2018年8月28日

自転車をもっと利用して欲しいパリ

カーシェアリングの「オートリブ」は、利用者が目立って減少し、赤字続きでついに終了。それに反してレンタルサイクルの「ヴェリブ」は人気が上がる一方。

2018年に入って新しいデザインの自転車が登場。
その色い合いがとてもいい。以前はシックなパリのイーメジを意識してか、グレーだったのが、今は鮮やかなブルーとグリーン。

さわやかな色合いがとてもいい感じ。
とはいえ、まだ利用したことがありません。

ブルーは電動で、グリーンは普通車。街中が明るくなった感じだし、さわや描いたで気分もいい。安定感もありそう。でも、何となく重そう。

自転車優先のポリシーのために、一方通行も通れるようにしているのは、ちょっと問題だと思う。フランスでは自転車は歩道ではなく、車道を走るので不都合もある。

一方通行でも自転車は逆の方向からも走っていいのです。
車を運転する人は一方通行なのに、自転車が反対側から走って来るのだから、注意が必要。歩行者も横断するとき、同じように両方に注意を払わなくてはならない。あまりにも優先されているので、自転車は赤信号も無視していいと勘違いしている人さえいる。

排気ガスの公害を減少させるために、今後ますます自転車優先にするとイダルゴパリ市長。また新たな動きがありそう。

2018年8月27日

パリの犬たち 180

いいもの見つけた。

あっ、こんなものがある。
取られないようにしっかり両手でおさえないと。
だけど、これは一体ナニかな~。
けっこういいニオイがするけれど・・・
ねえ、ママン。
これってたべるもの?
・・・・
ママ友とおしゃべりばかりで、ちっとも聞いていない。

ちょっと試してみようかな。

ウ~ン、おいしいとは言えないけれど、いちおう味がする。
ナンて言うか・・・そう、木のような感じ。

これってオモチャにいいかもネ。
ママンのおしゃべりが終わるまで、これで遊んでいよう。

2018年8月24日

メトロの駅名は語る 97

Ledru=Rollin
ルドリュ=ロラン(8号線)

19世紀の政治家ルドリュ=ロランに捧げられている駅名。

アレクサンドル・ルドリュ=ロラン。
(1807-1874)

パリ4 区のブルジョアの家庭生まれのアレクサンドル・ルドリュ=ロランが、弁護士になったのは22歳の時で、徹底した共和主義者でした。

議員になった34歳の時、最左翼の急進共和派を形成。それまで選挙権を持っていなかった労働者や農民にも、選挙権を与える普通選挙を実現すべきだと説きます。

本物の共和国設立に情熱を注ぐルドリュ=ロランは2年後、急進共和制を広めるために、新聞「改革」を発行し、多くの賛同者を得ます。

1848年2月24日。民衆がチュイルリー宮殿を占拠。
1848年2月24日に二月革命が起きた日、ルイ・フィリップ国王一家は
チュイルリー宮殿から衛兵に守られながら無事に脱出し、イギリスに亡命。
ルイ・フィリップはその地で生涯を閉じます。

1848年2月24日、二月革命が起きルイ・フィリップ国王の王政が廃止され、第二共和制が生まれ、ルドリュ=ロランは臨時政府の内務大臣になります。

その後大統領選に立候補し、皇帝ナポレオン一世の甥ルイ・ナポレオンと競い合います。ルイ・ナポレオンは叔父の人気を利用し圧倒的支持を得て大統領に選出されます。その勢いに乗ってクーデターを起こし皇帝になり、ナポレオン三世を名乗り第二帝政が始まりました。

ナポレオン3世皇帝と妃ウジェニー。1865年。

けれども、1870年、ナポレオン三世は普仏戦争で破れ失脚しロンドンに亡命し、生涯を閉じます。

普仏戦争で第二帝政が崩壊し第三共和制が生まれ、その時代にルドリュ=ロランはフランスに戻ります。再度議員に選出されましたが、目立った活躍をすることなく67歳の生涯を閉じました。

晩年のルドリュ=ロラン。

このように二月革命と第二共和制の立役者だったルドリュ=ロランの名は、パリのメトロの駅名になっているだけでなく、パリ、マルセイユ、ランスなど多くの主要都市の道路名にもなっています。

2018年8月21日

パリの犬たち 179

珍しい顔だって?

ン?、この黒いのは何かなぁ・・・

「そんなことはどうでもいいの。それよりお顔をしっかり見せてあげて」
「ど、どうして?」

「だってよく言われるじゃないの。珍しいお顔の犬ねって」
「珍しいっていうより、個性的と言って欲しい。表現のしかたって大事なのだワン」

2018年8月18日

パリの犬たち 178

いつだってここで待たなければいけない。

スーパーにはいろいろあって楽しいから、行くのは大好きだけど、
ここから先のフード売り場に行けないのが、どうもネ。

今日もパパが「君たちはここで待っているんだよ」って言ったきり、
見えない所に行ってしまって、なかなか戻って来ない。

もう心配で心配で・・・・ずっとここで何日も待っているんじゃないだろうネ。
妹と一緒でも心細いんだワ~ン。

2018年8月17日

メトロの駅名は語る 96

Saint Sébastien-Froissart 
サン・セバスチャン=フロワサール(8号線)

3世紀のサン・セバスチャンと、14世紀の詩人フロワサールを称える駅名。

後年に聖人(フランス語でサン)になるセバスチャンは、当時ローマの植民地だった南仏プロヴァンス地方に生まれ、イタリアのミラノで教育を受けます。

秀でた才知が認められ、ローマ皇帝ディオクレティアヌスの親衛隊長に選ばれましたが、当時のローマはキリスト教が厳禁されていた時代。それにもかかわらずセバスチャンは、秘かにキリスト教の布教をしたり、時には奇跡をおこしたこともありました。

ローマ皇帝ディオクレティアヌス。

それが皇帝に密告され、裏切りを知った皇帝の怒りにふれ逮捕され、木に縛り付けられ無数の弓矢を打たれ殉教します。

イタリアのロンバルディー地方でペストが流行り、多くの犠牲者がでたとき天使が現れ、セバスチャンに捧げる祭壇をパヴィアの教会内に造るよう指示。それが完成したときにはペストが消え去ったと言われています。そのためにセバスチャンは兵士とペストの守護聖人とされています。

ピエトロ・ペルジーノ「聖セバスチャン」
ルーヴル美術館。
グイド・レーニ作「聖サバスチャンの殉教」
パラッツォ・ロッソ美術館。

 三島由紀夫がこの絵になぞらえたポ―ズをとり、
篠山紀信氏が撮影しています。

美青年だったサン・セバスチャンは多数の画家が絵に描いています。
文学者では同性愛者のオスカー・ワイルドやマルセル・プルーストが夢中になり、作品の中で触れているし、三島由紀夫は「仮面の告白」で聖セバスチャンに関する描写をしています。それだけでなく、サン・セバスチャンの絵と同じポーズをして、写真家篠山紀信氏に撮影を依頼しています。

ジャン・フロワサール(1337年ころ-1410年ころ)

ジャン・フロワサールは中世の年代記作家であり詩人。イギリス国王エドワード3世と結婚し、イギリス王妃になったフィリッパの希望で宮廷に招かれ、当時の記録を綴っていました。

「農民たちの反乱」に関する、
挿絵入りのフロワサールの年代記。

英仏間の100年戦争を挟んだ重要な時期などの年代記は膨大で、その中の多くが後年に挿絵入りの本となり、史実が分かりやすく世に紹介されました。

2018年8月14日

トルコ アンタルヤ近郊のミニトラベル

長く貴重な歴史を刻んでいるトルコは見るところが多く、とても一度では回り切れない。
イスタンブールやエフェソスで訪問した歴史的名所・遺跡は、数年経った今でも思い出が鮮明に蘇るほどインパクトがあります。

アンタルヤの地中海には本物の青がある。
心が吸い取られそうなほど美しい。

地中海に面した南西部のアンタルヤには、また異なった魅力があります。
まず、真っ青な海の色。どこまでも続く限りないブルーの世界に心が晴れ晴れします。

アンタルヤは古い時代からリゾート地として有名ですが、それ以上に素晴らしいのが、そこから日帰りで行けるいくつもの名所。

特に迫力あるのがパムッカレ。
小高い丘の上に石灰棚が続き、所々にある窪みの温水に人々が浸かっている。水着姿の人もいれば、服を着たままの人もいる。ここの温水が健康にいいとされているのです。

「綿の宮殿」という意味のパムッカレ。
たくさんある窪みには温水が。

ツーリストが多すぎ、年々規制が厳しくなっています。

世界遺産に登録されているはパムッカレは、トルコ語で「綿の宮殿」という意味。その名の通り綿に見えたり、雲にも見える白亜の大規模な石灰棚は、類のない絶景。

パムッカレからアンタルヤのホテルにバスでもどるとき、夜空に煌めく無数の星が、手をのばしたらつかめそうなほど近くにあり、大感動。それだけ空気が澄んでいるということなのでしょうか。まるで宇宙の真っ只中にいるみたい。


トルコは地震も多い国なのに、
石を積み上げて建築したローマ時代の劇場が、
いまだに残っているのは不思議です。

古代の人は優秀だったのですね。
階段が多いし、暑いし、一休み。

アスペンドスの古代劇場はローマ時代のもので、ほぼ当時のまま残っているとのことで貴重です。今でもコンサートなどが開催されるそうですが、15000人も収容できる大規模な劇場を造ったローマ人の凄さに驚くばかり。

いろいろな国を旅するごとに、ローマ人が造った神殿や劇場に圧倒されます。ローマの支配がなかったら、文明はどうなっていたのかと、いつも思います。

きれいなカーヴを描くマナガット滝。
マナガット滝はとても優雅です。
横長のゆるやかなカーヴを描いていて、激しさがないのが気に入っています。涼しさを満喫できる気品ある姿に、緑の中で突然出会えるのが素晴らしい。

地中海のとっておきのブルー。

小舟は海と仲良しになれるから理想的。
アンタルヤ滞在中に、小舟に乗って海の様々なブルー巡りもいい。澄み切った水に手で触れると、心身が浄化されるようです。

2018年8月7日

パリの犬たち 177

ナンだか差があるみたいだけれど・・・

夏のモーレツに暑い日。
お池の近くで過ごすのはしあわせ。




ママンはおイスに座ってご機嫌。
でも、ワタシがすわるおイスがないワ~ン、ワン。

それで、催促したらバッグの中から布を出して
「ほ~ら、ここに座ったら?」
だって。


どう見ても座り心地がいいように思えない。
それに、薄汚れている感じ。
ちょっとご機嫌ななめなの。

2018年8月6日

メトロの駅名は語る 95

Filles du calvaire
フィーユ・デュ・カルヴェール(8号線)

かつてこの近くにあったフィーユ・デュ・カルヴェール修道院が駅名になっています。今はすっかり姿を消したこの修道院が建築されたのは17世紀で、ルイ13世の時世。

イエス・キリストが磔刑されたエルサレム近郊のゴルゴタの丘は、「苦難の丘」を意味する「カルヴェールの丘」と呼ばれていました。その名を冠したのがフィーユ・デュ・カルヴェール修道院。フィーユは女子を表します。

「ゴルゴタの丘への行進」
1564年、ブリューゲル作。ウィーン美術史美術館。

絵の中央に荷車に乗せられたキリストの姿が、
そして手前に嘆き悲しむ聖母アリアの姿が見えます。

戒律が厳しいベネディクト派のこの修道院を設けたのは、貴族夫人アントワネット・ドルレアン=ロングヴィル。24歳で未亡人になり修道院で暮らしていた、信仰深い女性でした。

フィーユ・デュ・カルヴェール修道院を設けた、 
アントワネット・ドルレアン=ロングヴィル侯爵夫人。
 24歳で未亡人になり修道院に入ります。
彼女は尊敬していたヨセフ神父が購入したパリの邸宅を、フィーユ・デュ・カルヴェール修道院にします。ヨセフ神父はリシュリュー枢機卿の影の助言者と呼ばれていた才知に富んだ人物で、枢機卿亡き後国王ルイ13世の相談役になります。

大きな影響力を持っていたヨセフ神父。

1621年にローマ教王に認知されたこの宗派の修道院は、様々な地に建築され、そのひとつがこのフィーユ・デュ・カルヴェール修道院。

フランス革命で修道会は消滅し、中にあった貴重な品々はすべて売り払われてしまいます。

ヴォジラール通りにあったフィーユ・デュ・カルヴェール修道院。
後のマリー・ド・メディシスの礼拝堂。

立派な建物から
フィーユ・デュ・カルヴェール修道院の重要性がわかります。

もうひとつのフィーユ・デュ・カルヴェール修道院は、リュクサンブール宮殿のヴォジラール通りに面した所にあり、ルイ13世の母マリー・ド・メディシスが礼拝堂として使用していました。

現在は上院議長官舎で、すっかり変わってしまいましたが、幸いなことにアーカイヴが残っているので、この修道会の一部をしのぶことができます。