2026年9月13日

マリー・アントワネット自叙伝 71

  予審のために裁判所に呼び出されました


10月12日のことでした。

後日に行われる裁判の予審のために、朝6時に革命裁判所に呼び出されました。4人の憲兵にはさまれながら、いくつもの通路を通り、階段をのぼったところに革命裁判所はありました。コンシエルジュリーと同じ旧王宮内です。夫の裁判はここではなく、当時国民公会の議場だった、チイルリー庭園のはずれに面した旧屋内馬術練習場でした。夫が処刑された後の1793年3月10日に、この旧王宮内の2階に革命裁判所が置かれたのです。


裁判所の中に入ると、殺風景な木のベンチに座るように指示され、黙ったまま腰を下ろしました。

私の目の前には、頑丈そうな事務机があり、その向こうに革命裁判長エルマンが座っていました。一見穏やかそうな顔ですが、過激な革命家ロべスピエールに心酔していて、彼の後押しで裁判長に選ばれたそうです。私の運命はこの34歳の若い人に委ねられているのです。しかもエルマンは、わずか3カ月前に革命裁判長になったばかりでした


この日は予審なので非公開の尋問で、10年以上も経った革命以前のことから問いただしました。

・・・・

「革命前にボヘミア=ハンガリー王と関係を持っていたが、それは、フランスのためになるような関係ではなかったのではないか」

「人民の汗の結晶による国の財産を、あなたは自分の快楽や陰謀のために浪費していた」

「革命が起きると有力な外国を操った。それは、フランス国民が渇望している自由を押しつぶすためだ。自由がまだ不確かだった初期の段階からそうだったのだ」

「隠し財産を使って強力な外国、とくにオーストリアと連絡を取るために、密使を雇っていた」


予審にひとりで向かいました。

次から次へとエルマンの問い詰めが続きましたが、自分でも驚くほど落ち着いて、言葉を選びながら、言うべきことを伝えるにの必死でした。もちろんすべて否定しました。


・・・・

「ルイ・カペーに隠し事をすることを教えたのは、あなただ。それによって国民たちは長年に及んで騙されていた」

「ルイ・カペーに逃亡を決意させるよう導いたのもあなただ。これは疑う余地もないことである」

「国民の自由を破壊したいと、あなたはそればかり願っていたのだ。祖国愛に燃える人民の屍の上で、再び玉座につきたかったのだ」


この表現に傷ついた私は、皮肉を込めて言い返さないではいられませんでした。

「私たちは玉座に戻る必要などありませんでした。私たちはすでにその地位にいたからです」


・・・・

 その後、さらに言葉を続けました。

「私たちはフランスの幸せ以外を望んだことなどなかったのです」

 

・・・

尋問は息子にも及び、ルイ・シャルルが王位につけないのを残念に思っているに違いないと言われたときにも、すばやく言い返しました。

「息子の国が幸せであるならば、残念がることなどありません」


 いくつかの尋問が続いた後、エルマンが弁護を頼める人がいるのかと聞くので、

「誰もいません」

 と短く答え、

「裁判所に誰か選んでほしいと思いますか」 

 と加えたので、

「そうしてください」

 と、一言だけ言いました。

 このようにして、私の弁護士は、私が会ったこともない人が選ばれたのでした。

 

私の弁護士はクロード・フランソワ・ショヴォー=ラガルドと、ギヨーム・アレクサンドル・トロンソン・デュクードレイと決まったようです。お名前を聞いたこともなければ、もちろんお会いしたこともありません。今まで弁護士など必要なかったのですから当然です。

依頼を受けた弁護士に初めてお会いしたのは、予審の翌日の13日でした。

ショヴォ―=ラガルド弁護士

トロンソン・デゥークドレイ弁護士


前日の予審後に準備した私の起訴状を受け取り、目を通した弁護士は非常に厳しい顔になり、苦し気な声を絞り出すように放ちました。

これほど重大な裁判なのに、準備期間があまりにも短かすぎます。膨大な資料に目を通し策を練るのに数日間は必要なのです」

と頭を抱えていました。


裁判は翌日の10月14日に開始されることが決まっていたのです。

「たった一日では満足できる準備は不可能です。したがって国民公会に裁判をのばすよう手紙を書いていただかないと」


弁護士の言葉に従ったのは、子どもたちのことを思ったからです。母は革命裁判の言いなりになっていたのではなく、すべきことをした事実を残したかったのです。その走り書きが国民公会に渡ったかどうかはわかりませんが、裁判は予定通り行われることになりました。