2018年4月27日

メトロの駅名は語る 82

Jussieu
ジュシュ―(7号線、10号線)

17世紀から19世紀に活躍した家族の名で、植物学者、博物学者、医者が多い家系です。

現在この駅前には、パリ第6、第7大学があり一日中学生が行き交っています。
アラブ会館も近い。

ジュシュ―家で最初に名を残したのは、
アントワーヌ・ド・ジュシュ―(1686-1758)で、
医学を学んだあと、植物の治癒力に興味を抱きその研究に没頭します。

そうしている間に、ルイ14世の主治医であり、医学研究を目的とする王立薬用植物園の所長ファゴンに認められます。

ルイ13世の時代に生まれた王立薬用植物園。

1666年にルイ14世が設立した王立科学アカデミー。
中央の椅子に掛けているのがルイ14世。

ファゴンの依頼で王立薬用植物園の教授になり、王立科学アカデミー会員に選ばれ、その後医大でも教鞭をとるようになり、植物と医学の密接な関係を築きます。

アントワーヌ・ド・ジュシューは、自分と同じ道を歩む弟のベルナールと連れ立って、スペインやポルトガルを旅し、異国の植物研究も行っていました。
アントワーヌ・ド・ジュシューはカリブ海の植民地でコーヒーの木の栽培に貢献しています。
ベルナール・ド・ジュシュ―(1699-1777)

アントワーヌ=ロラン・ド・ジュシュ―(1748-1836)

その甥にあたるアントワーヌ=ロラン・ド・ジュシューは、叔父たちの後を継ぎ、1793年に創立された国立自然史博物館の館長にも就任しています。

この博物館は革命前の王立薬用植物園、現在のパリ植物園内にあり、自然に関する幅広い貴重な資料が展示されていて、誰でも訪問できます。

このように、植物学者が多かったジュシューの名を冠するメトロの駅から、すぐ近くにあるパリ植物園には、季節ごとに色とりどりの花が咲き乱れ、小さいながら動物園もありヴァカンス気分に浸れます。

2018年4月24日

オ・プランタンでお花見

老舗のデパート、オ・プランタンは、今、花盛り。

エントランスでは花びらで作ったウサギさんがお出迎え。
しかも、赤、白、青のウサギさん。フランスの国旗の色、
というのがおしゃれ。


三色旗のウサギさんたち。エントランスでクライアントをお出迎え。
それぞれ担当の場所で、真面目にお仕事をしています。

結構大きくてびっくり。

圧巻は、地下から2階までのエスカレーター脇の、ピンクと赤の花飾り。
もちろん造花だけれど、それでも満開のお花はキレイ、キレイ。


エスカレタ―近くの豪勢な花飾り。
とってもキレイ。
マヌカンの頭もお花。
ご覧のとおり、どこもかしこもお花、お花。
生花からは爽やかな香りが舞い上がっています。

生花のブーケもいろいろな場所にあるし、マヌカンのヘッドもお花。
お花見を楽しめるのは今。

お出かけくださいネ。

2018年4月23日

メトロの駅名は語る 81

Pont・Marie
ポン・マリー(7号線)

橋を造った技術者クリストフ・マリーの名が冠されています。

パリのブルジョアの家庭に生まれたクリストフ・マリーは、パリ市内に3つ、リヨンにひとつの橋を実現し、当時としてはかなり高齢の73歳で生涯を閉じています。

ポン・マリーは、サン・ルイ島と右岸をつなぐために造られた橋で、ポン・ヌフの次に古い橋です。

建築開始は1614年10月11日。
その日、母后マリー・ド・メディシスが見守る中で、国王ルイ13世が建築用の最初の石を置きました。

12、3歳のルイ13世。
この年齢のときに、
ポン・マリー建築の最初の石を置きました。

4つの柱の上に5つのアーチを設けたその橋は1635年に完成。
橋の上には、左右に25件ずつ、合計50件の家が並んでいました。
一階でブティックを経営し、階上を住まいにしていた人がほとんど。

けれども、他の橋と同じように家屋は18世紀に取り払われました。

1750年のポン・マリー。
橋の上に家が並んでいました。


橋の上の家はすべて取り払われ、
すっきりした橋になりました。

2018年4月21日

ストライキ、デモ、真夏の暑さ

このところ、アツさがフランス全土をおおっています。
大学入学の改正案に反対する学生たちが、大学を占拠しているかと思うと、
国鉄雇用条件変更案に対して、労働組合がストを決行。

それが奇妙なストで、2日間列車運航を最低限に抑え、それに続く3日間はほぼ通常運行にし、そのあとまた2日間スト、そして3日間は通常を繰り返し、6月末まで続くのです。

それに便乗するように、エール・フランスのパイロットも賃金値上げを要求してスト。
ヨーロッパの他の国と比べエール・フランスのパイロットは飛行時間が短く、手当は一番いいのにストライキなのです。

それに加えて29度の真夏の暑さ。公害もひどい。
しかも原稿が3つも重なって、フーフー言っている毎日。

こうしたときの慰めは、お気に入りのぬいぐるみのアザちゃんに話しかけり、キレイなお花を見ること。

精神にいい栄養を与えてくれるお花は大好きで、
日常生活にかかせない存在。

動物のぬいぐるみはいくつもあるけれど、
このアザちゃんが一番好き。

つぶらな瞳で一日中見つめてくれるアザちゃん。
その澄んだひとみを見るだけで、疲れが一気に遠のきます。

今、激動を生きているフランスですが、マクロン大統領は2時間以上に及ぶジャーナリストの辛辣な質問にテキパキと答えたり、危険や罵倒が待ち構えているのをを知っていながら、ストライキで殺気立っている人々の目前に姿を現し、自分には信念があるのだと明言したりしています。

才知、勇気、決断力、実行力がある人です。
マクロンはやはり国の指導者にふさわしい。

国際的にも評価されているようで、イギリスのEU離脱後、イギリスからフランスに移る金融関係の会社が多いそう。

いろいろあるけれど、フランスには明るい未来がありそう。

2018年4月20日

パリの犬たち 166

いつだって、こうなんだから。
リードをつけてくれたから、
お外に行けるとはしゃいでいたら、
急に、歩道の棒に結ばれて、自由がきかない。

「ファーマシーにはキミは入れないから、
ここで待っているのよ」
とママン。

すぐに戻るといっていたのに、その「すぐ」が長~い。
だんだん心細くなる。

けっこう気が弱いのよ。
こうなったら大声で叫ぶほかない。
ワン、ワ~ン、ワぁン、ワぁ~~ン。

それにもかかわらず、一向に姿を見せないママン。
絶望感に打ちひしがれる、かわいそうなワタシ。

2018年4月16日

春、チューリップ 鳥・・・ 

春らしい気候に誘われて、お出かけ。
楽しい光景がいっぱい。
やはり、春はいい。

春カラーがあふれるウィンドウ。
見ているだけで幸せ。
チューリップが満開。
童謡が浮かびます。そう、あの歌。
「咲いた咲いた、チューリップの花が・・・」

この歌をうたっていたのが、つい数年前のように思えます。
チューリップが愛らしいから?
この花を見るたびに子供のころが蘇るから不思議です。
いつステキな出会いがあるかもしれない。
鳥さんが心を込めて毛の手入れ。

どこもかしこもお花がいっぱい。
平和な時間が流れます。
鳥さんたちと人の和やかな交流。
世界中で見たい光景。

2018年4月15日

メトロの駅名は語る 80

Pont Neuf
ポン・ヌフ(7号線)

「新しい橋」という意味のポン・ヌフですが、実は現存するパリ最古の橋。
当時は確かに色々な意味で新しい橋でした。

現存するパリ最古の橋、ポンヌフ。

歩道が設置された最初の橋であり、
セーヌ川の右岸と左岸をつなぐ最初の石造りの橋であり、
それ以前の橋のように、住居を建築しなかった最初の橋。

このように、新しい橋と呼ばれた理由がいくつかあります。

橋の建築を命じたのは国王アンリ3世で、1578年5月31日、国王自ら建築用の石を置いています。国王の母、カトリーヌ・ド・メディシスも息子に連れ添っていました。

橋の建築は、次の国王アンリ4世の時代にも引き継がれます。

新しい試みは、それ以前の橋のように家屋を建てないことと、通行人を守るために歩道を設けたことでした。この橋がセーヌ川の左岸と右岸をつなぐ、最初の石造りの橋でした。

橋の歩道の上の半円形の突き出した部分に、
屋根付きの店舗が置かれました。

店舗はその後、撤去されましたが、
半円形の突き出した部分は今でも残っていて、
そこからのセーヌ川の眺めはすばらしい。

住むための家は造らなかったとはいえ、今でも残っている半円形の張り出し部分に、店舗がありました。

食料品、雑誌や本、オブジェなどを売る屋外の店舗は大変な人気を呼び、パリっ子のお気に入りの場になります。

店舗は時代と共に撤去され、最後のブティックが姿を消したのは1854年とされています。

橋には給水塔があり、それ自体が立派な建造物でした。


右岸に近いところに給水塔がありました。
塔には、井戸のほとりで語り合う、イエスとサマリア女性のレリーフが描かれていました。そのために「サマリテーヌの噴水」と呼ばれていました。


井戸をはさんで語り合う
イエス・キリストとサマリア女性の
美しいレリーフがある給水塔。

聖書によるとその物語は・・・

ユダヤからガリラヤに行く途中、
イエスはサマリアの「ヤコブの井戸」の傍で休息します。

そうしている間にサマリアの女性が水をくむために、
井戸に近づきます。

その姿を見たイエスは「水を飲ませてください」と語りかけます。
ユダヤ人とサマリア人の間に交流がなかったので、女性は警戒します。

けれども、イエスと話をしているうちに、
もしかしたらこの人が、
もうじき訪れると噂されて救い主、キリストではないかと思います。

女性がサマリア人たちに語ると、
イエスに会うために多くの人が集まり、話に耳を傾け、
この人こそキリストだと彼の教えに信仰を抱くようになったのです。

サマリア女性はフランス語でサマリテーヌ。給水塔があった近くの右岸に、後にデパートが誕生し、サマリテーヌと名付けています。

ポン・ヌフを完成させたアンリ4世は、それから間もない1610年に暗殺されます。それを悼んだ王妃マリー・ド・メディシスは、1614年、橋の中央に亡き国王の青銅の騎馬像を設置させます。


ポン・ヌフ中央のアンリ4世の騎馬像。
公共広場に最初に造られた国王の像です。

ブルボン王朝を築いた偉大な国王の像を見るために、
人々はひっきりなしに集まり、
祭典を催すこともありました。1788年。

やがてフランスは革命に荒らされ、1792年、ポン・ヌフの騎馬像も破壊されてしまいます。

その後王政復古で王座に就いたルイ18世が、1818年、新たに偉大な先祖の騎馬像を造らせます。

1818年8月25日、ルイ18世列席のもとに、
アンリ4世の新しい騎馬像を祝うセレモニーが行われました。

現在見られる青銅の騎馬像は、このときのものです。

2018年4月11日

メトロの駅名は語る 79

Pyramides
ピラミッド(7、14号線)

ナポレオン・ボナパルト将軍の「ピラミッドの戦い」を記念する名です。

インドとの交易をしていた宿敵イギリスに打撃を与えるために、その通り道のエジプトを手中に治めようとエジプト遠征を決行したのは、ナポレオンが皇帝になる前のボナパルト将軍の時代でした。

当時のアレクサンドリア港。
イギリス艦隊が見張っている地中海を無事に渡り、オスマン帝国の支配下にあったエジプトのアレクサンドリア港に上陸したのは、1798年7月1日。

現地のマムルーク軍相手に激戦を繰り広げながら、カイロ近くに到着。
そこから遠くにあるピラミッドを目にとめると、ボナパルト将軍は兵士たちを鼓舞するために、歴史に残る言葉を発します。

「兵士たちよ、あの頂上から4000年の歴史が諸君を見下ろしているのだ」

遠くに見えるピラミッドを示しながら、
兵士たちに勇気を奮い立たせる言葉を発する、若干29歳のボナパルト将軍。

7月21日、カイロ近郊で大勝利を得たボナパルト将軍は、この戦いを自ら「ピラミッドの戦い」と名付けます。

カイロを誇らしげに歩くナポレオン・ボナパルト。
実際にはピラミッドは、はるか彼方に見えていただけでしたが、さすが幼いころから英雄伝を読んでいたナポレオンだけあって、言葉選びが抜きん出ています。

たしかに「カイロの戦い」とせず、「ピラミッドの戦い」とする方が、はるかに印象的です。

彼は、人の心を捉える有力な話術を持っていた、稀に見る人物でした。

2018年4月8日

パリの犬たち 165

ああ、やっと春になったワン。

うれしい、ウレシイ、春になりました。
ダウンコートとはもうお別れ。

雪が積もったり、何日も何日も雨がふって、洪水騒ぎもあったりで、
神経が疲れる冬だったわ。

でも、それもおしまい。
太陽が顔を出してくれて、ワタシもルンルン気分でお散歩。
こんなにたくさんの幸せを感じるのは、
ほんとうに久しぶり。

太陽バンザイ、
春バンザ~イ。

2018年4月5日

パリの犬たち 164


モデルになったみたい。
あッ! カメラをむけているけれど、
もしかして、ワタシのお写真をとるの?
「パパ、どうしたらいいの?」
「よさそうな人だから、いいお顔してポーズしたら」

はーい
では最高のすまし顔で。
「ねぇ、どうだった? いいお顔していた?」
「パーフェクトだったよ」

2018年4月2日

メトロの駅名は語る 78

Chaussée・d'Antin=La Fayette
ショセダンタン=ラファイエット(7、9号線)

ショセ・ダンタン通りとラファイエット通りから生まれた駅名。

沼地ばかりだったために、土を盛って道路にしたショセ・ダンタン通りには、
国王ルイ15世の時代に豪奢な館がいくつも建築されました。

ダンタン公爵。(1665-1736)
高位の貴族で、ルイ14世、ルイ15世の時代に活躍。
フランス各地に複数のシャトーを持っていた大富豪。

そのひとつはダンタン公爵の大邸宅。彼の名は1712年に道路名になり、公爵の大邸宅は後年、ギャラリー・ラファイエット・デパートになります。

18、19世紀には蒼々たる富豪ばかりが暮らし、夜ごと夜会が開かれ華やかな社交が繰り広げられていました。

当時の社交界の花形は、美貌の誉れ高いレカミエ夫人。彼女が夫と暮らしていたのもショセ・ダンタン通りの邸宅でした。

レカミエ夫人(1777-1849)
16歳の時に42歳年上の銀行家レカミエと結婚。

類まれな美貌と豊かな教養で、多くの崇拝者がいて、
その一人が作家シャトーブリアン。
彼との愛は作家が世を去るまで続きました。
優美な邸宅のレカミエ夫人の憩いの間。
館のダイニングルーム。



オペラ座の踊り子でプリンス・スビーズの愛人だった、マリー=マドレーヌ・ギマールの館は、ネオ・クラシックの重厚な趣の建物でした。

マリー=マドレーヌ・ギマールの邸宅。

一方ラファイエット通りも、ショセ・ダンタン通りと同じように、歴史に残る邸宅が豪奢な姿を見せていました。

道路名は、ルイ16世の時代にアメリカ独立戦争で大活躍した、ラファイエット将軍を称えるもの。

ラファイエット将軍(1757-1834)

彼は由緒ある貴族出身で侯爵の称号を持っていましたが、アメリカの独立に共鳴し、志願してアメリカに渡ります。

独立が実現しフランスに戻った彼は「新大陸の英雄」と呼ばれるようになります。

ラファイエット通りにあった銀行家未亡人の館。1778年。
オランダ王妃オルタンスの邸宅。1899年に取り壊し。

邸宅の入り口はラフィット通りにあり、
その広大な庭園がラファイエット通りまで続いていました。

オルタンスはナポレオンの最初のお妃ジョゼフィーヌが、
亡き夫ボーアルネ子爵との間に持った娘。

ナポレオンとの絆を強めたいと思ったジョゼフィーヌは
娘をナポレオンの弟ルイと結婚させます。

ルイは兄によってオランダ国王に就任。
オルタンスとの間に生まれた3男が、第二帝政を築いた後のナポレオン3世です。


このような歴史をたどると、この界隈のかつての華やぎが伺えます。
当時の建造物が何も残っていないのが、とても残念。