2022年6月29日

フランス女性の活躍

 新しい首相に女性が就任したばかりなのに、今度は、下院議長に51歳のチャーミングな女性、ヤエル・ブロン=ピヴェ女史が選出され、ますます女性の評価が高まっているフランス。新時代到来という表現がぴったり。



初の女性下院議長に選ばれたヤエル・ブロン=ピヴェ
capture France 24

古く重要な歴史を刻むナントに生まれたブロン=ピヴェ女子は、弁護士として活躍後、ロレアルの重要な役員を務める夫の赴任により、台湾、日本、ポルトガルで数年暮らす。東京に暮らしていた2000年代に、フランス社会党支部の会計を担当。

帰国後、無料で弁護を引き受けたり、慈善事業「心のレストラン」でボランティアとして働く。マクロン大統領が党を結成すると、直ちにメンバーになり、2017年の総選挙で多数の票を得て議員になる。

5人の子供の母親でもあるブロン=ピヴェ女子は、まるで女学生のようにハツラツとしているし、お洒落も上手。テレビでその姿を見るだけで、温かみが感じられる女性。

久々の女性首相、初の女性下院議長によって、フランスがいかに進展をするか、とても楽しみ。もう目が離せない。

2022年6月27日

昔のバスが走っていた

何でもヴィンテージがもてはやされる今日この頃。 主に衣類のヴィンテージがすごい。ところが、今日見かけたのは、昔のバス。後ろにプラットホームがあって、そこに乗っている人たちが、風に吹かれていかにも幸せそうで、うらやましい。

プラットフォーム付きの最後のバス。いつか乗ってみたい。


我が家に帰っていろいろ調べたら、バスの歴史が思ったより古くてびっくり。

数人の人が一緒に乗る馬車が登場したのは、ルイ14世の時代だったから、17世紀。ただし、金額は結構高く、それを利用できる人は限られていたので、かなり不評だったのです。利用者は貴族たちが多かったようだけれど、お金があるのだから、自分専用の馬車をもてばいいのに、と庶民の私は思ってしまう。

かつては馬が引く「乗り合い馬車」が
パリ市民に人気がある交通機関でした。

時が経ち、馬による「乗り合い馬車」がパリで定期的に運行されたのが1828年で、シャルル10世の時世。フランス革命で処刑されたルイ16世の末弟で、王政復古で兄がまず国王になり、彼亡きあと王座に就いた人。

オムニバスと呼ばれるその「乗り合い馬車」は、値段も手ごろで大評判。当然、利用者が多く、10社もの会社が生まれたほど。

1905年の自動車ショーで、バスが紹介され、翌年には早くもパリの北と南をつなぐ乗り合いバスが走ったというから、パリ市民の移動は一気に便利になったのです。

2階建てバスも早くに登場。趣きがあっていい。


サン・マルタン大通りを走るプラットフォーム付きバス。
連なっているのを見ると、いかに人気があったか分かります。

年々改革がなされ、様々なバスが登場。特に人気があったのは、後方にプラットフォームがあるバス。けれどもこれも、時代の変化で姿を消す運命に陥り、1971年1月23日、ポルト・ドゥ・ジャンティイとサン・ラザール駅をつなぐ最後の運航を終え、パリ市民の前から姿を消してしまったのです。

でも、しっかり者のパリジャンが、その最後のバスをきちんとキープしていて、それを何かの機会 (それが何の機会かわからない ) に走らせているのです。私が偶然見たのは、そのバス。ああ、いつか乗ってみたい。でも、排気ガスがかなりひどかったから、どうしよう。でも、やはり一度は乗ってみたい。

2022年6月23日

パリの犬たち 254

アツイ、 アツ~イ。だから歩きたくないワン。

毎日、毎日、とってもアツイの。
それなのに、毛皮なんか着ているんだから、もっとアツイ。
こんなときは、バギーに乗って移動。
これならラクチン。

ボクだってアツイ。
ママンは優しい人だから、自転車の後ろに籠をのせて、
それにボクが座れるようにしてくれたの。

ママンが自転車をこぐと、風が体全体にあたって、快適。
アツイときはこれに限るワン。

2022年6月22日

音楽祭 40周年記念

 フランソワ・ミッテラン大統領時代に、ジャック・ラング文化大臣によって「音楽祭」が正式に開催されたのは1982年。今年はその40周年記念の年。コロナで音楽祭が開催されなかっただけに、喜びは、はち切れそうに大きい。

2022 年 6月21日の音楽祭のポスター。
これを見ているだけで、心がウキウキ。


文化省があるパレ・ロワイヤル庭園では、午後1時から真夜中までプロやアマチュアによるクラシック、ポップ、ロックなどの祭典が続き、ルーヴル美術館ではクラシック演奏。チュイルリー庭園ではレバノンとモロッコのオリエンタル・ミュージックが奏でられ、軽快なリズムに乗って、みな、笑顔を振りまきながら踊り続ける。

エリゼ宮の庭園では、事前に予約した約2000人が、空高く舞い上がるDJやライヴに合わせて体を動かし(マクロン大統領夫人のブリジットが派手に踊っている姿がYOUTUBEで流されていました)、バーやレストランもDJで盛り上がる。小さな広場で歌う人もいれば、教会の入り口で楽器を奏でる人もいる。

この日は四方から音楽が聞こえてくる特別に楽しい日。これがフランス全土で繰り広げられるのだから、すごい迫力。パリでは予約が必要な会場もあったけれど、どれも無料だし、好天気に恵まれ、驚くほどの人出。

セーヌ河畔は信じられないほどの人。
音楽がいろいろな個所から流れていて、
それに合わせて踊りながら移動する若者が多く、
見ているだけ喜びが伝わってくる。


音楽は、どれもこれも精神にいい栄養を与えてくれる。すべてを解決してくれるようなマジックがあるように思える。こういう日がもっとたくさんあってもいいと思うほど、人々の顔が輝いていた。

音楽祭の生みの親、ジャック・ラング。

この祭典日を考えてくれた文化大臣に感謝。
メルシー、ジャック・ラング💓💓💓

2022年6月15日

ジョゼフィーヌのもうひとつのシャトー

ナポレオン皇帝の最初の妃ジョゼフィーヌが、パリ近郊のマルメゾン城をこよなく愛し、そこで生涯を閉じたのはよく知られているし、訪問した日本人も多い。けれども徒歩で10分の所にあるもうひとつのシャトー、ボア=プレオは、ほとんど知られていない。 私も訪問したことがない。

ところが、「フランス芸術報道組合」の定期総会を、何とそのシャトーでおこなうことになり、メンバー20人がパリから貸し切りバスに乗って、まるで遠足気分で向かったのです。総会は一年間の活動とか経費詳細などの発表が主で、正直言ってほとんど興味がない。でも、ボア=プレオ城で開催となると、別。

まず、マルメゾン城をディレクターの丁寧な解説付きで見学。休館日に特別に開けて下さったのです。その後歩いてボア=プレオ城に向かう。そこで約1時間の定期総会。

いつ見ても優美なマルメゾン城

コンサートルームは久しぶりに拝見。
ジョゼフィーヌだけでなく、
娘も息子もピアノがとても上手でした。

庭園のバラが満開。
ジョゼフィーヌは250種ものバラを育てていたのです。

爽やかな庭園で笑顔で記念撮影。
庭園をたくさん歩くので、気軽な服装と歩きやすい靴。

17世紀に建築されたボア=プレオ城は、多くの人の手を経て1920年にアメリカ人の大富豪夫妻が購入し、1926年に国に寄贈。その時の条件は、ナポレオンに捧げるミュージアムにすること。それに従い、皇帝がセント・ヘレナに捕らわれの身として暮らしていた時の館が再現されたり、そこで皇帝が実際に使用していた家具も展示し、7500冊もの蔵書やその他の資料なども展示。

マルメゾン城から徒歩で10分後、ボア=ブレオ城が見えてきました。

シャトーの手前で、かつてのフランス皇后の像が待っています。

均整が取れた優美な姿を見せるボア=ブレオ城。
ジョゼフィーヌの時代には左右に翼棟があったのを、
後年のオーナーが取り去って庭園を広げたのです。


ジョゼフィーヌが世を去った後、数人の人の手を経て改造もされ、その間にシャトーがかなり老朽化し、大々的修復を行うために、30年ほど閉めることになったのです。

「リニューアル後最初にシャトーの中に入るのは、あなたたち」
とディレクターに言われ、大歓声。このような場で総会を開けるのは、幸運だし名誉なこと。

シャンデリアや金箔の装飾、窓からは広い庭園が見える。
ここで1時間の総会があり、その後はドリンクタイム。

修復工事はほとんど終わり、今年秋に再オープンし、ジョゼフィーヌが最初の夫との間に持ったウジェーヌに捧げる展覧会を開催する予定。彼は母ジョゼフィーヌ亡き後、シャトーのオーナーになっていたのです。

ナポレオンはこの義理の息子の軍人としての勇気と実力を高くかい、イタリア副王に任命し、ナポレオンの数多くの戦いで活躍。ウジェーヌはバイエルンの王女と結婚し、二人の間に生まれた長女ジョゼフィーヌは、スウェーデン王太子オスカルの妃になり、後に国妃となり、その子孫が代々スウェーデン国王です。

ジョゼフィーヌ亡き後オーナーになった
息子のウジェーヌ。

ウジェーヌと結婚した
バイエルン王女、アウグステ。

ウジェーヌ夫妻の長女ジョゼフィーヌ。
スウェーデン王太子オスカルと結婚し、
後に夫が国王オスカル1世になり、ジョゼフィーヌは王妃に。

ナポレオンの妻ジョゼフィーヌがマルメゾン城を買ったのは1799年で、当時、ナポレオンはエジプト遠征でフランスを留守にしていたのです。その間にジョゼフィーヌは勝手に高額でシャトーを買い、ナポレオンは最初は激怒。でも、妻に恋い焦がれていた夫は、支払いに苦しみながらも簡単に許したのです。

高価な家具や絵画、彫刻で飾ったマルメゾン城がすっかり気に入っジョゼフィーヌは、そのすぐ隣のボア=プレオ城を1810年に手に入れ、二つのシャトーの間にあった壁を取り払って敷地を拡大。子供が生まれないために皇帝から離婚された後も、皇后の称号を保っていたジョゼフィーヌは、この二つのシャトーに最後の日まで暮らしていました。

離婚後マルメゾンに暮らすようになったジョゼフィーヌは、
そこでも洗練された社交を続け、多くの崇拝者を得ていました。
ナポレオンの敵だったロシア皇帝アレクサンドル1世を迎えるジョゼフィーヌ。
左がアレクサンドル1世。右手に息子と娘、2人の孫。
ジョゼフィーヌの前の小さい孫は後のナポレオン3世。

ナポレオンが失脚し、セント・ヘレナ島に流刑される前に、亡き妻ジョゼフィーヌがこよなく愛し生涯を閉じたマルメゾン城を訪れ、さめざめと涙を流したと記録されています。粗野だったナポレオン皇帝の宮廷を、優美な装いと社交で補い、フランスのアール・ドゥ・ヴィーヴルを世界に認知させたジョゼフィーヌは、ナポレオンが「比類なき女性」と呼んだ人。彼女の吐息が至る所で感じられるマルメゾン城とボア=プレオ城。ジョゼフィーヌが外国からフランスにもたらした花々が咲く庭園も見逃せない。

2022年6月10日

庭園の中の「庭園展」

 パリ中心にある「チュイルリー公園」は、以前の宮殿の庭園だったので「チュイルリー庭園」と呼ぶのがふさわしい。フランス語では庭園です。

呼び方はどうであろうと、チュイルリー庭園は左右対称のフランス式庭園の代表的存在で、このような場で気楽に憩えるのはうらやましい限り。

四季折々の花を観賞できるだけでなく、何もないまっさらな個所は、パリコレの会場になったり、クリスマスマーケットや遊園地になったり、近代アートの青空会場になったり、いろいろな顔を見せ、今回は庭園展会場。

趣向を凝らした展示が結構多く、さすがアイディアに長けたフランス人だと感心しながら散策。特に気に入ったのをいくつかご紹介します。

幸い好天気に恵まれ大変な人出。
自然が好きな人は性格がいいのか、誰もが感じいい。

インパクトがある、かなり大掛かりな庭園。
準備に何日かかったのかな、とそれも気になった展示。


奥に何があるか期待を呼ぶ庭園。
広大な敷地の別荘にふさわしいコンセプト。

庭仕事のときもオシャレをしましょうと、
カラフルな服や帽子がいっぱい。

壁にかけるミニ花飾り。

ベランダの壁にもぴったりな、垂直な花装飾。

数種類の植物を一度に飾れる階段式ベース。


いろいろ見て回って展示作品のベンチで一休み。
椅子やベンチは数カ所にあり、自由に座っていいと寛大。

2022年6月3日

ショパンが生涯を閉じた館

ヴァンドーム広場に面したかつての貴族館は、それぞれ美しい物語を秘めているけれど、私がもっとも惹かれるのは、ショパンが最後の日々を送った12番地の館。 現在は、世界に名を轟かせている高級宝飾店ショーメの本店になっています。

フレデリック・ショパン(1810-1849)


1810年にポーランドで生まれたショパンは、7歳のときにすでに才能を発揮し、ポロネーズを作曲。青年になると当然のようにワルシャワ音楽院に入り、首席で卒業します。それから間もない1830年、ウィーンに滞在している間にポーランドで反乱がおきます。ロシア帝国のポーランド支配に激しく抗議するこの反乱は、結局、ロシア軍によって沈圧され、ショパンは祖国に帰らずパリに移住する決断を下します。1831年、ショパンは21歳でした。

当時、多くの文芸人が暮らしていたパリで、人脈を広げ、作曲家の名声を得るようになったショパンは、貴族を中心とした社交界でもてはやされます。ところがフランスで1848年に「2月革命」が起き、ピアノのレッスンやコンサートどころではなくなり、収入も激減。幸いなことにショパンの才能を高く買っていたスコットランドの貴族夫人の誘いで、4月20日イギリスに渡り、レッスンやプライベートコンサートで徐々に名を広め、7月7日にはヴィクトリア女王前で御前演奏を行うほどになったのでした。


パリ、サン・ルイ島の貴族館のソワレで、
ピアノの演奏をするショパン。


けれども、小さいころから肺が弱かったショパンの体は、結核にむしばまれます。ロンドンの暗い気候も彼の健康に悪影響を与えていたようです。そうした中で、1848年11月16日、ポーランド避難民のためにオーガナイズされた慈善コンサートで、衰弱していた体ながら力を振り絞って演奏。それが彼の最後のコンサートになったのでした。その後ロンドンを離れ、懐かしいパリに戻ります。

それ以前の1831年からパリに暮らしていたショパンは、何度か住まいを変え、記録に残っている住所だけでも8ヵ所にものぼります。ロンドンからやせ細った体でパリに着いたピアノの詩人は、1848年末に牧歌的情緒あふれるシャイヨの丘(現在のトロカデロ)にあった友人の家で静養し、翌1849年9月、ヴァンドーム広場12番地の館に移ります。

1702 年に建築されたその邸宅は、数人の貴族の手を経て、1814年に大富豪の銀行家イサック・チュレがオーナーになります。二人目のオーナー、海軍財務長官の名を冠してボダール・ドゥ・サンジェイムス館と呼ばれていました。

ルイ14世の時世の1702年に建築された広場は、当初は「ルイ大王広場」と呼ばれていて、
国王の栄光を称えるために、中央に王の騎馬像が置かれていました。
広場を囲むように同じファサードの貴族館が建てられ、高位の貴族たちが競って購入。
そのひとつに後年、ショパンが住んでいたのです。

絵は、1760年、ルイ15世の時代の広場。建物はこの時代のまま保存されていて、
中央の国王の騎馬像のかわりに、ナポレオンが頂上に君臨する円柱が設置されています。
ショパンが12番地に住んでいた時代も、ナポレオンの像がある円柱でしたが、
現在のより小さい像でした。12番地の館は絵の右手前に見えます。



銀行家の広大な館の一角に住むようになったショパンは、最後が近づいたのを察したのか、姉ルドヴィカにパリに来るよう嘆願し、8月9日、姉と弟は再会の喜びの涙を流します。ショパンが借りていたのは7部屋もあり、ルドヴィカはその一室に暮らしながら、弟の世話を献身的にします。家賃は大変高かったけれど、彼の長年のメセナがそのほとんどを払っていたようです。
ショパンが最後の日々を過ごしていた、
18世紀に建築された貴族館の優美な階段。
ショーメになった現在も、この階段は残っていて、
階上で時折催されるイヴェントの際に何度かのぼり、その度に感激しています。


ショパンのミューズだったポーランド人のデルフィナ・ポトツカ伯爵夫人も、10月15日にお見舞いにかけつけます。ショパンの希望で部屋にピアノが運ばれ、美しい伯爵夫人の歌声に、病の苦しみを和らげていました。

ポーランド人のデルフィナ・ポトツカ伯爵夫人
(1807-1877)

ショパンの希望でピアノが寝室に運ばれ、
彼のミューズだったポトツカ伯爵夫人が
透き通るような美しい歌声で苦痛を和らげました。


それから2日後の10月17日朝2時、ロマン派の「ピアノの詩人」は愛する人々に囲まれながら、息を引き取りました。

死の床のショパン。
椅子に腰かけているのがポーランドから駆け付けた姉、ルドヴィカ。
ショパンの前に立っているのは、
ポーランド伯爵夫人でピアニストのチャルトリスカ。


葬儀はマドレーヌ教会で10月30日に行われ、ショパンの遺言に従ってモーツアルトの「レクイエム」とショパン作曲の「葬送行進曲」が演奏され、その後ペール・ラシェーズ墓地に埋葬。心臓は姉ルドヴィカによって、懐かしい生まれ故郷ポーランド戻り、首都ワルシャワの聖十字架教会の石柱に治められました。それもショパンが望んだことでした。

ショパンが生涯を閉じた館の外観を見ていると、彼がパリに住み始めたころに作曲した「別れの曲」の、心の奥に染み入るような、美しく悲し気な旋律が聞こえてくるようです。戦火の故郷ポーランドを思う切ない心情が表現されていると言われる「別れの曲」。実際にショパンは、その曲のレッスンをしている時に、「ああ、我が故郷」と泣き崩れたこともあったという。


「ピアノの詩人」はこの旧貴族館の2階で39歳の生涯を閉じました。