夫の尋問が始まりました
ルイ・カペーと呼ばれるようになった夫が、尋問のために国民公会の議場に出頭した最初の日は1792年12月11日でした。
カペーという苗字はカペー王朝を築いたユーグ・カペーから選んだのです。ユーグ・カペーは10世紀のフランス国王で勢力をのばしましたが、直系が絶えたために、カペー家分家のヴァロア家が跡を継ぎました。その直径も絶えると、今度は、同じカペー家一族のブルボン家に引き継がれたのです。私たちはそのブルボン家です。ヴァロアもブルボンもカペーの分家なので、夫はその本家の名で呼ばれることになったのです。
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| カペー王朝を築いた ユーグ・カペ―(940-996) |
その日の朝、太鼓が鳴り響き、塔の周りに大砲を取り付けてあるのが見えました。正午ちょっと前に夫の部屋に役人が2人入り、息子とゲームを楽しんでいた夫に向かって冷たく言ったのです。
「今後、カペーの息子は、母親と暮らすことになった」
驚いた夫が言葉を発する間もなく、2人の役人はルイ・シャルルを夫から引き離し、部屋の外へと連れて出したのでした。
最愛の息子を取り上げられた衝撃で、しばらくの間、意気消沈して座り込んでいた夫のもとに、今度はパリ市長、検事、役人が大きな足音を響かせながら入り、尋問のために議会に向かうと告げたのです。
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| 尋問を受けるために議会へ向かう夫。 |
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| 国民公会議長の ベルトラン・バレール。 |
そのひとつひとつに、誤解を招かないようにこたえるのは並大抵なことではありません。雄弁からほど遠く、説得力に欠け、自分を守るすべを知らないあまりにも純粋な夫は、四面楚歌をどのように耐えていたのか。その時は、夫を援護する弁護士もいなかったのです。
国民公会議長バレールは、当時37歳で飛びぬけて雄弁だったそうです。書記が33もの起訴状を読み上げた後、1歳年長の夫を目の前にしながら、バレールは短い言葉を発しました。
「ルイ・カペー。国民公会はあなたを裁判にかけることを決定したのである」
議長の乾いた冷たい言葉が終り、それまで立たされていた夫が椅子に腰かけ、尋問が始まりました。
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| 尋問を受ける夫 |
「1789年6月に、誕生したばかりの憲法制定国民議会の解散を試みたか」
「数人の議員の買収を試みたか。特にミラボーを」
「1789年6月20日にヴァレンヌに逃亡したか」
「チュイルリー宮殿防御の衛兵の強化を図ったか」
「1791年7月17日に、王政廃止を求めてシャン・ド・マルスに集合した民衆虐殺を命じたか」
「ヨーロッパ強国の軍事援助を得て、絶対君主制復活を準備したか」
「コブレンツに駐屯する亡命貴族軍と連絡を取っていたか。援助資金の調達をしたか」
「パリ市内の反革命派の便宜のために二重スパイを雇っていたか」
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小心な夫は矢継ぎ早の尋問に丁寧にこたえていたそうですが、説得力には欠けていたのです。弁護士を付けて欲しいという夫の唯一の願いは受け入れられ、後日の尋問のために3人の有能な弁護士が選ばれました。ドゥ・セーズ、マルゼルブ、トロンシェでした。
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| ドゥ・セーズ 1748年ボルドー生まれ |
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| マルゼルブ 1721年パリ生まれ |
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| トロンシェ 1726年パリ生まれ |
尋問が始まった12月11日から夫は家族と離ればなれで、侍従クレリーとふたりで暮らすことになりました。私たちは同じ塔にいながら会うことが許されなかったのです。クレリーは私たちに近づいてはならないと命令されていたので、夫の消息を知ることはできませんでした。新聞売りがときどき大きな声でその日の出来事を告げていたので、それで塔の外の様子をわずかに知ることができただけでした。
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| 孤独な日々をひたすら耐えていた夫。 |
12月19日は娘のお誕生日でした。その日でさえも、夫は娘に会えなかったのです。夫は大きな瞳に涙を浮かべながら、役人たちがいる前でクレリ―に「今日は娘の誕生日だ。それなのに、会うことも許されない・・・」と細い声で言ったそうです。役人たちは、すべての父親も抱く子供への愛に心を打たれたでしょうが、誰もが黙っていました。夫への同情が恐ろしい結果を招くことを恐れ、お互いに警戒していたからでしょう。残虐極まりないことです。
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| 娘のマリー・テレーズ・シャルロット 私たちの最初の子供でした。 |








































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