最後のクリスマスの日、夫は遺言を書きました
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| 家族そろって楽しく過ごすクリスマスの日、 夫はひとり机に向かい、遺言を書いていたのです。 鉄格子に囲まれた厚い壁の中で、冬の厳しい寒さをこらえながら・・・ |
本来ならば家族そろってお祝いするクリスマスの日に書いた夫の遺言は、長いものでした。すてに心の準備をしていたようで、数日前に役人に紙とペンを要求していたとクレリー侍従は後に語っています。遺言は敬虔なカトリック信者の言葉で始まります。
三位一体、父と子と聖霊のみ名によって。本日、1792年12月25日
フランス国王ルイ16世である余は、
かつて臣下であった者たちによって、
家族ともどもパリのタンプル塔に4か月以上前から幽閉され、
11日からは家族との連絡さえも禁止されている。
その上、
人民の熱情によるものであるがために、
解決策を予想することが不可能な裁判にかけられている。
現存するいかなる法に、口実も手段も見出すことができないのである。
余の見解の証人は神のみであり、
余が訴えられるのは神のみであるがために、
余はここに、神の立ち合いのもとに遺言と思いを表明する。
今までに犯した罪と自分の欠点を、神に許しを請う文がその後続き、敵となった人々を心から許すことまで神に願い、妻、子供たち、妹、叔母たち、弟たちの加護を神に求めたのです。
神よ、
長い間、余と共に苦しんだ妻、子供たち、妹に特別な慈悲の目を向け、
余を失うことがあったら、
この、はかない世にいる間ずっと支えてくださるように。
幼い息子にも父親として、国王としての言葉を残しました。
不幸にも国王になったなら、国民たちの幸福のために、
自分の全てを捧げる義務があることを思うべし。
特に、余の不幸と悲しみに関するすべての憎しみ、
すべての恨みを忘れなくてはならぬ。
国民の幸せは、
法に従って統治することのみによってなされるのである。
それだけでなく、自分を捕らえ、ひどい扱いをした人々を許すとくり返し、自分に対して主張されている罪を、自ら咎むべきところがないことを神の御前に誓い、神の前に現れる準備ができているという言葉で遺言を終えています。
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| 夫が残した遺言 |
この遺言書を書いた翌日12月26日、夫は国民公会議場に出頭しました。夫の傍らには3人の弁護士がいました。その中の一番若いド・セーズが夫の弁論をしました。
・・・フランス人民によって裁判にかけられているルイが、
自らの立場を説明する時が来たのです。
あなた方はルイの運命に関する判決を下し、
あなた方の見解はヨーロッパ中に広がるのです。
ルイには法もなけれが形式もない。
過去に存在していた条件も、
現在の条件も受けることもできないのである。
何と奇妙で不可解な運命だ。
革命は推し進められた。
しかし、人道的な精神を弱まらせてはいないはずである。
ルイは20歳で国王になった。
それ以来、常に人民に近い人であった。
倹約家であり、正義、道徳の人であった。
人々が苛酷な税や束縛からの解放を望むと、それを実行し、
刑法の改革も実現し、自由を求めると、それを与えたのである。
歴史が、あなた方の判定に判断を下すであろう。
しかも、数世紀にも及ぶ判断を。それを考慮するように・・・
ドゥ・セーズはまた、1791年の憲法制定以前は、夫は国王で不可侵性の立場にあった。従ってそれに関する告発は無効であり、それ以降の諸々に関しては、大臣たちに法的責任があるとも訴えました。
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| 12月26日に発言する夫 |
弁護士に続いて夫に発言の権利が与えられましたが、自分の弁護の言葉はすべて述べられ、それに加えることは何もないと答え、その後短い言葉を発したのです。
「おそらく、これがあなた方に語る最後になると思うが、余は罪悪感を感じることはまったくなく、また、弁護士たちは真実のみを語ったことをここに宣言する」
その後、タンプル塔に戻った夫ですが、あいかわらず私たちと会うことも許されず、祈りの日々を過ごし、判決が下される日を待っていたのです。家族が再会できたのは翌年1月でした。


































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