2018年5月28日

メトロの駅名は語る 87

Boucicaut
ブシコー(8号線)

セーヌ左岸にあるパリ最初のデパート、ボン・マルシェ創立者ブシコ―夫妻の名を冠しています。

アリスティッド・ブシコー(1810-1877)

マルグリット・ブシコー(1816ー1887)

実業家アリスティッド・ブシコーがデパートを開業したのは1852年。彼亡きあと、さらに発展させたのが妻マルグリットで、ブシコ―夫妻はフランスのデパートのパイオニアと呼ばれています。

当初、父が経営する地方の小さな帽子店で働いていたアリスティッド・ブシコーは、その後パリに出てバック通りにあったショップ「プティ・トマ」の販売員になります。

年がたつに連れて実力が認められチーフに昇進。そのころにマルグリットと出会い結婚します。「プティ・トマ」が不況にあおられて閉店すると、ブシコーはそこからさほど遠くない場所にあった「ボン・マルシェ」と呼ばれる、ヴィドー兄弟が経営する小間物店で働くようになります。

1863年、小さい規模の時代のボン・マルシェ。

1892年には、クライアントでにぎわう
大きなデパートになっていました。

エッフェル塔を建築したギュスタヴ・エッフェルが
デパート大改造に加わり、
鉄骨とガラスの劇場のような建造物になったのです。

やがて両者の間に信頼関係が生まれ、それまでに蓄えた貯金をはたいてヴィドー兄弟と共同経営者になり、またたく間に主導権を握り、多種の製品を販売するデパートをオープン。1852年のことで、ヴィドー兄弟は1863年に引退します。

事業拡大に情熱捧げるブシコーに、女性ならではの感性で様々なアイディアを提供したのは、妻マルグリットです。

製品は誰でも手で触っていいことにする、全ての製品に価格を表示する、例えばクリスマスにはおもちゃを多くするなど季節によって品を変える、バーゲンをする、買った品の返品や変更を許可する、カタログ販売で地方や外国の人も買えるようにする・・・・ショッピングは主に女性がするので、女性用洗面所を作り、妻の買い物中に夫たちが退屈しないよう図書館も作りました。

成功に成功を重ね、パリ近郊のシャトーの持ち主にもなります。

「ボン・マルシェ」は安いという意味で、当初はその名のとおり買いやすい価格の大衆向きデパートでした。

時と共に地方や外国からも買い物客が殺到するようになり、そうした人々の宿泊を考えて、徒歩で数分の場にホテル建築をうながしたのはマルグリットです。それがホテル・リュテシアです。

1877年に夫を、その2年後に一人息子を失ったマルグリットでしたが、気丈に事業発展につくし、ボン・マルシェは例を見ない飛躍を続け、デパートの重要性を世界に示します。

1900年にパリで万博が開催された年のボン・マルシェ全景。

子孫がいないマルグリットは、自分亡きあとパリの病院を管理する機関を受遺者とする遺言を残します。

マルグリットの遺言に基づいて建築された
15区のブシコー病院。

遺言に書かれていたマルグリットの希望のひとつは、パリ左岸に病院を建築することでした。それが1897年に完成した15区のブシコー病院です。

マルグリットにふさわしい盛大な葬儀。

マルグリットが残した莫大な遺産はそのほかの慈善事業にも活用され、彼女が生涯を閉じたときには、サン・トーマ・ダカン教会で盛大な葬儀が行われました。

デパート・ボン・マルシェが見える小さな公園に、ブシコーの名が残されています。そこからデパートを見ると、感慨深いものがあります。

2018年5月22日

母の日間近、だからピンクがいっぱい。

今年のフランスの母の日は5月27日。
その日が近づいているので、パリのウインドウも花盛り。

ピンクやお花が母へのオマージュにふさわしいのか、ウインドウで見かけるのはピンクフラワーが多い。

どれを見ても心に温かみが宿っていい。
ご一緒にウインドウを楽しみましょう。

チョコレートショップの大きなウインドウいっぱいに飾られたバラ。
立ち去りがたいほどキレイ。

プレゼント用のお洒落なボックスが、
すべてのママンに喜ばれそう。
この時期は香水店は大盛況。
母の日のプレゼントに香水を買い求める人が多いのです。
思わず立ち止まってしまうインパクトある花たち。
パワーをいっぱいもらえそう。

超豪華なジュエリーのお花たち。
私もいつか・・・・
などと夢見るのもいい。

それにしても本当に素晴らしい。
見ているだけで豊かな気分。

2018年5月19日

メトロの駅名は語る 86

Tolbiac
トルビアック(7号線)

現在のドイツのケルン近くにあったトルビアックでの戦いから生まれた駅名。

クロヴィス1世が勝利を得たトルビアックの戦い。

学生街にあるパンテオンの壁画に描かれている「トルビアックの戦い」
ライン川上流を原住地としていたゲルマン部族のアレマン人相手の戦いで、フランス初代国王クロヴィス1世が戦勝。

496年のその戦いはハイデルベルク近くのトルビアックで展開したために「トルビアックの戦い」と呼ばれています。


フランス最初の国王クロヴィス1世と妃クロチルド。

この戦いの勝利に感謝し、敬虔なカトリック教徒だった妃クロチルドのすすめにしたがい、クロヴィスはカトリック教徒になる洗礼を行います。

その洗礼はランスのノートルダム大聖堂でレミ司祭によって行われたために、それ以降、歴代のフランス国王の戴冠式がランスのノートルダム大聖堂で執り行われるようになったのです。

2018年5月16日

パリの犬たち 170

春、とってもねむい季節

気候がおだやかで、ねむくてしかたない。
それなのに、ママンが動くたびに適度にゆれて、ますますねむ~いワン。

もうダメ。これ以上目を開けていられないワン。
ちょっと失礼しま~す。
スー、スー、スー・・・・・

2018年5月14日

母の日

国によって異なる母の日。
日本は今年は5月13日、フランスは5月最終日曜日と決まっているので27日。

フランスで母の日を祝うようになったのは1906年で、アルタスという小さな村が発祥地とされています。
その村で、9人の子供を持つ母親に感謝するお祝いをしたのが始まりとか。

母の日の起源はギリシャで、紀元前にレアを称える祭典が催されたそうです。

きりっとした顔のレア。
神々の母と呼ばれるのにふさわしい容姿のレア。

ギリシャ神話によると、女神レアは子供をたくさん産み、立派に育てます。
ゼウスもポセイドンもレアの子供で、そのほかヘスティア、テーメーテル、ヘーラー、ハーデスの母でもあります。

神々の母のレアを称える祭典が春にあり、それが母の日となったとされています。この神話が世界に広がったのはとてもいいことですネ。

2018年5月12日

メトロの駅名は語る 85

Les Gobelins
レ・ゴブラン(7号線)

フランスの有名なゴブラン織り工場が近くにあるので、このように名付けられた駅。

15世紀半ばに、
ビエーヴル川に面した地に誕生したゴブラン工房。
染織業に従事していたゴブラン家が、パリのビエーヴル川のほとりに染織の工房を持ったのは15世紀半ばでした。

特有の鮮やかな色合いが大人気を呼ぶようになり、16世紀半ばからタペストリーを手掛けるようになります。

繁栄に繁栄を重ね大富豪になったゴブランは、貴族の称号を購入。国務にも関与するようになります。

ブルボン王朝を築いた国王アンリ4世は、パリ郊外の土地をゴブラン家に寄贈し、その領主にまでしています。

ビエーヴル川のほとりのゴブランの工房に、1661年、フランドル地方の
タペストリー職人が入り、翌年、ルイ14世の財務総監コルベールが国費で買い取り、王立ゴブラン工場となります。

当時のゴブラン織り工場の内部。

王立ゴブラン工場を訪問するルイ14世。

国王の歴史的行事を描いたゴブラン織りのひとつで、
国王お抱えの主任画家ル・ブランの絵をタペストリーで表現しています。

王立ゴブラン工場の総監督に任命されたのは、ヴェルサイユ宮殿の主任画家だったシャルル・ル・ブラン。宮殿にはルイ14世の偉業をたたえるゴブラン織りが、壁を飾っています。

ルイ14世の時代に制作された高度なゴブラン織り。
紀元前202年にアフリカのザマで起きた戦いがテーマ。

ルーヴル美術館所蔵。

フランス革命で王立ゴブラン工場は閉ざされますが、王政復古で作業が再会され、現在もその名が世界で語られています。
王朝時代にはセーヴル焼きと同じように、外国の君主への贈答品として国境を越えていったゴブラン織りでした。

2018年5月11日

パリの犬たち 169

しつっこいママン

いつもこうなの。
だっこすると必ずギュッとしめつけるのよ。

こればかりはなれない。
ほんとうにしつっこいの。
それで、上、下、左、右とバタバタ暴れたら、
やっと放してくれたの。

ああよかった、ホッ。
何事もあきらめたらダメ。
努力がたいせつ。

2018年5月9日

メトロの駅名は語る 84

CensierDaubenton
サンシエ・ドべントン(7号線)

植物学者、医者、比較解剖学者のルイ=ジャン=マリー・ドべントンと、この近くのサンシエ道路の名を合わせた駅名。

ルイ=ジャン=マリー・ドべントン(1716-1800)
医学と解剖学をパリで学んだドベントンは、自然史博物館館長を務め、同じ分野のビュフォンと共同で、200種類もの四足獣に関する書物を著す。

ドべントンは比較解剖を最初に手掛けたひとりで、19世紀の解剖に大きな貢献をしています。

自然史大学、コレージュ・ド・フランスなどで教鞭を取り、科学辞典の執筆も手掛けた他、羊毛の改善にも興味を抱き、羊飼いの心得や飼育の仕方の指導書も書いています。

ドべントンの名が付けられたコウモリが、日本では北海道だけにいるそうです。

革命が起きた初期に元老院議員に選出され、84歳の長寿を全うしました。

2018年5月7日

パリの犬たち 168

趣味が合わない

エッ、これからカフェに行くの?
こんなにいいお天気なのに、ボク気が向かないよ。
ン?
あっちの人はお散歩をずっと続けると言っている。


悪いけど、あっちの仲間入りする。

じゃ、またいつかね。

2018年5月5日

マリー・アントワンットのお気に入り

プティ・トリアノンの庭園のはずれにある、ノルマンディ―地方に見られる緑豊かな田園を好んだ王妃。

人口の湖を造らせ、そのほとりに藁ぶき屋根の小さな家を数件建てさせ、そこで無名の女性としての幸せな時を過ごしていたマリー・アントワンット。

牧場があり、野菜畑があり、水車小屋など、まるで童話に登場するような村落の中で一番大きい建物は「王妃の家」

長年工事で閉鎖されていましたが、ディオール社の大々的資金援助でリノベーションが完成。そのお披露目に出席させていただきました。


まず、プティ・トリアノンで、
ヴェルサイユ宮殿総監のカトリーヌ・ぺガールさんからリノベーションの説明。

プティ・トリアノンから村落に向かう、王妃の希望で生まれた小道。
お花が満開で、心地よいお散歩道です。

突然、村落が見えてきました。
何度も見ているのに、そのたびに興奮。
晴天だったので、美しさに格別の輝きがあるようでした。

階下にはダイニング・ルームとビリヤード室があり、
このサロンはお二階。
サロンから見える湖。
今までこうした光景は見られなかったので、ひときわの感激。


その先に木製の廊下があり、
そこからの眺めも歓声をあげるほど素晴らしい。

皆、喜びのの声をあげながら、記念撮影。
私も仲間入り。左下には水車小屋も見えます。
廊下の先にベッドルームがあり、
天蓋付きのベッドが気品を散りばめています。
外側の螺旋階段もいかにもフェミニン。
つるバラが手すりを飾ることもあります。
「王妃の家」の裏手に菜園があり、そこでビュッフェ。

何種類ものお料理、デザート、コーヒー、全部いただきました。
何度かお世話になった
ヴェルサイユ宮殿主任学芸員のブノワさん。

メトロの駅名は語る 83

Place Monge
プラス・モンジュ(7号線)

卓越した数学者であり科学者、政治家のギャスパール・モンジュを称える広場名が、そのまま駅名に使用されています。

ギャスパール・モンジュ(1746-1818)

微分幾何学を開発したのはモンジュで、物理をはじめとする多くの分野に活用されています。物理学や数学教授として活躍し、科学アカデミー会員にも選ばれました。

1789年に革命が起きると、フランスでもっとも重要な教授と言われていたにもかかわらず、その職をさっさと捨て革命派に初期から加わります。

ジャコバン党のメンバーになり、そこで後に失脚して処刑されるロベスピエールやサン・ジュストと知り合います。

国王一家が国外逃亡を試みて失敗に終わり、チュイルリー宮殿で厳しい監視のもとに暮らしていた1792年8月10日、パリの有志と軍が宮殿を襲撃。それ以降、国王一家はタンプル塔に幽閉されます。

その日、暫定執行理事会で海軍大臣に任命されたモンジュは、コンコルド広場に面した立派な海軍省で職務に励みます。

その建物はもともと王家の家具や宝飾品、武器を管理していたもので、マリー・アントワネットがパリに滞在するときの居室もありました。

コンコルド広場に面した双子の建物。
右は旧王室家具保管館で後に海軍省が置かれます。

左は現在のクリヨン・ホテルと一部はオートモビルクラブ。

王室家具保管館だった時代には、
マリー・アントワンットの居室もありました。

王妃好みのエレガントな家具ばかり。
下に行くに従って細くなる脚の家具は、
ルイ16世様式と呼ばれ、今でもフランス人が一番好きな様式。

この建物のファサードはルイ15世の時代に建築され、ロワイヤル通りをはさんだ反対側の現クリヨン・ホテルと対になっています。2020年公開を目指して現在工事中です。

海軍省では華やかな舞踏会も開かれました。

誕生したばかりの共和国政府は混乱するばかりで、意見の衝突も頻繁にあり、嫌気がさしたモンジュは1793年、海軍大臣を辞任。

その後、フランス一のエリート校として名高いポリテクニック創立にかかわります。

やがてナポレオンの時代を迎え、ボナパルト将軍の最初のイタリア遠征に加わります。美術にも造詣が深いモンジュは、占領地イタリアの美術品をフランスに送るさいに選択を任されます。

その後、エジプト遠征の際に同行。歴史を重んじるナポレオンは、学術捜査を実施するために各分野の学者を167人も連れて行きます。モンジュはその一人でした。

砂漠の蜃気楼 19世紀初期
彼はエジプトで初めて見た蜃気楼の現象の貴重な記述をします。そのために蜃気楼を「モンジュの現象」と呼ぶこともあります。

数多くの偉業をなしたモンジュは複数の勲章を授与し、1989年にはフランスの栄光のために尽くした偉人の霊廟、パンテオンに遺灰が移されました。

2018年5月3日

パリの犬たち 167

ドッグシッターに連れられて、大勢のお友達とお散歩。

また冬になったように寒いパリ。
でも、元気なボクたちはコートなしでお散歩。

派手な行列だから、かなリ目立つ。
たくさんの人の注目視線が集まって、とってもあったかいワン。
「さぁ、道路を渡るよ。
しっかり前を見て、列から離れないようにね」

ドッグシッター君の言葉にうなずき、緊張しながらGO。
チビを真ん中にして守るように進むボクたち。

ちゃんとした教育を受けてるのがわかるでしょ。
信号が変わらないうちに渡り終えなくては・・・・
じゃ、またね。