サン・フランソワ・グザヴィエ(13号線)
近くにあるサン・フランソワ・グザヴィエ教会に由来する駅名。サン・フランソワ・グザヴィエは日本でキリスト教布教にあたった重要な宣教師で、日本ではフランシスコ・ザビエルと呼ばれています。
サン・フランソワ・グザヴィエ (1506-1562) |
フランシスコ・ザビエルはピレネー山脈近くにあった、ナバラ王国の貴族の家に生まれました。パリの聖バルブで哲学を学んでいた時代に、神に生涯を捧げようとする人たちに出会い強い感化を受け、聖職者になる道を選びます。1534年、ザビエルが28歳の年に同士たちと共にモンマルトルの丘で誓いを立て、イエズス会を創立し、キリスト教を世界に布教する決意を新たにしたのでした。
当時のポルトガル国王ジョアン3世から、アジアのポルトガル領を訪れキリスト教布教の依頼を受けたザビエルが、布教地のひとつマレー半島のマラッカで、1547年に日本人ヤジロウに出会い彼の運命を大きく変えます。
ヤジロウがマラッカにいたのは、鹿児島と交易を行っていたポルトガル船船長の好意です。ヤジロウは日本で犯罪を犯し外国に逃れたく、鹿児島からマラッカに戻るポルトガル船への乗船を頼んだのです。マラッカでザビエルとヤジロウを引き合わせたのも船長だったとされています。ザビエルから洗礼を受けたヤジロウは日本人最初のクリスチャンとなり、ザビエルが日本で布教を行う決心を固めたときには、同行し通訳として活躍します。一行は1549年9月、ポルトガル領インドの首府ゴアから船に乗り、8月15日、薩摩半島の鹿児島に到着。幸運なことに当時の薩摩国の守護大名、島津貴久にキリスト教布教を許可されます。
島津貴久(1514-1571) |
その後ザビエルは宣教師たちと布教を続けながら長崎、山口、大阪、さらに京都へと向かい、全国規模の布教を実現するために、後奈良天皇への謁見を試みますが実現せず、山口に戻ります。その地の守護大名、大内義隆に会い、布教の許可を得たことが大きな飛躍を遂げるきっかけとなります。
大内義隆(1507-1551) |
望遠鏡や時計、眼鏡など西洋の珍しい贈答品を受け取り、大いに喜んだ大内義隆は廃寺になっていた大道寺をザビエル一行に寄贈し、それが最初のキリスト教徒の祈りの場となったのです。そこで多くの人々にキリストの教えを説き、信者がまたたく間に増えたのでした。
リスボン美術館所蔵の南蛮寺。 イエズス会によって建築された教会は、 南蛮寺と呼ばれていました。16世紀、17世紀の屏風とされています。 |
約2年の日本での布教の後、ザビエルは中国に関心を向け、中国本土から14キロほど離れた上川島で病に倒れ、1552年、46歳の生涯を閉じたのでした。当初、その島の海岸に埋葬されましたが、翌年、マラッカに移されその後ゴアに葬られます。
ゴアの教会に移されるフランシスコ・ザビエル。 |
フランシスコ・ザビエルが永遠の眠りについている、 インドのゴアのボム・ジェズ教会。 |
イエズス会によって建築されたボム・ジェズ教会は、「聖なるイエス」という意味でユネスコの世界遺産となっています。ザビエルは17世紀に聖人となり、その名を冠する教会や記念館が日本にいくつもあり、パリでは7区でサン・フランソワ・グザヴィエ教会が堂々とした姿を見せています。
パリ7区のアンヴァリッド近くにある サン・フランソワ・グザヴィエ教会。 ネオ・クラシックで正面上部の日本建築の破風にあたる三角形の中に、 インド人と日本人に洗礼をほどこす フランシスコ・ザビエルの浮き彫りがあります。 |
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