2012年2月19日

マリー・アントワネットの未公開の手紙

獄中のマリー・アントワネットの
最後の肖像画
ヴァティカンのアーカイヴには、世界の歴史の証言者ともいえる膨大な数の資料が保管されています。その中のひとつがマリー・アントワネットの手紙。わずか9行の短い手紙。けれども、その手紙が持つ価値は限りなく大きい。

専門家の調査によると、その手紙は1793年初頭に書かれたものとのこと。
ということは、マリー・アントワネットがタンプル塔に幽閉されていた時。その年の1月21日に国王ルイ16世が処刑。
手紙がそれ以前のものか、以後のものかは、
内容から判断しにくい。

文字には一切乱れがなく、フランス語に誤りもなく、彼女がいかにフランス語習得の努力をしたかわかります。文字が美しいだけに、心に訴えるものも大きく、もの悲しい。

宛名は書かれていないけれど、ルイ16世の末弟アルトワ伯宛てではないかと推定されています。手紙に「義理の弟」という文字があるからです。
彼はマリー・アントワネットと同じように快活で、
ヴァティカン所蔵の
マリー・アントワネットの手紙
積極的で、ふたりはとても仲が良かったのです。

ヴァティカンのアーカイヴ所蔵のこの貴重な手紙は、
ローマで他の資料と共に展示されるそう。
多分オークションにかけられたときに、ヴァティカンが購入したと見られているのですが、
何故フランスにないのか残念。
ともあれ、その全文をご紹介します。

親愛なる義理の弟よ、
私の苦悩を分かち合う人々の気持ちのみが、
この悲しい環境の中で、
マリー・アントワネットのサイン
私が受けることができる
唯一の慰みなのです。

新年のお祝いと、
私の誠実な愛を。
あなたに心を配る義理の姉
マリー・アントワネット

マリー・アントワネットが看守の目を盗んで書いたに違いないと思うと、心が痛みます。
紙もなく、本の一部を破って書いた可能性もあるとのこと。
そうとなるとますます胸が締め付けられる想いです。

ヴァティカン所蔵の古文書展
LUX IN ARCANA
2月24日ー9月9日

2012年2月15日

チュイルリー公園 草間彌生さん

チュイルリー公園でひときわ目立つのは、なんと言っても草間彌生さんの3点の作品。
カラフルで、楽しく、冬枯れの公園にひときわの華やぎを与えています。

2010年1月10日から2012年1月9日まで、ポンピドゥー文化センターで草間さんの回顧展が行われ、それを記念してチュイルリー公園に展示したもので、回顧展終了後は消えてしまうと思っていたところ、今でもあるのです。幸いなことです。


小さい頃から幻聴や幻覚に悩まされていたという草間さん。
鳥や花などから声が聞こえたり、水玉模様がいたるところに見えたりしたそうで、それから逃れるために絵を描くようになったとのこと。

周囲の理解とよき指導者に恵まれたことが、草間さんに世界的評価を得る芸術家への道を開かせたようです。
でも、何よりも、彼女の独自の創造性があったからこその評価です。


手早く、けれども、丁寧にたくさんの水玉を描く草間さんの映像を見たことがありますが、それに打ち込む真剣な姿は心打たれるほど。

自伝も書いたり、映画製作を手がけたこともあるそうですが、絵が一番草間さんらしくていい。そういえば、先日伺ったフランス人の友人の家に草間さんの水玉の大きな絵が飾ってあって、とても嬉しく思ったものです。

草間さんの楽しい作品がチュイルリー公園にあるからには、自然に子供たちの目にもとまり、何らかの影響を与えるでしょう。

現実に存在しない世界観であるだけに、刺激があり、細胞が喜びます。



チュイルリー公園の3点の作品




2012年2月7日

エルメスの格別なソワレ

エルメスならではの破格の才知による、破格のソワレが2月6日にありました。
会場はセーヌ左岸の広大な植物園内。この日も非常な寒さに震える夜でしたが、それが一挙に飛んでしまうほどの驚きと感嘆の連続。

シシーになった気分で乗った
おとぎ話に登場するような馬車
まず、会場まで車やバスで送るサーヴィスがあり、植物園の入り口ではプレス関係の人のお出迎え。その後、黒一色の細長いテントの中に入ると、何とその前に馬車が何台もとまっているではないですか。
テントはいわば馬車の乗り場だったのです。さすが高級馬具製作を起源とするメゾンにふさわしい。

アペリティフをいただく温室の外壁に
Hのイルミネーション
馬車は単なる馬車ではなく、
光の国から今舞い降りてきたかのように、
豆電球を体中にまとった幻想的な馬に引かれた6人乗り。
そこに着飾った御者の誘導で乗り、馬車は冬の寒さで葉を落とした木々の間を通りながら、植物園の中をゆったりと走ります。
その光景は、私に、オーストリア皇妃シシーを思い起こさせました。多分、今、ハプスブルグ家について書いているからでしょう。

その内、遠くに輝くHの文字が見えてきました。勿論エルメスのHです。
そこにも明かりが灯されていて、木々の間から見えるその文字が、私たちが向かっている目的地を示していることは、一目瞭然。

光の輪を通ってディナー会場へ
馬車がゆっくりととまり、再び御者の手に支えられながら降り、Hのマークが灯る建物の中に入ると、そこは巨大な温室。
見上げるほど大きな木や珍しい葉を見せる植物を観賞しながら、そこでアペリティフ。
と、どこからか鳥の鳴き声や、現実離れした楽器の音が聞こえてくる。気をつけてあたりを見回すと、女性、男性が植物の間に隠れるようにしながら、歌ったり竹の楽器を奏でているのです。


長さ70メトルのテーブルに
招待客は300人
アペリティフでほんのりした顔で温室を出た後は、電球が輝く輪がいくつも重なるようにしながらディナー会場まで導きます。入り口がブルーのライトアップでひときわ美しいディナー会場の建物は、世界中の貴重な鉱石などで有名な国立鉱物博物館。

中に入っての驚きは、今まで見たこともないほど長い長い70メートルのテーブル。この日、 着席ディナーに招待されたのは300人。次々と出てくるお料理がこれまた凝っている。

幻想的なディナー会場の
国立鉱物博物館
暖めた石の上に帆立貝が乗っていたりのオードブルの後は、粘土の箱に入ったメインのお肉料理。その粘土の箱を割るのに、ハンマーがいくつもテーブルの上に並べられるという凝った演出。鉱物博物館とお料理の組み合わせが、何とおしゃれなこと。

華麗な馬車がひときわ印象深いソワレ
デザートもまた、シュガーの箱入りでそれを割ると中においしいスイ-ツといった具合。
帰りはみなバラバラになるので、タクシーを無数にキープ。
パリならではの、そして破格のメゾンならではの、いつまでも記憶の奥に留まるすばらしいソワレでした。
 

2012年2月6日

エリザベス女王在位60周年記念

イギリスのエリザベス二世が女王になったのは今から60年前の1952年2月6日のこと。

ジョージ6世の長女として生まれたエリザベスは、その日夫君フィリップとケニアに滞在中で、国王である父が逝去されたときには、
彼女はイチジクの樹の上にいました。

もともと動物が好きなエリザベスは、象がよく見えるようにと大きなイチジクの木の上で
観察していたのです。
そのときイギリスでは、静養をかねて滞在していたサンドリンガム御用邸で、国王は就寝中に血栓症で逝去されたのです。

この思いもよらない出来事があまりにも急なことであり、あまりにも重大なために確認に確認を重ね、エリザベスが知ったのは
かなりの時間が経過してからだったとのこと。

側近からまずフィリップ殿下に報告があり、殿下はエリザベスの腕を取りゆっくりと歩きながら、この悲報を告げたそうです。
国王逝去と共に女王になったエリザベスは、そのときわずか27才。
人前で涙を流すこともなく、ケニアの後予定されていたオーストリア、ニュージンランド訪問を取りやめ、急遽ロンドンに戻ったエリザベスは、黒の喪服に身を包んでいました。
それは万が一に備えて黒服を持参するようにとの母后のアドヴァイスがあったため。

出迎えた当時のイギリス首相ウインストン・チャーチルは、エリザベスの姿を目にしたときには、そのあまりにも若く美しい姿に、涙をおさえきらなかったほど感動したとのこと。この女王のためなら何でもしたいとそのとき彼は語ったそうです。


翌年1953年6月2日にウエストミンスター寺院で戴冠式がおこなわれ、それ以来、国民に愛される女王としてイギリスの象徴となっているエリザベス二世です。
86歳とは思えないほどお元気で、笑顔には親しみと暖かさが込められていて、心に幸せを広げてくれるようです。
かなりの高齢なので、皇太子に王位を譲って引退することを勧める人もいますが、
国務があるからこそお元気でいられるのではないかと、私には思えます。これだけの長い年月にわたって重要な役割を果たしてきた人だけに、それを失ったときには、精神的衝撃は大きいはず。
多分女王は生涯のお仕事と思っていらっしゃるでしょう。
60周年記念のお祝いは2月6日にはじまり、6月2日から6日までは歴史に残るイヴェントがあるとのこと。オリンピックもあるしイギリスはとても元気です。


寒い~寒~いパリ

武装姿で町を歩く勇気ある人々
このところ午前も午後もマイナスで寒いパリ。

これほど寒いと頭が働かない。

もっとも暑くても働かないし、
春は春で気候がよくてうきうきしてだめだし、
秋は枯葉で心がしゅんとしてだめだし。

とにかく寒い。
だから外出のときは武装しなくてはならないのです。

こうしたときにはユニクロが大繁盛。
入り口近くにヒートテックを山積み。
その売れること売れること。

写真をとる私もこんな姿
すばらしいのは、多くの人が必要としているときに、
価格を下げて買いやすくしていること。
こうした良心的な心使いが長い人気を保つ秘訣のひとつなのでしょう。

私も勿論上下ユニクロ。
お陰で元気です。
メルシー ユニクロ。
それがあれば寒さも怖くない。

2012年2月4日

ナポレオンの遺体は本物?

アンヴァリッドの
ナポレオンのお墓
パリのアンヴァリッドの重厚な棺の中にいるのは、本当にナポレオンなのか、と疑問が持たれて約半世紀。

最近再び、DNA鑑定をして、この疑問を早く解決するべきだという意見が、専門家の間で再燃していますが、ナポレオンの親族のほとんどはそれに反対。

いまだに結論は出ていないけれど、万が一アンヴァリッドにいるのがナポレオンでないとしたら、彼は一体どこにいて、アンヴァリッドにいるのは誰なのか。

ナポレオンが流刑地セント・へレナ島で、その波乱に富んだ生涯を閉じたのは1821年5月5日。

名も書かれなかった殺風景なお墓に葬られていたナポレオンの棺は、1840年に当時のフランス国王の嘆願で掘り起こされ、遺体確認後にフランスに帰還。壮麗で感動的な儀式のもとに、ナポレオンの生前の希望にしたがって、セーヌ川のほとりに葬られたというのが、正式な発表。

セント・へレナ島に送られた代表団が、遺体確認のために棺をあけたところ、ナポレオンは猟歩兵の制服を身に付け、レジョンドヌール勲章を胸に飾り、ブーツをはき、まるで数時間前に世を去ったかのようだったと、その正式発表は続きます。

若き日の英雄の姿
ところが歴史学者は、ナポレオンを拘束していたイギリスは、遺体に防腐香料を付け保存状態をよくすることを拒否した。
そのために4日後に埋葬したときには、セント・ヘレナ島の気候ではすでに遺体腐敗が始まっていたはずと主張。

セント・ヘレナ島のナポレオン
それだけでなく、奇妙なことに、真夜中の暗闇の中で遺体発掘がおこなわれたというのだから、何か意図がありそう。しかも遺体確認の時間はたったの2分間のみ。

腐敗したはずの遺体が19年後には完璧だったということは、別人なのではないかと疑いがその後始まったわけで、今でも真実は不明。

勿論、正式発表はうそばかり書いたもので、
棺を開けた瞬間にナポレオンでないことがわかり、代表団は示し合わせて偽の報告書を書いたというのが歴史家の意見。
中には棺には石しかなかったとする人もいる。
となるとアンヴァリッドには誰も葬られていなにのかもという疑問も湧いてくる。

謎が深まる一方のナポレオンの遺体は、
彼を崇拝していたイギリス国王ジョージ4世が
イギリスに運ばせ、
ウエストミンスターに葬ったなどという説もある。
ナポレオンの最期

いずれにしてもDNA鑑定さえすれば、真実が判明するけれど、親族としては気が気ではないのでしょう。

今まで毎年おこなってきたアンヴァリッドでのナポレオン命日の儀式が、まったく関係ない人へのものになるのだから。

パリ市もこのままにしておいて欲しいと内心思っているはず。万が一の場合に、アンヴァリッドの過去の訪問者に対してどうしたらいいのかと考えると、いろいろ複雑。

でも私はやはり事実を知りたい。


2012年2月1日

シャトレのつぶやき 51 チョビとチョビ

今日はチョビを紹介します。
ずいぶん前に、ワタシの家に同居しているアザちゃんを紹介したのをおぼえているかしら? ワタシにそっくりなアザラシチャンのことよ。

今日はチョビを紹介しますネ。
チョビは「動物のお医者さん」という本に出てくる犬なの。

主人公はハムテルという名前で、動物のお医者さんになる希望を持っている
すてきな男の人。

ワタシの愛読書
「動物のお医者さん」
 そのハムテルの愛犬がチョビ。
ワタシと同じように女の子なのです。

とても頭がよくて、親切なチョビ。
それもワタシにそっくり。

この本、というかマンガがワタシの愛読書。だから前からママンにおねだりして、チョビに似たぬいぐるみを買って、買ってといっていたの。その願いがやっとかなったというわけ。

ママンがお仕事で東京に行ったときに、ホテルの売店で見つけて大喜びで買ったのが大きなチョビ。

それからわずか数ヵ月後にシャンゼリゼでクリスマス・マーケットがあったときに、ママンがまたチョビを買ったの、それがちびのチョビ。

チョビとチョビにはさまれて
とってもハッピーなワタシ。

このようにして我が家には二匹のチョビがいるので~す。
でも、チョビとチョビが犬だから言葉が通じないという悩みもあるのです。
ということで、ワタシは孤独になることもあるの、グスン。

今度は言葉が通じるネコをおねだりしようかな、と思っているのだけれど、ネコのかわいいぬいぐるみってなかなかないみたい。ということで、ママンはまたあちこち探す運命にあるのです。