ヴァンドーム広場に面したかつての貴族館は、それぞれ美しい物語を秘めているけれど、私がもっとも惹かれるのは、ショパンが最後の日々を送った12番地の館。 現在は、世界に名を轟かせている高級宝飾店ショーメの本店になっています。
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フレデリック・ショパン(1810-1849) |
1810年にポーランドで生まれたショパンは、7歳のときにすでに才能を発揮し、ポロネーズを作曲。青年になると当然のようにワルシャワ音楽院に入り、首席で卒業します。それから間もない1830年、ウィーンに滞在している間にポーランドで反乱がおきます。ロシア帝国のポーランド支配に激しく抗議するこの反乱は、結局、ロシア軍によって沈圧され、ショパンは祖国に帰らずパリに移住する決断を下します。1831年、ショパンは21歳でした。
当時、多くの文芸人が暮らしていたパリで、人脈を広げ、作曲家の名声を得るようになったショパンは、貴族を中心とした社交界でもてはやされます。ところがフランスで1848年に「2月革命」が起き、ピアノのレッスンやコンサートどころではなくなり、収入も激減。幸いなことにショパンの才能を高く買っていたスコットランドの貴族夫人の誘いで、4月20日イギリスに渡り、レッスンやプライベートコンサートで徐々に名を広め、7月7日にはヴィクトリア女王前で御前演奏を行うほどになったのでした。
パリ、サン・ルイ島の貴族館のソワレで、 ピアノの演奏をするショパン。 |
けれども、小さいころから肺が弱かったショパンの体は、結核にむしばまれます。ロンドンの暗い気候も彼の健康に悪影響を与えていたようです。そうした中で、1848年11月16日、ポーランド避難民のためにオーガナイズされた慈善コンサートで、衰弱していた体ながら力を振り絞って演奏。それが彼の最後のコンサートになったのでした。その後ロンドンを離れ、懐かしいパリに戻ります。
それ以前の1831年からパリに暮らしていたショパンは、何度か住まいを変え、記録に残っている住所だけでも8ヵ所にものぼります。ロンドンからやせ細った体でパリに着いたピアノの詩人は、1848年末に牧歌的情緒あふれるシャイヨの丘(現在のトロカデロ)にあった友人の家で静養し、翌1849年9月、ヴァンドーム広場12番地の館に移ります。
1702 年に建築されたその邸宅は、数人の貴族の手を経て、1814年に大富豪の銀行家イサック・チュレがオーナーになります。二人目のオーナー、海軍財務長官の名を冠してボダール・ドゥ・サンジェイムス館と呼ばれていました。
ショパンが最後の日々を過ごしていた、 18世紀に建築された貴族館の優美な階段。 ショーメになった現在も、この階段は残っていて、 階上で時折催されるイヴェントの際に何度かのぼり、その度に感激しています。 |
ショパンのミューズだったポーランド人のデルフィナ・ポトツカ伯爵夫人も、10月15日にお見舞いにかけつけます。ショパンの希望で部屋にピアノが運ばれ、美しい伯爵夫人の歌声に、病の苦しみを和らげていました。
ポーランド人のデルフィナ・ポトツカ伯爵夫人 (1807-1877) |
ショパンの希望でピアノが寝室に運ばれ、 彼のミューズだったポトツカ伯爵夫人が 透き通るような美しい歌声で苦痛を和らげました。 |
それから2日後の10月17日朝2時、ロマン派の「ピアノの詩人」は愛する人々に囲まれながら、息を引き取りました。
死の床のショパン。 椅子に腰かけているのがポーランドから駆け付けた姉、ルドヴィカ。 ショパンの前に立っているのは、 ポーランド伯爵夫人でピアニストのチャルトリスカ。 |
葬儀はマドレーヌ教会で10月30日に行われ、ショパンの遺言に従ってモーツアルトの「レクイエム」とショパン作曲の「葬送行進曲」が演奏され、その後ペール・ラシェーズ墓地に埋葬。心臓は姉ルドヴィカによって、懐かしい生まれ故郷ポーランド戻り、首都ワルシャワの聖十字架教会の石柱に治められました。それもショパンが望んだことでした。
ショパンが生涯を閉じた館の外観を見ていると、彼がパリに住み始めたころに作曲した「別れの曲」の、心の奥に染み入るような、美しく悲し気な旋律が聞こえてくるようです。戦火の故郷ポーランドを思う切ない心情が表現されていると言われる「別れの曲」。実際にショパンは、その曲のレッスンをしている時に、「ああ、我が故郷」と泣き崩れたこともあったという。「ピアノの詩人」はこの旧貴族館の2階で39歳の生涯を閉じました。 |
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