Lamarck=Caulaincourt
ラマルク=コランクール(12号線)
著名な博物学者ラマルクと、政治家で外交官だったコーランクールに捧げられている駅名。
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ジャン=バティスト・ド・ラマルク
(1744-1829) |
軍人が多い貴族の家に生まれたジャン=バティスト・ド・ラマルクは、学業を終えるとすぐに軍人として活躍するようになります。けれども負傷し、軍人の役目を果たせなくなり、医学と植物学を学び将来をその分野に捧げる決意を固めます。ラマルクが21歳の時でした。
植物に関する多くの著書を手がけ、高く評価され、科学アカデミー会員に迎えられます。その後ルイ13世の時代に生まれたパリ5区の「王立薬用植物園」の敷地内に、1793年、自然史博物館を設ける際に大々的に貢献し、そこで教授として活躍したり、昆虫の研究に従事し、無脊椎動物のオーソリティになります。「生物学」という言葉を考えたのもラマルクです。
ダーウィンに先だって進化論を唱えたのもラマルクでした。ラマルクが進化論を発表したのは1809年で、ダーウィンが1859年に発表したのは「種の起源」と呼ばれ、ラマルクの進化論とは異なっています。ラマルクの説は簡単に言えば生物は絶え間なく進化するものであり、使用する部分は発達し、そうでない部分は退化するということでした。ダーウィンの説は色々な生物は自然に生まれ、環境に適する生物が子孫を多く残すと述べています。
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5区の植物園のラマルク像。 |
ダーウィンはラマルクを賞賛していますが、ナポレオン一世はラマルクの説が気に入らず、1809年に発表した「動物哲学」を皇帝に献上したとき、創造性を信じるナポレオンは不変なものはないとするラマルクを公に侮辱し、こんな本はいらないと部下に手渡しています。あまりにも革新的なラマルクは、当時は誤解されることも多かったのです。
☆☆☆☆☆☆
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アルマン・ド・コーランクール
(1773-1827) |
侯爵家に生まれたアルマン・ド・コーランクールは、先祖がそうであったように軍人として輝かしい業績をあげ、皇帝ナポレオン1世の全面的信頼を受けます。外交手腕にも長けていたので、1807年から1811年にかけてロシア大使に任命され、ロシア皇帝アレクサンドル1世とナポレオンとの微妙な関係を巧みに保っていました。1813年からは外務大臣の役職に就きます。
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1808年10月、ドイツ中央部のエルフルトでの会見に
ナポレオンに随行したロシア大使コーランクール。
テーブル向こうの黒服はタレイラン。その右後ろの赤い服装がコーランクール。
オーストリア大使(中央左)、ナポレオン(中央右)、ロシア皇帝アレクサンドル1世(右端) |
妃ジョゼフィーヌが子孫を残せないと知ったナポレオンは、帝国持続のために離婚しロシア皇帝の妹アンナとの再婚を望み、その交渉をコーランクールに命じます。けれどもアレクサンドルの母の大反対で実現せず、ナポレオンはオーストリア大皇女を2番目の妃に迎えたのです。一方、アンナはオラニエ公(現在のオランダ王家)の王子と結婚し、後年王妃になります。
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アレクサンドル1世(1777-1825)
ナポレオン失脚後もコーランクールを評価し
友情を抱いていたとされています。 |
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アレクサンドル1世の妹アンナ・パヴロヴナ(1795-1865)
ナポレオンの依頼で再婚相手にとコーランクールが交渉。
残念なことに微妙な交渉は実りませんでした。 |
ナポレオンがロシア遠征を企てた際に、コーランクールはこの戦いはフランスを徹底的な敗北に導くと強く反対しますが、ロシア人を知り尽くしているコーランクールの意見を無視し、遠征を実行。コーランクールもこの破滅的戦いに参戦します。モスクワが火に包まれ退却を決心しパリに秘かに戻るとき、皇帝はコーランクールに同行を依頼します。
モスクワ遠征伴う連合軍との戦いで失脚し、フォンテーヌブロー城で皇帝退位に署名する前に、ナポレオンはコーランクールに、退位より死を選ぶ方がいいと打ち明けています。実際に皇帝は持参していた毒を飲みますが、古過ぎたためか効果がなく、一命を取り止めたのです。
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1814年4月4日、
フォンテーヌブロー城で皇帝退位にサインするナポレオン。 |
ナポレオンの流刑地をエルバ島にするよう計らったのはコーランクールでした。生まれ故郷コルシカ島と同じ地中海にあるエルバ島の支配者になることこそ、ナポレオンにふさわしいと、友情で結ばれていたアレクサンドル1世に頼んだのです。
ところがナポレオンはエルバ島からの脱出に成功し、パリに向かっていると知ったコーランクールは、即刻ナポレオンの元に行き、再び外務大臣の地位に就き忠実に仕えます。
ナポレオンが100日天下の後敗北し、王政復古でルイ18世が王座に就き、かつての皇帝がセント・ヘレナ島に流刑されると、コーランクールは引退し、領地で回想録を書いたり作物を育てたりしながら余生を送り、53歳の生涯を閉じました。
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数年前にコーランクールの子孫の館を訪問したことがありますが、
さすがナポレオン皇帝から信頼されていた部下の子孫だけあって、
重厚な建物にも高度な趣味にも圧倒されました。
今回再びコーランクールに関して書くために、
当時のご自宅での記念写真を見たら、
ご先祖に似たお顔をしていらっしゃることに気が付きました。
貴重なお写真です。 |