カーネーション事件
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| アレクサンドル・ゴンス・ド・ルージュヴィル 王家に忠実で誰よりも勇気がある人でした。 |
コンシエルジュリーに移された8月末、28日、ミショニがひとりの男性を伴って牢屋に入ってきました。 その人の顔を見た私は、ハッとしました。見覚えのあるアレクサンドル・ゴンス・ド・ルージュヴィルだったからです。当時私たちが暮らしていたチュイルリー宮殿に群衆が押し入ったとき、守ってくださったひとりがルージュヴィルだったのです。
王党派のルージュヴィルを目の前にした私は、動揺を隠しきれませんでした。勇敢で徹底的に王家に忠実なルージュヴィルと、タンプル塔から私の救出計画に加わったミショニが連れ立って牢屋に入ってきたからには、何かあるに違いない。それ以前にもミショニは、希望する人がある程度のお金を払うと、その人を連れてきて、かつての王妃だった私の姿を見せていたのです。でも、監獄の監督官だったミショニは、タンプル塔の子供たちやエリザベート王女さまにも会っていたので、時には、塔に残した大切な人たちの様子を知ることもできたので、貴重な存在でもあったのです。
アメリカ独立戦争に参加し、その後夫の弟プロヴァンス伯に仕えていたルージュヴィルは、私たちがヴェルサイユ宮殿からチュイルリー宮殿に移されたときにも同行し、それ以降もずっと王家につくしていたのです。そうしたルージュヴィルを目の前にした私は、驚きで茫然としていました。ルージュヴィルは落ち着き払ったまま、かすかに会釈をし、その後、ミショニにうながされて「女たちの中庭」に出て行きました。
そのときルージュヴィルは、私に壁近くの床を見るように、目で合図したように思えました。何が何だかわからないままその壁に近づくと、何とそこにカーネーションが見えたのです。先ほどまで何もなったところに、カーネーションを見つけた私はすぐに理解しました。そこにルージュヴィルから私への何かのメッセージが隠されているのだと。カーネーションを拾って震える手で開くと、そこに短い文が書いてありました。
「どうなさるおつもりですか。私は監獄にいたことがありますが、奇跡的に脱出しました。金曜日にまた来ます」あわてていたのではっきりした文章は覚えていませんが、私の脱出を計画していることはわかりました。必要なお金の準備もあるという文字もあったと思います。
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| シンプルな花の中に 重要なメッセージを入れるのは 破格の冒険家ならでは。 |
脱出は9月2日、夜の闇に隠れて行われることになりました。牢屋から出て通路を通り,馬車が待っている中庭に行き、その後は一目散で、パリの北12キロメートルほどの所にあるリヴリー・ギャルギャンの領主ジャルジェイ夫人のシャトーに向かい、その後ドイツに行くことになっていたのです。
脱出を実行する2日の真夜中に、ドアが開き、その向こうにミショニとルージュヴィルの姿を見た私は、無言で2人の後に続きました。監獄監督官ミショニが、私をタンプル塔に移すという偽の書類をもっていたので、要所に控えて看守たちは疑いもせずに私たちを通してくれました。 いくつもの通路とドアを通り、後一歩で自由の世界に行けると思った最後のドアの前で、止められてしまいました。 誰かが裏切ったのです。
この事件の調査は保安委員会が行うことになり、その責任者はジャン=ピエール=アンドレ・アマール。政治家で弁護士だった人。 彼の尋問は牢屋にいたすべての人に及び、徹底的に打ちのめされたのは、ハリで穴をあけたメモを見せられた時でした。つまり看守ジルベールが裏切ったのです。
恐れをなしたジルベールが、すでに書類で、上官のデュメル大佐に報告していたのです。。
小心のジルベールは迷った末、報告することにしたのです。日付は1793年9月3日になっていました。脱出を試みて失敗したのは9月2日夜中だったので、その翌日です。「大佐殿」で始まるその報告書には、
「カペーの寡婦の部屋に入った人物を知らせるのは、自分の義務だと確信し、ここに報告いたします」これらに関しては報告書通りです。でもその後に続く次の文の内容が事実であるかは私にはわかりません。
「後悔するようなことはすべきではない、自分の義務を果たさなければならないと思った私は、直ちにコンシエルジュリー所長の妻の元に行き、メモを渡したのであります」 自分のお金でお花を買って、私のみじめな部屋に慰めを与えていたジルベールが、まさかこのようなことをするとは夢にも思ってもいませんでした。気が小さい人なので、脱出計画に恐れおののいたのでしょう。
私の監視はさらに厳しくなり、一日に何度も検査されました。ずっと大切にしていた2つのリングも、刺繍の針も取り上げられ、私には擦り切れたわずかな衣類しか残されませんでした。


































