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2021年6月20日

メトロの駅名は語る 170

Bibliothèque François Mitterrand
ビブリオテック フランソワ・ミッテラン(14号線)

フランス元大統領フランソワ・ミッテランの名を冠した図書館が駅名になっています。
フランソワ・ミッテラン(1916-1996)

フランソワ・ミッテラン図書館は、複数に分かれているフランス国立図書館のひとつで、1994年に13区に完成しました。L字型のガラス張りの4つの高層ビルが、中庭を囲んで本を開いているように立っている近代的な建造物。

フランソワ・ミッテラン図書館。

この図書館ができる前は、リシュリュー通りの図書館がメインで、私も資料を調べるために、数えきれないほど通いました。現在はフランソワ・ミッテラン図書館が主要となっていますが、リシュリュー図書館も健在で、歴史が感じられる雰囲気が好きなので、今も時々利用しています。
フランス国立図書館の歴史は驚くほど古く、その起源とされているのは1367年に創設された王室文庫。当時の国王はシャルル5世(1338-1380)で、体が弱く読書を好む教養が深い国王で、膨大な蔵書を持っていました。国王は当時住んでいたルーヴル宮殿の塔のひとつに、図書室を設けています。

シャルル5世が暮らしていた時代のルーヴル宮殿。
図書室は北西のラ・フォコヌリー塔に設けていました。

その後、歴代の国王が国内だけでなく、外国遠征などで入手した貴重な文献や書物の収集を続け、それらを様々なシャトーの王室図書館で保管していました。それに加えて、枢機卿であり宰相も務めたリシュリューやマザランが、国王に負けずに蔵書を増やしていたし、裕福な貴族や教会も同じで、フランスが保管する蔵書は、目を見張るほど豊かになっていたのです。

17世紀のマザランの大邸宅内に、
19世紀に設けられたリシュリュー国立図書館。

革命ですべての蔵書は没収され、リシュリュー通りに大規模な国立図書館が生まれたのは1875年で、有力なマザラン(1602-1661)が所有していた、17世紀の豪華な館の一角に創設されました。
マザランはルイ13世に枢機卿に任命され、国王亡き後、幼いルイ14世(1638-1715)の事実上の宰相となり、絶対王政の基礎をつくった大物です。
時が経ち、近代的なフランソワ・ミッテラン図書館が誕生し、リシュリュー図書館から多くの蔵書が移されました。このように、まったく異なる時代に建築された、まったく異なる新旧の国立図書館が共存しているのです。
次々に近代化がなされているパリですが、歴史を刻む建造物の重要性を認識しているので、例え、高額な維持費や修復費用がかかろうとも、保存を優先しています。そうしたパリはやはり文化都市です。精神的な豊かさを養ってくれる、世界でも稀な大都市なのです。

                                          ★ ★ ★
    
「メトロの駅名は語る」は今回で終了いたします。パリのメトロの駅名のいわれについて、多少なりともお役に立てたら幸いです。私自身多くのことを学びました。

2021年6月14日

メトロの駅名は語る 169

Cour Saint-Emillion
クール・サン=テミリオン(14号線)

名産のワイン、サン=テミリオンの名を冠する「サン=テミリオン広場」にちなんだ駅名。

ベルシーにはこのように
ワイン商人のための倉庫が多数ありました。1908年。

このメトロの駅があるベルシー地区には、かつて、ワイン商人用の倉庫が多数あり、フランス南部から運ばれるワインを大量に積んだ列車が発着する駅もありました。
パリに列車で運ばれるワインの中には、まろやかでコクがあり、気品あるサン=テミリオンの赤ワインもありました。1998年にオープンしたクール・サン=テミリオン駅は、その名残で、以前あった駅の中に建築されました。
サン=テミリオンは、ボルドーの北東にある、世界で初めて世界遺産に登録された高級ワインの産地。この地でブドウが栽培されるようになったのは、ローマ人がフランスを支配していた、ガロ=ロマンの時代にさかのぼります。ガロ=ロマンが始まったのは、紀元前1世紀です。当時、この地域は、サン=テミリオンとは呼ばれていませんでした。
町名の由来は、ブルターニュ地方出身の僧エミリオンが、8世紀にこの地を選んで隠遁生活を送っていたためで、サン=テミリオンは聖エミリオンという意味です。
エミリオンはブルターニュ地方のヴァンヌで生まれ、ヴァンヌ公の執事を務めていました。その時代から慈悲深かったエミリオンは、ヴァンヌの貧しい人々に、主君に隠れてパンを配っていたとされています。
後にヴァンヌを離れ、南西の町ソジョンのベネディクト派の修道院に入ったエミリオンは、そこで僧になります。やがて奇跡を起こすようなり、それを伝え聞いた多くの人々が、ソジョンに押しかけるよになったのでした。あまりにも多くの人が奇跡を求めて会いに来るので、疲れ果てたエミリオンは、ソジョンを離れ、森の中の岩を掘り、そこで隠遁生活を送ることにし、767年に生涯を閉じます。

聖エミリオン像。


エミリオンが暮らし、生涯を閉じた洞窟跡に、
11世紀に立派なモノリス教会が建築されました。

エミリオンを慕ってその地に暮らすようになった僧たちは、その界隈で作物を作っているうちに、土壌がブドウに適しているとわかり、ブドウ栽培に力を入れ、上質のワインを醸造するようになったのでした。

2021年5月14日

メトロの駅名は語る 168

Malakoff=rue Etienne Dolet
マラコフ=リュー・エティエンヌ・ドレ(14号線)

マラコフ市(167参照)と、ルネサンス期の作家であり、詩人、哲学者だったエティエンヌ・ドレの名を冠する道路名を表す駅名。「リュー・エティエンヌ・ドレ」はエティエンヌ・ドレ通りという意味。

エティエンヌ・ドレ(1509-1546)

オルレアンで生まれたエティエンヌ・ドレは、パリ、ヴェネツィア、パトヴァ、トゥールーズで哲学、古典、法律を学んだ博学な人です。

「フランス・ルネサンスの父」と呼ばれる国王フランソワ1世に、二巻に及ぶ「ラテン語解釈」の本を献上し、王の賞賛を得て、10年間にわたってラテン語、ギリシャ語、イタリア語、フランス語の彼の著作、あるいは、監修をしたすべての作品の印刷許可を国王から与えれます。勢いに乗ったドレはリヨンに印刷所を開き、ガレノス、ラブレ―、マレの作品を編集しました。

性格が激しい上に、無神論者的な発言を繰り返していたために、多くの敵を持っていたドレは、1542年に発行した、キリスト教モラリストとしての彼の心情を書いたCato Christianusにより、ついには異端者、無神論者と痛烈に批難され投獄されます。

その後も反キリスト教的執筆を続け、投獄、釈放、あるいは脱獄を繰り返し、フランスを逃れイタリアに暮らし、弁護論の本、Le second enferを書きます。この本はフランスで激怒をかい、パリのノートルダム大聖堂前で、焼かれたほどでした。

それを知ったドレは、自己弁護のためにパリに戻りますが逮捕され、監獄に入れられ裁判で有罪となります。罪状は、キリスト教に不可欠な、神の摂理と魂の不死の概念を否定したためでした。

1546年、判決を受けたドレは、異端者の処刑場とされていた5区のモベール広場で、8月3日に火刑に処されました。

モベール広場のドレのブロンズ像。
第二次世界大戦の最中の撤去されました。

1889年にモベール広場にドレのための立派なブロンズの像が造られ、台座に「このモニュメントは宗教的不寛容と、王族の犠牲者となったエティエンヌ・ドレに捧げるために建てられた」と刻まれていました。
その後、思想の自由と世俗主義のシンボルとなっていましたが、1942年に取り払われ、現在モベール広場は大きなマルシェになっています。

2021年3月27日

メトロの駅名は語る 167

Malakoff -Plateau de Vanves
マラコフ=プラトー・ド・ヴァンヴ(13号線)

パリ14区に接しているマラコフ市とヴァンヴ市の駅。1883年 までマラコフはヴァンヴの一部でした。

アンリ・ルソーが描いたマラコフ。1898年作。

マラコフの名は、フランス軍が勝利を得たクリミア半島の「マラコフの戦い」に由来しています。1855年、マクマオン伯爵の指揮の元にフランス軍は勇敢に戦い、セバストポリのマラコフ要塞にたてこもるロシア軍を打ち破ります。

それがクリミア戦争を終結させることになったので、この勝利はフランス各地で熱狂的に祝われ、マクマオン伯爵は1873年に大統領に就任しています。

要塞マラコフの塔を巡る、ロシア軍とフランス軍の激戦。

パリ南部のヴァンヴで生まれた、開発企業を手広く経営していたアレクサンドル・ショヴルは、このマラコフでの戦勝に感激し、フランス軍の栄光を称える「マラコフ塔」を生まれ故郷に建築し、ヴァンヴから分離した塔がある地域はマラコフという名の町になったのです。

フランス軍の栄光を称えるマラコフ塔。

1856年に造られた50メートルもの高さのマラコフ塔は、エッフェル塔ができる前のパリの最も高い建造物で、中に入ることもでき多くの観光客が訪れ、重要なモニュメントになっていたのですが、19世紀初頭に取り壊されました。

一方、ヴァンヴの歴史は長く、1163年の資料によると、この地域は有力なサント=ジュヌヴィエーヴ修道院に属していました。1700年にはブルボン家支流のコンデ公がシャトーを建築させ、ルイ13世、ルイ14世の時世に活躍したフランソワ・マンサールを建築家として選んでいます。

コンデ公が建築させた豪勢なシャトー。現在は校舎になっています。

ナポレオンが最後の戦いを失いパリに戻った1815年に、敵のイギリス軍司令官ウエリントン公とプロセイン軍司令官ブリュヘル元帥が、コンデ公のシャトーに司令部を置いていた時期もありました。歴史的建造物に指定されているその建物には、現在、高校とエリート校グランゼコールへの準備学級が置かれています。

現在ヴァンヴは3つの地域に分かれていて、メトロの駅がある場所はプラトーと呼ばれ、高層ビルが多く近代的です。

2021年3月18日

メトロの駅名は語る 166

Plaisance
プレザンス(13号線)

この駅がある界隈は、19世紀初期まで広大な農地が広がっていました。石切り場や風車もあったり、狩猟が行われたりしていた時期もあり、1860年にパリ市に合併されました。駅名プレザンスは、この地にあった農家プレイサンスが起源とされています。

領主はサント=ジュヌヴィエーヴ修道院で、現在の学生街5区からプレザンス駅がある14区まで広大な土地を持っていたのです。威勢を誇っていた修道院でしたが、革命で破壊され、今はアンリ4世高校の一角に当時の建物の一部が残っています。

1618年のサント=ジュヌヴィエーヴ修道院。

19世紀には、レストランやキャバレーが立ち並ぶようになり、活気を帯びた地域になります。その中でもっとも人気があったのは「メール・サゲ」と呼ばれていたキャバレーで、特に文芸人の好む場所でした。1830年代には画家ドラクロワ、文豪ヴィクトル・ユーゴーやアルフレッド・ド・ミュッセ、アレクサンドル・デュマが常連でした。残念ながら、すっかり姿を消して、当時をしのべるものは何も残っていません。

気さくなキャバレーが多く誕生し、人気を呼んでいました。

19世紀になると、この地域全体が労働者たちのたまり場となり、1871年のパリ・コミューンや、第二次世界大戦のレジスタンス運動に加わる人もここから多数出ています。特に、レジスタンスの英雄と称えられているジャン・ムーランは、この駅からさほど遠くない所に住んでいた時代があり、その建物には記念碑がはめられています。現在も庶民的な雰囲気があり、それを求める人々、特に若者に人気があります。

2021年3月4日

メトロの駅名は語る 165

Pernety
ペルネティ(13号線)

フランス革命から第二帝政までの長い間活躍した軍人、ジョゼフ・マリー・ド・ペルネティを称える駅名。

ジョゼフ・マリー・ド・ペルネティ(1766-1856)

軍事学校で学び砲兵連隊でキャリアを始めたペルネティが、目立った活躍を示したのはナポレオンの軍人として戦った、1805年のロシア・オーストリア連合軍を相手とするアウステルリッツの戦いでした。ナポレオン戦史に輝かしい形跡を残したこの戦いに満足したナポレオンは、ペルネティを将軍にしたほど。その後もペルネティ将軍は皇帝に忠実で、1812年のロシア遠征にも参加。1813年8月26ー27日のナポレオンが最後の勝利をおさめたドレスデンでの戦いでも鋭敏な指揮をとっていたのです。

1805年のアウステルリッツの戦い。
ナポレオン率いるフランス軍が大勝利を得ました。

ドレスデンの戦い。これがナポレオンの最後の勝利でした。

ナポレオン失脚で王政復古が起きルイ18世の時代になっても、ペルネティの評価は変わらず、国王は子爵の称号を授けたほどでした。さらに時が経ち、ナポレオン3世の第二帝政時代では上院議員になり、多くの栄光に包まれた89歳の生涯をパリで閉じました。

弟子丸泰仙の師だった沢木興道(1880-1965)

ペルネティが土地を所有していた14区には彼の名を冠した道路があり、そこに曹洞宗の僧、弟子丸泰仙(1914-1982)が1970年に禅の道場を開き、教えを説いていました。現在、その禅道場は13区に移動しています。1979年には弟子丸泰仙によってロワール河畔のブロワ近郊に、大規模な国際禅協会、禅道尼苑が創設され、ヨーロッパに広く禅が伝わっていったのでした。

2021年2月13日

メトロの駅名は語る 164

Gaîté
ゲテ(13号線)

若者に人気があるモンパルナス地域にあり、劇場やレストラン、カフェなどが軒を並べ華やかさがあふれるゲテ通りが駅名の起源。「ゲテ」は華やか、喜び、陽気を意味します。
この界隈がパリの外だった時代の1784年から1790年まで、パリ市内に商品を持ち込むのに税金を支払う「関税徴収所」がありました。
その外であれば税金を払わないので、安い飲食店を経営できたのです。パリ近郊のゲテ通りにはそうした店が軒を並べ、そこに集まる人々をターゲットとして、ミュージック・ホールや劇場が次々に生まれ、文字通り楽しく陽気な地域となったのです。

ゴッホが1886年に描いたゲテ通りの居酒屋。

1833年に建築された、ゲテ通りでもっとも人気があったミル・コロンヌ。
レストラン、カフェ、バー、映画館などがあり連日大賑わいでした。

残念ながら当時大人気だったレストランや劇場は老朽化し、姿を消しましたが、良き時代の雰囲気は今でも保たれていて、ローコストのレストランや小規模の劇場などが多くの人に愛されています。カラフルな看板が多く楽し気で、住民も気さくで親しみ深いと評判です。

2021年2月1日

メトロの駅名は語る 163

Saint-François-Xavier
サン・フランソワ・グザヴィエ(13号線)

近くにあるサン・フランソワ・グザヴィエ教会に由来する駅名。サン・フランソワ・グザヴィエは日本でキリスト教布教にあたった重要な宣教師で、日本ではフランシスコ・ザビエルと呼ばれています。

サン・フランソワ・グザヴィエ
(1506-1562)

フランシスコ・ザビエルはピレネー山脈近くにあった、ナバラ王国の貴族の家に生まれました。パリの聖バルブで哲学を学んでいた時代に、神に生涯を捧げようとする人たちに出会い強い感化を受け、聖職者になる道を選びます。1534年、ザビエルが28歳の年に同士たちと共にモンマルトルの丘で誓いを立て、イエズス会を創立し、キリスト教を世界に布教する決意を新たにしたのでした。
当時のポルトガル国王ジョアン3世から、アジアのポルトガル領を訪れキリスト教布教の依頼を受けたザビエルが、布教地のひとつマレー半島のマラッカで、1547年に日本人ヤジロウに出会い彼の運命を大きく変えます。
ヤジロウがマラッカにいたのは、鹿児島と交易を行っていたポルトガル船船長の好意です。ヤジロウは日本で犯罪を犯し外国に逃れたく、鹿児島からマラッカに戻るポルトガル船への乗船を頼んだのです。マラッカでザビエルとヤジロウを引き合わせたのも船長だったとされています。ザビエルから洗礼を受けたヤジロウは日本人最初のクリスチャンとなり、ザビエルが日本で布教を行う決心を固めたときには、同行し通訳として活躍します。一行は1549年9月、ポルトガル領インドの首府ゴアから船に乗り、8月15日、薩摩半島の鹿児島に到着。幸運なことに当時の薩摩国の守護大名、島津貴久にキリスト教布教を許可されます。

島津貴久(1514-1571)

その後ザビエルは宣教師たちと布教を続けながら長崎、山口、大阪、さらに京都へと向かい、全国規模の布教を実現するために、後奈良天皇への謁見を試みますが実現せず、山口に戻ります。その地の守護大名、大内義隆に会い、布教の許可を得たことが大きな飛躍を遂げるきっかけとなります。

大内義隆(1507-1551)

望遠鏡や時計、眼鏡など西洋の珍しい贈答品を受け取り、大いに喜んだ大内義隆は廃寺になっていた大道寺をザビエル一行に寄贈し、それが最初のキリスト教徒の祈りの場となったのです。そこで多くの人々にキリストの教えを説き、信者がまたたく間に増えたのでした。

リスボン美術館所蔵の南蛮寺。
イエズス会によって建築された教会は、
南蛮寺と呼ばれていました。16世紀、17世紀の屏風とされています。

約2年の日本での布教の後、ザビエルは中国に関心を向け、中国本土から14キロほど離れた上川島で病に倒れ、1552年、46歳の生涯を閉じたのでした。当初、その島の海岸に埋葬されましたが、翌年、マラッカに移されその後ゴアに葬られます。

ゴアの教会に移されるフランシスコ・ザビエル。

フランシスコ・ザビエルが永遠の眠りについている、
インドのゴアのボム・ジェズ教会。


イエズス会によって建築されたボム・ジェズ教会は、「聖なるイエス」という意味でユネスコの世界遺産となっています。ザビエルは17世紀に聖人となり、その名を冠する教会や記念館が日本にいくつもあり、パリでは7区でサン・フランソワ・グザヴィエ教会が堂々とした姿を見せています。

パリ7区のアンヴァリッド近くにある
サン・フランソワ・グザヴィエ教会。
ネオ・クラシックで正面上部の日本建築の破風にあたる三角形の中に、
インド人と日本人に洗礼をほどこす
フランシスコ・ザビエルの浮き彫りがあります。

2021年1月14日

メトロの駅名は語る 162

Varenne 
ヴァレンヌ(13号線)
近くにあるヴァレンヌ通りがそのままメトロの駅名になっています。18世紀にヴァレンヌ通りに多くの貴族が大邸宅を構え、今でも数件残っていて、官庁関係の建物や美術館になっているのもあります。
その中でもっとも重要なのは、首相官邸になっている57番地のマティニョン館。1723年、ゴワイヨン=マティニョン家がこの地に広大な屋敷を持ち、ジャック・ド・ゴワイヨン=マティニョンが、1725年、父亡き後館を引き継いだときから新たな歴史が加わります。

18世紀に建築されたマティニョン館。
館の裏に広大な庭園があり現在も健在です。

ジャック・ド・ゴワイヨン=マティニョンの妻はモナコ公女ルイーズ=イポリット・グリマルディで、後に彼女はモナコ公妃となり、彼女が世を去ると夫はジャック1世としてモナコを統治するようになったのです。父ジャック1世の跡を継いでモナコ公になった息子オノレ3世は、モナコのプリンセス、マリー・カトリーヌと結婚し、パリではマティニョン館に滞在し、ヴェルサイユ宮殿にも頻繁に通っていました。

ジャック・ド・ゴワイヨン=マティニョン(1689-1751)

ルイーズ=イポリット・グリマルディ
(1697-1731)

フランス革命の際の1793年7月、モナコはフランス共和国に合併され、モナコ公オノレ3世も1794年まで投獄され、後に釈放されましたが翌1795年に世を去ります。亡くなったのはマティニョン館だったとされています。
その後彼の息子オノレ4世が1804年に館を銀行家に売却。それ以降マティニョン館はナポレオンやオルレアン家の手に渡り、さらにパリ伯爵の住まいになったり、オーストリア大使館になったこともあります。第二次世界大戦後、フランスをナチス・ドイツ支配から解放した英雄、ド・ゴール将軍が住まいとし、1953年からフランス首相官邸になっています。


フランス首相官邸、マティニョン館。

現在ロダン美術館になっているビロン館は、18世紀初頭に裕福な金融業者アブラハム・ペイレンク・ド・モラス(1686-1732)がロココ風の私邸を建築させたのが始まりです。ド・モラスは館が完成する前に世を去り、未完成だった瀟洒な建物を未亡人から買ったのはビロン元帥(1700-1788)で、その名が現在まで残っているのです。

ロダン美術館になっているビロン館

ビロン元帥亡き後館の主が何度か変わり、館はいくつかに分けられ、ジャン・コクトー、画家マチス、彫刻家ロダンなど多くのアーティストが借家人として暮らします。1911年に館は国の所有となり、アーティストたちは立ち退かざるを得なかったのですが、1916年、ロダンは国に自分の全ての作品を寄贈することを条件としビロン館を手にし、1919年からロダン美術館となったのでした。

このほかヴァレンヌ通りの旧貴族邸が、イタリア大使館や農林水産省になっています。

2021年1月8日

メトロの駅名は語る 161

Liège
リエージュ(13号線)

リエージュはベルギー東部の工業都市で、第一次世界大戦のときにフランス侵略をもくろむドイツ軍相手に激戦が繰り広げられ、ドイツ軍を激しく攻撃し進軍を遅らせます。その功績を称えるために駅に名を残したのです。
19世紀にリエージュの町を取り囲むように、12の要塞が建築されていました。その要塞をめぐっての戦いは8月5日から16日まで続きました。当時、攻防戦の指揮を取っていたのはリエージュ生まれのジェラール・ルマン将軍でした。

ジェラール・ルマン-1851-1920)

ルマンの指揮のもとに3万の兵士が戦い、当初はドイツの攻撃にもかかわらず要塞は持ちこたえ、敵の予定を狂わせたのですが最終的にすべて破壊されます。ドイツに敗れたとはいえ12日間の防御戦闘は高く評価され、リエージュはレジオンドヌール勲章を受けたのでした。
リエージュの要塞で1914年で8月7日、
ドイツ軍相手の激しい戦いが繰り広げられました。

古い歴史を誇るリエージュは、多くの教会がある美しい街です。ハプスブルク家の支配下にあった時代もあります。フランス革命のときにフランスが、その後はネーデルランドルランドが支配し、1830年の独立運動の結果ベルギーの一部となったのです。

初期フランドル派画家、ファン・エイクの
1435年の名作「宰相ロランの聖母」に
リエージュの町が描かれています。

リエージュが神聖ローマ帝国の領地だった時代にはリエージュ司教領と呼ばれ、10世紀から18世紀のフランス革命まで、偉大な権力を持ち大きな繁栄をとげました。現在も過去の栄華を語る建造物が多く残っているし、軽くおいしいワッフル(ゴーフル)でも有名です。

2020年12月12日

メトロの駅名は語る 160

Guy Môquet
ギィ・モケ(13号線) 

第二次世界大戦でナチス・ドイツの犠牲になった最年少ギィ・モケの名が駅名になっています。

ギィ・モケ(1924-1941)

共産党員を両親としてパリで生まれたギィは早くから感化を受け、中学生ですでに若者の共産主義運動に加わります。第二次世界大戦初期にフランスはドイツに降伏し、1940年6月22日独仏休戦協定が結ばれ、北フランスはドイツ支配に置かれ、南は自由フランスとなります。
16歳のギィは共産主義のビラなどを配っていましたが、1940年10月に警察に捕まり、数カ所の刑務所を転々とし、フランス東北のクレルヴォ―刑務所にいる間に17歳の誕生日を迎えます。そこには青年共産党員も数人いて、後年にギィと同じ運命を辿ります。
1941年10月20日、ブルターニュ地方のナントに駐屯していたドイツ司令官、カール・ホッツが青年共産党員によって暗殺され、その報復として刑務所に捕らえられていた数10人が処刑される運命に陥ったのです。その中にギィ・モケもいました。彼は17歳で最年少でした。10月22日、仲間たちとフランス国家を歌いながら処刑場に向かい銃殺されたギィは、その前に両親に宛てて最後の手紙を書き、そこに綴られた感動的な言葉が今でも語られています。

僕の愛する小さなママン、大好きな弟、愛するパパ・・・
僕は死ぬのです! 
僕が望むのは、特に愛するママン、勇気を持っていてほしいことです。

僕だって生きたかった。
でも、心から願うのは、僕の死が何かに役立つこと。
パパ、あなたが僕に示した道を歩むために、 最善をつくしたことを知ってください。

17 歳半、僕の人生は短かかった。
でも後悔はしない、あなたたちと別れるのでなければ。
ママン、約束してほしい、勇気を持って苦しみを乗り越えることを。

 後年、名誉あるクロワ・ド・ゲール、レジスタンス勲章、レジョン・ドヌール勲章シュヴァリエを授与された他、彼の名を冠した道路や学校が生まれ、そしてメトロの駅にも名が残されたのです。

2020年11月13日

メトロの駅名は語る 159

Garibaldi
ガリバルディ(13号線)

イタリア統一で活躍した英雄、ジュゼッペ・ガリバルディを称える駅名。

ジュゼッペ・ガリバルディ
(1807-1882
)

ニースに生まれたガリバルディの両親は海上貿易を手広く行っていて、息子は牧師か医者か弁護士になって欲しいと思っていました。けれども活動的なガリバルディは学校での勉強が苦手で、15歳のときに父親を説得して船で働く仕事に就きます。

いくつかの航海の後、オーストリア支配からイタリアを独立させ、統一国家を築こうとする政治結社、青年イタリア党を結成したマッツーニとの出会いが、ガリバルディの運命を一変させます。
ガリバルディが大々的に評価されたのは1848年で、青年イタリア党の指揮のもとに、ローマ共和国が生まれたときでした。当時のフランス皇帝ナポレオン三世は、軍を派遣しそれをつぶそうと試みます。そのときローマの防衛の指揮を取ったのはガリバルディでした。
当初は優勢だったのですが、フランス軍の巻き返しにあい、ローマを離れヴェネツィアへと向います。その後アメリカに暮らしたり、航海で様々な国に行き,1859年にイタリアで再び独立戦争が始まると、北イタリアのサルデーニャ王国の軍に入り、快勝の結果、オーストリアはその地域をあきらめ退却したのです。
これによってイタリア統一の意気込みは一気に増したのでした。1861年、ついにイタリア王国が成立。その後もローマやヴェネツィアをイタリアに併合させる戦いで活躍を続けます。彼の最終目的は共和制にすることのようでしたが、その実現を見ることなく生涯を閉じました。

2020年10月20日

メトロの駅名は語る 158

Carrefour Pleyel
カルフール・プレイエル(13号線)

国道14号線とルート・ド・ラ・レヴォルトが交差するプレイエル交差点近くの駅で、カルフールは交差点という意味。

イニャス・プレイエル
(1757-1831)

プレイエルはオーストリアの著名な作曲家で、フランスではイニャス・プレイエルと呼ばれ、ドイツ語ではイグナツ・プライエルとなります。後年にフランス国籍を取得しています。プレイエルのピアノを製作していたのが、この交差点近辺だったのです。

プレイエルは教師の息子として生まれ、ハイドンに弟子入りし音楽の才能を認められ、その後日の出の勢いで出世し、1783年、ストラスブール大聖堂の楽長になります。フランス革命で職を失ったプレイエルはロンドンに亡命し、パリに暮らすようになったのは革命後でした。

1797年に音楽出版社を設立したプレイエルは39年間に4000もの作品を出版。その中にはハイドンやベートーベンの作品もありました。1807年になると今度はピアノ製造会社を設立し、成功をおさめます。

ブリュッセルの楽器博物館に展示している
1831年製作のプレイエル・ピアノ。

4人の子供に恵まれ、長男も音楽家で引退した父のあと継いでピアノ製造会社を発展させただけでなく、1830年、コンサートホールをオープンしています。9区の150席の小さなホールでしたが、ショパンもリストもそこで演奏しています。ピアノの詩人ショパンはプレイエル・ピアノを愛用し、現在、ワルシャワのフレデリック・ショパン博物館にも展示されています。

その後サル・プレイエルはロシュシュアール通りに移転し、550席ある大きなコンサートホールになり、ショパンは1848年2月16日、最後のコンサートをそこで開催し、その翌年10月18日、パリで39歳の若い生涯を閉じます。

ロシュシュアール通りにあったサル・プレイエル。
ここでショパンは最後のコンサートを開催。

サル・プレイエルの経営と場所はその後変わり、現在は8区のフォブール・サントノレにあり2000席近い立派なコンサートホールです。このようにプレイエルの名は常に音楽と共にあり、不朽です。

2020年9月10日

メトロの駅名は語る 157

Basilique de Saint Denis
バジリック・ド・サン=ドニ(13号線)

フランス歴代王家の人々の埋葬地、サン=ドニ大聖堂近くの駅名。

フランス王家の人々の埋葬地、
サン=ドニ大聖堂。

サン=ドニ大聖堂の起源は、フランスの守護聖人とされているサン=ドニ(聖人ドニ)の遺骸を奇跡的に発見した7世紀にさかのぼります。

言い伝えによると、サン=ドニの元の名はディオニシウスで、パリにキリスト教を布教するために245年にローマから送られ、セーヌ川の中程にあるシテ島に、2人の伝道者エレウテルス、ルスティクスと共に暮らしていました。3人は熱心に伝道を続けていましたが、250年に捕まり、パリの北の丘モンマルトルで斬首されます。モンマルトルは「殉教者の丘」という意味で3人の伝道者の殉教に由来します。

19世紀に想像で描かれた
ダゴベルト1世(603-639)

ディオニシウスは切られた自分の頭をかかえながら伝道を続け、パリの北に向かい、そこで息たえたと言われています。彼はエレウテルス、ルスティクスと共にその地に葬られ、7世紀に偶然発見されたのです。それをしった当時の国王ダゴベルト1世は大いに感激し、修道院を建築させ、サン=ドニ修道院とし、その礼拝堂に3人の伝道者を手厚く葬ります。

自分の頭を抱えるサン=ドニ。

礼拝堂は636年に立派な教会になり、639年1月19日、病のためにサン=ドニ修道院でダゴベルト1世が没すると、彼が建築させた教会に埋葬され、それが後世にサン=ドニ大聖堂となります。

このようにしてメロヴィング朝の4代目の王ダゴベルト1世が、サン=ドニ大聖堂に葬られた最初の国王となったのです。それ以降、カロリング朝、カペー朝、ヴァロワ朝、ブルボン朝の王族たちの墓所となり、多くの訪問者を迎えています。

訪問者にとってもっとも興味深いのは、ヴェルサイユ宮殿で華麗な宮廷生活を営んでいたブルボン家の人々の地下埋葬場でしょう。特に、革命の犠牲となったルイ16世とマリー・アントワネットのお墓は見逃せないようです。処刑後コンコルド広場近くにあったマドレーヌ共同墓地に葬られていたお二人は、王政復古で王座に就いたルイ16世の弟ルイ18世により、国王、王妃にふさわしい儀式が執り行われ、サン=ドニ大聖堂に安らぎの場を見出しました。1815年1月21日、処刑から22年経った国王の命日でした。

マドレーヌ共同墓地からサン=ドニ大聖堂に向かう、
ルイ16世とマリ―・アントワネットの壮麗な葬列。

ブルボン家の地下埋葬場。

1144年に建築されたサン=ドニ大聖堂は、フランスが誇るゴシック建築初期の建造物です。ゴシック建築は12世紀にはじまり16世紀のルネサンス建築までの間、フランス各地でもてはやされただけでなく、ドイツやイギリス、イタリアにも影響を及ぼしています。

2020年9月3日

メトロの駅名は語る 156

Mairie d'Issy
メリー・ディッシー(12号線)

パリの南西郊外にあるイッシー・レ・ムリノーが駅名の起源。当初この町はイッシーと呼ばれていましたが、1893年に近くにあったムリノー村と合わせて新しい町の名になったのです。

湿地にすぎなかったイッシーが栄えたのは、ブルボン家支流にあたるブルボン=コンデ家の分家、ブルボン=コンティがこの地にシャトーを建築した17世紀。3代目のコンティ公フランソワは国王ルイ14世の時世に軍人として輝かしい活躍をし、大コンティ公と呼ばれていました。

大コンティ公と呼ばれていた
フランソワ・ルイ・ド・ブルボン=コンティ。
(1664-1709)

大コンティ公がイッシーに土地を購入し、シャトー建築を命じたのは1699年。均整が取れたルネサンス様式のシャトーは美しく、1778年まで代々のコンティ公の住まいとなっていました。この年にシャトーは売却され、その後数人の貴族が城主となります。革命の際の城主は11世紀からの歴史あるシメイ家のプリンセスでしたが、捕らえられ処刑されイッシー城は国に没収されました。

歴代のコンティ公の住まいとなっていたイッシー城。
ルネサンス様式のエレガントな建物でした。
庭園はチュイルリー公園やヴェルサイユ宮殿庭園を手がけた
著名な造園家ル・ノートルが担当。

革命後ナポレオンが皇帝になりエルバ島に流刑されますが脱出し、1815年6月18日、ナポレオン率いるフランス軍と連合軍の間でベルギーのワーテルローで激しい戦いが展開し、フランス軍は連合軍に大敗。その後も戦いはフランス国内でも続き、1815年7月3日、連合軍側のプロシア軍がイッシーでフランス軍相手に戦い、勝利を得たのでした。その時フランス軍指令部はイッシー城に置かれていました。

1870年-71年には普仏戦争があり、1871年5月4日、パリコミューンによってシャト―は焼かれ姿を消してしまいます。その近くの町ムードンに暮らしていた彫刻家ロダンが、焼け残ったシャトーの断片を買ったおかげで、わずかながらイッシー城を偲ぶことができます。現在ムードンのロダン美術館の正面を飾っている、円柱とペディメント(建物の正面上部の三角形の壁面)です。

火災前のシャトー。
1871年、火災直後のシャトー。
この一部をロダンが買い、
現在ムードンのロダン美術館入り口で見られます。

一方ムリノーはムードンの地区のひとつで、神父ジャン・ド・ムードンがそこに畑を持っていました。ムードン家はパリの南西4キロメートルにある緑に恵まれた小高い地にある森ムードンを本拠地としていました。詳しい歴史はわかっていませんが、14世紀のロベール・ド・ムーランが国王フィリップ4世に仕え、貴族となったとされています。

メトロ名メリー・ディッシーはイッシーの市役所という意味で、国王ルイ5世の相談役二コラ・ボージョンの別邸だった建物が1895年から市役所になっています。ボージョンは複数の邸宅をパリや近郊に持っていました。そのひとつに現在のフランス大統領官邸エリゼー宮があります。美術品愛好家としても知られていて、コレクションの素晴らしさは、歴史に残るほどでした。イッシーの別邸は市役所にするために大々的に改造され、残念なことに当時の面影は消えてしまいました。