2026年9月24日

マリー・アントワネット自叙伝 72

裁判が始まりました

私の運命を決定する裁判は、1793年10月14日、朝8時に始まりました。 
歴史上初めての元王妃の裁判とあって、傍聴席には、すき間がないほど多くの人がつめかけていました。その中に私は憲兵に伴われて入って行きました。 そこにいたほとんどは、王妃に会う機会などない人ばかりでしたので、私が姿を見せたときには、大きな動揺が起きました。

10月15日の裁判。
左で立ってるのがエルマン裁判長
左手前に座っているのが検事フーキエ=ダンヴィル 

無数の好奇の視線を全身に浴びながら入廷した私は、誰からもよく見えるように、高い台の上に準備した椅子に腰かけされました。2人の弁護士の姿がすぐ近くに見えました。 41人もの証人たちが真実を述べると誓いを立てている間、私は立ったままでいましたが、それが終ると、裁判長エルマンは乾いたような声で座ってよろしいと言い、その後、予審と同じように名前を告げるように命じられました。革命家たちにとって私は「カペーの寡婦」あるいは「被告」だったのですが、私は最大級の誇りを込めて正式な名前を告げました。 

「マリー・アントワネット・ロレーヌ・ドートリッシュ。フランス国王未亡人」

ああ、どれほどこの名前に名誉を抱いていたことでしょう。  どのような境遇に置かれようとも、どのような惨めな服装をしていようとも、私の体の隅々まで宿る尊い血が汚されることはないのです。時々椅子から立ち上がり、身の潔白を誠実に述べました。 引き続き証人が次々に現れ、それぞれ好き勝手なことを長々と述べました。そのたびに証人が述べたことが事実であるか認めるかとか、何か意見があるかとか聞かれ、古い時代のことは記憶をたどりながら答えなければならないので、体だけでなく神経がかなり疲れました。裁判は15時間ほど続いたのです。 

私が法廷から出された後、12人の陪審員たちは4つの事柄に関して、私が有罪かどうか審議するよう命じられました1。


1、強力な外国や共和国の敵と内通し、資金を与え、フランス国内への進入、武力の進行を企てたことは確かかどうか。

2、オーストリアのマリー・アントワネット・ルイ・カペーの寡婦は、このような画策に協力し、陰謀に加わったことは確かかどうか。 

3、共和国内で内乱を起こす企てや陰謀が、確かにあったかどうか。 

4、オーストリアのマリー・アントワネット・ルイ・カペーの寡婦は、この企てや陰謀に確かに加わっていたかどうか。


その間別室で休んでいた私が再び法廷に呼び戻されたのは10月16日朝4時ころでした。部屋の寒さが骨の中まで差し込む中、判決が言い渡されました。裁判長エルマンは自分が裁いたのではなく、国民代表の決定であることを強調したかったようです。

「陪審員たちが決定した事である」

それがエルマンが最初に発した言葉でした。

それに続いて法廷に検事フーキエ=ダンヴルの声が響きました。

「被告はフランスの敵と通じ・・・・」

 と陪審員に命じた4つの項目を読みあげ

「刑法〇〇〇箇条○○〇番に従い、被告に死刑を言い渡す」


 死刑・・・

 死刑に処す・・・・・・・・・ 


その後もフーキエ=ダンヴルは、この判決か決められた罪状を長々と述べていたようでしたが、「死刑」以外の言葉は耳に入りませんでした、

すべてを失ったのだ。


これですべてが終わったのだ。

私は何の感情も湧きませんでした すべてを、失ったのです。


革命裁判所による、
マリー・アントワネットの死刑判決