せさる。それを形あるものとして表現し、伝えようとするのだから、むずかしい・・・・

ともあれ、ルイ14世の時代に造られた優雅な建造物に囲まれ、しかも、ナポレオン皇帝が頂上に君臨している円柱近くという、重要な歴史を刻む広場で、このような現代アートを鑑賞できること自体が、素晴らしい。

2024年11月4日

マリー・アントワネット自叙伝 39

 アデュー ヴェルサイユ

10月6日朝方6時ころ、群衆が宮殿正面玄関にあたる「名誉の門」を突破して、「名誉の中庭」に入り込み「大理石の中庭」にまで迫ってきたのです。そのすぐ上は王の寝室です。

「大理石の中庭」ここに入れるのは高位の人だけ。
2階の中央が王の寝室。ルイ14世の時代から同じ場所です。

その後数人が武器を手にしたまま「大理石の中庭」の左手にある「王妃の階段を駆け上り、「控えの間の外で私の護衛に当たっていた2人の衛兵をきりつけました。その内のひとりの衛兵が断末魔の声をあげ、それを耳にした私の侍女のひとりアンギエ夫人がドアを細く開けると、

「王妃を救え、暴徒たちが殺すために宮殿に入って来た!

と苦しそうに告げて、息絶えたのです。

アンギエ夫人は二つの間を通り抜け、その先にある私の寝室に走って入って来て、手短に言いました。声は震え、顔は恐怖で蒼白でした。

「暴徒たちが宮殿に入ったのです、一刻も早く逃げなければなりません!

侍女のうわずった声にせかされて、簡単に身支度を整え、ベッドの左側にある秘密のドアを開け、狭い通路を急ぎ足で夫の寝室へと向かいました。

大理石の「王妃の階段」
ここを武器を手にした暴徒たちが上って来たのです。
一刻も早く逃げなければと告げた、
侍女のひとりアンギエ夫人。

「王妃の寝室」
ベッドの左側の壁の一部はドアになっていて、
ここから王の寝室に行けるのです。
宮殿にはいざという時のための隠し扉がいくつもあるのです。

やっと夫の寝室につき、ドアを必死に叩きましたが、聞こえなかったのか、重いドアは一向に開きません。1度、2度、3度、冷たくはだかるドアを叩きながら、私は恐怖の固まりになり、流れる涙をふく余裕すらありませんでした。数分後にやっとドアが開けられた時には、疲れがどっと出て、声も出せないほどでした。まだ目覚めていない眠そうな顔の息子と娘も、侍女や侍従に守られながら夫の部屋に入り、家族全員の無事な姿を見た時には、安心から力が抜けて立っていられませんでした。


国王一家を命をかけてお守りしますと豪語したラファイエット将軍が、そのころまだベッドの中でまどろんでいたのは信じがたいことです。やっと彼が国民衛兵と到着し、宮殿内にいた暴徒たちを全員追い出し、少し安堵しました。


パンも小麦粉も必要なだけあげますと、夫は群衆に約束し「人権宣言」にも署名し、自由と平等を正式に認め、これで満足してパリに戻って行くかと思ったら、群衆は、何が何でも国王一家をパリに連れて行き、自分たちの近くに住ませるのだと言い張るばかりでした。宮殿から追い払われたパリ市民たちは、国王の寝室の下にある大理石の中庭に集まり、「王をバルコニーへ!と、大合唱をはじめました。それに応えて夫が姿を見せると、「国王バンザイ!」の声が、あちらこちらから上がりました。


群集の「王をバルコニーへ」の大合唱におうじて、
夫は寝室の外のバルコニーに出て手を振り、
万歳の嵐に包まれました。

これでパリ市民たちが満足したと安心したのです。ところが、その後、下から響いてきた声は夫を、私を、側近たちをも緊張させる言葉だったのです。

「王妃をバルコニーに!

「王妃をバルコニーに!

数年前から「オーストリア女」とか「赤字夫人」などと呼ばれ、国民から嫌われていることを知っていたので、銃や槍を手にする気が立った群衆の前に出たら、と誰もが心配したのです。でも、王妃の自覚があった私は意を決して、娘と息子の手を取りバルコニーに出ようとしました。その時です、

「子供はダメだ!

と叫び声が響いたのです。つまり私だけを要求したのです。さすがの私も一瞬、体が硬直しました。それを見てラ・ファイエット将軍が私をうながし、一緒にバルコニーに出てくださったのです。毅然とした態度を崩さない王妃に向かって、群衆は国王のときのようにバンザイの声を上げることもなく、恐ろしいほどの沈黙が両者の間に流れていました。それを危険だと悟ったラ・ファイエット将軍が、私の手を取り、うやうやしくキスしたのです。国民衛兵軍最高司令官が王妃に敬意を示したのです。その途端「王妃バンザイ!」の声があがり ほっとしました。表面的には王妃の威厳を保っているように見えたかもしれませんが、実際には恐怖で足が震えていたのです。


私が意を決して恐怖で震える心を抱えながらバルコニーに出ると、
誰もが言葉を失ったかのように、あたりが沈黙に包まれました。
そこに大きな危険が感じられ、恐ろしさで卒倒しそうでした。
その時ラ・ファイエット将軍がバルコニーに進み出て、
私に敬意を示し、群集の沈黙を破って下さったのでした。

 群衆は繰り返し「パリへ!「パリへ!」と叫んでいました。それほどパリに行くことを望むのであれば、と夫はパリに行くことを承知しました。私たちが馬車にのせられて、ヴェルサイユを離れたのは午後1時25f分でした。馬車はそのままパリへと向かったのですが、ノロノロと走るので7時間はかかりました。その道中、好奇心にかられた国民が、私たちを見物するために騒ぎながらよってきて、遠慮なくジロジロ見るので屈辱に耐えるのがやっとでした。そうした時でも、できる限り王妃の気品と威厳を保つ努力をしていました。それが私の無言の、それでいて力強い抵抗だったのです。馬車を取り囲む女性たちは、まるでお祭のように騒いでいたし、中には、はしゃいで大砲の上に乗る人もいてびっくりしました。それを馬車の中から冷たく見ていた私でした。

宮殿の正面玄関で馬車にのりましたが、
まさか、これが多くの思い出がある宮殿との
永遠のお別れになるとは思ってもいませんした。

パリまでの行進の先頭に立ったのは国民衛兵で、小麦やパンなどを山のように積んだ多くの荷車を囲むパリ市民たちがそれに続いていました。その後ろを近衛兵が王家の人々の馬車を守るように行進。馬車には夫、私、2人の子供、養育係り、夫の弟のプロヴァンス伯爵、夫の妹のエリザベート王女さまがのっていました。誰もひとことも発することもなく、ただ馬車の揺れに身を任せていたのです。時々、夫がハンカチで涙を拭いて、心が痛みました。側近や親しい貴族たちの馬車が私たちのすぐ後方にいたのは、心強いことでした。後で知ったことですがフェルセンさまもそうした馬車に乗っていたのです。


馬車の周りには多くのパリ市民が群がり、
気分が悪くなるほどでした。

馬車がパリに着いたのは、暗くなり始めたころで、パリ市長バイイが、まずトロカデロの丘の城門で出迎え、その後揃ってパリ市長舎に向かいました。

「パリに国王ご一家をお迎えすることはこの上もない光栄なことでございます」

などと、バイイが歯が浮くような心にもないことを言っていましたが、本当はパリに私たちを連れてきたことを自慢したかったのだと思います。

あたりが暗くなりはじめたころにパリに着きました。
どこも大騒ぎする群集でいっぱい。

チュイルリー宮殿に着き、馬車をおりたときには
すっかり暗くなっていました。


それが終わってチュイルリー宮殿に入ったのは夜10時。そこが私たちの新しい住まいなのです。その時点では、この宮殿は仮住まいで、いつかヴェルサイユ宮殿に戻れると誰もが信じていました。